サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(所有の心理的側面)

*何かを所有するということ、それは随分と有り触れた、在り来たりの事態のように感じられるけれども、その仕組みは、考えてみれば随分と曖昧模糊としている。私が何かを所有するとき、その権利はどのような仕組みや約束事の上に成り立っているのだろうか。そもそも、何かを所有するとは、どのような事態を指しているのか。

 所有という観念が、何らかの絶対的な、或いは具体的で物質的な輪郭を備えていると考えることは出来ない。無論、人間の懐く観念には必ず何らかの感情が付き纏うものであるから、所有という観念を生々しい感情の形態として感受することは充分に可能であり、容易でもある。人間の感情は、様々な思考や認識によって、様々な形状に加工されるものであるからだ。だが、そのような感情の生々しさが、直ちに「所有」という観念の絶対的な輪郭を保証するという訳ではない。

 所有は、明らかに一つの社会的な関係であり、その意味が明晰に理解されるのは、社会的な関係性の内部に自らの存在を配置する場合に限られている。世界にたった一人の人間しか存在しないのであれば、所有という観念は発明される必要性を得られないだろう。他者が存在し、世界の或る部分を他者と相互に分かち合う作業が求められるときに初めて、所有という社会的な観念が、その存在を露わにするのである。言い換えれば、所有とは便宜的な観念であり、契約であり、社会的な合意であり、他者との関係性の形式であるということだ。

 私たちは何らかの形で、何らかの対象を日常的に所有している。様々な事物に関して、その帰属する宛先が明確に規定されている。それは私たちの社会が余りに多くの人間たちの集合体として形成されていることの結果である。私たちは絶えず他者の存在を生々しく感受しており、総てを我が物とすることの出来ない、制約された状況の内部で暮らしている。だからこそ、所有という観念の重要性が益々増大するのである。所有という観念を、社会的な秩序の中で明瞭に制度化しておかなければ、私たちの生活は深刻な係争と破綻の危機に瀕することになる。

 所有という観念は、支配という言葉にも置き換えられ得る。何かを所有するとき、私たちは原則として、その対象の生殺与奪の権限を掌握している。言い換えれば、何かを所有するということは、自己の範囲を拡張することに等しい。何かを支配するとき、その対象は「他者」としての固有性を剥奪され、その独特な主体性を喪失する。所有物は常に、それを所有する者の一部として取り扱われ、固有の領域を根こそぎ接収されてしまうのである。

 言い換えれば、所有という観念は自己という観念から派生した、社会的な契約の束ということになる。従って、所有という観念を理解する為には先ず、自己という観念の輪郭や性質を把握しなければならない。所有が「自己の拡張」という心理的な性質を備えているのであれば、そもそも「自己」という観念自体が「所有」という認識の所産なのかも知れない。「私が私である」という認識の構造自体が、既に「所有」という性質を含んでいるのだ。

 「私が私である」という認識の構造、つまり認識している主体と認識されている客体との一体性の把握、この心理的な秩序が如何なる経緯を踏まえて成立したのかは分からない。だが、そもそも何処までが「私」として認められる領域なのか、ということは、厳密に分析し始めると意外に難問であることが分かる。当たり前のように動かしている右手の指先、今まさにキーボードを叩いている指先が「私」の一部である、つまり「私」の所有物であると考えるのは、極めて自然で生得的な現象のようだが、何故この指先が「私」の所有物であると自信満々に言えるのだろうか。

 所有の領域は、「私」という自意識の領域と重なり合っている。何かを所有するということは、その対象を「私」という自意識の領域に併合することと同義である。例えば恋愛において、特定の相手を自分の「恋人」として規定することは、その恋人の存在を「私」という自意識の領域に併合することに等しい。恋愛における強烈な情熱の発露は、互いの存在を自意識の領域に融合させる、奇怪な「相互的所有」の心理に基づいている。或いは、それは絶対的な「相互的所有」が可能であるという幻想の齎す麻薬的な愉悦なのかも知れない。