サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(新しい言葉・愚昧な凡夫)

*もう直ぐ二歳になる娘が猛烈な勢いで、どんどん新しい言葉を覚えていく。むしゃむしゃと白米を咀嚼するように、鼓膜に触れた単語や言い回しを次々に消化吸収している。そうやって刻々と彼女の瞳に映じる世界の風景は、新鮮な側面を万華鏡のように切り替えながら移ろっているのだろう。彼女は、小さな頭の中で、一体どんな世界を眺めているのだろうかと思う。言葉を学ぶことは無論、人間的成長の重要な階梯である。それは世界の仕組みを理解することに真直ぐに繋がっている。

 娘の姿を眺めていると、この子はどんな大人になるのだろうと直ぐに考えて、想像を膨らませてしまう。何だか強情で、明るくて、我が道を突き進む人間に育ちそうな予感に囚われている。何か確証がある訳ではないが、いかんせん私の娘である。自分が正しいと信じ込んだ途に飛び込んで、ボロボロになるのが習い性の父親である。娘にそんな苦労はしてもらいたくないが、苦労のない人生に意味があるだろうか、生傷を避けて安全な道程ばかりを選択する人生に、本質的な充足があるだろうかとも考えてしまう。無論、どういう生き方を選ぶかは本人の自由であり、権利であり、倫理的な義務である。親であっても、子供の生き方に彼是と容喙するのは望ましい振舞いではない。

 私は臆病な人間であるが、それなのに今日まで辿ってきた人生の経路には随所に、馬鹿げた蛮勇の痕跡が深々と刻み込まれている。そのときは、それが正しいと思い込んで選んだ途も、後から冷静な意識で振り返ってみると、結果的には誤解と過失の坩堝であったという事例も一再ではない。だが、不思議と自分の過去の選択を後悔したり、抹消したいと思ったりすることは皆無に等しい。それは度し難いほどに愚昧な凡夫であることの、明瞭な証拠品なのだろうか。如何なる愚行に走っても、私はどこかで、それを必要な経路であったと開き直って肯定しているのだ。模造品の勲章を見せびらかすように、私は自分の蹉跌を計え上げ、かつて経験した修羅場の記憶を自虐的に再現してみせようと努める。そういう不毛な狂気が、私の脳味噌には染み込んでいる。我ながら、異常な人間だと思う。だが、それすら、一抹の含羞さえ帯びずに漂流する感想なのである。