サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「日常」に就いて

 終わりのない日常生活は、退屈と虚無の代名詞である。だが、同時に日常生活は、反復される静謐な幸福の完成された形態でもある。

 日常を、例えばヒロイズムと対置して二元論的に相克させる論理が、必ずしも正鵠を射ていないことは端的な事実である。無限に平凡で保守的な日常の中に如何なる危機も勃発しない訳ではないし、ドラマティックな戦場の生活に、退屈で幸福なルーティンが全く含まれないということもない。

 だが、それが必ずしも現実の猥雑な諸相を捉えていないとしても、そのような二元論的構図を、一つの装置として用いることは別に不適切ではないし、事実を悪質な形で捻じ曲げるものでもない。裸眼で見凝める世界だけが、正しい理解であるとは言えないように、現実の或る断面を捉えるに当たって、様々な仮説や枠組みを採用することは、欺瞞ではなく、寧ろ誠実で合理的な努力である。

 日常、という言葉の意味を純化して考えることは、世界の構造を探究する上で、有効な手続きである。私たちは手垢に塗れた言葉として「日常」という単語を頻繁に用いる。退屈な日常、平穏な日常、日々繰り返される正常な状態。反復される日課、生活の枠組み、現実の安定した秩序、それが日常である。言い換えれば、それは無限に繰り返される秩序、制度、仕組みである。

 日常は偶発的な事件を排除する。偶発的な事件は常に、平穏な日常性のシステムを破綻させるものとして認知される。言い換えれば、日常は常に揺るぎない必然性の体系として形作られているのだ。

 一旦、完成された日常は、それが無事に維持されればされるほど、堅牢な秩序として、絶対的な規範のように個人の意識に圧し掛かる。そのとき、平穏な日常性は、一つの巨大な制度的抑圧と化す。だが、本当は「日常」ほど脆弱なものはない。万物流転が地上の摂理である限り、日常性の維持は、極めて人間的で地道な努力の、束の間の結晶であるという運命から逃れられない。

 こうした「日常」の二面性は、私たち人間の精神的構造の両義的な性格と不可分である。「隣の芝生は青く見える」という俚諺は、こうした人心の消息を端的に言い当てている。日常の堅牢さを過信したとき、私たちは無責任に「刺激」を望み、場合によっては壮麗な破綻を熱望する。だが、苛酷な状況下に置かれたとき、私たちは平穏無事の日常に劇しく憧れる。振り子のように、私たちの心は定まらず、絶対的な正解に安住することが出来ない。こうした関係性は、例えば「恋愛」と「結婚」の異質さに類似している。劇的な恋愛に疲れ果てたとき、人は平穏な日常としての結婚を求めるが、結婚の退屈な性質に倦んだとき、今度は退屈を吹き飛ばすような刺激的な恋愛に焦がれるのである。

 日常だけを信奉すれば、私たちは過度の保守性に呑み込まれて、あらゆる冒険と挑戦を嘲笑するようになるだろう。だが、如何なる冒険も挑戦も、最終的には「帰還」を目的としない限り、単なる自堕落な無謀に終始してしまう。ヘーゲルの「止揚」の如く、両者を綜合的に束ねられればいいが、人間は必ず偏倚する生き物であるから、そのような理想像は余り人生の役には立たないだろう。無論、日常的な秩序の構築は、偉大な人間的努力の賜物である。だが、それは人間的な成功への安住を肯定する絶対的な根拠では有り得ない。如何なる建造物も、風雪に晒されるうちに劣化する。そのとき、大鉈を揮うことを吝嗇に拒み続ければ、秩序は有害な無秩序へと、自ずと頽落するのである。