サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(常住・煩悩・一期一会)

*永遠を願うことは、人間の切なる祈りである。それが不可能な願いであることは、長い人類の歴史上で、無数の残酷な実例が悉く立証しているにも拘らず、未だにその願いが死滅する徴候は発見されていない。誰もが不可能であることを予感しながら、切実な感情に刺し貫かれて、永遠を希求する。

 そうした迷妄を、例えば仏教は否定した。尤も、一口に仏教と言っても、その教義は様々であり、総ての宗派が永遠という観念を否定している訳ではないだろう。だが、永遠の実在を信じるという迷妄に対する否認は、仏教的な考え方の核心を占めているように思われる。変わらないものはない、永遠に存続するものはない、という「常住」の否定は、永遠性に対する断乎とした挑戦状である。

 言い換えれば、永遠を願う感情は「煩悩」そのものである。諸行無常の現世を、常住不変の存在と錯視することによって、私たちは底知れぬ苦悩と煩悶に陥る。こうした迷妄を脱却することが救済への道程であると仏教は説く。それは確かに合理的な考え方であり、発達した知性が、そのような身も蓋もない現実の曠野を受け容れずに遁走するのは、見苦しい敗残に過ぎないだろう。だが、こうした煩悩が、あらゆる生命体を衝き動かす根源的な活力であるという事実にも、注意を払う必要がある。

 永遠の否定、常住の否定という仏教的な救済の原理が正しいものかどうか、その判断は、無学な私の任ではない。重要なのは、この世界に跋扈する無数の価値観の、多様な在り方を公平に咀嚼し、受容することである。常住を否定し、あらゆる事象の一回性に瞠目することは、確かに私たちの心に崇高な安定を齎すだろう。だが、仏教的な価値観が地上を完全に覆ったとき、それは内面的な幸福の理想郷を形作る一方で、極めて保守的で無時間的な社会を、或いは非歴史的な社会を現前させることにならないだろうか。

 近代的な進歩主義の旗幟は、既に多くの疑問符で彩られてはいるが、その価値や意義が完全なる失墜を命じられた訳ではない。欲望を肯定し、自我を肯定し、永遠の進歩を企図する近代の理念が、様々な弊害と共に、無数の豊潤な果実を産み落としたことは、歴史的な事実として承認されるべきである。仏教的な価値観に依拠するならば、そのような進歩主義は愚昧な迷妄以外の何物でもない。だが、その愚昧な迷妄に、如何なる叡智も含まれていないと断じるのは、不公平な結論である。そこには多くの有能な賢者たちの知的な苦闘、果敢な挑戦の航跡が、美しい飛沫を留めているのである。

 近代的な価値観は、永遠という理念を積極的に愛好している。無限の進歩と成長が、近代の金科玉条であり、衰弱と滅亡を予定することは、近代的な価値観においては敗北と同義である。こうした永遠性への希求と執着の影響は、多方面に及んでいる。

 例えば恋愛の情熱は、常に「この愛情が永遠であること」を信仰している。そして、愛情が永遠ではないことを悟ったときに、関係は破局を迎える。この「永遠」に対する無邪気な信仰は、恋愛という欲望の形態の本質的な部分から派生している。あらゆる欲望は、その無際限な充足を夢見ている。恋愛においても、そこに参画する両者の欲望は「永遠に満たされ続けること」を希求している。

 だが、あらゆる恋愛は、感情という極めて無常なものに、その基礎を置いている。従って、恋愛の情熱が醒めることは日常的な現象である。言い換えれば、恋愛ほど「永遠」という理念に相応しくない営為は、他に考えられないのだ。人間の感情は「常住」とは無縁であり、寧ろ水のように絶えず移ろって姿形を変じるものである。その無常の感情に永遠を要求するのは、不可能な幻想である。だが、恋する者が永遠を願わずにいられるだろうか。たとえそれが不可能であると経験的に弁えていたとしても、その渦中にあるとき、人は永遠を願わずにいられない。これこそ、典型的な煩悩の形態である。

 永遠を信じないこと、常住を信じないこと、これは知性的な成熟を果たす上で、避けて通ることの許されない認識的な苦痛である。永遠を信じることなく、人を愛することは出来るだろうか。寧ろ永遠を信じないからこそ、より深く切実に人を愛することが可能になるのではないか。言い換えれば「一期一会」の思想を抱懐することこそ、人を真に愛するための要諦であり、倫理的な条件なのではないか。永遠を望んだ瞬間から、私たちは愛する人を「所有すること」に血道を上げるようになる。それが嫉妬や憎悪や虐待の温床を形成する。永遠を信じる者は却って、愛情の純粋な性質を、その崇高な本質を毀損しているのだ。永遠を信じない者だけが、倫理的な愛情を培うことが出来る。愛別離苦こそ、誠実な愛情の核心なのである。