サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「醗酵的読書」の作法

 先日、カズオ・イシグロの「日の名残り」(ハヤカワepi文庫)を読了したので、次の作品に着手した。休日の昼間、妻と娘を連れて訪れた幕張新都心イオンモールに入っているスターバックスで、「キーライムクリーム&ヨーグルトフラペチーノ」という舌を咬みそうな名称のドリンクを啜りながら開いたのは、ウラジーミル・ナボコフの有名な小説「ロリータ」(新潮文庫)である。

 なかなか分厚い上に、劈頭から実に入り組んだ多義的な文章が蛇のようにのた打ち回る作品で、恐らく読了までには相当な時間を要するであろうと見込んでいる。だが、遅々として進まない読書というものの価値を、最近の私は肯定的に評価しようと考えている。飽きっぽく堪え性がなく、仕事や家庭の忙しさを理由に読書への真摯な集中を直ぐに諦めてしまう己の未熟の、体の良い言い訳を捏造しようという魂胆ではない。大体、そんな殊更な言い訳に、誰も関心など懐かないだろう。勝手にすればいいじゃないかという一言に尽きるような下らない話柄である。

 今春の一時期、一念発起して読書に集中しようと思い、ブログを書く時間を惜しんで、就寝前の時間を優先的に傾注していた。そうやって時間の配分を考え直すと、読了までの期間は歴然と短縮されたが、まるで感想文を書く為に次々とページを遽しく捲っているような気がして、これでは本末転倒ではないかという考えが抑えられなくなった。誰に要求された訳でもないのに、まるで早食い選手権のように浅ましく獲物を頬張って忙しなく咀嚼して、一体何の意味があるというのか。読書の価値が、冊数の競争に存する訳ではないことくらい、本当は弁えていた積りであったが、知らぬ間に脳味噌が混乱していたらしい。読みたい本は幾らでもあるのに、時間が足りない、何とか時間を捻出しなければ、百年生きたとしても全然時間が足りないじゃないか、という一見すると尤もらしい発想に囚われて、そういうアスリート的な読書の作法を採用することにしてみたのだが、最近は正反対の方針を採択しつつある。一気に読む、集中して読むのは誠に結構な遣り方だが、そうやって馬車馬のようにページを捲っていると、余りにも零れ落ちてしまうものの分量が増え過ぎてしまう。読み取った内容が精神の粘膜に定着する間もなく、新しい情報が上書きされてしまい、結果として記憶が不鮮明さの度合を増していってしまうのだ。だから、記憶が新鮮なうちに文章を認めようと試みても、生煮えの断片的な文言しか、頭の中に浮かび上がって来ない。そんな方法では長続きしないし、余り報われないなと考え、少しずつ読書の速度は従来の間延びしたリズムに復していき、現在に至る。

 私はいつでも前向きな考え方を持つ人間である。一応、世の中の陰惨な出来事に対する関心は決して乏しい方ではない。例えば夏場によくNHKなどで放映される戦争関連のドキュメンタリーなどには、いつも異様な関心を喚起されて、見入ってしまうのが通例である。その意味では、私は決して悲観的な考え方と無縁な人間ではない。だが、陰惨な現実を笑い飛ばすような強靭な楽観主義は、私の好むところである。時に不謹慎の謗りを免かれないとしても、私は成る可く、如何なる惨劇にも必ず喜劇的な側面が附随していることを意識しようと努めている。同じように、私は自分の頼りない変節にも必ず積極的な意義を見出すように決めているのだ。遅読は、効率性の観点から眺めるならば愚かしい怠慢の一例に過ぎないが、或る事物を深く理解しようと試みる場合には、有効な方策として認められ得る。

 私の考えでは、遅読の効能とは、読書を通じて得られた様々な認識やイメージの有機的な「醗酵」を齎す点に存する。尤も、これは未だ漠然とした仮説の萌芽のようなものに過ぎない理路なので、敷衍するうちに矛盾して、悲惨な倒壊に帰結するかも知れないが、どうかその点は御容赦願いたい。

 私に限らず、世俗の人々は皆、課せられた種々の社会的役割を全うすることに人生の活力の過半を収奪されている。特別な社会的地位を持たずとも、十人並みの定職を持ち、妻子を抱えて曲がりなりにも一家の大黒柱的な役目を仰せ付かっている立場であれば、普通に暮らしている積りでも時間は泡沫のように瞬く間に消え去っていく。そういう状況の中で、世界には古今東西夥しい数の書物があり、古典的価値が広く承認されているものだけを拾い集めても、その総数は厖大な水準に達するだろう。従って私たちの人生は、総てを読み尽くすには余りにも短く、儚い幻であるという結論が、自ずと導き出されることになる。

 そして漸く手に取り、鞄に忍ばせた一冊の書物を読み通すにも、相応の時間を捻出せねばならず、分かり易く内容の薄い書物ならば直ぐに読み終わるとしても、内容の充実した書物であるならば、読了に至るまでの時間は多めに見積もらなければならない。通勤時間、休憩時間、就寝前のひと時などを細切れに充当して、少しずつ亀のようにページを捲っていくのが、一般的な読書家の典型的な姿ではないだろうか。しかも、そういう細切れの読書作法では、なかなか書物の世界に没頭するということが困難になる。多かれ少なかれ、読書というのは眼前の現実から意識を引き剥がして、見知らぬ異界へ移行する営みである訳だから、細切れの読書というものは猶更、非効率な方法であるということになる。電化製品が、起動する際に最も多くの電力を消耗すると言われるのと、同種の理窟が成り立つ訳である。

 その意味では、纏まった時間を確保して集中的に読書へ充てるのが最も能率的で合理的な施策ということになる訳だが、読書は数をこなすことが重要な営為ではない。その一冊から、どれだけ重要な叡智を汲み上げられるかということが、読書家の実存においては最も中核的な問題なのである。だからこそ、再読や精読といった観念が存在しているのだ。

 その一冊から、如何に重要な個人的叡智を抽出し得るかという観点から眺めるならば、遅読には充分な効用があると私は経験的に考えている。少しずつ読むことで、私たちは一層長く、その書物が内包している「世界」の特異な諸相に触れ続けることになる。その「世界」と付き合っている時間が長ければ長いほど、その「世界」に含まれている様々な成分はより深く、私たちの精神の中核に浸透し、葉脈を広げていく。

 次々に読み終えるということは、次々に別の「異界」へ遽しく飛び移っていくということであり、そこには認識の「熟成」や「深化」の為に必要な、充分な「時間」が欠如している。集中的に、その世界に没頭したのだとしても、限られた時間の中で、何処まで深く潜れるかと改めて顧みれば、心許ない感想が浮かんでくるのは必然的な成り行きではないだろうか。勿論、時間を費やせば、その分だけ「理解」が深まるなどと、賢しらな理窟を述べ立てたい訳ではない。だが、長い時間の経過の涯に初めて見出される世界というものが存在することは、一つの厳粛な事実ではないだろうか。哲学者マルティン・ハイデガーの著作の訳語として案出された「時熟」という言葉があるが(どうやら九鬼周造の発明らしい)、その本来の意味から外れることを承知の上で用いれば、読書における理解には必ず「時熟」というものが必要である。重要なのは、その世界との「情事」を如何に長く持続するか、という点に存している。

 読書における理解が「時熟」を要するという考え方は、必ずしも世人の賛同を得られるとは思われない。現代社会が絶えず「効率」を重視して組織されていることは周知の事実であるし、実際にも私自身、仕事においては「如何に時間を節約して、効率的に振舞うか」ということを絶えず念頭に据えて働いている。そういう風潮が文学の世界に波及した結果として、例えば「速読」といった観念に対する尤もらしい称讃が跋扈するようになったのだろう。

 だが、読書というものはページを開いて、印刷された文字を追い掛けて読み進めている時間の中だけに存在するのではない。作家の保坂和志は、読書は「読んでいる時間が総てだ」という趣旨の発言を繰り返しているが、そう言いながらも彼自身、ページを閉じている間に、色々なことを書物の世界から触発されて、思索を深めているように見える。読んでいる間だけが、読書の時間ではないという考え方は、読書が「時熟」を要するという命題の、言い換えられた表現である。読み取った内容を咀嚼したり、そこから喚起された妄想や追憶の深淵に耽溺してみたり、遡って読み返してみたり、数ページ飛ばして筋書きの行方に何となく見当をつけてみたりするのも、悉く「読書」という時間の一環である。そうやって行きつ戻りつしながら、複合的に立ち上がっていく「異界」の諸相を味わうことが、読書の本来的な醍醐味であり、その為には断続的な「遅読」という作法にも、重要な意義が認められ得るのである。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 
ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)