サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(正義・愛情・無底性)

*随分と昔に書いた「『正義』と『愛情』は相容れない」という表題の記事が、何の因果か、この「サラダ坊主日記」の注目記事の欄に突如として姿を現し、数日間、その状態を維持している。表題だけは漠然と覚えていたが、どういう中身の文章を書いたのかは、改めて読み返してみるまで殆ど思い出せなかった。それほど有用な事柄や知見が記されている訳ではない。そんなに熱心に読まれているようにも見えない。今までずっと、ネットの暗闇に埋没して半ば白骨化していたような記事なのだ。世の中の検索ワードの流行が変動して、たまたまアクセスが増えただけの話だろうと思う。

 「正義」も「愛情」も手垢に塗れた、昔ながらの言葉のように感じられるし、誰もが「正義」や「愛情」に就いて底知れぬ迷妄を抱え込むことを強いられていながらも、これらの単語を特に難解なものであるとは考えていない。「正義」は「正義」であり、「愛情」は「愛情」であると漠然と独り合点して、その曖昧な認識を疑ってみようとも思わないのだ。だが、昨今の世界的な情勢を鑑みるだけでも、如何に「正義」という抽象的な観念が、人類全体の精神と思索を乱暴に振り回し、毀損し、混乱に導き入れているか、その果てしない惨状を把握するには充分である。私たちは直ぐに持ち前の「正義」を懐中から取り出して、お気に入りのナイフのように振り翳し、混乱した現実に強引な解決を与えようと躍起になる。

 正義というのは、本質的に「客観」と「普遍」という二つの重要な礎石の上に聳え立つべき崇高な理念である。だが、そもそも「客観」と「普遍」という抽象的な観念自体、私たちの意識にとっては生々しさを欠いた透明な記号なのだから、そこに聳え立つ「正義」が不明瞭な輪郭しか持ち得ないのも当然の仕儀である。

 ここには深刻なパラドックスが常に介在している。私たちは或る行為や言説の「正しさ」を様々な方法で立証すべく尽力する。だが、如何なる「正義」も、総ての人間を包摂する完全無欠の普遍性を獲得することは出来ない。「正義」は普遍的なものとして語られなければならないが、実際に特定の「正義」が(「特定の」という文言は「正義」という理念の本質に最も相応しくない但し書きである)絶対的な普遍性を帯びることは有り得ない。そこには必ず個人或いは集団の歴史的な「偏向」が関与している。しかし、或る言説が「正義」として訴えられる限り、それは常に「普遍的な真理」としての装飾を身に纏うことを原理的に免かれないのである。

 言い方を換えれば、「正義」とは「普遍的な真実として位置付けられた行為や言説」の総称である。従って、私たちが信奉する「正義」に不動の実体は備わることがない。「正義」という観念的な領域には、如何なる論理も決断も代入することが可能である。「正義」は内容ではなく形式であり、認識における特定の様態を指す概念なのだ。

 「正義」が「普遍的な真理として認められた行為や言説」の総称であるということは、言い換えれば「正義」とは「真実」との間に絶対的な相関性を持たない「信仰」の一種であるということになる。重要なのは、特定の行為や言説が「真理」として信仰されるという人間の精神的な事実性である。内容の如何に拘らず、如何なる事実も「真理」として信仰され得る可能性を秘めている。或る共同体において「禁忌」として排斥されている行為が、他の共同体において「真理」として信奉され、崇拝されることは十二分に有り得る。「正義」は実体ではなく、いわば「属性」として理解されるべき観念なのである。

 しかし「正義」が実体を欠いているからと言って、人間の精神に及ぼす影響を過少に評価することは出来ない。「正義」は論理的な構築物ではなく、信仰と崇拝の対象であり、私たちの頭上に聖性を帯びて君臨している。「正義」に対する私たちの心理的な執着は、単なる推論の産物ではなく、寧ろそのような「正当化」の推論を生成する根源的な「理由」である。言い換えれば、何らかの事実が「正義」として承認されることに、絶対的な必然性はない。そこにあるのは常に恣意的な根拠だけである。この抽象的な可変性が、時に「正義」という名の凄まじい暴力を蔓延させる最大の要因であると言える。

 意識的であるかどうかを問わず、私たちは極めて簡単な心理的手続きを踏んで、個人的な好悪に過ぎない問題を「正義」の問題へと掏り替えてしまう生き物である。「正義」とは「それは真実であるという信仰」の異称であり、従って本来ならば個人の審美的な判断とは無関係に措定されねばならない。だが、「正義」という観念の有する本質的な無根拠性=無底性が、そうした規範を易々と踏み躙る原因として作用する。信仰は欲望の一種であり、そうであって欲しいという希求の道徳的な表現である。私たちは厳格な仕方で「好悪」と「正義」の基準を弁別することが出来ないのだ。そして、この危険な陥穽が古来、人類を出口の見えない不毛な係争に埋没させてきたのである。

 それならば「愛情」とは何か? 抽象的な言い方を用いるならば、「愛情」とは一切の事実の全面的な肯定と受容である。「正義」は「真実」の裏面としての「虚偽」を常に注意深く排除しようと試みる。言い換えれば「正義」は常に「審判」の要素を含み、事実の部分的な肯定と承認に血道を上げる営みである。だが「愛情」は、そうした弁別の原理と根源的に相容れない。「愛情」は総てを肯定し、総てを信頼するが、「正義」の側から眺めるならば、「愛情」の盲目的な包容力は危険な怠慢のように映じるに違いない。「愛情」の包容を「正義」の信奉者は「屈服」として定義する。

 逆説的な言い方を用いるならば、「愛情」は「正義」が目指すべき基準の普遍性を、「正義」とは全く異質な手続きを踏んで実現しようとする営為である。何故なら「愛情」は総てを包摂する全面的な肯定の働きであるから、必然的に個人の「好悪」という恣意的な尺度を超越せざるを得ないからだ。一般的な通念としては「愛情」こそ「好悪」という個人の審美的な基準に従属するものであるかのように考えられがちだが、本来的な意味の「愛情」は如何なる要素も無条件で肯定するという極限の性質を備えており、従って個人的な好悪は無条件に除外されてしまうのである。一方の「正義」は、自らを普遍的な価値の規範として捉えている為に、どうしても規範との「照合」という作業を省略することが出来ない。特定の規範に照合して対処の方法を定めるという手続き、即ち「審判」は、必ず特定の要素の「排除」という段取りを要請する。「正義」は「愛情」を特定の枠組みの内部に押し込むのだ。

 「愛情」は本来、論争という行為には馴染まない関係性である。だが、実に多くの「恋人」たちが下らぬ蹉跌や誤解に基づいて、度し難い論争の悪循環へ溺れていく。そこには「好悪」を「正義」で装飾することによって、相手を論破し、その非を立証しようとする苛斂誅求の精神が顕現している。だが、相手を論破することほど、「愛情」から遠く隔てられた行為は他に考えられない。「愛情」は常に沈黙と共感によって、あらゆる規範の根源的な「無底性」に向かって穏和な微笑を捧げる営みである。