サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「夏と女とチェリーの私と」 5

 劇しい蝉時雨が幻聴のように街路樹を濡らし、暑苦しい目映い光の中で総てが溶け合うように息衝いていたあの夏、終戦記念日を過ぎて間も無い或る月曜日に、私は夏期講習の手伝いの為に職場へ赴いた。自転車のチェーンが油切れの所為でぎしぎしと不快な音楽を奏で続け、滴り落ちる汗は蒸風呂のような盆地の擂鉢の底へ、色濃く溜まっていた。繁華な車道を東へ駆け抜け、五条坂の麓の路地に面した校舎の駐輪場へ自転車を止めて青空を振り仰ぐと、何だか妙に息切れがした。梶井基次郎の「檸檬」という小説の断片が不意に泡のように意識の上層へ噴き上がった。「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」という一節が、千切れた記憶の継ぎ目へ爪を立てるように浮かび上がったのだ。

 何時ものように肩を屈めて職員室へ行き、所詮は時給で使い倒される切ないアルバイトの身分に過ぎない己の窮状を呪いながら、宛がわれた小さな灰色のデスクへ鞄を置くと、隣に座っている同じアルバイト講師の柏木が声を潜めて話し掛けてきた。

「知ってるか。草薙さんが怪我したんだってさ」

「怪我?」

 草薙というのは紗環子先輩の苗字であり、私の知る限り生徒の中にも講師の中にも、彼女と同じ苗字の持ち主はいない筈であった。意想外の報せに思わず眼を丸くして口籠った私の顔を、柏木は普段と変わらぬ沈着な茶色の瞳で凝と眺めた。

烏丸通でバイクにぶつけられたんだってさ」

烏丸通でバイクに?」

スターバックスの辺りだって、長谷川さんは言ってたぜ」

 長谷川はアルバイトの講師たちを束ねる教務課の主任である。口髭を綺麗に整えた四十代半ばのオッサンだ。私は長谷川の勿体振った物の言い方と大蒜を思わせる口臭が以前から大の苦手であった。何時も傍へ近付くだけで毛先に絡みついた灰色の雲脂が、薄汚い口臭の流れに乗って此方へ押し寄せて来そうな気配なのだ。いや、長谷川の忌まわしい習性や風貌に関する記述はどうだって構わない。大事なのは、崇高なる紗環子先輩の安否だけである。

「大怪我なのか」

 喉の粘膜が米軍の枯葉剤を浴びたようにひりつくのを堪えて、私は重要な問い掛けを唇の隙間から慎重に押し出した。大怪我だとしたら大変なことだ、一大事だ、彼女の存在が、私の掌の中に包まれる前に重大な損傷を加えられて、取り返しのつかない悲劇の一翼を担ってしまっては、先日から終日この脳裡を抑えつけている不快な感情の凝りさえ、何の意味もない茶番に落ち着いてしまうではないか。彼女の笑顔が、病院の白々しいベッドや、或いはもっと不気味で無骨なイメージに彩られたストレッチャーの上で、曖昧な死に顔に移り変わっているのを確かめるのは、たとえ想像の世界の話であっても、遣り切れないほどの恐怖を、私の胸倉へ叩きつけた。

「足首を捻挫して、肋骨に罅が入ったって聞いたぜ」

 私の内なる動揺には素知らぬ風で、柏木は日頃と同じ冷ややかな穏和さを崩さずに、伝聞の報告を続けてみせた。柏木は私より一つ年上だが、高校三年生の暮れ方に肺炎に罹って現役で入試を受けられなかった為に浪人生活を経験した不運な男であった。同じ予備校で似通った年頃の講師と一緒に働けるというのは心強いと言えば心強いが、私は余り柏木の斜に構えた態度や気質が好みではなかった。偉そうにも生意気にも見える口の利き方や顔つきが、決して入り組んだ洞穴のような悪意から醸造されたものでないことは、この半年ほどの付き合いを経ただけでも察することは出来た。彼は年齢だけでなく予備校の講師としても私より先輩で、そもそも五条坂に位置する冴えない予備校へ講師の面接を受けに態々足を運んだのも、柏木の事前の紹介によるものであった。

 束の間の怠惰な学生生活のうちに、私が曲がりなりにも友情と呼び得る貴重な関係を取り結べた相手は、当然のことながら限られていた。私にとっては信じられないことだが、多くの学生たちは、大学という新しい世界への出立に燃えるような期待と情熱を寄せており、学業にもサークルにもアルバイトにも恋愛にも鮮烈な輝きを備えた眼光を向けることに忙しい様子であった。そんな殊勝な人々の眼に、私のように自堕落な学生が好意的な印象を与えられる理由は一つもない。彼らは私のことを陰気で無力な弱者として捉えることに何の倫理的躊躇いも覚えておらず、私の方でも敢えて彼らの目映いキャリアの華美な装飾に、卑屈な讃嘆を捧げようとは思えなかった。孤独と言えば孤独、だが孤独というのは何処にでも転がっている退屈な玩具のようなものだ。孤独は何処にでも雨上がりの水溜りの如く浮かんでおり、それは次第に結び付き、混ざり合い、一つの巨大な弧を描き出す。同じような孤独を抱えた烏合の衆が偶然の導きによって繋がり合うこと、それは少しも珍しい経験ではない。そうやって雨垂れが次第に小さな水溜りを作っていくように私は幾つかの友人を獲得し、その名簿の中に柏木が含まれていて、互いに何とも馴染み切れないものを密かに感じつつも交友を深めていったのだ。だが、それは私の退学によって聊か根拠を掠れさせていた。同じ予備校でアルバイトしているという共通項だけが今は、私たちの友情を支える貧相な礎石であった。

 それはさておき、何よりも重大に思案されるべき問題は、紗環子先輩の怪我の具合であった。不届きなバイクと如何なる経緯を辿って不幸な衝突を果たしたのか知る由もないが、そのダメージが最悪の結果を招くには至らなかったこと、それ自体は慶賀に値する。但し、伝聞だけを鵜呑みにして己の心の騒めきを地鎮祭のように落ち着かせるのは難しかった。夏期講習の手伝いなどに限られた人生の或る局面を浪費する訳にはいかない。そんなことよりも、一刻も早く紗環子先輩の安否を確認して、あのキラキラと輝き冴え渡る至高のパーソナリティが御無事であることに感謝の祈りを捧げたいのだ。そう、何処の病院に搬送されたのかを調べて、駆けつけなければ。そうだ、此れほどに疾しさを覚えることのない、紗環子先輩との接触の方法が他に考えられるだろうか? お見舞いという奴だ。迷惑だろうか? 然し同僚の致命的な危機に際して病室へ足を運びもしないなんて、人間としての倫理道徳に悖る行為ではないだろうか。

「俺、病院に往ってきてもいいかな」

 半ば興奮状態に至った私の唇は無遠慮に欲望を吐き出してしまい、柏木の冷ややかな眼差しに斬りつけられることとなった。

「何を言ってるんだよ。此れから仕事じゃないか。長谷川が黙っちゃいねえぜ」

「授業よりも大事なものがある。何か分かるか? 人命だよ」

「お前は医者じゃねえだろ。骨接ぎが出来る訳でもねえのに、何を言ってんだ」

 腹を立てると徐々に乱暴な巻き舌が目立ち始める柏木の剣幕に、不覚にも私は一歩退って怯んでしまった。冷静に考えてみれば、俄かに授業の予定を抛り出して見舞いへ行くと言い出すのは如何にも不自然な宣言であり、柏木の冷淡な対応も止むを得ないものだ。主任の長谷川が、素直にゴーサインを出すとも思えず、結局は夕方四時半に終了する予定の夏期講習の授業を、私は黙って不機嫌な顔つきで遣り過ごすしかなかった。

 間の抜けたチャイムが校舎に鳴り渡り、私は急いで荷物を纏めて階段を駆け下りた。市営バスに飛び乗って五条通を真直ぐに西へ向かい、市立病院と京都看護大の建物が視界の端に映った辺で舗道へ降り立つ。外科病棟へ入って受付で来意を告げると、看護師の女性はにこりともせずに病室の番号を告げた。302号室、クサナギサワコ。サインペンで丸っこく投げ遣りに書きつけられた片仮名の姓名には、患者に対する一般的な敬意が不足しているように思われた。だが、そんな小さなプライドに躓いて手を拱いたり地団駄を踏んだりしている場合ではない。

 灰色の陰鬱なカーテンを開くと、窓際のベッドに腰掛けて、紗環子先輩が座っていた。伸び切った足の尖端は分厚いギブスに覆われ、頭にも白い繃帯が丁寧に巻かれている。その瞳を見定めようとして、私は途端に凍りついた。紗環子先輩の繃帯に覆われていない左眼が、伏し目がちに空間を彷徨い、私を捉えて静かに動きを止めた。

「急にどうしたの」

 どうしたのと問われて、咄嗟に返すべき言葉が思い浮かばなかったのは、それが意想外の科白であったからだ。バイクとぶつかって怪我を負ったバイト先の先輩を見舞いに赴き、結果的に歓ばれるよりも先に「急にどうしたの」と当惑の言葉を投げ返されて、私は自分の足許が波に洗われる砂地のように頼りないことに、遅ればせながら気が付いた。或いは、彼女は誰にもこの病室へ来て欲しくなかったのかも知れないという不吉な認識が、意識の汀へ俄かに打ち寄せ始めた。彼女の顔の右側全面を覆うように厳重に施された繃帯の分厚い積層が、私の眼には眩しく映り込んだ。

「いや、あの柏木から聞いてきたんです」

「事故のこと」

「事故の。そうです」

 美しい左眼に澱んだ光が沈んでいるのを目の当たりにしながら、私の心は密かに顫えていた。辿り着いてしまった後で幾ら過去の選択を悔やんでも無益な話だ。彼女の繃帯に閉ざされた顔の閉域に何が起きているのか、それを具体的な言葉で訊ねることは躊躇われた。訊いたところで、そして身も蓋もない真実を明かされたところで、一体何になるというのだろうか? 彼女の封鎖された秘密に、どんな観念が通用するというのだろう。私には何一つ分からなかったし、決断を下すことも出来なかった。彼女は繃帯に取り囲まれた哀れな断崖のような存在であった。クサナギサワコという均質な音の連なりに還元された名前はまるで、彼女という存在の最も重要な核心が、決定的な仕方で損なわれてしまったことの間接的な徴のように見えた。

「長谷川先生には、誰にも伝えないで欲しいと言ってあったのに」

 哀しげな言葉の滴りが、人気の絶えた病室に転げ落ちた。カーテンで仕切られた四人部屋の病室は、紗環子先輩の他は総て空席で、開け放たれた窓から夏の京都の騒がしい匂いが刻々と流れ込んできていた。