サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

共犯的幻想としての「恋愛」

 恋するとき、人は盲目になると、よく言われる。確かに恋愛が幻想である以上、そして私たちの認識や理性に奇怪な覆いを被せる心理的な魔術である以上、傍目には恋する当事者たちの言動が、有り触れた現実に対する理性的な判断を欠いているように見えることは避け難い。恋することは、現実の具体的な変革ではなく、飽く迄も現実に関する解釈の変革である。恋に落ちると、世界が輝いて見えると人は嘯く。無論、それは凡庸な錯覚に過ぎないし、恋が世界を変えることなど、基本的には有り得ない夢想である。

 だが、私たちの認識が常に、世界との直接的な関わりを持ち得ないものであることを鑑みれば、恋愛だけを特別に幻想的な虚妄として排斥したり、その価値を侮蔑したりするのは詮無いことである。恋愛が私たちの認識に齎す不自然な歪みは、恋愛そのものに帰せられるべき罪悪であると言うよりも、そもそも私たちの行使する「認識」という機構自体に内在的に備わった、根源的な問題であると言うべきである。

 幻想と現実という平凡な二元論的区分は、煎じ詰めればそれ自体が幻想に過ぎない。私たちは何かを見たり何かを聴いたりするとき、その時点で前提条件として「幻影」を眺めている。精確で冷徹なリアリズム、それは私たちの主観が世界との間に保有し得る関係性の形態の一種に過ぎない。言い換えれば、私たちは自分が望むように世界を好きな形で眺めることが出来る生き物なのであり、その点では、恋する者も恋から醒めた者も同断である。

 重要なのは、恋愛という情熱に駆られた主体が、その瞬間に如何なる性質の認識的な歪曲を蒙る傾向にあるのか、という問題を明らかにすることである。恋する者が何を捨象して、何を強調するのかという点を明確に考察することが、恋する者の盲目性の構造を理解する為には有益である。

 恋するとき、人は自分と相手との関係性を何よりも拡大して、最大限に強調して捉える。それ以外の問題は一気に色褪せて後景へ退いていく。時間の感覚さえも麻痺してしまう。何故なら、時間の感覚というのは一般論として、社会的な制度に他ならないからだ。外在的な社会ほど、恋する者にとって無意味な領域はない。彼らにとって、社会は不要な障害物に過ぎない。それは恋する者の自閉的な幻想を妨害する、独特の生理を持っているからだ。

 恋する者が願うのは、本来であれば異質な存在である筈の「自分」と「相手」との境界線の消滅である。それは相手の存在を自分の世界に完全に取り込んで吸収してしまいたいという危険な欲望の顕れである。無論、それは本来、不可能な欲望である。自他の境界線は、そう簡単に消え去るものではないし、もっと言えば、それは本来侵犯してはならない禁断の領域なのである。恋愛の情熱は、相手の主体性を尊重するというヒューマニズムの基礎的な原則を踏み躙る暴力性を含んでいる。

 だが、それが不可能な欲望であるという事実は、必ずしも恋愛の情熱を冷却しない。寧ろ、不可能であるという事実が、切迫した感傷的な情熱の暴走を煽動するのである。何らかの障害が存在することによって一層激しく燃え上がる恋愛が数多存在することは、巷間に流布する様々な物語を徴すれば直ちに明らかとなる。不可能な事実であるからこそ、それが叶うのではないかという奇怪な錯覚は、奇蹟的な恩寵に対する劇しい憧憬と化して人心を捕縛する。恋情は、不可能な夢想に対する憧憬であり、欲望であり、衝迫である。

 自他の境界線が、現実的な問題として消滅することは有り得ない。私たちは絶えず自分の意のままに操ることの出来ない異物としての他者に取り囲まれて生きているからだ。にも拘らず、そのような境界線の消滅が可能であるかのように錯覚するとき、人間は恋に落ちる。境界線の消滅、自他の融合、そのような願いを幻想の次元で達成し得るという予感の齎す陶酔が、恋愛の蠱惑的な本質である。

 自他の境界線の破壊という不可能な犯罪に対する共犯者として、恋人たちは睦み合う。境界線の破壊が可能であるという不可能な夢想を共有することによって、恋人たちの精神は相互に強く結びつけられるのである。そして恋心の魔術から目覚めるとき、彼らは例外なく、相手の精神や肉体の何処かに「理解し難い異物」を見出して幻滅している。それは境界線の破壊が不首尾に終わったという合図であり、甘美な幻想の権威が失墜したことの動かぬ証拠である。

 だが、それが直ちに恋愛の終わりとなる訳ではない。或いは、恋心はそのとき死に絶えるとしても、愛情は漸く成熟のとば口へ辿り着いたに過ぎない。愛することは、相手の存在を自己の内部へ吸収し、その固有性を収奪することではない。そのような甘美な夢想が有り得ないことを切実な痛みとして理解したとき、私たちは漸く「愛情」の本質的な崇高さに目覚めるのである。愛することは、他者の自立性を毀損せず、他者の固有性への敬意を自らの根本的な倫理の一つに据えている。相手を支配したり、或いは相手に依存したりすることは、自他の融合という不可能な夢想への衝迫が生み出す行為であるが、愛情はそのような幻想の破綻した後で生まれる情熱であるがゆえに、支配や依存とは無縁である。寧ろ、愛情は支配や依存を嫌悪し、排斥するだろう。愛情は常に自発的であることを規矩としており、あらゆる種類の支配や独占に抵抗する観念であるからだ。