サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「正解主義」・誤答・恐怖・奴隷)

*自分の外部に絶対的な「正解」が予め存在していると信じ込む態度を指して、私は「正解主義」という用語を提案したいと思う。

 正解主義者は、自分の内部に絶対的な規範や、譲れない信念というものを持たない。或いは、持っていても信じ切ることが出来ない。その為に、物事の価値を判断する尺度が「他人」の所有物となっている。言い換えれば、正解主義者は常に外在的な価値観に従属することを、自らに対して命じているのである。

 正解は外部にあり、自分自身の内側にある「答えらしきもの」は不完全な結論の過ぎないという否定的見解、これが正解主義者の精神を構成する主要な成分であり、思い込みである。一方、そうした自虐的認識の齎す反動的な効果として、外在的な規範に対して過度の執着を示し、無批判な盲信を抱懐してしまうのも、同じく正解主義者の顕著な特性である。このアンバランスな「認知の歪み」が如何なる個人史的経緯を踏まえて形成されるのかという問題に就いては、一般論を唱えても無益である。

 正解主義者の精神は「子供」の精神である。言い換えれば「学童」の精神である。親や教師が持っている「正解」の正当性を疑わず、素直にそれを受け容れ、自己の内的な規範の一部として消化してしまうのが、正解主義の特質である。そのこと自体は、少しも否定的な意味合いを有していない。何も知らない子供が、人間的成長の階梯を登っていく途上では、そうした「正解主義」の順応性と柔軟性は、重要な教育的効果を備えている。先賢の叡智に耳を傾けることの出来ない人間が、飛躍的な成長を実現することは出来ない。

 だが、飽く迄もそれが学童期に固有の精神的態度であることに留意すべきである。私たちの肉体的な加齢は自動的に、物理的な現象として営まれていくが、私たちの精神的な加齢は必ずしも自動的に進んでいくとは限らない。日本語には「馬齢を重ねる」という表現があるが、実際に同じ年齢の人間が同じ精神的境涯に達していると信じ込む為の根拠は存在しない。物理的な年輪が、自動的に精神の成熟を醸成する訳ではない。幾ら齢を重ねても、脆弱な幼児性を引き摺っている人間は、この世界に少なからず実在している。翻って、一般的に「青二才」と呼ばれる年齢の人間であっても、生半可な壮年では太刀打ちし難い強靭な精神性を宿していることは充分に有り得る。両者の境目は複数挙げられるだろうが、私は先ず「正解主義からの脱却」という言葉を、重要な命題として掲げておきたい。

 自分の内部に絶対的な規範を持ち得ないということは、少しも恥ずべき状態ではない。問題は、自分の内的な規範に対する不信と、外在的な規範に対する異様な敬意が、ぴったりと接合されている点に存する。自分の内的な規範が不完全であるならば、他人の内的な規範も同じく不完全なものであろうと推論するのが、成熟した「大人」の採用する基本的な原理である。しかし「正解主義」に憑依された「学童」は、そうした水平的構図を巧く受け容れることが出来ない。そこに根深く蔓延っている感情は「恐怖」である。何に対する「恐怖」なのか? 無論、それは「誤答を選ぶ」ことに対する「恐怖」である。

 正解主義者は失敗することを重大な過ちとして定義している。この定義が、近代的な公教育の枠組みの中で築き上げられた、極めて堅牢な桎梏であることは論を俟たない。正解主義者は「誤答」を重大な蹉跌として認識するように馴致されており、その手枷足枷は極めて強靭な制度として作用している。この桎梏を解除しない限り、正解主義からの脱却は決して進捗しない。

 彼らを支配している強迫観念は「失敗は許されない」というものである。そこには殆ど道徳的な感情が根深く関与している。恐らく正解主義者は、失敗することで厳しく叱責されたり、或いは「正答し続けること」によって厖大な社会的利益を獲得したりした経験を持っており、尚且つその経験が過剰に内面化されてしまっているのである。

 人間的成長の過程は必ず、外在的な「正解」に対する疑念を懐くように、当人に向かって要求するものである。知的にも感情的にも一定の発達を遂げた人間が、世間に蔓延する様々な「尤もらしい見解」に違和感を覚えるのは、自然な経験である。だが、極めて抑圧的な環境に縛り付けられていたり、或いは極めて順応的に振舞うことによって延命を成し遂げ、優良な社会的評価を確保したりしてきた人々にとっては、そのような批判的見解を有したり表明したりすることは、極めて困難な選択肢として映じるだろう。

 だが、それを口実として堅持し続けることが、正解主義者の幸福を一層深めることに繋がるだろうか? 常に「正解」だけを見抜き続けることを強いられた人間が、「誤答」という地雷を踏みかねない重大な「危険」を自ら冒す筈もない。彼らは「奴隷」であることに価値を見出している。誤答によって懲戒された人間が、絶えず他人の顔色を窺い、誰にも後ろ指をさされないように心掛け、懲罰を受けないように汲々とし続ける姿は、余りに憐れである。それは「無能な奴隷」の姿だが、だからと言って「正解」だけを選び続ける人間を称揚しても始まらない。彼らは単に「優秀な奴隷」であるに過ぎない。何れも外在的な正解を、内的な規範に優先させるという点で「敬虔な奴隷」であることには変わりがないからだ。

 正解主義者は先ず、何らかの「正解」が存在するという信仰から、自分自身を解放しなければならない。少なくとも、自分自身が絶対的に正しい存在として生きなければならないという不可解で傲岸な盲信を棄却せねばならない。正解主義者が如何に臆病な人間であったとしても、そこには正解主義者に固有の暴力性が必ず横たわっている。「誤答を選ばない」ということを常に優先する人間は、常に自分自身の正しさを点検することで精神的な安定性を確保しようと努める。そうした態度が既に「暴力的なもの」であることに誠実な眼差しを注がねばならない。

 正解だけを選択しようとする態度は、誤答を許容しないという点において暴力的であり、無慈悲である。重要なことは、誤答を経由することで正解の精度を高めるという一連の過程に存している。私たちは誰も絶対的で最終的な「正解」など有していない。何故なら、現世の真理は常に流動的なものであるからだ。未来永劫、常に革められることのない「真理」が存在するという考え方は、極めて重大な危険を含んでいる。それは古今東西、絶えず繰り返されてきた深刻な宗教対立の事例を徴するだけで直ちに理解し得る素朴な事実である。唯一神に対する信仰は、絶対的な「正解」に対する信仰と、構造的に同型である。言い換えれば「真理は常に自己に先行している」という命題が、そうした信仰を根源的に支える筐底なのだ。

 だが「真理は常に自己に先行している」という発想は、過度に敗北主義的な精神性に依拠している。本来、真理とは人間の手によって作り出されるものであり、それが人間の手で作られたものであるという事実が忘却されたときに限って、正解主義者を抑圧する危険なイデオロギーに転化する。

 正解主義者が先ず知るべきは、真理が形成される歴史的過程を学ぶことである。その真理が真理として定義されるに至った経緯を把握することは、真理の有する根源的な相対性を端的な事実として理解することに等しい。それは結果的に、或る事実に附与された真理性が、賞味期限のようなものに過ぎないことを、正解主義者の頭脳に刷り込むだろう。だが、正解主義者は往々にして「答え」にしか関心を懐かない。彼らは「答え」に到達するまでの過程を愉しむという成熟した趣味を持たない。考えることに対して怠慢な人間ほど、速やかに「正解」だけを欲しがるというのは、随分と厚かましい話ではないだろうか。何らかの疾患の影響でもない限り、自分の頭で考えようとしないのならば、自分が生きている意味はない。本稿の結論は、この一文に尽きている。