サラダ坊主日記

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「正常さ」への切迫した欲望 三島由紀夫「仮面の告白」

 三島由紀夫の『仮面の告白』(新潮文庫)を読了したので、その感想文を認めておく。

 三島の出世作であり、その代表作の一つにも計えられる「仮面の告白」には、所謂「処女作」に関する使い古された通説が見事に反映されている。つまり、或る作家の処女作には、その後の文学的経歴を予見させる原型的な特質が、残らず象嵌されているものだという紋切り型の常識を、極めて露骨な形で体現しているのである。

 「仮面の告白」という表題の意味は、逆説的な論理を孕んでいる。通常、告白とは秘められた内在的な真実を詳細に剔抉してみせることである。だが、演じることが、つまり外在的な正常性の基準に基づいて振舞うことが血肉と化した人間の告白においては、どこからどこまでが内在的な真実であるのか、その境界線が溶暗してしまっている。仮面と素顔の境目が捉え難くなってしまった人間の告白は、果たして告白と呼び得るものなのだろうか?

 語り手の「私」が、切迫した「演技」への欲望に駆り立てられる背景には、二つの秘められた個人的な衝迫が関与している。簡潔に要約すれば、それは「同性愛」と「サディズム」である。時代の進展に伴い、セクシュアリティの多様性が徐々に承認されるようになってきたとはいえ、未だに同性愛に対する偏見は根深く、男女間の異性愛に依拠した「家族」の原理は、今も社会的秩序の基礎的な単位として強力に作動し続けている。サディズムに関しても、稀釈されたイメージが面白おかしく流布されているだけで、その深刻な側面が社会的な承認を得られる見込みは極めて乏しい。

 「仮面の告白」において、語り手である「私」が特に重視しているのは、同性愛の問題である。彼は自らの内なる男色の欲望を肯定し、開示することが出来ず、飽く迄も異性愛者としての自画像を演じることで、社会的な「正常さ」の規範に合致することを夢見ている。彼は社会的な承認を得られる見込みの乏しい自己の欲望を抑圧し、飽く迄も社会的に「正常な」欲望の所有者として振舞うことを望み続ける。この「正常さ」に対する異様な執着(或いは、常識的な執着)が、彼に「仮面」への欲望を強いるのである。

 但し、社会的に正常であると看做されることへの強固な執着、言い換えれば「優等生」の欲望は、単なる「仮面」への欲望を意味しない。彼が「仮面」を求めるのは、単に外在的な他者、つまり「社会」の側を欺くことだけが狙いではない。それは同時に「自分自身」を欺くこと、絶えざる「自己欺瞞」へ己を導くことを目論んでいるのだ。己の心さえも欺いてしまうほどに根深く受け容れられた「仮面」の齎す滑稽な悲劇が、この作品の主要な旋律である。

 「仮面」と「素顔」との境界線が明瞭に把握され、堅持されている限り、何らかの「仮面」を通じて社会と対峙することは少しも不健全な所業ではない。だが、両者の境界線が溶け合ってしまったとき、問題は一挙に不明瞭な難解さを孕むことになる。「仮面」と「素顔」との融合は、個人の抱懐する欲望の形態に異常な変質を惹起する。それは、欲望が常に外在的な基準によって計測されるようになるということだ。言い換えれば、語り手である「私」が欲するのは、自分の内なる欲望が適切な充足を得ることではなく、飽く迄も社会的な「正常さ」に己の実存を合致させることなのである。

 「仮面の告白」は、同性愛やサディズムといった、必ずしも社会的な承認を得られるとは限らない種類の欲望を懐いたときに、それを正面から見据えて、その充足の為の格闘を成し遂げようとする、清冽で果敢な自己解放の物語ではない。この作品において挫折を強いられるのは、同性愛やサディズムといった「秘められた欲望」そのものではない。彼が最も痛切な苦悶を通じて見出すのは「正常さ」に対する欲望の挫折である。園子との交情を通じて、異性愛者としての自己を再発見しようとする切迫した試みは、異性に対する性的不能という身も蓋もない現実によって、見事に打ち砕かれる。物語の終幕、彼は見知らぬ男の逞しい肉体に反射的な情欲を覚える。それは同性愛者としての自己の肯定や解放を意味する挿話ではない。彼の求める「正常さ」への合致が、不可能な夢想に過ぎないことを報せる残忍な悲劇の一幕なのだ。

 だが、本当の格闘は、園子との完全な訣別の後に始まる筈である。正常さに対する不可能な欲望が、自己に備わった本然の欲望よりも重要な意味を持つと考えるのは、健全な論理ではない。それは殆ど「自意識」の問題に過ぎないように感じられる。男性の肉体を欲する自己を発見したとき、そうした自分を肯定する為に戦うのか、それとも完璧な偽装を図って戦うのか、その判断の分水嶺は重要な意義を帯びている。「正常さ」に対する欲望の挫折に伴って、自殺への憧憬を懐くという心理的傾向は、様々な社会的条件によって強要されたものであろうが、余りに極論であるように見える。彼の懐く「正常さ」に対する欲望は、「正常さ」の内訳に関する訂正を求めないという点で、まさしく「他人の欲望」である。自分の欲望を自分で所有することが出来ないという状態は、地獄に等しい境涯であろう。欲望の充足を他人に妨礙されるのではなく、欲望の対象そのものを他人に支配されるという地獄。

 やがて接吻の固定観念が、一つの唇に定着した。それはただ、そのほうが空想を由緒ありげにみせるというだけの動機からではなかったろうか。欲望でも何でもないのに、私がしゃにむにそれを欲望と信じようとしたことは前にも述べたとおりだ。私はつまり、それをどうでも欲望と信じたいという不条理な欲望を、本来の欲望ととりちがえていたのである。私は私でありたくないという烈しい不可能な欲望を、世の人のあの性慾、彼が彼自身であるところからわきおこるあの欲望と、とりちがえていたのである。(『仮面の告白新潮文庫 p.111)

 彼にとって何かを欲することは、自らの内部から湧き上がる自然な衝迫、抗い難い衝迫に身を委ねることではない。彼にとって欲望は、殆ど克己的な「意志」の働きと同義語なのである。社会的な正常さに対する「不条理な欲望」は、本然の欲望を人工的に改竄し、ストイックな「制御」を常態化させる。言い換えれば、彼は徹底的な「演技」を持続することで、そうした「不条理な欲望」の充足を図るのだ。だが、それは強靭な意志の力によって成し遂げられた、不可解な自己欺瞞の集大成に他ならないのである。

 例の「演技」が私の組織の一部と化してしまった。それはもはや演技ではなかった。自分を正常な人間だと装うことの意識が、私の中にある本来の正常さをも侵蝕して、それが装われた正常さに他ならないと、一々言いきかさねばすまぬようになった。裏からいえば、私はおよそ贋物をしか信じない人間になりつつあった。そうすれば、園子への心の接近を、頭から贋物だと考えたがるこの感情は、実はそれを真実の愛だと考えたいという欲求が、仮面をかぶって現われたものかもしれなかった。これでは私は自分を否定することさえ出来ない人間になりかかっているのかもしれなかった。(『仮面の告白新潮文庫 p.141)

 絶えず「正常さ」に対する合致の欲望を持つ人間は、自己の内的な基準を信じることが出来ない。言い換えれば、自己の内的な基準の価値を否定するゆえに、彼らは常に外在的な「正しさ」の尺度を、個人的な行動の規範として欲しがるのである。その状態が持続するうちに、内在性と外在性との間に見出されるべき境界線は消滅し、自我の固有性は混濁の彼方に失われる。そうした自意識の惨劇を剔抉する三島由紀夫の筆鋒の明晰さは、悪魔のように犀利で、とても底意地が悪い。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)