サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(引き続き「ロリータ」・読書における一方的な信頼)

*先月からずっと、ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」を読み続けている。新潮文庫で漸く400ページの背中が見え始めた。ビアズレーという大学町での暮らしを引き払って、再び二人の壮大な逃避行が始まったところ、いよいよ本格的に不穏な臭気が漂い始めている。

 それにしても、ナボコフの紡ぎ出す文章の驚嘆すべき技巧性と、少女愛を巡る偏執的な描写の克明さには、脱帽する他ない。そして読み進めていくほどに、この「ロリータ」という小説が、通俗的なイメージとしての「変態小説」とは全く異質な文学的企図に支配されていることに、否が応でも気付かされていく。少女愛を巡る情欲に塗れたファンタジーの文学化という不毛な偏見は、成る可く捨て去ってしまった方がいい。手記の作者として設定されたハンバートの脳味噌は、性的な幻想に覆い尽くされているが、ナボコフ自身は如何なる幻想も許容しない、苛烈なリアリズムの精神を堅持しているように見える。本文と詳細な訳注との間を頻繁に往来する所為もあって、通読には猶更時間が掛かっている。自分に外国語を理解する能力があればいいのにと思いつつ、他方では、外国語を勉強している時間があるのなら、翻訳でも構わないからどんどん色々な作品に手を広げた方がいい、という風にも考える。恐らく今後も、怠惰な私は決して外国語の本格的な勉強には乗り出さないだろう。

 中学生だったか高校生だったか、洋書を読むことに憧れて、セメントで出来たブロックのように重たい英文法の教本を、高い金を払って買ったことがある。結局、殆ど読まずに筐底へ眠らせてしまった。母国語に限っても、その鬱蒼たる樹海の深奥まで辿り着くのに、今生だけでは足りない見込みであるというのに、外国語にまで手を伸ばす余裕などあるものか。無論、これは単なる自己弁護に過ぎない。例えばナボコフは、現代文学の古典の一つに数えられる「ロリータ」を、母国語である揺籃の如きロシア語ではなく、後天的に習得した英語で書いたのである。真の才能というものは、凡人の尺度では到底測り難い代物なのだ。

 

*「ロリータ」の泥濘に嵌まり込んで足掻いている立場でありながら、次は何の本を読もうかという考えが定期的に、私の脳裏を掠めては消えていく。先日、柄谷行人の新著が刊行されることを偶然に知り、即座にAmazonで注文してしまった。インスクリプトという出版社から間もなく発売される予定の「坂口安吾論」である。十代の頃から、柄谷行人坂口安吾も愛読してきた私にとっては、まさしく最高の組み合わせである。

 総ての作品を網羅するほどの敬虔な愛読者ではないが、柄谷行人坂口安吾は、常に特権的な地位を占める作家として、我が蒼穹に君臨し続けてきた偉大な存在である。柄谷行人の「意識と自然」も、坂口安吾の「堕落論」も、私にとっては特別な文章であり、それは現在の私という人間の精神的秩序の形成に少なからず影響を及ぼしている。そういう作家を有することは、紛れもない人生の歓びの一つである。

 私は彼らに、極めて個人的で一方的な「信頼」の感情を寄せている。彼らの書き物、彼らの訴え、彼らの告発と見解、彼らの信条には、無条件に同意を示しても構わないという偏倚した認識を持っているのだ。それは実際に、生身の人間としての彼らと接したときに、私が如何なる感想を覚えるかという問題とは、異質な次元に属する事柄である。今まで幾度、彼らの文章に刺激を受け、精神を鼓舞され、明るい展望のようなものの手懸りを与えられてきただろう。成程、確かに彼らの著作は、私の卑近な実生活そのものには、如何なる建設的な役割を果たすこともなかった。仕事や家庭の問題を、彼らの著作の繙読によって乗り超えたことはない。何故なら、俗塵に塗れた諸問題は悉く自分の手を動かすことでしか解決しないのが、世間の相場というものであるからだ。

 だが、書物は行動を変えずとも、精神を変えることが出来る。それは実用的なマニュアルとは異質な次元で、人間の実存に決定的な影響を及ぼすのである。その根源的な変容が結果として、実生活における様々な具体的判断の礎のような役割を担うことは、充分に起こり得る。この世界を如何にして捉えるかという問題は、最終的には「この岐路を右折すべきか左折すべきか」という些末な問題に関する判断さえも動かすようになるだろう。その意味で、必ずしも実用的であるとは言い難い彼らの著作は、根源的な次元においては頗る実用的であり、その効果も圧倒的なのである。

 

*特定の作家を全面的に信頼するということは、容易な所業ではない。だが、そういう作家の候補を増やすことは、長い目で見れば人生の資産を培うことに通じる。前述した二人の作家に加えて、私は三島由紀夫にも特別な関心を持ってきた。その関心の主要な対象は、三島の批評家的側面である。

 彼の書き遺した批評的文章の明晰さは、驚嘆すべき水準に達している。しかも、その明晰さは学者的な堅苦しさとは無縁であり、艶やかな官能的色彩を加えた法律家の文章といった感じで、硬質な論理性が柔軟な文学的装飾に包まれて、絶えず皮肉な機智が銀鱗の如く飛び跳ねている。「小説家の休暇」(新潮文庫)のような、フランスのモラリストを思わせる、人生や芸術に関する断片的な省察の鋭さと余韻は、天下一品である。

 「ロリータ」を読了したら、三島の作品を集中的に読んでみるのも面白いかも知れないと、先日思い立ったところである。気紛れな性分なので、実際に着手するかは未だ疑わしいが、差し当たり「仮面の告白」から始めようという腹積りは仕上がっている。

 俄かに三島への関心が高まってきたのは、Youtubeで久々に新海誠監督の「君の名は。」の予告編映像を眺めたことが契機である。私は以前、このブログで「君の名は。」の感想を記事に纏めたことがあるのだが、そのときに考えたのは「恋愛の本質」という問題であった。私見では、恋愛という精神的様式は常に「不可能なものの希求」という性質を孕んでいる。それは二人の男女が「隔てられる」ことによって生じる欲望の形式であり、従って両者の関係が公的に成就した瞬間に「恋愛」という感情は終焉を迎える。その辺りの消息を、極めて人為的な設定の下に純化して抽出し、精細なアニメーション映像として定着させたのが「君の名は。」の魅力の核心ではないか、というのが、その記事の概略である。そこから不意に三島由紀夫の遺作「豊饒の海」を思い出したのだ。遠い昔、中学生の頃に、私はずっと憧れながらも手を出しかねていた「豊饒の海」の第一巻「春の雪」を購入して読み出した。三島の畢生の大作であり、それを書き終えて直ぐに自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたという血腥い挿話に彩られた、半ば「事件」のような長篇小説である。しかし、私は事前に懐いていた漠然たる憧憬を満たしてくれるものを、田舎臭い中学生には聊か難解に感じられる三島の端正な措辞の中に発見することが出来ないまま、志半ばで通読を抛棄してしまった。そういう十数年前の惰弱な自分の遺志を引き継いでみたいという考えも、此度の目論見には幾らか関係していると言って差し支えない。

 だが、先ずは「ロリータ」を読了することが肝心だ。遅くとも今月中には、感想文を投稿出来る段階まで辿り着きたいと思う。

坂口安吾論

坂口安吾論

 
小説家の休暇 (新潮文庫)

小説家の休暇 (新潮文庫)

 
仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)