サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

一つの道を信じるということ カズオ・イシグロ「日の名残り」に就いて

 1989年度のブッカー賞の栄冠に輝いた、カズオ・イシグロの『日の名残り』(ハヤカワepi文庫)を読み終えたので、ここに感想を認めておくことにする。

 久々に、とても上質で滑らかな、大変「美しい小説」を読んだという手応えを感じることが出来た。作品が扱っている主題や領域は、それほど大仰なものではないし、物語の構造も、回想を中心としている為に、驚くべき仕掛や絡繰とは無縁である。だが、これほど滑らかな口調と繊細な言葉で精緻に織り上げられてしまえば、どんな物語であろうと呑み込むのは容易く、またその余韻も嫋々たるものとなるに違いない。英語を解さない私に精確な裁定を下す能力も権威も宿っていないが、恐らく土屋政雄氏の丁寧に練り上げられた上質な訳文も、こうした感想を齎す大切な要因として働いているのだろうと思われる。

 戦間期の古き良きイギリスを回顧する、感傷的な小説というラベリングは、この優れた作品に与えられるべき適切な要約とは言い難いだろう。確かにこの小説は、イギリスの名家に仕えた有能な執事の回想録という結構を備えているし、追憶という営みに不可避的に附随する感傷的なニュアンスを豊富に含んでいることも、率直に認めなければならない。だが、古き良きイギリスの面影を甦らせることが、この「日の名残り」という小説の本質であり、最大の美点であるという具合に考えるのは、浅薄な理解ではないかと思う。それが読者の関心を喚起する重要なポイントであることは確かだが、それはいわば入口に過ぎず、沿道に広がる美しい景観のようなものである。

 執事のスティーブンスは、自らの職業に気高い矜りを懐き、嘗ての主人であったダーリントン卿に対する深甚な敬愛と尊崇の感情を今も頑なに保ち続けている。だが、彼の執事としての美しい経歴と人生は、様々な事実から眼差しを背けることによって維持されてきたと評することが可能である。例えばミス・ケントンから寄せられた仄かな恋心、或いは対独協力者として戦時中は危険な橋を渡り、ナチズムの破綻した後は、その社会的な名声と地位を完膚なきまでに剥奪されたダーリントン卿の敗残の客観的な姿、そういったものに対する、半ば意図的な鈍感さ(職業的な良心が齎した鈍感さ、と言い換えるべきだろうか)が、彼の執事としての有能さを支える条件の一部として作用しているのである。自分の職業と、その達成に対するスティーブンスの揺るぎない自尊心は、真実に対する虚心坦懐の認識力を犠牲にすることによって獲得された財産である。

 ミス・ケントンはしばらく私の言ったことを考えているふうでしたが、やがてこんなことを言いました。

「いま、ふと思ったのですけれど、あなたはご自分に満足しきっておられるのでしょうね、ミスター・スティーブンス。だって、執事の頂点を極めておられるし、ご自分の領域に属する事柄にはすべて目を届かせておられるし……。あと、この世で何をお望みかしら。私には想像ができませんわ」(『日の名残り』ハヤカワepi文庫 p.245)

 皮肉な調子を含みながらも、仄かな誘惑の意図を感じさせる、このミス・ケントンの多義的な科白に対しても、スティーブンスは全く的外れな返答で報いてしまう。無論、彼の発言の内容は、彼の旺盛で強靭な職業的良心の観点から眺めるならば、頗る正当で穏健なものであると言えるだろう。だが、彼の関心は余りにも「執事」という職業に絞られ過ぎていて、「執事」という衣裳を片時も脱ぎ捨てたくないという異様な社会的良心が、彼の視野を酷く狭隘なものに捻じ曲げてしまっているように感じられる。そのことの是非を、一律の基準で判定してしまうのは酷薄な態度であるが、少なくともそうした態度には、ミス・ケントンが迂遠な言葉で指摘した通り、過剰な自己満足に付き纏う傲岸な閉鎖性が浸潤しているように思われる。

 無論、この「日の名残り」という小説の美しさと、そこに漂う落ち着いた哀しみは、スティーブンスが己の過去の華々しい経歴と溶け合った、閉鎖的な自己満足の鎧を束の間、脱ぎ捨てる為のプロセスによって醸成されている現象である。ただ、その自己省察は決して悪趣味で急進的なセンセーショナリズムによって構成されている訳ではない。彼の自己省察は極めて慎重且つ緩慢な物腰で徐々に深められていき、一つ一つの記憶の断片が、屋敷の戸棚に納められた高価な銀器のように丁寧に磨き上げられ、往年の輝きを取り戻していく。そうした丁寧な所作、まさに熟練の執事を思わせる典雅な「回想」の積み重ねが、少しずつ真実の在処を暴き出していくことになる。尤も、スティーブンスは苦い自己省察を薬のように嚥下しても、大袈裟に取り乱すことはない。その抑制された哀しみが、この作品を徹頭徹尾、誠実な美しさで装飾しているのである。

ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」(『日の名残り』ハヤカワepi文庫 p.350)

 この文章は「日の名残り」という作品が捉えている、深甚且つ素朴な人間学省察の最も重要な核心を剔抉している。彼の最大の後悔は、自分の決断で何かを選んだことの過ちに起因するのではなく、そもそも自分の意志で明確な「選択」を行なわずに過ごしてきたという苦々しい省察に由来している。モスクムの村人たちの言葉を借りるならば、敢えて「強い意見」を持つということを自らに禁じてきたスティーブンスは、ダーリントン卿を諌めることも出来ず、ミス・ケントンの仄かな慕情に報いることも出来ずに、老境に達してしまった。その後悔の遣る瀬ない深さと痛ましさを、カズオ・イシグロは極めて寛容な口調で描き出している。終幕に際して、スティーブンスが執事としての自己否定に嵌まり込む代わりに、新たな主人ファラディの為にジョークの練習に励もうと思い立つ件は、静謐な哀傷の沼に溺れて死んでいく人間の脆弱さではなく、敢えて立ち上がり、与えられた運命に身を挺していこうとする人間の勇敢さを、穏やかな文体で表現している。

 私の敬愛する作家の坂口安吾は「不良少年とキリスト」という有名なエッセイの中で、太宰治の文業に就いて砕けた口調で論じながら、次のように述べている。

 芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。
 虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。
 人間性(虚無は人間性の附属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、五十年しか生きられない人間で、その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般と違う。思想とは、この個人に属するもので、だから、生き、又、亡びるものである。だから、元来、オッチョコチョイなのである。(註・青空文庫より転載)

 恐らくカズオ・イシグロが年老いた執事スティーブンスの姿を通じて描き出そうとしたものも、煎じ詰めれば「何も選択しなかったという後悔」と、それに附随する様々な感情であり、従って「人間そのものに附属した生理的な精神内容」であったと言うことが出来る。そうした根源的な事実そのものに着目して、丁寧に運ばれた筆遣いが、この「日の名残り」という作品に類例のない気品と抒情を与えている。年齢を重ねる毎に一層、この作品を読むことの滋味は、甚だしく深まって感じられることであろうと思う。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)