サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(日常性・演技・滅亡・美学的理念)

*引き続き、三島由紀夫の「愛の渇き」(新潮文庫)を少しずつ読み進めている。

 以前に書いた記事の中で、三島由紀夫の作品に表現された精神的形態を「演劇的メンタリティ」という言葉で括ってみた。私にとっても未だ、漠然とした概念に過ぎないのだが、良くも悪くも三島由紀夫という作家には、人間の社会的生活を果てしない「演技の連鎖」として眺めている部分があるように思う。それは彼自身が「正常であること」への欲望に駆り立てられ、否が応でも「演技」に尽力せずにはいられない精神的背景を有していることの反映であろう。人間の微細な心理的動向に関する比類無い省察と警句の鋭さにも、絶えず「演じること」に携わっている者の慣習の余波が滲んでいるのではないか。

 恐らく「演技」に対する異常な執着と衝迫は、人間の内面に、果てしなく持続される平坦な「日常性」への嫌悪を培養する。「劇的な」という形容詞が概ね「日常性」の対義語としての役割を担っていることに注意を払って欲しい。「劇的であること」は無際限な日常性の反復とは相容れない、実存の様式である。言い換えれば、劇的であることは常に「終幕」の到来を要請するのである。如何なる芝居も、それが芝居である限り、必ず終幕の刻限を迎えることが運命付けられている。演じることは、その本質において「仮初の振舞い」であり、従ってそれは常に「暫時の擬態」であることを命じられているのだ。若しも演技が、その人間の生を出発から終幕まで絶えず覆い続けるのならば、それは最早「演技」とは呼ばれない。

 日常という観念は、演技という特権的な行為の対極に位置している。言い換えれば、日常という観念は常に「自然」や「内発性」という諸観念との間に密接な紐帯を締結しているのだ。そうした内発性に叛いて、或るフィクショナルな実存を意図的に作り上げる為の一連の作業の総称が「演技」なのである。従って、それは常に「仮構」であり「虚飾」であり「不自然な努力」である。演技は常に人為的な所作であり、演じることは本質的に、自らの内なる欲望や衝迫に対する否認を包含している。

 演じることは、特権的な時間を生み出すことに等しい。それは人為的な加工から隔たった、内発的で自然な欲望に対する意識的な制御の産物である。「ありのままの自分」を否定するところから、人間の演技は開始される。三島由紀夫の作品に色濃く氾濫している「日常生活への蔑視」は、人為的な演技に対する法外な執着を終生懐き続けた男の、抜き難い精神的特質なのである。

 そうした人間にとって、戦争という壮大な破局の観念、それが暗黙裡に予定している「滅亡の宿命」が、輝かしい救済としての側面を担っているのは、論理的必然であると私は考える。「仮面の告白」においても「金閣寺」においても、三島が作り出した虚構の語り手は「戦争による滅亡」という生々しい夢想に精神的な高揚を覚えている。日常性の価値を何よりも重視する作家(例えば、村上春樹)にとっては、「戦争」という破局は外部から侵入する野蛮で邪悪な災禍に他ならない。総てを灰燼に帰さしめる「戦争」の救い難い暴力性は、日常性を重んじる立場から眺めれば、絶対的な「悪」でしかない。そこでの倫理的な課題は、そのような暴力の発生と侵入を予防するという一点に尽きるだろう。だが、金閣寺と共に空襲で焼き亡ぼされる己の姿を妄想して陶酔を覚える「私」の精神性は、明らかに村上春樹的なメンタリティから遠く隔たった地点に屹立していると言える。

 三島の作品に濃密に蔓延しているサディズム的な性愛の問題は差し当たり除外しておこう。重要なのは、戦争による滅亡という終末論的な夢想に対する、三島の熱狂的な愛着に眼を向けることである。「世界に終わりはある」と「世界に終わりはない」という二つの命題の間には、外見以上に重要で決定的な亀裂が横たわっている。三島は敗戦後に復活した「仏教的な時間」(「金閣寺」)に対する嫌悪の言葉を、自ら作り出した厭世的な僧侶の口に語らせているが、この「仏教的な時間」が果てしない輪廻を繰り返す「無限の持続」を象徴していることは明白である。三島にとって「仏教的な時間」は、恐らく終末論的な時制に背反する枠組みとして受け止められていた。決定的な破局という観念に対する三島の執着は殆ど、敬虔な宗教的信仰の如き外観を備えている。

 尤も、そうした終末論的理念としての「戦争」に対する執着は、敗戦という歴史的な事実によって、その虚妄を無惨に曝露されてしまった。後年の三島の過激な保守化は、言い換えれば「戦後社会」に対する批判的な嫌悪は、単なる政治思想の問題ではない。もっと根源的な次元で、彼は「滅亡」という観念の否定として存在する戦後社会の「平和な日常」を憎んでいた筈である。戦後の日本社会における例外的な「平和」は、無限に持続する「日常」の頽廃そのものであったのだ。

 だが、こうした考え方は、戦争そのものの倫理的な是非や、歴史的な推移や、政治的な解明とは全く無縁の水準に樹立されている。言い換えれば、三島にとって「戦争」は一つの崇高な「美学的理念」に過ぎなかったのである。それは大岡昇平が「野火」において抉り出そうとした「戦争」の血腥い実質とは全く無関係な「観念」に他ならない。大岡にとって「戦争」は明白に「政治的現象」であった。出征を免かれた三島の脳裡に保存された「戦争」の美学的表象との根本的な乖離は、単なる世代的な格差に還元されるものではない。それは両者の「精神的原理」の組成に起因する差異なのである。

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

 
野火 (新潮文庫)

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