サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ラッダイトの断末魔(Singularityの問題)

 人工知能artificial intelligenceAI)の急激な発達に伴い、様々な労働の現場において、機械が人間の代役を務めるようになるだろうという予測が、昨今の世間を賑わせている。代表的な事例としては、米グーグルによる自動運転技術の積極的な開発が筆頭に挙げられるだろう。自動運転技術の実用化が、将来的にはタクシーやトラックの運転手たちを永久的な失業へ追い込むだろうという観測には、抗い難い説得力が備わっている。人工知能が人間の労働に及ぼす影響の範囲は非常に多岐に渡ると推測されており、特に事務処理的な仕事に関しては概ね、人間よりもAIの方が適役であると、現時点においても既に信じられている。

 私は所謂「接客業」の世界で十年以上働いてきた人間である。対人的な技術が要求されるサービス業の分野は従来、AIによって置き換えることが困難な領域であると考えられてきたが、科学技術の発達は、そうした素朴な想定を覆す材料を日毎に増やしつつある。少なくとも、単純で形式的な案内や、レジスターの操作や商品の包装などの、そもそも機械的で自動的な性質を備えた接客業務の一部が、AIによって代替され得ることは以前から自明の事実である。ただ商品の代金を計算し、手提げ袋に入れ、単なる決まり文句として「ありがとうございました」と発声するだけの業務ならば、電気代以外に何も消費しない、無尽蔵の勤勉な労働者であるAIに万事委任したところで、特段の不都合は生じないだろう。

 実際、世の中に数多存在する「販売員」の中には、自動販売機以上の仕事を実行出来ない水準の人間が少なからず存在する。顧客の意向を察知することも出来ず、基本的な気配りも出来ず、人間らしい会話を交わすことさえ出来ない、ただ決まり切った仕事の手続きを遂行するだけで精一杯という販売員は、全く稀少な存在ではないのだ。一つ一つの手順や規則に籠められた「意義」や「目的」を考えてみることもないので、単純なミスを何度も繰り返したり、イレギュラーな事態に直面した途端、凍りついて機能を停止してしまったりする、残念な販売員たち。失敗すること自体を、咎めたいのではない。失敗は誰にでも起こり得る現象だ。問題は、そういう人間に限って失敗の「意味」を少しも顧みようとしない点に存する。失敗の意味や構造を振り返らずに、今まで通りの手順で業務に当たれば、同じ蹉跌が再演されることは火を見るより明らかである。彼らがAIに仕事を奪われて怨嗟の声を上げるのは筋違いであろう。自分に課せられた役割の意味、自分の労働の対価として支払われる賃金の意味を一度、客観的に分析してみるべきではないだろうか。これから私たちは、優秀なAIと労働力市場の取り分を奪い合わなければならない時代へ、本格的に突入することを運命付けられているのだ。何も考えず、工夫も改善も試みぬまま、単純労働の反復に埋没している限り、明るく希望に満ちた未来が約束されることは有り得ない。

 データの分析によって、或いは何らかの客観的な指標や基準の適切な運用によって、十全に解決され、処理される性質の作業は悉く、未来のAIの支配下に置かれている。既に定められた基準の適用や、過去の実績からの推測(いわば「前例主義」)は、人間よりもAIに任せた方が余程精密に捗るだろう。私たちが素朴な意味で「創造性」という言葉で指し示している領域に関しても、AIの能力を過小に評価していないか、改めて検討する必要がある。何れにせよ、具体的な目標に向かって、様々な要素を効率的に組み合わせ、推進していくというタイプの思考は、AIによる権限の簒奪を免かれない。効率化、合理化という作業ほど、AIの無際限な計算能力に相応しい業務は他に考えられないからである。言い換えれば、効率化や合理化といった方面に、百年後の人間が重要な主役として君臨する余地を見出すのは欺瞞であり、謬見である。

 幾らかSFめいた話になるが、AIの登場は、人間という種族の根源的定義を改めて明らかにする為の認識的な「砥石」のような現象である。「迅速且つ精確であること」という労働に纏わる重要な美徳は今後、人間的な価値の指標から除外されていくだろう。それは人間という存在の根源的定義が「迅速且つ精確」という要素を、AIの手で剥奪されることによって生じる認識的な「転回」である。「迅速且つ精確」という要素を究極まで追求するのならば、人間よりもAIを雇う方が圧倒的に合理的である。言い換えれば、人間による労働の価値は今後「迅速且つ精確」という要件を排除することによって初めて成立するようになるのだ。

 それでは、AI以降の人間的価値とは一体、如何なるものなのか? この問題に明晰な回答を与えるのは容易な業ではない。幾つかの断片的な推論を提示するのが、現在の私の能力的な限界値である。

 少し極論めいて聞こえるかも知れないが(尤も、あらゆる考察は必然的に「極論であること」を志向するものだと、私は思う)、AIの普及は所謂「規律」の価値を大幅に切り下げるのではないだろうか。周知の通り、所定のプログラムに則って作動することを大原則に据えているAIは「規律の塊」である。従って、人間にとっては例外的な克己心を要求される分野(例えば「軍隊」や「役所」や「銀行」などが即座に思い浮かぶ)こそ、発達したAIによって真っ先に覇権を奪い去られる領域となるのではないか。例外的なストイシズムによって齎される「迅速且つ精確」の価値は、人間が背負うには余りにも過重な負担であり、理不尽な「召命」であるという考えが広まるのではないかという予感がする。そうなったとき、人間に求められるのは規律への忠実な従属ではなく、寧ろ対蹠的な「逸脱」の姿勢であろう。「規則」や「前例」が斬新な創発の宿敵であるという考え方は今日、少しも珍しいものではない。だが実際には、社会の様々な局面で否応なしに、こうした考え方は身も蓋もない「受難」を強いられている。「逸脱」や「違反」に対する社会的な抑圧の劇しさは、世代や思想を問わず、広範な領域に流通する現象である。そうした「創造性の受難」を克服する手蔓として、AIの普及を捉えてみるのも一興であろう。昔日のラッダイトの情熱を無軌道に再燃させるのは、聊か早計である。