サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

批評は常に出遅れている(無論、それは罪ではない)

 批評というものは、必ず何らかの対象の存在を必要とする。あらゆる批評的言説は常に、批評を受ける対象の現前を要請する。それは意識が常に「何かに就いての意識」であることに似通った消息である。

 だが一方で、批評もまた自立した作品として存在することが可能であるという言説も、この国では随分昔から罷り通ってきた。その嚆矢として、小林秀雄の登場を挙げる論者は少なくない。良くも悪くも、小林秀雄は日本における近代的な批評文の立役者という華々しい肩書を背負っている。その毀誉褒貶は著しく劇しい。彼の著作が広範且つ圧倒的な影響力を誇ったことは歴史的な事実である。しかし、その著作の非論理性が、批評というジャンルの性質を甚しく歪め、改悪したという指摘は今日、相応の説得力を備えていると認められている。

 批評が自立した作品であるという言説の意図は奈辺に存在するのだろうか。それを問う為には先ず「作品」という観念の定義を明らかにしておく必要がある。「作品」という観念と切り離し難いのは恐らく「自立性」という要素であろう。端的に言って「作品」とは「それ自体で独立して存在し、機能し得る装置=体系」であり、理論的には、それは時代や環境に由来する制約を超越した「普遍的装置」であると信じられている。少なくとも「そうであるべきだ」と看做されている。

 だが、批評が絶えず「何かに就いての言説」として事後的に形成される営為であるならば、それは所謂「作品」のような自立性を持ち得ないのではないか。時代や環境による制約以前に、批評は先ず「作品」によって拘束され、宿命的に呪縛されている。

 批評は必ず何らかの「先行する対象」に就いて記述されなければならない。それは批評が事物の「価値」や「構造」を考究する言説の形式である限り、避けることの出来ない根源的な「掟」である。その不可避的な「事後性」の要件が、批評的な言説を弄する人々の精神に或る不穏な傷口を開いてきた。如何に下らぬ作品が相手の場合でも、それが「作品」である以上は、批評的な言説に対する「先行者」としての優位を維持してしまうという現実に、犀利な論者たちは忸怩たる想いを抱懐してきたのである。その「不快」が、一部の人々に批評的言説の「立身出世」を目指す欲望を宿らせた。拭い難い「事後性」という宿命への精神的な反発が、批評もまた「作品」であるという雄々しい声明の公表に踏み切らせたのである。それは批評を「芸術」の範疇に繰り入れる作業だが、私は敢えて、そのような方針は危険であり、矛盾していると言いたい。自らを「芸術」や「作品」として自立させようとする批評的言説は、その声高な宣言によって批評としての柔軟な本質を抛棄することになる。言い換えれば、批評が「作品」を僭称するのは、批評の自裁に他ならないのである。

 批評は主体性や自立性を持つことが出来ない。それは根源的な「受動性」によって占有されている。批評は常に先行する他者に就いて語るのであり、自らの存在を積極的に物語ることが出来ない。この素朴な原理を敢えて忘却しない限り、批評の作品化という矛盾した犯罪を実行に移すことは不可能である。批評が作品化するということは、批評性の抛棄に他ならない。無論、芸術作品が何らかの批評性を含んだ形で存在することは出来る。しかし、如何なる芸術作品も、それが単なる批評の手段でしかないということは有り得ない。

 作品の自立性は、それが如何なる「意味」とも無関係に存在する根源的な領域として形成されている為に生じる性質である。一方の批評は絶えず「意味」を探し求めることに汲々としている。「意味」の結実を望まない批評は、批評として成立し得ない。これは単純明快な事実である。何故なら、あらゆる事象の「意味」を問い詰めずにはいられない面倒臭さが、批評の特質であり、誇るべき本懐であるからだ。

 批評が作品を目指すとき、必然的に批評は明確な「意味」の探究と絶縁しなければならない。その観点から眺めるならば、批評による「作品」の僭称は批評性の棄却であるという結論に至る。

 批評が作品であるならば、批評を批評することも可能であるという理窟が成り立つ。だが本来、批評を批評するくらいならば、共通の対象に就いて自分の言葉で別の批評を著せば済む話ではないか。批評の批評は必然的に「論争」を惹起する。論争そのものの意義を云々する積りはない。ただ私は、それは単なる袋小路の招来にしか繋がらないのではないかという疑念を禁じ得ない。例えば以前、私が書いた「ブギーポップ・ミッシング ペパーミントの魔術師」(電撃文庫)という書物に関する批評(殊更に「批評」と呼べるほど改まったものではないが)に対して、批判的なコメントが寄せられたことがあった。そのこと自体は別に構わないが、そこで程度の低い論争を演じるよりも、自分なりの批評を書いた方が遙かに有意義で、建設的ではないかと思う。「批評」の批評は不毛且つ空虚である。結局、批評は他者の批評と優劣を競い合う為に書かれるのではなく、飽く迄も「作品」との個人的な対話として織り成されるものであるからだ。