サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「永遠」と「所有」の生理学)

*「所有」という観念は常に、もう一つの重要で根源的な理念、即ち「永遠」という観念との間に密接な関係性を有している。永遠を願うとき、人は特定の状況、特定の事象、特定の関係が、最も望ましい瞬間の状態で未来永劫、固定的に維持されることを劇しく希求している。それが「所有」という欲望や制度の形成される最も根源的な濫觴である。

 人間が全く過去や未来といった時間的な観念を有さず、絶えず現在的な瞬間の領域に逼塞して活動しているのであれば、「所有」という観念が社会全体に幅を利かすことは有り得ないだろう。時間的な尺度を持たずに、瞬間の連続として外界を捉えている存在、つまり記憶と想像力の回路を持たぬ存在には、「所有」という観念が抱え込んでいる複雑な欲望の屈折は意味を成さない。或る理想的な状態が、時間的な枠組みの中で永久的に持続することを願うのは、時間という認識的な形式を獲得した者だけに授けられる特権的な欲望である。

 この消息は、異なる角度から眺めることも出来る。永遠に対する欲望は、時間という意識を獲得した人間に限って、その内面に醸成される。だが、永遠とは言い換えれば、時間という観念に対する絶対的な否定の祈りに他ならない。ただ、時間という観念の否定を試みることが可能であるのは、時間という観念を獲得した人間に限定される、ということは論を俟たない。

 時間性の否定としての「永遠」に対する憧憬が、所有することへの幻想的な執着を作り出し、所有を巡る社会的な諸制度を構築させる。現在の状態が束の間の儚い幻影ではなく、果てしなく続く堅固で不動の理想郷であるように祈念するのだ。そして、その理想郷に対する独占的な権益を確保する為に、人間は所有という奇怪な観念の束を発明し、振り翳している。

 だが、時間性を否定することが一体、誰に可能だろうか。少なくとも、時間性という堅牢で無慈悲な秩序を瓦解させる為に、現在という瞬間への特権的な従属を試みる以外に、時間性の齎す絶対的な浸蝕の作用から身を躱すことは誰にも出来ない。それは知性の抛棄に等しく、記憶と想像力の扼殺に等しい振舞いである。

 永遠を願うことが無益な幻想的欲望に過ぎないのだとすれば、必然的に「所有」に対する欲望も、不可能な幻想に向かって飛翔する不自然な衝迫だということになる。所有ということは、束の間の、暫定的な約束事に過ぎず、或る社会が局所的に成立させた特殊な規約の集合体に過ぎない。

 永遠を願うことが、報われることのない不可能な野望だとしても、人間はそれを容易に抛棄することが出来ない。それは無論、身も蓋もない苛烈な現実を直視することによって生じる強固な「傷」に怯えているからである。永遠に対する希求は、今この手の中にある大切な欲望の対象に過剰な執着を懐くことによって生成される。それを「我執」と呼んでもいいし、或いは「渇愛」と呼んでもいい。

 所有に対する欲望が、支配や依存といった生々しい衝動を励起することは、経験的な事実である。或いは、所有=支配=依存の三つの要素は総て本質的な部分において重なり合っていると言ってもいい。何れの場合も、特定の対象に重要で根源的な執着を示している点に就いては、相互に通底しているからである。それを「永遠化」したいと願うのは、時間性の介入に対する憎悪の反映である。

 言い換えれば、永遠という理念を否定することは、所有=支配=依存の入り組んだ構造の齎す諸々の弊害を減殺することに貢献し得る。或る事物や状況、関係性の永遠を信じ込むことは、主観的な幸福を齎すものの、客観的な裏付けを確保していない為に、その主観的な幸福は極めて容易に、且つ偶発的に崩壊し得る危険性を帯びている。

 だからこそ、永遠という甘美な幻想的観念に対する疑問符が必要となる。永遠という理念の不可能性を鋭く痛感し、明瞭に理解することは、時間性という宿命を受容することに繋がっている。それは私たちの巻き込まれている「現実」の精緻な構造を直視することと同義である。