サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「恋愛」に就いて

 恋愛とは、簡単に要約すれば「特定の対象への執着」である。或いは「究極の依怙贔屓」と呼び換えてもいい。

 日本語には「愛憎相半ばする」という表現があるが、実際、特定の対象への執着としての「恋愛」は、相手に対する肯定的な感情だけで純粋に構成されている訳ではない。恋愛における感情は、猫の目玉のようにくるくるとベクトルを反転させるのが通例であり、愛しさと憎しみとの間には、密接な相関性が横たわっている。それは恋愛という感情が、盲目的で幻想的な執着であることの、必然的な結論である。

 恋愛は、所謂「博愛主義」とは決して相容れない。一般的な社会では、誰にでも優しく寛容に接する人間は、そこに性的なニュアンスが含まれない限り、絶大な信頼の対象として評価される。相手の性別、思想、門地などに拘らず、対等な人間として常に相手を尊重することを忘れないという習慣は、社会的な動物としての人間にとっては、考えられる限り最上の美徳である。だが、そうした博愛主義をそのまま恋愛の領域に持ち込んでも、それは恋愛の情熱が発する要求を決して充たさないだろう。何故なら、恋愛における最大の美徳は「博愛」ではなく「依怙贔屓」であり、特権的な対応であるからだ。

 他の人が知らない相手の側面を自分だけが理解しているという信仰は、恋愛においては無上の愉悦であり、強烈な陶酔の源泉である。自分だけが愛されているという感覚、自分だけが真実の愛を捧げているという妄想(それが過言ならば「願望」)は、恋愛の情熱を高揚させる麻薬的な条件なのだ。その執着が、極めて簡単に負性へ転換し得ることは言うまでもない。何故なら、恋愛は対象に幻想の鎧を纏わせることで初めて成立する情緒的な現象であるからだ。相手の総てを理解したいと望みながら、しかも理解し難い無数の謎めいた側面が現れるときに、恋愛の幻想は最高の強度へ到達する。その幻想が瓦解するのは、身も蓋もない相手の真実に触れたときである。

 往々にして真実とは、極めて無味乾燥で魅力を欠いたものである。幻想の調味料によって飾り立てられていないとき、人間は退屈なエゴイストにしか見えない。そういう無味乾燥な真実を理解してしまえば、恋愛という幻想的な遊戯は終幕の刻限を迎えるしかなくなる。無論、そこから本当の意味で、「人間愛」の構築が始まるのだと、尤もらしい口調で語ることは容易い。そうした論法は、結婚に就いて語る場合に頻繁に適用される慣わしである。

 恐らく、互いの総てを理解し合える、分かち合えるという幻想、本来異質な他者である筈のものが完璧な合一を果たし得るという妄想こそ、恋愛という情熱の根本的な原理であると私は思う。「完璧な理解」という不可能な理想が、恋人たちの献身的な情熱と果てしない睦言を支える、力強い太陽なのである。

 だが、成熟した人間関係は、「完璧な理解」が不可能であることを悟ることで始まる。如何なる齟齬も許さない潔癖な「理解」への信仰は却って、恋人たちの間に息苦しい疎隔と亀裂を齎すだろう。どれほど深く愛し合ったとしても、必ず相手の存在の内側には、理解し難い曇りのようなものが残る。その不可知の領域を丸ごと肯定する理性を持たなければ、恋愛から始まった関係は必ず幻想の破綻と共に崩壊する。それは最初から分かり切った摂理である。

 恋愛の情熱は、或る意味では、人間に対して「不可能な欲望」を持つことによって醸成され、引鉄を絞られる経験である。人間、或いは他者への「過大な期待」が、恋愛という壮麗な幻想を作り出す。無論、本来思い通りにはならない筈の他者に「過大な期待」を懐くことは、常識的に考えれば苦行でしかない。だが、そうした苦行を経由しない限り、私たちは「完璧な理解」という不可能な夢想の甘美な旋律から逃れられないものである。そして「完璧な理解」が不可能であるという厳粛で身も蓋もない真実に直面することで、私たちは本当の意味で、倫理的に人を愛する力を学ぶ準備を整えるのだ。離別の哀しみと苦しみは、真実との邂逅の齎す副作用である。それは確かに苦痛であり、様々な負性の感情を培養する危険な感情的毒薬であると言える。しかし、火傷を負わずに真理だけを掠め取ることは出来ない。代償を支払わずに宝珠を手に入れることは許されない。