サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「夏と女とチェリーの私と」 8

「俺は仕事を変えようと思ってるんだ」

 一頻り注文して、酒も幾度か注ぎ足してもらった後で、すっかり日に焼けた蛸のような色合いに目許を染め上げた長谷川は、私たちが事前に予想もしなかったことを出し抜けに言い放った。

「仕事を辞めて、実家へ帰る。親爺が死んでから、兄貴が金沢の酒屋を継いでるんだが、お前も手伝えと前々から言われてるんだ」

 やや俯いて薄汚れたカウンターの木目、ニスでも塗ったように古びて色々な汚れが染み込んだ黒っぽい横板の表皮に視線の先を預けたまま、長谷川は淡々とした口調で説明を塗り重ねた。私も柏木も、いきなり突拍子もない告白を繰り出されて、横面を張り飛ばされたような困惑を免かれなかった。四十代も半ばに差し掛かった平凡なオッサンにとって、長く続けた会社を辞めるという決断は一朝一夕に整うものではない。熟慮に熟慮を重ねて、信頼出来る人々の意見を徴し、様々な角度から最善の方途を検討した揚句に、どんな保守的な答えも贋物にしか見えないような境地に至って初めて、その決断は最期の審判のように下されるのだろう。勿論、それは私自身が学業を投げ出した経験に基づいて組み立てた、大仰な類推に過ぎなかったので、長谷川が実際にどのような経路を辿って、職を革めるという重大な結論へ到達したのかは分からなかった。私には結局、四十代半ばの中年のオッサンの心境など、幾ら挑戦しても振り払われてしまう、理解し難い巨大な謎でしかないのだ。その巨大な謎の内側へ鼻先を捻じ込む勇気も意欲も未だ、長谷川の唐突な告白を聞かされた直後の段階では、私の胸には宿っていなかった。彼は私にとって、個人的な信頼に値する目上の男性ではなく、成る可くなら関わり合いにならずに済ましておきたい忌避すべき人物であり、もっと端的に言えば荷厄介な障害物であった。

 だが、他人を単純明快な形で障害物扱いして涼しい顔をしているのは不潔な態度であるし、道徳的にも問題が大きい。障害物であるのは本来御互い様の話であって、それを一方的に指弾するのは余りに思い遣りを欠いた、非人間的な姿勢ではないか。そういう殊勝な反省が欠片ほどでも意識の片隅に突き刺さっていたので、私は辛うじて踏み止まり、長谷川の告白を退屈な身の上話として邪険に払い除ける非道な選択を自制することが出来た。明日は我が身と、古びた慣用句は軽率な私たちに訓戒を垂れる。今日は他人事でも、数日経てば痛ましいほど身につまされる境遇として、生涯の行く手に傲然と立ち開かるかも知れないのだ。安い日本酒を冷やで幾度も注ぎ足しながら、鮟鱇の肝や山葵で和えた蛸や買を摘みながら訥々と語り続ける長谷川の一層脂ぎった汚らしい風貌にも、生きてきた日々の、所謂「風雪」の痕跡は明瞭に刻まれていた。その幾重にも畳み込まれた年月の風格を気安く軽んじたり疎んじたりするのは、当方が畏れも節度も心得ぬ青二才であることを割り引いたとしても、許されることではないと今更のように思われるのであった。

「どうして、今なんですか」

 何と言葉を返したらいいのか見当もつかぬまま、手探りで唇を開き、問い掛けの文句を恐る恐る押し出してみる。奢ってもらえるのか確証が持てないので、薄っぺらな財布の中身と相談しながら慎重に安価な日本酒を頼んで少しずつ啜っていた私の頬も、アルコールの焔に灼かれてすっかり紅く染まっていた。とろみを帯び始めた鍋の中の寒天のように、適切な酩酊が瞼の裏側へ滲み出て、徐々に理性の正常な運用を妨げつつある実感が湧いていた。どうして、今なんですか、という質問が、長谷川の語りたがっている内容を更に引き出す為の潤滑油として適当であるという確信はなかった。だが、当たり障りのない訊ね方ではあったに違いない。そもそも私たち二人の側には、長谷川の転職の決断に興味を示す筋合いはなかったのだが、自分の人望の欠如にはっきりとは気付いていないように見える長谷川は、慣れ親しんだ教務課主任の唐突な覚悟に、下っ端である私たちが通り一遍の動揺や混乱を表すだろうと勝手に決め込んでいたのかも知れない。彼の内なる期待に相応しい質問ではなかったとしても、少なくとも無関心には聞こえない巧妙な訊ね方であったと、今でも私は素朴に信じている。

「そりゃあ、色々あるのさ」

 酷く歯切れの悪い口振りで韜晦するように言い捨てた長谷川の紅い横顔には、私の問いに否定的な感情を懐いたとは思えぬ、奇妙な膠着が濫れていた。探られ、暴かれることに秘められた熱望を寄せている男の鈍重な屈折が、草臥れた肩の輪郭からも、酒臭い息遣いの律動の隙間からも旺盛に零れていた。外套に蔽い隠された躰が、追剥に攫われて何もかも奪い取られることを秘密裡に望んでいるような淫猥さが、その手酌の姿から生々しく放射されてくる。私は正直に言って、劇しく当惑していた。何も知られたくないと狷介なプライドを露骨に示す一方で、その裏側から匂い立つ真実の断片に、クリトリスのように触れてもらいたいと希う醜い中年男の欲望の形に、総毛立つような感覚が背筋を刺し貫いた。

「色々って何ですか」

 回りくどい物言いに苛立ちを誘われたのか、それとも関心を巧みに掻き立てられたのか、それまで無言で傍観者の役柄を堅持していた柏木が不意に、卓袱台を引っ繰り返すような手つきで問いを抛った。長谷川が、普段ならば絶対に呑みへ連れ出したりしない下っ端の時間給講師を、こうして路地裏の酒場へ導いた背景には必ず、何らかの理由が控えている筈で、それが何なのかを明確に掴めないまま、ただ黙々と酔いだけを深めていくのは薄気味悪い体験であった。幽霊に付き纏われているような、背後を振り返らずにはいられないような不快感が持続していた。柏木の蒼褪めたようにも見える横顔の理由は単に、彼のアルコールに対する耐性の脆さへと還元出来るものではないだろう。彼はまるで、怪談の世界に連れ込まれたような気分の悪さに纏わりつかれているのだ。それは無論、私に関しても同様の現象であった。

「知りたいのかい」

 如何にも持って回った言い方を好むような淫猥な眼つきで、長谷川は私たちの顔を順繰りに見凝めた。その眼差しの卑猥で意味深長な輝き方が、私には不愉快極まりない映像として感じられた。知りたいのかいと囁くように、誘うように呟いた長谷川の血色の悪い、乾燥した唇は温くなった安物の日本酒に濡れていて、眺めるだけで嘔気が肚の底からこみ上げるようであった。一体、何を訴えようとしているのか。こうして焦らすだけ焦らしておいて、時間を無際限に引き延ばしておいて、それによって無力な学生と学生崩れの私たち二人組に何を告げようとしているのか? 底知れぬ暗闇の懐から、猫のような瞳だけを覗かせ、月明かりに煌かせて、長谷川は焦れったさに胃袋を蠕動させている私たちの不幸な窒息を嘲笑っているように見えた。それは紛れもなく不愉快な経験、忌まわしい時間であった。

「草薙の話、お前も聞いただろう」

 長谷川の鈍重な瞳がゆっくりと動いて私の顔を捉えたとき、何故か背筋を寒気が襲った。ゆっくりと、極めて緩慢な速度で、筋肉の繊維に支えられて移動する二つの色褪せた眼球が、私の内部を明るく見透かすかの如く、淫猥に光った。何を懼れているのか、自分でもよく分からず曖昧なままに、ただ時間だけが怠惰な蛇のように少しずつ草叢を這っていった。私は一体、何を懼れているのだろう? 長谷川の日本酒で汚れた唇の奇怪な光沢が、亡霊の瞬きのように薄気味悪く感じられ、その持ち主である長谷川自身の本性さえも、妖しく歪めてしまうかのようだ。

「ホテルに泊まった後で、彼奴はバイクに撥ねられたんだ」

「ホテル?」

 ホテルという単語を適切な文脈へ着地させるまでに、一分ほどの時間が必要であった。急に何を言い出すのか、散々に焦らして此方の意識を掻き乱しておきながら、揚句の涯に紡ぎ出された言葉の思わぬ単調さに、私は暫く精神を動揺させられたままであった。

 だが、私だって馬鹿ではないし、ホテルという単語に含まれた淫猥なニュアンスを嗅ぎ取れぬほど子供でもない。少しずつ澄明な水面を取り返していく意識の上方へ、ホテルという単語は美しく透明な泡のように立ち昇っていった。金魚が間抜け面で口を開いて水槽の中で喘ぐように、私の心は少しずつ狂い始めた。ホテルに泊まった? それが単なる御行儀の良い合宿などでないことは言うまでもないし、問い質すのも愚かだと言うべきだ。長谷川が脂ぎった中年の醜怪な男であることは判然としているが、見た目に穢れていることが牡の獣性を否定することにならないのは当たり前の話である。年が離れていようと、長谷川が世間並みの妻子持ちであり、紗環子先輩が素敵な彼氏を一つの資産のように保有していることが事実であろうとも、それは悲劇的な同衾の不能を証すことは断じてない。思わず、眼が眩みそうになるのを消え残った理性の力で辛うじて堪えながら、私は荒々しい息を吐いた。内なる夜叉が、間抜け面をかなぐり捨てて一挙に迫り上がろうとする。私の中の品性が、暴発しそうになる感情に猿轡を咬ませている。落ち着け、落ち着け。俺は紗環子にとって単なる知己の一人に過ぎないのだ。俺が何かを吼え立て、憤激に身を任せるのはどう考えても御門違いじゃないか。そうやって、懸命に言い聞かせる間にも、私の眼差しの鋭さは刻々と出刃包丁の野蛮さに近接しつつあった。

「運が悪かったんだとしてもだ。寝覚めが悪いのは、どうしようもない」

 長谷川の取り澄ました余裕が却って私たちの嫌悪を煽り立てたことは言うまでもない。長谷川の若い女も虜に出来るという風な大柄な自信が癪に触って堪らなくなる。その薄汚い、雲脂を浮かせた頭の中に詰め込まれた、古臭い口説き文句の数々を、残らず異臭の漂う暗渠へ叩き込んでやりたかった。ちんこを切り取って、バターでソテーして、フライヤーの熱せられた油の海へ投げ込んでやりたかった。この感情は、怒りだろうか? だとしたら、随分と手前勝手な感情じゃないか。自制心の際限のない緩み具合に、我ながら含羞を覚えつつも、それでも私の内部に培われ育まれた敵意は、旺盛な成長を止めようとしなかった。私の側には長谷川の行為を咎めたり憎んだりする資格などない筈だし、長谷川の方でも私に恨まれる筋合いなど考えられないと思い込んでいるだろう。それは合理的な推論であるには違いない、だが合理的な推論ならば何でも無事に、恙なく罷り通ると彼は本気で信じているのだろうか? 私が密かに憧れ、恋焦がれ、懸想していた草薙紗環子という一人の清純な女性の肢体に長谷川の汚らわしい指先が触れ、その陰茎が女陰へ磁石のように吸いついたという驚くべき事件に、私が燃え上がるような憤怒の感情を懐くのは理不尽な犯罪だろうか? 断じてそんなことはない。私の怒りは正当なものだ。鯰のように不細工な面構えで腐臭漂う雲脂を常時頭皮に蓄えている、身嗜みのなっていない人生下り坂の猥褻講師に怒りを覚えることが、倫理や道徳に反する訳がない。そのとき、私の精神を領した推論の純一な劇しさと強度は、恐るべきものであった。私は私の怒りを正当で的確なものであると信じ込もうと努め、酔っ払って頬も眦も額も茜色に変じた長谷川の眼差しを、遠くを見据えて物思いに耽るかのような自堕落な感傷に満ちた眼差しを、心の底から憎んだ。その憎しみは私の内なる恣意的な正義への敬虔な情熱で端から端まで満たされていた。それは改めて冷静に省みれば異様な、不気味で不吉な現象であった。