サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(情念という怪物)

*感情というものは、非常に厄介な代物で、一種の寄生虫のような性質を持っている。宿主の意思とは裏腹に、それ自体の独特の原理に従って勝手に動き回り、理性の命令に容易く反抗し、直ぐに逃げ道を探し当てようと悪足掻きを繰り返す。

 感情という生き物は無論、生き物である以上、様々な経験から多くの摂理を学び取り、環境に適応し、抽象的な概念に従って形態を千変万化させるものだ。感情に従うことを無条件に罪悪として断定したとしても、感情に衝き動かされる人間の実存の本質まで、手っ取り早く抑え込むことは出来ない。感情を成長させ、それを高度に練り上げていくことが、最も大切な精神的修養であることは論を俟たない。だが、それにしても、感情という怪物は、何時だって得体が知れない。

 或いは「情念」と呼び換えてもいい。情念が理性という解毒剤に絞め殺されることも、この世の中では有り触れた事態だ。同様に情念が理性を腐蝕させ、その堅牢な記号的秩序を倒壊させることも、頻繁に起こり得る現象である。何れがより望ましいかと、天秤を持ち出して比較検討しても、余り意味はない。どっちもどっち、その善悪は事例に応じて異なるし、それを解釈する側の価値観も実に多様で、乱雑なほどである。

 情念という怪物に猿轡を咬ませて、理性的な判断に基づいて、健全な倫理的愛情を駆使する。それだけを選び続けられたら、どんなにいいだろうか、どんなに清々しいだろうかと思う。誰もが認める筋金入りの正論だけに従う情念の所有者でいられたなら、何も過ちを犯す心配はないし、他人から糾弾される虞も原理的に生じない。誰かを致命的な仕方で傷つけ、虐げる事態にもならない。罪悪の感情に精神を蹂躙されることもない。正しい感情、という謎めいた倫理的観念の奴隷となって、生きていけるのであれば、この世は素晴らしく健全で、あらゆる懊悩が揮発してしまうだろう。

 けれど、情念という怪物が一から十まで理性の言いなりになってしまったとき、つまり普遍的な価値という社会的な怪物に、自分の内なる情念が隅々まで飼い馴らされてしまったとき、私という人間の固有性は一体、何処に消えてしまうのだろう? 私という人間の実存的な根拠を、何処に求めればいいのだろう? 私が私であることの理由は、一般論としての正しさの前で踏み躙られて、紙屑のように荒んで破れてしまうのだろうか?

 私には正しい答えが分からない。ただ、自分の鼓動を掌で確かめてみることしか出来ないのだ。