サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(内在性・外在性・parallax)

*物事は、外側から眺める場合と内側から見凝める場合とでは、全く見え方が異なるものである。それを単純に「客観=主観」という言葉で表現することが適切かどうかは知らない。ただ、一般的には物事を客観的な目線で捉えることの重要性が強調されがちである。その背景には、人間は放っておけば自ずと主観に傾いていく生物であるという予断が介在しているのだろう。

 無論、どんな認識も、それが認識である限りは、主観的であることを免かれない。従って「客観=主観」という区分は便宜的で相対的な基準に過ぎないのだとも言える。だが、その便宜的な相対性の分厚さが、そこに何らかの有意な弁別を、つまり意味のある境界線を齎すのだろう。

 外から眺める、ということは、内側にいる人間にとっては簡単なことではない。私は小売りの現場で働いているので、そういう問題には頻繁に、日常的に向き合っている。店舗は、従業員の側から眺めるのと、顧客の立場から眺めるのとでは、風景が全く異なっているものだ。それは言い換えれば、内在的な論理と外在的な論理との相違、ということになる。

 けれど、外在的な論理こそ正しいという「客観性信仰」みたいなものを素朴に信頼する気にはなれない。外部の視点に対する緊張を失って、自閉的な堕落に耽溺するのも馬鹿げているが、その反動のように「客観的な正しさ」を追い求めるのも、結局は同じ症状の異なる側面なのではないかと感じる。外部を斬り捨てて内部に逼塞するのも、外部だけに囚われて内在的な基軸を棄却するのも、片手落ちという点では同断である。

 だが、中庸であるならばいいのかと問われると、私は答えに詰まってしまう。結局、それが「内在的であるか、外在的であるか」という区分自体は、然したる意義を有さないのではないかという気がする。そうした区分は結局、常に堅牢な自意識の実在を前提しているからだ。

 重要なのは、内部と外部との間を、或いは複数の異質な論理の間を、自在に往来する強靭な知性を持つことなのだと、結論してみたくなる。柄谷行人の「トランスクリティーク」ではないが、異なる論理的領域の「視差」(parallax)を捉えることこそ、内在性=外在性の便宜的な区分を踏み破る、唯一の有効な手段なのではないか。そして、そうした知的アクロバットが、ポジティブに明示し得ない、或るネガティブな中点であるという柄谷的論理を、今更のように思い出す。無論、そうした移動性への固執が結果として、政治的なニヒリズムを惹起する危険を、単純に肯定しようとは思わない。日和見主義のディレッタントであることは、安全圏への自閉に他ならず、それが幾ら本人にとって心地良い実存的情況であったとしても、他人から眺めれば退屈な保守性でしかない。他人の心を動かすためには、安全なディレッタンティズムでは不足である。政治的な無力さを、安逸な日常性への埋没という快楽ゆえに肯定するのは、甚だしく野心を欠いた態度ではないか。

 野心家であるならばいい、大志を抱いた方がいいと、無責任なヒロイズムを称揚する意思はない。重要なのは、移動を持続することであって、物事を鑑賞するだけのディレッタンティズムには、そうした移動を持続する精神力が欠けている。動き続けること、考え続けること、迷い続けること、そして決断を重ねること、これらの要素が人間の根源的な成長を形作る基盤である。そのとき、内部=外部の対立という、如何にもスタティックで通俗的な構図は音もなく瓦解するだろう。内部=外部は常に反転し続けているという認識に立たない限り、世界は決して、その素顔を露わにはしないものだ。

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

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