サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

根源的性質としての「弱さ」

 以前、長谷川豊という人物が自身のブログに、人工透析患者に対する誹謗中傷の記事を投稿し、社会的な問題に発展したことがあった。彼の言い分は、医者の勧告を無視し、節制を怠って発病し、揚句の涯に人工透析を受けることになるのは患者としての罪悪だ、というものである。そういう人間に公費を投じて医療行為を受けさせるのは不当な措置であり、全額実費負担にすべきで、金が払えないのならば死んでもらった方がいいと、彼は本気なのか嘘なのか、自身の言葉で訴えている。

 この記事に対する猛烈な批判が巷間に満ち濫れたことは周知の事実である。この場で、同じ批判を繰り返すことは無益であるから差し控えておく。ただ、彼の言い分が極めて現代的な「弱者観」に支えられていることは、重要な論点として改めて確認しておく必要があるだろう。つまり、弱者であることは、本人の「罪過」であるという、随分と傲岸な考え方である。或る意味では、これはトマス・ホッブズの「リヴァイアサン」における「自然状態」そのものの世界観である(但し、私は「リヴァイアサン」の翻訳も原書も読んでいない)。言葉を換えれば、現代的な「自己責任論」の典型でもある。

 経験論的な考え方の、極度に純化された形態としての「実存主義」は、こうした頑迷で簡便な「自己責任論」を培養する素地としての性質を濃厚に孕んでいるように、私には思われる。要するに、自分の人生は自分の力で概ね決定し得る、という自由主義的信仰が、弱者は罪人であるという極端な自己責任論の跋扈を支えているということだ。本人の病気は、本人の選択の結果である。だから病人は、救済されるべき「不幸な弱者」ではなく、寧ろ積極的に社会から放逐されるべき「怠惰な愚者」として定義される、という訳だ。

 こうした論法が随分と歪んだ認識に基づいていることは、明瞭な事実である。成功した人間が、自分と同じ方法を用いれば誰でも同じような成功に辿り着けると確信しているとすれば、それは随分と大雑把な推論だと言わざるを得ない。実際には、そのような方法を開陳する世間の無数の成功者たち自身も、自分が様々な外在的条件に恵まれて、その成功に到達したのだという真実を理解しているのではないか。だが、膨張した自尊心は、そうした単純な真実に光を当てることを妨げるものである。

 社会的な弱者であることは、本人の罪であるという類の傲慢な言説は、社会的な強弱が純粋な自己決定の結果として与えられているという信憑に基づいているが、その仮説自体が実存主義的な偏見の産物であることに、私たちは慎重な眼差しを注がねばならない。努力によっては克服し得ない素質の格差や、自力では制御し難い運命の格差を悉く認識の領野から捨象した上で繰り出される素朴な自己責任論(それはナルシシズムの一種であろう)の暴力性は、或る意味では「自由」という理念の後光によって照らし出された「希望」の形態である。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(日本国憲法 第十四条)という自由主義的な理念は、実存主義的な「決断」の効力に重要な意義を認めていると言えるだろう。だが、こうした考え方を過度に推し進めることで、弱者に対する不当な排撃が蔓延するとすれば、それは本末転倒の事態ではないか。

 そもそも、人間というのは、その本質として脆弱な存在である。こうした基礎的認識が蔑ろにされることによって、自由主義的な弱者観と、純然たる自己責任論の斉唱が生み出されるのである。つまり「人間は強者として存在し得る」という認識への盲信が、結果として「怠惰な弱者」という偏狭な価値観を形成する基盤となるのだ。

 無論、私は徒に「弱者であること」の正当性を鼓吹しようと考えている訳ではないし、怠惰であることは罪悪そのものではないにせよ、その遠因として作用し得ることは認めるに吝かではない。だが、相対的に「強者」であることが、直ちに相対的な「弱者」に対する差別や迫害を齎すという事態には、何らかの制約が課せられねばならないと思う。病気になるのは自己責任であり、従って公費を投じて救済の措置を講じる必要はないという驚愕すべき「強者」の論理の跋扈は、明らかに人間の根源的な「弱さ」に関する省察の不足を示している。この異様な自己「過信」が如何なる原因に由来するのか、私は冷静に見定めることが出来ない。彼は自分が病気になったら、如何なる公共の助けも借りずに自ら好んで死を選び取る覚悟なのだろうか。それとも、自分は公費に頼らずとも豊かな私財を用いて、万全の医療を享受し得るという算段なのだろうか。何れにせよ、傲慢な考え方であると言わざるを得ない。病人を「社会的害悪」として位置付ける優生学的な思想の危険性は、全体主義の齎した歴史的な惨劇の事例を徴すれば、直ちに明らかになる峻厳な事実ではないか。

 昨年の夏に発生した、所謂「相模原障害者施設殺傷事件」においても、犯人の障害者に対する根深い嫌悪が、このような自己責任論の過激化された形態に基づいていることは、概ね確かな事実ではないかと思われる。障害者の存在を「社会的害悪」と看做す眼差しは、恰かも障害を抱えて生きることが「罪悪」であるかのように考える態度によって醸成されている。ここには、人間の根源的な脆弱性に対する謙虚な認識など、微塵も存在していない。相対的なものであるとはいえ、世の中には「強者」と「弱者」が存在するという単純な二分法が、根源的な脆弱性に対する省察を窒息させているのだ。

 人間の実存に附随する宿命的な「弱さ」を分かち合うことで連帯するという発想は、社会を成立させる為の根源的且つ基礎的な条件である。どんな事柄に就いても、自分自身の一存で決定することが可能であるならば、他者との連帯など、無益な徒労に過ぎないということになってしまう。だからこそ余計に、どうにもならない窮境に呑み込まれて足掻いている他人の姿が「醜悪なもの」に感じられ、乱暴な排撃の言辞が口を衝いて出ることになるのだろう。だが、誰もが根源的な次元では「弱者」であるという認識を堅持する限り、他者は常に連帯可能な存在として現前する。人間が根源的な「弱者」であるということは言い換えれば、どんな強者も、明日には「弱さ」のどん底まで転落しているかも知れないということである。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 「平家物語」の冒頭に掲げられた、この美しい詩句は、人間の根源的な脆弱性に関する省察の、簡潔で適切な表現であるに違いない。