サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

一切皆苦(坂口安吾をめぐって)

 生きることは常に苦痛に汚染されている。生きるという営為自体が、本来は起こり得なかった超自然的な奇蹟を無理に持続するような作業なのだから、そこに不自然な苦しみが生じるのは自明の帰結である。

 宇宙の探査が発達しても、一向に地球外の生命体との出逢いという見果てぬ夢は叶えられていない。生命の誕生は極めて絶妙な諸条件の均衡の中で偶発的に実現された、驚嘆すべき奇蹟であり、原初の生命が進化して、ヒトという種族を生み出すまでの間にも、偶然と幸運は幾重にも積み上げられ、折り重なってきた。そうして紡ぎ出された生命の構造が、無機的な世界における一種の「異常値」であることを鑑みれば、生きることが数多の試練と艱難に取り囲まれていたとしても不思議はないのだ。

 作家の坂口安吾は「風と光と二十の私と」の中で、次のように書いている。

「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。(註・青空文庫より転載)

 苦しむことだけが人間の尊厳であり、満足に淫することは動物でも好む、当たり前の状態に過ぎない。こうした省察は一見すると、素朴に自己の利益と幸福を追求する近代的な功利主義の理念と食い違っているように感じられる。誰もが幸福であることを願い、欲望の健全な肯定を謳歌する時代の風潮の中で、坂口安吾の奇妙なストイシズムは、そう簡単には受け容れられないだろう。だが、私たちは彼が「堕落」を唱道した人物であることを史実として知っている。彼は決して堅苦しい道徳を、欲望の肯定に対立させようとした人間ではない。寧ろ彼はあらゆる社会的な道徳を嘲笑し、形骸化した規則を土足で踏み躙り、非人間的な制度の数々を撫で斬りにして生きようとした人だ。彼は人間の欲望の実態を少しも飾り立てずに、身も蓋もない真実として見凝めている。

 彼が自身の若き日々を思い返して書いたのは、要するに「老成の実際の空虚」であり、「本当の肉体の生活」に苦しめられていない青年たちの倫理的な純潔の虚しさである。彼は存分に人間の欲望を肯定しており、それを賢しらな道徳や理念で縛ることの愚昧を肚の底から信じ切っていた。欲望を道徳で縛ったところで、何の意義もない。そのような発想に留まったならば、彼は俗流の享楽主義を謳歌する軽薄な野獣で終わっただろう。だが、彼は欲望の充足だけを希求する単純なエピキュリアンではなかった。彼は如何なる欲望も常に裏切られること、もっと言えば人間の魂は如何なる享楽によっても満たされぬものであることを絶えず強調した。煎じ詰めれば「一切皆苦」という言葉に尽きる。彼は古びた道徳から解放されれば、自由に己の欲望を満たして生きていけるなどと、軽薄な功利主義を唱えた訳ではなかった。彼の思想の核心には、結局、人間は苦しみの内側に救済の光を探し求める以外のことは何も出来ないのだという、乾燥したニヒリズムが植わっている。だが、そのニヒリズムは決して人間の魂を腐蝕させるものではなく、性根の据わった勇気を掘り起こすものである。薄っぺらな享楽主義も、黴の生えた道徳的な保守主義も、彼の鋭利な眼差しの前では、あっという間に身包みを剥がれてしまう。彼は如何なる欲望の実現によっても結局は満たされることのない、魂の根源的な孤独を何よりも重視していた。だからこそ、彼は苦しむことの中に、微かな希望の光を追い求めたのだ。そして、行雲流水のような、俗世間を離れて種々の苦しみから脱却しようとする遁世の衝迫を否定した。彼は苦しむ為に人間の世界へ戻った。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(「堕落論」註・青空文庫より転載)

 坂口安吾は如何なる種類の欺瞞も踏み破ろうとする。尤も、彼は無味乾燥な真実だけを重んじた訳ではない。真理に叛いても、浮薄な幻想に惑わされて踊り狂う人間の浅ましい側面さえも、在るがままに肯定したのだ。それは積極的な評価を捏造したという意味ではなく、そうした醜悪な真実を直視する以外に本当の解決は有り得ないではないかという不退転の覚悟である。彼は人間の可憐な性質を十二分に弁えているし、その認識には自らの人生から吸い上げた実際的な経験の養分が潤沢に注ぎ込まれている。生きることは苦しみに満ちている。だが、その苦しみを味わうことでしか、本質的な救済と解放を手に入れることは出来ない。それは浮薄なエピキュリアンが、年老いて俄かに保守的な道徳家へ鞍替えするような、退屈で愚昧な人生の類型とは無縁の、清冽な覚悟と冷徹な省察に貫かれた発想である。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

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風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

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