サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

文学的形式の多様性(「スタイル」と「ジャンル」の問題)

 文学という抽象的で観念的な言葉によって指し示される形式は、果てしない多様性を備えている。例えば「詩歌」という大雑把なジャンルに限っても、日本固有の短歌・俳句から、中国における絶句や律詩などの漢詩、ヨーロッパのソネットバラッドなど、その形式の多様性は無際限の広がりを孕んでいることが、直ちに看取される。

 だが、文学における様々な形式の差異が、銘々に固有の性質を備えているのだとしても、その根底に共通の「欲望」或いは「衝迫」のようなものを理念的に想定することは、決して理不尽な判断ではない。如何なる形式を選択するか、或いは特別に嗜好するかという問題は、個人の内的な必然性に基づいて千変万化するであろうが、その根底に横たわっている言語的表出への「欲望」の普遍性は、そうした形式の多様性とは無関係に、確固たる輪郭を有しているのではないだろうか。

 例えば、短歌や俳句といった詩歌の形式が、或る歴史的な経緯によって形成され、先賢の手で整備されたものであることは客観的な事実である。従って、短歌や俳句に対する表出の欲望が、人間の精神に内在する普遍的な情熱であると定義することは誤っている。それはアプリオリに存在する欲望ではなく、飽く迄も後天的に構築された欲望である筈だ。ただ、その個人の性格や思想に応じて、或る特定の形式との親和性が強調されているだけの話である。或る者は短歌を好み、或る者は俳句を好む。その両者の差異は、第三者から眺めれば些細な問題に過ぎないだろう。しかし、実際にそれらの表現に携わる人々にとっては、両者の差異は重大な意味を持っている。

 或る特定の形式に対する個人の親和性の度合は、その人間の存在論的な固有性に応じて異なる。これは文学に限らず、一般に経験的な事実として認められる真理である。或る人間の存在論的な固有性は、その人間が引き受けた存在の歴史的諸条件によって決定される。或る者が短歌を好み、歌人としての自己形成に執着を示すとすれば、そこには何らかの歴史的な経緯が介在しているのである。仮にその歴史的な経緯が異なれば、その人間が示す形式的親和性の対象も同時に変化するだろう。

 だが、根底に存在する原始的な欲望の性質は、如何なる形式に愛着を示すかという問題とは異質な次元において、或る普遍性を確立している。小説に対する親和性と、詩歌に対する親和性は、結果として現実における活動の表層に様々な差異性となって現れるだろうが、その根底に存在する欲望の性質は同一である。

 では、その欲望は何を目指しているのか? 言語的表出に対する欲望とは一体、何なのか? 或る者にとっては小説が最高の表現形式であり、他の者にとっては詩歌が最高の表現形式であると言い得るとき、その根底において躍動している奇怪な衝迫は、如何なる特性を示すのか? これは頗る難問である。言い換えれば、それは「書くことが齎す歓び」の正体に就いて考究するということである。私の曖昧な記憶によれば、作家の保坂和志はかつて「小説という文学的形式は、思考する為のメディアの一種である」という趣旨の発言を行なっていた。村上春樹も「小説でなければ切り拓き得ない思索の領野が存在する」という趣旨の発言を行なっていたように記憶している。此処に一つのヒントがあるのではないだろうか? (続きは、また後日)