サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(反復・学習・詩歌・単一性)

*子供は同じ遊びを執拗に繰り返すことを好む。一度気に入れば、無際限に同じ行為を反復して、嬉しそうに笑い声を立てるのが、小さな子供の普遍的な習性である。そうした行為に付き合わされる大人は、時にうんざりして溜息を吐きたくなるだろうが、子供にとって「反復」は「認識」を生み出す為の大切なプロセスである。

 たった一度の「出来事」が「認識」を形作ることは難しい。「奇蹟」は「認識」を齎すのではなく、寧ろ「認識」の不可能性を告示する現象である。たった一度しか味わうことの出来ない「経験」を「認識」に昇華させることは難しい。だが、繰り返される「経験」は「認識」として組み立てることが可能である。何故なら「認識」は常に「経験」の関係化として営まれるものであるからだ。

 或る感覚的な経験の断片が、反復を通じて記憶の領域に蓄積されていく。反復されることによって、或る経験が他の経験との間に「関係」を持っていることが確認される。その果てしない累積が、人間の思考を形作っていく。子供が同じ遊びを幾度も反復するのは、単にその遊びを気に入ったということだけが理由ではない。それは人間の「知性」に備わった固有の衝動なのである。その衝動が、経験の「反復」を要求するのである。

 

柄谷行人の「坂口安吾論」(インスクリプト)が届いたので、寝る前に少しずつページを繰っている。未だナボコフの「ロリータ」を読み終えていないのに、浮気しているのだ。先日は新たにミハイル・バフチンの著作をAmazonで注文してしまった。無論、現在の正妻は飽く迄もナボコフであって、バフチンではない。

 小説を、様々な性質の「言語的表現」が交錯する「往来」若しくは「広場」として定義すること、柄谷行人の言い方を借りれば「交通」の現場として捉えること、そして、そのような小説的原理に対置されるべきものとして「詩歌」を捉えること。これが先日来、私の脳裡を満腹の鮫のように緩慢な速度で泳ぎ回っている「主題」である。以前にも、このブログで記事に纏めたことのある、普遍的なテーマだ。

 単一的なロゴスの支配を許さないことが「小説」の条件であるという考え方は、少なくとも「小説」の定義を「言語化された虚構」に求めるよりは遙かに建設的な方針であると思う。翻せば「詩歌」を構成する原理は、統一されたロゴスの美しさに基づいていると言えるだろう。小説においては、複数の異質な他者の声が交響曲のように入り混じり、調和したり不協和音を奏でたりすることで、その芸術的価値が構築されていく。だが、詩歌は原則として特定の個人の純然たる「自己」から紡ぎ出されるものである。小説においては、ロゴスの単一性は承認されないが、詩歌においては寧ろ、ロゴスの単一性こそが、その芸術的価値の純度の高さを証明する重要な基準として適用されるのである。

 バフチンの著作を購入したのは、有名なキータームである「ポリフォニー」と「カーニバル」を駆使して、小説の本質に就いて縦横無尽に論じていると小耳に挟んだからである。バフチンの名前自体は随分昔から耳に残っていたが、実地に繙読した経験はない。何れにせよ、ドストエフスキーの小説を殆ど読んでいない私が、いきなりバフチンの著作に着手しても、その魅力は半減してしまうだろうと思われる。暫く二階の物置で熟成されることになるだろう。無駄な買い物だと難じられるかも知れないが、繙読の機が熟したときに、直ちに手を伸ばせる場所に該当する書物を確保しておくのが、案外大事な心掛けなのである。

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

 
小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153))

小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153))