サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「慈悲」と「恋情」の境界線

   愛することは、或る人間をバラバラに解体することへの根源的な抵抗として定義されるべき営為である。愛することは、相手を腑分けすることの対極に位置する。対象の総てを丸ごと包摂し、その総ての要素を善悪や好悪に関わりなく受容することが愛の本質であり、その崇高な価値である。だから、愛情には個別的な由来など存在し得ない。明確な理由に基づいて、その結果として「貴方を愛する」という具合に手順を踏むのは正統な愛情ではなく、多くの場合、それは欲望の詩的に修飾された表現に過ぎない。顔立ちが整っているから愛するとか、話術が巧みだから愛するとか、そういう事前の理由ほど無力なものは他に考えられないではないか。

 愛情は、愛することの根拠を明確に示し得ないものである。根拠の不明であることは、愛情の誠実さを少しも否定する材料にはならない。寧ろ、特定の理由を持ち得ないことこそ、愛情の真実さを保証する最高の根拠となるのだ。何故なら、根拠を明示し得るとき、愛情の対象は必ず交換可能なものとなるからである。掛け替えのない個性は、具体的な要素に還元することが出来ない。人間の個性は、特定の要素だけを単独に取り出すことで成立したり強調されたりするものではなく、その綜合的な纏まりの中だけに存在する。しかも、人間の個性は絶えず流動し、無限の変貌を塗り重ねていく慣わしである。従って、特定の要素への固執は、愛情の永久的な継続性に対する致命的な反抗となってしまうのだ。

 愛情は根拠を持たない。愛情は選別や採択とは無縁であり、常に巨大な全体性への全面的な肯定と承認として現れる。個別の要素に還元し得ない全体性に紐付くものだけが、真の意味で愛情の称号に値する。個別の要素に対する執着は、愛情ではなく欲望である。欲望は常に具体的な対象と結び付き、部分的な執着として顕現し、作用する。もっと言えば、執着とは常に選別と排除の論理の最果てに出現する偏狭な感情なのである。それは必ず対象を選び抜いて特権的な価値を与える過程を踏む。執着は、愛情とは異質な感情であり、傍目には類似して見えるとしても、その本質には重要な隔たりが介在している。

 愛することは、相手をその全体性において承認することであり、部分的な切り売りを厳格に峻拒する感情の名前である。愛情は、相手の存在を様々な部品へ解体するような暴力的行為を不可避的に慎む。部品へ解体するという作業は、或る要素への過剰な思い入れを懐くということであり、従って執着に他ならない。だが、愛情は執着を超越し、包摂する情念の働きである。欲望=執着は審美的な意識に基づいて極限まで対象を細分化し、その僅かな差異に特権的な意味を附与するが、愛情はそのような小賢しい解剖学を正面から否認し、無効化してしまう。審美主義は、無限に深まっていく執着の洗練された体系であり、それは愛情の持つ包括的な肯定の対極に位置する精神的態度である。美意識と愛情は矛盾し、相剋を演じる。両者の原理は正反対の方向を見凝めているからである。

 僅かな違いに重要で決定的な意義を見出すのが「執着=欲望=審美主義」の根本的な姿勢である。だが、高度に成熟した愛情は、僅かな違いに意味を見出す代わりに、無数の差異を綜合した先に顕れる不透明な全体性を丸ごと承認することに、至高の価値を発見する。如何なる変貌も短所も、愛情にとっては全体性を揺るがす瑕疵ではない。極めて微細な相違点に基づいて好悪の判定を調整するような態度は、愛情の畏怖すべき「受容性」の前では、現実的な威力を確保出来ないだろう。欲望は果てしなく細分化するが、愛情は果てしなく鈍感な包摂を繰り返していく。相手の過失も謬見も、愛情にとっては「慈悲」の対象でしかない。

 この「慈悲」という観念は、愛情と欲望の混同という極めて有り触れた謬見に対する解毒剤の役割を担っているように見える。慈悲は、与えることへの欲望であり、恋情は、求めることへの欲望である。この主題に就いては、また稿を改めて考えてみたい。