サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

批評と創造(或いは、その「融合」)

 考えることは、所謂「創造性」とは無縁なのだろうか。

 そんなことはない、寧ろ考えることこそ、真の創造性が成り立つ為には不可欠の条件なのだと、直ちに反駁してもらえるだろうか。だが、この問題は入り組んだ観念によって構成されていて、厳密に検討を始めると、明瞭な結論に到達することが極めて難しいという事実が程無く明るみに出ることになる。

 彼是と小難しく、抽象的な観念を操作したところで、真に重要で斬新な価値が創発されることはないという考え方は、少しも貴重なものではない。創造性という観念が如何なる具体的内容を有しているかという問題に深く介入することなく、こうした主題に就いて漠然たる思索を捏ね回すことの不毛は承知している積りだ。だが、創造性という観念の定義に固執し始めると忽ち、泥濘の深淵へ嵌まり込むことになるだろう。それは本稿の趣旨と目的に反する事態である。

 これは日本という社会の伝統的な性質なのかも知れないが、創造性という観念は「肉体的なもの」であると信じられているように思われる。それは「感覚的」と言い換えてもいいし、或いは「実践的」「経験的」という風に表現してもいい。何れにせよ「創造性」という観念が、机上で展開される蒼白い空理空論とは隔絶した領域で生起する現象であるという認識は共通している。そして、日本の伝統的な芸術観は、そうした「創造性」の生起が「言語化されない領域」に深く陥入しているという信憑を特権的に尊重している。

 禅宗の言葉を借りるならば「不立文字」と称すべき、この創造性を巡る消息は、創造性の代表格である「芸術」への批評的な解剖に対する禁圧として作用する。何かを創造することと、創造されたものに就いて論ずることの間には、決して乗り超えられることのない絶対的な隔壁が用意される。この致命的な断絶の良し悪しを厳密に判定することは避けておきたい。それは不毛な空理空論の源泉に他ならないからである。

 当然の前提に戻りたい。考えることは、或る漠然とした認識の束を明瞭な記号の体系に置き換えることである。そして批評は、その記号化の営為を専ら「言語」という社会的体系に依存して実行する。何かを批評することは、それを明晰な言語の行列に還元することだ。

 こうした言語化の作業が、芸術という領野においては軽蔑され易い地位に置かれていることは、歴然たる事実だと私は思う。そうした傾向は特に、音楽や絵画などの非言語的な芸術の領域において顕著である。だが、別の観点から眺めれば、非言語的な芸術と言語的な批評との断絶は、明確な棲み分けの成立として捉えることも出来る。問題が更に複雑さの度合を増すのは、小説や詩歌などの言語的芸術の領域においてである。そこでは、芸術的な営為と批評的な営為の境界線を画然と定義することが難しい。特に小説の場合、あらゆる言語的要素の包摂を自らの生命線として備えている為に、批評的営為との境界線は一層、曖昧である。

 芸術と批評が明確に断絶している世界では、両者の相互的な往来は極めて難しい。絵画や音楽の価値を言葉によって語ることは、尋常ならざる労力を論者に対して要求する。幾ら言葉を費やしても、音楽の価値を明晰に語り尽くし、論じ尽くすことは出来ない。だから、余計に「不立文字」という御題目の説得力が高まるのである。

 そのこと自体の是非を、今は論じない。批評の不在が、芸術的創造に及ぼす影響を一概に判定し得るほど、私の知的能力は立派ではないからである。その代わりに、私が考えてみたいのは、文学という厄介な領域に関してである。何故なら、文学という領域においては「創造」と「批評」の境界線が原理的に脆弱である為に、両者の複雑な「混淆」が極めて頻繁に生起しているからだ。

 小説を書くことと、批評を書くこと、これらの質的な断絶は、非言語的芸術の分野におけるほど明瞭ではない。小説を書くことの内部には、批評的な文言を挿入する余地が無限に存在している。だからこそ、私たちは「小説を書く」という営為の定義に就いて、無用の誤解を抱え込む羽目に陥る。例えば、虚構の物語を言語によって表現することが、小説を書くことの目的だという、尤もらしい「虚構」が蔓延するのも、創造と批評の境目が曖昧に霞んでいることの結果であろう。虚構の物語を表現するに当たって「言語」を用いることが小説の要件であるという言説は、小説は物語に従属すべきであるという認識を暗黙裡に含んでいる。だが、物語は決して文学の専売特許ではない。物語という先行する理念を「言語」という媒体によって具現化することが小説の役割ならば、小説というジャンルの有する驚嘆すべき「雑食性」や「合金性」(奇妙な表現だが)は黙殺されることになる。小説は物語の「過不足のない言語的表現」ではない。仮にそうであるならば、世の中に存在する数多の奇妙な小説作品の「過不足」は一体、何を意味するのか? メルヴィルの「白鯨」が、或る一つの物語の「過不足のない言語的表現」であるならば、作中に挿入される夥しい「逸脱」と「膨張」には、如何なる芸術的価値が存するのか?

 小説は「物語の自意識」(©柄谷行人)であり、従ってそれは物語に関する様々な批評的考察を予め包摂している。言い換えれば、物語と批評のアマルガムこそ「小説」に課せられた根源的な特性なのである。それは「小説」が「言語」によって綴られるという特権的な性質を備えていることの結果であろう。だが、これらの認識は、考察の為の一つの前提条件に過ぎない。何故、物語と批評のアマルガムとしての「小説」が形成されたのか、という歴史的な問題が未だ、私の眼前には横たわっているのだ。

意味という病 (講談社文芸文庫)

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白鯨 上 (岩波文庫)

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白鯨 中 (岩波文庫)

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白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

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