サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(方法・価値観・守破離・相転移)

*或る組織に属して労働に明け暮れる。年数が経ち、春が来る度に真新しい心身を携えた後輩が現れる。その繰り返しで、組織の新陳代謝のリズムは保たれ、旧弊な慣習にも徐々に罅割れが生じていく。

 或いは、子供が生まれる。夫婦だけの静かな生活に、喜ばしい波紋が生じる。右も左も分からぬ赤児が、日毎に大きくなり、出来ることが増えていく。

 何れの場合にも「教育」という問題は重要な意義を帯びている。何も知らない人間の真っ新な心に、様々な知識や手法が少しずつ刻み込まれていく。

 そのときに勘違いすべきでないのは、教育の本義とは「技術」や「方法」を伝えることに存するのではない、という点だ。本来、教育とは「価値観」の伝授でなければならない。価値観の伝授に比べれば、方法や技術の教育は枝葉末節の問題に過ぎない。

 こういう言い方に反発が寄せられる可能性は理解している積りである。不毛な精神論を唱えるだけで、何事かの教育を成し得たと誤解する愚昧な指導者の存在と権威に、辟易しておられる方も、世上には少なくないだろう。確かに、抽象的な観念を振り回すだけに留まらず、具体的な技術に就いて、初心者にも理解出来るように咬み砕いて説明する辛抱強さは、教育者の資質としては重要なものである。だが、具体的な技術の指導に終始して、その技術を支える理念や価値観に就いて何も語らないというのは、教育の在り方としては偏頗なものである。

 私は別に「方法」と「価値観」の何れを教えるべきかという二元論的な構図を描いてみせようと考えているのではない。抽象的な理念だけに偏しても、具体的な技術ばかりに特化しても、片手落ちであることに変わりはない。誰にとっても、これら二つの要素は一つの車の両輪である。

 ただ、何かを教え込んで、可能な限り早く実践の役に立てようと急く余り、肝心の理念や価値観を省いて、具体的な手続きだけを機械的に暗記させるのは本末転倒である。技術の習得そのものは、理窟で覚えるより、肉体的に浸透させた方がいいに決まっている。肉体に浸透した技術でなければ、それは実践の現場で活きないからである。だが、そうした肉体主義を過度に信奉することは、思考の硬直を招き、延いては成長の停滞に帰結することになる。物事には必ず背景があり、その背景を理解しないまま、結果だけを丸暗記しても、それは人間の教育の方法としては余りにもインスタントである。

 肉体的に覚え込んだ技術は確かに廃れない。そして、迂遠な理窟を介さずに運用される技術が、所謂「現場」の円滑な運営に欠かせないものであることに就いては、私も同意する。しかし、そうやって一つの肉体的な形式にまで高められた技術が、技術そのものの「更新」或いは「革新」を妨げる弊害となり得る懸念に就いても、関心を向けるべきであろうと私は考える。

 技術の肉体的な習得は、一つの形式的な枠組みの中に、自らの存在を押し込んで馴致する作業である。この「馴致」という作業は予め「正解」が存在することを前提に据えている。予め「正解」が定められていない状況で、或る技術を習得することは不可能である。若しも事前に「正解」の存在しない技術を習得することが可能であるとするならば、それは最早「習得」ではなく「発明」であり「創意」である。この差異は、ささやかなものに見えるかも知れない。しかし、この差異が決定的な意味を持っていることに注意を払うべきだ。

 技術の習得は常に「既存の枠組み」を受け容れることであり、その意味では、習得の主体は、常に既存の体制に対して受動的な立場を取ることを強いられる。そのこと自体の是非を断じても仕方ない。全くの門外漢が、或る領域や分野で一定の水準に達する為には、先賢の叡智を拝借し、その功績に便乗するのが最も合理的であるからだ。しかし、教育と成長には必ず「ステージの変更」が存在する。初心者も達人も、同じ枠組みや方法論で物事に処するという訳にはいかない。

 日本語には「守破離」という言葉があり、個人の成長の道程を表現するものとして広く人口に膾炙している。但し、これは滑らかな成長曲線を表現するものではない。寧ろ熱力学における「相転移」のようなものだと捉えた方が適切である。或る境目を越えた途端に「液相・固相・気相」の転移が生じるように、「守破離」のプロセスには非連続性が備わっている。

 事前に用意された「正解」に辿り着く為の適切な手順を理解することは、初学者にとっては重要な心得であり、技術的な目的である。だが、その段階に留まり続ける限り、初学者は「相転移」を喚起することが出来ないまま、何時までも「新人」の立場に拘束されることになるだろう。

 そのような閉塞を突破する為には、従来の技法の盲目的な踏襲を切り上げる以外に途はない。別の言い方をすれば、それは外部に「正解」を探すという受動的な立場を棄却するということである。事前に「正解」が用意されている筈だという子供らしい信仰は、既存の枠組みに対する批判的な意識を麻痺させるばかりか、そもそも「既存の枠組み」というような客観的な感覚さえも滅ぼしてしまうのである。誰かに投げ与えられた「正解」や、それに類する指標を鵜呑みにすることが、人間的な成長に繋がるという素朴な盲信に死ぬまで囚われている訳にはいかない。何処かで意識を切り替える為の「転移点」を確保すべきなのだ。

 その為には、既存の枠組みを包括的に捉えるような視野を手に入れる必要がある。如何なる種類の「正解」も、誰かの手で作り上げられた相対的な真実に過ぎず、歴史的な形成物に過ぎないという単純明快な「真理」を理解することから始めなければならない。その技術の背景を知ることは、それが形成される歴史的な過程を学ぶことに他ならず、そうした手続きを経由しなければ、私たちは「既存の枠組み」に対する絶対的な信頼を免かれることが出来ない。盲信を捨てない限り、私たちは批判どころか、真の意味で「信頼する」ことすら出来なくなってしまうのだ。