サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「意味」からの遁走 中上健次に就いて 3

 「枯木灘」において試みられた「固有名の導入」という措置は、絶えず「秋幸」との関係性の内部において表出されていた世界の諸相を、主観的な抒情性の閉域から解放する働きを担っている。無論、単に登場人物に「名前」を授けるだけで、主観的な抒情性の閉域が打破される訳ではない。既に述べた通り、登場人物の「命名」が皮相なリアリズムの要求に基づく措置に過ぎないのであれば、つまり私たちの暮らす社会の諸相の端的な「模写」に過ぎないのであれば、「命名」という措置に特別な戦略的意義が宿ることはない。

 物語の位相として「岬」と「枯木灘」との間には時間的な前後関係が存在している。しかし、両者が同一の「世界」を巡って書かれた物語の束であることは明確である。重要なことは、同一の世界が異なる話法と様式を通じて表出されている点に存する。同じ世界の時間的な「続き」を書き表すに当たって、中上健次という作家が選択した「変更」は重要な意義を帯びている。物語を主観的な抒情性の閉域として描き出すことは、多様な読者との間に或る強制的な「共感」の関係性を構築する上では有効な方策である。しかし、そのような「共感」の装置を作動させることは結果的に、中上健次の文学的な意図に背反する事態を齎した。主観的な抒情性は、銘々の固有性に基づいている筈の実存的な多様性を、或る幻想的な同一性の下に集約してしまうことで「共感」という錯覚を生み出す「触媒」の一種である。だが、それは中上健次の描きたかった固有の実存を却って隠蔽してしまうことになる。彼は単に複雑な血縁の問題を通俗的な「共感」の為に剔抉した訳ではない。そのような欺瞞的な仮構は、彼が抱え込んでいた精神的な「深淵」を暴き出すどころか、寧ろ抑圧してしまうのである。口当たりの良い「リアリズム」の欺瞞を破砕する為に、彼は無粋なほどの露骨さで、登場人物たちの「名前」を明示した。その変容の目的は、凡百の文学的リアリストたちのように、独我論的な同一性の紐帯を強化することには存しない。彼が企てたのは、そうした安易な「共感」の紐帯を切断することで、本当に表現したかった事物の諸相を浮き彫りにすることである。言い換えれば、彼は生温い自然主義的なリアリズムを極度に推し進めたのだ。

 明治以来の自然主義的な潮流の罪深い果実としての「私小説」は、身辺の事実を徹底的な詳細さを以て描き出すことに本懐を有した。だが、それが読者との親密な「共感」の相互的関係を作り上げる為の手段であったことは明白であろう。それが露悪的な意図に基づいて書かれ、醜聞に対する関心によって読まれたことを鑑みれば、そのような「私小説」の伝統が完全なる独我論の閉域に自ら逼塞することで、或る狭隘な芸術性を磨き上げたことは疑いを容れない。そして中上健次という作家の個人的な来歴は、そうした「私小説」の伝統的な系譜に連なるのに最も相応しい内実を備えていたと看做すことが出来る。実際、彼が「岬」において試みたことは、自然主義私小説の正統なる後継の風格を鎧っている。「岬」の社会的な成功が、彼に更なる「私小説的技法」の深化と発展を決意させたとしても不思議はない。だが実際には、彼は豊饒な主題を私小説的な様式で描き出すことに限界を見出し、従来の技法に対する叛逆を積極的に企図し、実行に移した。

 「枯木灘」が「岬」の主観的な抒情性から脱却する為には、曖昧な夢想のように描かれていた対象に、明晰な輪郭を授けねばならない。「岬」において陰気な天蓋のように見え隠れしていた「実父」の曖昧模糊たる輪郭を、明瞭な線描に置換せねばならない。「浜村龍造」という男の具体的な実相を徹底的に書き尽くさねばならない。象徴的で間接的な暗示に頼るのは「詩歌」の技法であり、その暗示的な技法が「岬」の抒情性と極めて高度な親和性を有していたことは論を俟たない。言い換えれば、彼は「岬」において「小説らしきもの」を拵えたに過ぎないのだ。そうした抒情性が読者の共感を呼んだとしても、それは中上自身の内在的な問題の解決には少しも貢献しないだろう。漠然と象徴的な暗喩のように「実父」を語るだけでは、そして「実父」に対する凄絶な叛逆としての「近親相姦」を抒情的な絶唱として描くだけでは、根源的な問題は全く揺さ振られないのである。それは結果的に自ら主観的な抒情性の泥濘に留まり、その生温い窒息の感覚に陶酔するような、度し難い退嬰だけを産み落とす。それが目的ならば、その境涯に滞留し続けるのも一つの選択肢には違いない。だが、そのような退嬰は、中上の内的な問題が生み出す疼痛のような衝迫を癒さなかった筈である。

 「枯木灘」という作品は、前作の「岬」に顕著に見出される主観的な抒情性の限界を突破する為に、外在的で客観的な視点の導入に踏み切っている。無論、その物語の過半が、竹原秋幸の視点に依拠して記述されていることは事実である。だが、少なくとも秋幸は「岬」における「彼」のような匿名の存在ではない。言い換えれば「匿名」であることは独我論的装置の円滑な作動を助ける重要な条件なのである。それは如何なる性質の個人的な主観も代入し得る「空席」のようなものだ。それが読者の無責任な「共感」を誘発し、煽動的な仕方で喚起する。そうした曖昧な主観的「空席」を抹殺する為に、「岬」の「彼」は「竹原秋幸」へと書き換えられ、実父には「浜村龍造」という、動かし難い歴史的な固有性が附与される。それらの名前は独我論的な共感の侵入を防ぐ為の「刻印」のようなものである。

 そうした意図は、物語の「内容」の次元においても瞥見し得る。秋幸は腹違いの妹との情事を浜村龍造に告白することで、父親に対する心理的な報復を遂げようと試みる。しかし浜村龍造は少しも打撃を受けず、秋幸の深刻な告白を一笑に付してしまう。この「肩透かし」の描写は明らかに「岬」の終幕における美しい詩的絶唱の否定と排斥という意義を担っているように感じられる。「岬」が体現していた悲劇的な抒情を、浜村龍造という男は粉微塵に打ち砕き、踏み躙ってしまうのである。この端的で素朴な「蹉跌」は、前作の秋幸が孕んでいた主観的な陶酔に対する致命傷として作用する。秋幸は複雑に入り組んだ「血縁」が生み出した「私生児」という不幸な烙印を、悲劇的な抒情の源泉として尊重していたのだが、その特権的な神聖さは実父の身も蓋もない「肯定」によって、根源的に抹殺されるのである。

 この変化は、秋幸が具体的な「現実」の領域に存在の枢軸を移行させたことの傍証であると言える。彼は主観的な抒情性のフィルターを通じて事物を捉えることの退嬰的な性格を敢然と棄却したのである。その勇敢な選択を経由せずに本当の「真実」へ到達することは出来ないし、そこに安易な「共感」を許さぬ酷薄な現実の諸相を浮き上がらせることも出来ない。彼は自分の主観的な抒情性が、或る限定された視点の内側でしか成立しない、狭隘な認識の形態であることを明瞭に告示したのだ。

 義弟の秀雄を撲殺した後、物語の主要な視点は「秋幸」という主軸を失って、俯瞰的な領域へ移行する。この視点の導入が、「岬」における主観的な抒情性を足掛かりにする限りは不可能な選択肢であったことは論を俟たない。無論、中上健次は「枯木灘」という物語を、竹原秋幸の収監によって完全に片付けようとは考えていない。「枯木灘」という物語の完結は決して、中上健次が抱え込んだ内在的な問題の解決を意味しないからだ。

岬 (文春文庫 な 4-1)

岬 (文春文庫 な 4-1)

 
枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)