サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「仙台・松島・塩釜」 其の五

 円通院を見学した後、日暮れが迫ってきたので、我々はベビーカーを押し、トランクを引き摺って、海岸沿いの遊歩道を通って宿へ向かうことにした。途中、福浦島へ渡る朱塗りの大橋の入口を掠めた。妻に折角だから渡ろうかと誘われたが、疲れていたので取り止めた。曇り空が仄かに茜色の輝きを透かして見せるような時刻であった。

 二日目の宿は、松島湾を望む海辺の土地に築かれた、東南アジア風の意匠を備えた「海風土」(うぶど)というホテルであった。盆休みの過ぎ去った平日であったから、ホテルのロビーは静まり返って全く人影が見当たらない。こういう静かなホテルというのは素晴らしい。客が入らず、部屋が稼働しないのは、経営する側としては困った話だろうが、客にとっては紛れもない理想郷だ。

 如何にもアジアンリゾートの雰囲気を連想させる為の仕立てと思しき、作務衣のような制服を纏った中年の男性が、椅子に座って背の低い卓子の前に陣取り、フロント業務に従事していた。此方も向かい合って椅子に座る。今まで、フロントで椅子に腰掛けて宿帳の記入を行なった経験はなく、新鮮な気分であった。

 通された部屋は、貸切の露天風呂が併設された和室で、前日泊まったワシントンホテルの三倍くらいの面積があった。寝間と居間が籐で編んだようなデザインの引き戸で仕切られていて、それぞれが立派な広さを誇っている。空調の効き目も抜群で、露天風呂からは松島湾の海原と島影が見渡せる。思わず、気分を高揚させて、少し躁いでしまった。

 日暮れ時の海辺は、生憎の曇り空で、美しい夕陽を拝むことは出来なかったが、家族三人で浸かる露天風呂は至福の体験であった。幼い娘も湯舟の中を歩き回って上機嫌である。太陽は瞬く間に沈み、闇が辺りを覆った。天候に恵まれなかったことだけが、重ね重ね残念であった。

 夕食は、レストランで取った。新鮮な魚介類を用いた、典雅な和食のコースである。娘が機嫌を損ねて喚き立てるのが難儀だったが、これもまた幸福な時間であった。思わず浮かれて、松島ビールというのを一本頼んでしまった。地元で造った黒ビールである。あっさりして呑み易い。尤も、私はビールの味を解するほどの経験知を持っていない。

 食事を終え、私は独り、屋上の露天風呂へ出掛けた。毎日15時から深夜までが男性、日の出から10時までが女性という交代制の浴場である。明日にはチェックアウトするので、今夜を逃がせば二度と入浴する機会は巡って来ない。そう考えて勇んで出掛けた。

 だが、いかんせん悪天候で、霧が掛かったような夜空には星ひとつ見当たらない。私以外に客はおらず、実質的に貸切の状態であったのは良かったが、浴場の面積はそれほど広くない。何より洗い場が一つしかないのは驚いた。少し混み合えば、直ちに厖大な待ち時間が発生する。そういう訳で、幾分失望しながら早々に湯を上がった。

 夜は娘を寝かしつけるうちに、日中の疲労が祟って早々と眠りに落ちてしまった。一階のロビーで色とりどりの浴衣や、簡便な作務衣などの貸し出しをやっていて、妻は作務衣を借りていた。その姿は、旅館の従業員のようだった。浴衣より作務衣の方が気楽らしい。

 翌日、漸く松島に晴れ間が戻ってきた。小雨と曇天の繰り返しの間は、気温も低く、過ごし易かったが、一旦陽が射し始めると俄かに蒸し暑く、息苦しく感じられる。十一時の遊覧船に乗って塩釜へ移動する為、我々は十時前にはホテルを出た。表の玄関のところで、ホテルの従業員の方が家族三人の写真を撮って下さった。陽射しが眩しい所為か、娘は顰めっ面で映っていた。

 遊覧船の出航を待つ間に、海岸に沿って走る県道の土産物屋で、自家用に南部鉄器の風鈴を買った。フクロウの親子を象った飾りがついていて、揺すると軽やかな、優しく涼しげな音が響く。ぴんと張り詰めた弓の顫えのような音色である。

 瑞巌寺の参道へ向かう途中の売店で、妻は念願の牡蠣を頼み、私は再び「ずんだシェイク」を飲み乾した。宮城県は、牡蠣の名産地である。松島湾の沖合にも、牡蠣の養殖場が点在している。妻は生牡蠣と焼き牡蠣の食べ比べを行ない、感無量の様子であった。牡蠣の味わいの感想を訊ねると、懇切丁寧に説明してくれたが、生憎、私は牡蠣が苦手なので、共感出来なかった。

 塩釜へ向かう遊覧船は、松島湾を周遊する船に比べると、圧倒的に客の数が少なかった。座席に腰掛けて、窓を開け放つと、ひんやりとした潮風が流れ込んできた。今回も娘は折悪しく寝入ってしまった。孫が六人いるという女性の添乗員が、マイクを使って手慣れた様子で観光案内を始めた。彼女の本業は、船に積み込まれた土産物の売り子であるらしく、塩釜の港が近付くと、客席を回って売り込みを始めた。

 塩釜は、松島よりも栄えている様子であった。この辺りの中心地は松島ではなく、塩釜のようだ。JRの駅舎も、松島海岸より本塩釜の方が立派である。港には大きな旅客ターミナルがあり、そこから海辺の道を歩いて、歩道橋を辿っていくと、イオンタウン塩釜に辿り着いた。幕張のイオンモールに比べると、随分こじんまりしている。イトーヨーカドー幕張店くらいの規模である。一階の食品売り場で娘の為にパンを買い、駅舎の向こう側にある寿司屋へ向かった。「塩竈すし哲」という、地元では知られた寿司屋で、そこの握り寿司を賞味することが、我々の塩竈訪問の目的であった。