サラダ坊主日記

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歪んだ愛の精細な記録 ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」

 九月前半からずっと格闘し続けてきたナボコフの「ロリータ」(新潮文庫)を読了したので、覚書を認めておきたい。

 このペダンティックな文体で織り上げられた稠密な作品を、強いて要約しようと試みるならば、表題に掲げたように「歪んだ愛の精細な記録」ということになるだろう。或いは「両義的な愛情」と呼ぶべきだろうか。だが何れにせよ、そのような言い方で、ハンバートとロリータの関係を手っ取り早く定義してしまうのは、ナボコフの意図を致命的な仕方で裏切ることに帰結すると思う。「ロリータ」という作品に附随するスキャンダラスなイメージも、そのような簡便な要約に類する誤解の一種であると附言しておくべきだろう。

 この作品は発表当初、ポルノグラフィであるという誤解を受け、物議を醸したらしい。確かに、この作品から「ペドフィリア」という主題を抽出することは、如何なる読者によっても容易なことであるし、実際にロリータに対するハンバートの異様な情愛が、作品の中心的な原理として彫琢されていることは事実である。だが、この作品がポルノグラフィであるとするならば、余りにも非効率な構造になっていることに我々は留意すべきだろう。読者の動物的で倒錯的な劣情を喚起し、煽動することが「ロリータ」の主眼であるならば、夥しい隠喩と引用に満ちたペダンティックな文体を殊更に貫徹する理由は生じない。そもそも、ナボコフは「ロリータ」の執筆に際して、露骨な性的描写を殆ど用いていない。彼の文体は常に事態の中心から逸脱するような遠心力に支配されており、直截な描写の代わりに盛り込まれる複雑な暗示は、私たちの精神に対して、素朴な性的興奮を覚える余裕すら与えないほどなのだ。

 英語のみならず、随所にフランス語の表現や、種々の文学的引用が象嵌されている、ナボコフの過度に饒舌な文体は、作者が自ら附した後書きの中で触れているように(同じく巻末の解説で、作家の大江健三郎も触れている)、彼が「英語という言語との情事の記録」を志したことの反映である。ロシア語の揺籃に育まれたナボコフにとって、英語は後天的に習い覚えた異国の言葉に他ならない。その異質な言語との凄まじい格闘=遊戯が、あの独特な文体を産み出す最大の要因となったのであり、ペドフィリアという主題は飽く迄も、その導火線に過ぎない。いや、ペドフィリアという概念そのものが、彼にとっては極めて曖昧で浮薄な代物に過ぎないのである。彼は徹頭徹尾、ハンバートとロリータの関係を書いただけであり、その倒錯的な情愛の形態が、どのような社会的通念によって切り取られるかという問題は、少なくとも作者にとっては、大して重要な論点ではなかっただろうと考えられる。

 この作品の複雑怪奇な両義性は、優れた小説が有している普遍的な特徴と重なり合っている。私たちは、ロリータに対するハンバートの倒錯的な情愛を批判し、蔑視する一方で、その情愛の真摯な側面にも眼を向けるように、作品そのものから迫られている。何れの解釈が適切であるかという議論は、この小説の根源的な両義性の前では、不毛な戯言に過ぎない。「ロリータ」を読むことは、ペドフィリアの甘美な醜悪さを味わうことでもないし、ハンバートの没落を邪悪な歓びを伴って鑑賞することでもない。ロリータの不幸を憐れむことでも、クィルティの血腥い死に様を嘲笑することでもない。重要なのは、ナボコフの綴った文章そのものの目紛しい構造と現象に眼を奪われることなのだ。私にペドフィリアの趣味はないが、少なくとも「ロリータ」を読んでいる間は、ハンバートの歓喜と苦悩を分かち合うことが出来るし、ロリータの絶望的な幸福を理解することも出来る。それらが渾然一体となって、ナボコフの刻みつけた単語の一つ一つに、琥珀のように閉じ込められているのだ。私たちは、その驚嘆すべき魔術をじっくりと咀嚼し、賞味するしかない。無論、それは得難い幸福である。

 詳細な訳注が付されているにも拘らず、それでも未だ私には、理解出来ていない箇所が無数にあり、是非とも再読しなければならないと思う。だが、それはもっと先の話になるだろう。何故なら、再読には読者としての成長が要求されるものだからだ。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)