サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「意味」からの遁走 中上健次に就いて 2

 だが、自分の母親を「母」ではなく、一個の独立した人格として客観的に把握するような認識と思索の形式が、或る抽象的な努力を要するのだとしても、つまり「母親」を「母親」として捉えることの方が遙かに個人の体感としては「リアル」なのだとしても、そうした視点に留まり続ける限り、私たちは逆説的に、その関係の「固有性」を立証することが出来ない。「私=母」という一対の関係性を内在的に捉えることは、その関係性における歴史的な固有性を棄却する行為であると言える。言い換えれば、誰にとっても「産みの親」という存在はあり、その「母」と「子」の関係性には一定の共通した要件が揃っている。「母」という肉体的なリアリティに執着して、その「母」を一個の独立した人格として捉え直す為の努力を怠る限り、私たちは「母子」という或る種の一般論が生み出す通俗的な「理解」の枠組みの中に閉じ込められてしまうだろう。一口に「母子」と言っても、その内実は様々に異なっている筈である。それは誰にとっても存在する「私」という自意識が、それだけを抽象的に取り出せば、普遍的な規範として機能しているように感じられるのと同質の現象である。この普遍的で一般的な自意識のことを、柄谷行人は嘗て「独我論」と呼んだ。それは「この私」と「あの私」の本質的な差異を「私」という抽象的な理念の下に同一化し、その複雑に枝分かれした関係性を消去する認識の形態である。

 「岬」のように「彼」の視点から総てを「彼」との関係性において捉えようとするスタンスは、私小説的な伝統が固執してきた素朴な実感主義や内在的な思考の原理に依拠している。それは抽象的な観念を排除して、生々しい個人的な現実の諸相を精密に把握し、描写しようとする為の装置だが、そのような装置に附随する拭い難い独我論的性質の限界に、中上健次は気付かずにはいられなかったのではないか。ただ、一般的な理窟として考えれば、こうした独我論的性質は所謂「共感」や「感情移入」や、それらに伴って惹起される「感動」(感涙)を呼び覚ます上では不可欠の重要な仕組みである。小説という芸術に接する数多の読者の中には「感情移入」や「共感」こそ、芸術的な感興の精髄であると信じて疑わない人々が少なからず含まれている。それは「共感」の回路を通じて他者の固有な経験を感受し、理解することが可能であるという奇怪な信憑の産物であるが、それによって隠蔽されてしまう真実が存在することに注意を払わないのは、怠惰な態度である。何故なら、それぞれの人間にとって固有である筈の経験が安易な「共感」を通じて分有され得るという認識には、薄弱な根拠しか備わっていないからである。私たちが安易な「共感」を通じて、根拠の薄弱な連帯感や共同体的な求心性を味わうことが出来るのは、独我論的な装置が生み出す幻想と仮象によって、銘々の固有性が扼殺されていることの結果である。「私」という自意識が共通の普遍性を宿しているという奇怪な錯覚と謬見が、私たちに「感情移入」という欺瞞を授け、その快楽の泥濘に溺れさせるのである。私たちは極めて容易く、相互に或る同一性によって結び付けられていると誤認するが、それは独我論的装置による「差異の消去」という手続きが齎した「夢想」に他ならないのだ。

 「岬」の独我論的性質は、結果として中上健次が対峙していた「自己の履歴」の真実を、彼の作品の読者に捻じ曲げられた形で伝達するという不本意な現象を惹起した。だが本来、中上健次が描き出そうとしていたものは、他者の安易な「共感」や「感情移入」の営為を峻拒するものであった筈だ。そう簡単に理解されるような生易しい経験ではなかった筈である。にも拘らず、彼が社会に向かって投げ掛けた「岬」という佳品は、他者の安易な「共感」を誘発するような文学的装置の恩恵を十全に享受したのである。この原理的な矛盾に安住するならば、彼はもっと単純に「幸福」になれただろうし、四囲の社会的現実と快く和解することも出来ただろう。しかし、中上健次という作家は「岬」の執筆によって切り拓かれた文学的栄光の渦中で、深刻な欺瞞の存在を鋭敏に察知したのではないか。結局、彼が享受した文学的な評価は夥しい皮相な「誤解」の上に成り立った、束の間の脆弱な幻影に過ぎなかったのではないか。

 「枯木灘」の執筆に際して、彼が従来の話法を維持することに根源的な疑念を懐き、実際に「人称代名詞の排除」という変更を選択したのは、出世作である「岬」を取り巻いていた独我論的性質の打破を企図した為ではないだろうか。その為には「この私」と読者の有する「私」との間に架橋された独我論的な普遍性の基盤を否定する作業が要請される。色々な表面的「差異」とは無関係に認められる根源的な「同一性」という幻想を、事前に破砕しておく必要があるのだ。同一性という認識論的な虚構を蹂躙する為の方途として、彼は「岬」における主観性の視座を明確に破棄した。

 柄谷行人が明晰な文章で指摘した「固有名の導入」という問題は、こうした独我論的装置の超克という観点から眺めれば、必然的な展開である。良くも悪くも「岬」という作品に漲っていた主観的な「抒情」の世界を破壊する為には、内在的に捉えられた「家族」という私小説的伝統を棄却する必要がある。この場合の「抒情性」は結局のところ、感傷的な「観念」の累積に他ならないのである。予め周到に用意された主観的視座の構造の中に想像的な自我を投入することで獲得される安手の「文学的感興」を否定しない限り、本当の意味で固有な真実の「伝達」や「表現」が達成されることは有り得ない。そこで分かり易い通俗的共通項に依拠してしまえば、それは単に読者との不実な馴れ合いを生み出すだけではなく、自分自身の「真実」に対しても「背信」の罪を犯すことに繋がる。それでは「表現」に生命を懸ける意義が失われてしまう。抒情性の泥濘に脳天まで浸ったまま、悲劇的な陶酔に溺れ続けるのは、倫理的な意味で「不潔」である。その不衛生な状態を改善する為には「共感」の積極的な排斥が肝要である。

 一つ一つの関係性に具体的な「名前」を授けることは、独我論的な閉鎖性に亀裂を走らせる為の第一歩である。だが、架空の存在に対して「命名」の儀式を執り行うだけで、独我論的な構図が直ちに棄却される訳ではない。登場人物に具体的な姓名を与えるだけなら、わざわざ難しい理窟を捏ね回さずとも、誰にでも簡単に実行し得ることだ。だが、多くの通俗的な作家は、登場人物に対する「命名」を写実的な描写の一環として実行しているだけで、その目的は独我論的装置の「棄却」であるどころか、寧ろその積極的な「強化」なのである。それは中上健次が複雑な家族関係に「名前」を授けることを決意した理由とは対蹠的な意図に基づいた判断である。彼らは登場人物に明快なリアリティを附与することを目的として、尤もらしい名前を案出するが、それは読者の「共感」を一層円滑に喚起する為の小手先の技巧に過ぎない。つまり、架空の捏造に過ぎない紙上の人物に尤もらしい骨格を授ける為だけに「名前」を拵え、それによって独我論的な「同一性」の幻影を益々滑らかに研磨しようと試みているのである。そうした皮相なリアリズムは、中上健次の文学的「魂胆」とは全く相容れない、極めて保守的で前例主義的なクリシェでしかないのだ。

岬 (文春文庫 な 4-1)

岬 (文春文庫 な 4-1)

 
枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)