サラダ坊主日記

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「破滅」に対する抵当権 三島由紀夫「青の時代」

 三島由紀夫の「青の時代」(新潮文庫)を読了したので、断片的な感想をばら撒いておく。

 1948年に巷間を騒がせた所謂「光クラブ事件」(東大生による闇金融の起業と、その摘発)を題材に据えて紡がれた、この愉快な小説は(「愉快」という言葉の定義を捻じ曲げるような言い方だが、私は確かにこの作品から「小説的な愉快さ」を感じ取ったのである)、物々しい警句や箴言の類を細胞のように鏤められているとはいえ、決して過剰に辛気臭い悲劇的な身形を誂えている訳ではない。此処には「仮面の告白」において露わに示されているような自意識の独白がない。いや、厳密に言えば、それに類する観念的な措辞は作家の宿命の如く随所に織り込まれているのだが、現実に発生した事件に取材している所為か、総てが語り手の自意識の内部に閉じ込められた世界のように感じられる「仮面の告白」よりも、散文的な活力において優れているように思われたのだ。川崎誠が高利貸としてとんとん拍子に伸し上がっていく様子を描く作家の筆鋒には、早くも一定の文学的「成熟」が認められる。最後の一行に幼少期の記憶との儚い「符合」の描写を紛れ込ませて、あっさりと擱筆する技巧など、如何にも見え透いているが、不覚にも私は感銘を受けてしまった。

 良くも悪くも、作品は作者の内的な論理を映し出す鏡の役割を担うことが多い。尚且つ三島由紀夫という作家において、その傾向は殊更に露骨であるような印象を受ける。所謂「私小説」とは異質な作風であっても、作家が自己の問題を作品の内部に力強く投入していることは明らかであり、この「青の時代」という作品に関しても、彼が「光クラブ事件」の顛末に触発され、その具体的な事実を枠組みとして採用しながらも、飽く迄も現実の事件に対する関心より、己の内在的な問題を追究する手立てとして、現実の事件を利用することに重点を置いていると思われるのは、単なる私の偏見の所産という訳ではないだろう。

 主人公に抜擢された川崎誠という人物の一風変わった哲学、或いは処世訓のようなものの変遷を辿ることが、この「青の時代」という作品を味わい愉しむ上での一般的な「正道」であると言える。それに関連して、例えば次のような一節は、作者の重んじる主題の在処を間接的に示していると看做し得るのではないかと思う。

 誠はあらゆるものの上に、或る単調なしぶとい具体性、昨日は今日に似、今日は明日に似ているところの具体性、誠が今まで一度として持つことを肯んじなかった具体性の匂いをかぐのであった。街はこの具体性に充満し、ふてぶてしく輝やき、それ以外のあらゆるものに抽象の極印を押しつけてふんぞり返っているように思われた。(P195)

 こうした「日常性」への抜き難い軽蔑は、三島由紀夫という作家においては、殆ど宿命的な構図であったと考えて差し支えない。これは「金閣寺」において「仏教的な時間」が批判の対象に据えられたことの先駆的な表現であるが、それは「青の時代」が「金閣寺」の先駆的な形態であったという仮説を導き出す素地として機能し得るものである。現実の事件に取材しながら、それを自己の内在的な論理の「象徴」として巧みに換骨奪胎するのが、三島の作家的な才能の本領であったと言える。彼は現実に強いられて作品を書くのではなく、飽く迄も作品を書く為に雑駁な現実を挽肉に変えてしまうような、強烈な抽象性の持ち主だったのである。

 しかし軽蔑したいという欲望は、精神の肉慾のようなものなんです。精神は肉体を生むことができないから、獲得の欲望の代りに殺戮の欲望をもつようになるんです。(P200)

 「日常性」との和解の不可能性、これが三島の根源的な欲望の前提的な条件であることは、例えば「仮面の告白」を読めば直ちに了解される事実であろう。「日常性」に対する敵意は、彼自身の存在が「日常性」の側から明確に峻拒されているという現実への苦痛から派生し、培養された感情である。軽蔑という感情は、そのような「日常性」に対する復讐の感情との間に、密接な共謀の関係性を締結している。それは明暗の両面を備えた精神的形態であり、詐欺紛いの高利貸に手を染め、金詰りを起こしたら服毒自殺すればいいと考える誠の冷淡な合理性は、一見すると「日常性」に対する傲岸な蔑視の賜物のように感じられるが、裏返して言えば、それは誠が「日常性」の有する「単調なしぶとい具体性」に極めて根深い恐懼を懐き続けていたことの反動的な証明であると看做し得るのである。

 易は一体共産党を出たのかしら、それとも同じ党の中の女の子とよろしくやっているというわけかな、と誠は考えた。どこにどうしていようと彼は同じなのだ、易は易であって、そして嫉ましいことに、易は易であるままに他の万人でもありうるのだ。誠はさらにこう考えた。とすれば、彼の存在と、彼の同質の存在との境目には、僕のような障壁はないにちがいない、支配したり、理解されまいと拒んだり、征服したり、非人間的な努力をしたりしなくても、彼の存在は、一種の薄い膜質のようなものの助けを借りて、地上のあらゆる存在と黙契を結び、やがては灝気にまで同化するにちがいない。確かに人間の存在の意味には、存在の意識によって存在を亡ぼし、存在の無意識あるいは無意味によって存在の使命を果す一種の摂理が働らいているにちがいない。(P220-P221)

 誠の高潔な「軽蔑」の感情には、演劇的な「英雄主義」の歌声が反響している。「理解されること」への潔癖な反発も「他人を支配すること」への過度な執着も、煎じ詰めれば、日常性に対する絶望と、それが齎した明晰で合理的な「英雄主義」の産物なのである。他人に理解されることを忌み嫌うという心情は、異常な自負心の作用を考慮に入れなければ理解し難い。本来ならば、彼は理解されることを望んでいるだろう。しかし、他人からの理解を喜んで受け容れてしまえば、彼が長い年月を費やして構築してきた独自のヒロイズムは根底から瓦解してしまう。

 日常性に同意しないということは、社会的な共同性に同意しないことと論理的に等価である。三島由紀夫的なメンタリティは、日常性を「唾棄すべきもの」として定義するヒロイズムを信奉することによって、己の精神的な安定を確保する。尤も、三島がそうしたヒロイズムを単純に肯定している訳ではないことに、読者は適切な注意を払うべきであろう。彼が川崎誠の虚無的な敗北を描き出すことに文学的な労力を費やしたという事実を徴する限り、その中心的な主題が「ヒロイズムの克服」という方向性を含んでいることは確かである。ただ「青の時代」の段階では、作者は飽く迄も「亜砒酸」による自殺という「退路」を確保し続ける男の虚無的なヒロイズムを、如何にして脱却すればいいのか、その方途を発見出来ずにいるように見える。言い換えれば、予定された「滅亡」を担保に借金を拵えて生き延びていくような、終末論的な「金融」の詐術の魅惑に、作者は相変わらず囚われたままのように感じられるのである。「涅槃」に対する欲望を、所謂「人生」を営む為の電源として活用する堅牢な論理は、それほど入念に鍛造されているという訳だ。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)