サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「共同性」への普遍的な欲望

 人間は誰しも、自分と他者とを隔てている根源的な境界を打破し、超越したいという欲望に精神を搦め捕られている。この普遍的な欲望を簡潔に「共同性への欲望」と名付けてみたい。自分という孤立した個体の枠組みから離れて、絶対的な境界線を踏み越えたいという、この普遍的な欲望には、容易に抵抗することの出来ない甘美な魅惑が深々と突き刺さり、滲み出ている。

 「共同性」という言葉は随分と大雑把なラベリングに聞こえるかも知れないが、差し当たり、自他の境界線を消去しようとする性向のことだと捉えてもらいたい。この根源的で普遍的な性向は殆ど、人間という種族の生物学的な本能の範疇に属する衝迫であると看做しても差し支えない。他者との融合に対する飽くなき欲望は、人類の存続を支える重要な「基層」である。

 だが、同時に「共同性」への切々たる欲望の駆動は、私たちの世界に無数の邪悪な惨劇を齎してきた。二十世紀におけるファシズムの猛烈な災禍を徴するだけでも、全体主義の恐るべき暗部に備わっている破壊力が、どれほど人類の社会に深刻な損害を齎すのか、慄然たる心持ちで学ぶことは容易である。無論、その学習の成果は極めて安易に踏み躙られ、忘却の深淵に沈み込み、再び悲劇が地上を覆うまで、閉架書庫の筐底に収められたまま朽ちてしまうことも一再ではない。私たちの健忘症は、忌まわしい歴史的悲劇に対しても充分に傲岸且つ驕慢な態度を保持しているのだ。

 「共同性」という言葉、或いは観念が抱え込んでいる錯雑した両義性は、すっきりとした明快な解決にあらゆる方向から逆らっているように思われる。そこには明確な善悪の基準が存在せず、常に相対的な「是々非々」の判断が無限に累積していくばかりの、底知れぬ迷宮が広がっている。誰かと一体化して、一切の隔絶を消し去ってしまいたいという痛切な熱望は、相手の主体性に対する情緒的な暴力としての側面を併せ持っている。だが、何れの選択にも相応の妥当な論理が象嵌されており、その両義性を簡明な命題へ蒸留酒の如く純化してしまうことは出来ない。

 だが、私たちの内なる共同性への欲望を完全に扼殺してしまったとき、社会の解体は必然的な災厄として人類を見舞うことになるだろう。そこでは、無数のエゴイズムが相互的な連絡を欠如した状態で乱立することとなる。一つ一つのエゴイスティックな主体は他者への無関心を基本的な状態として採択する。

 「共同性」という観念が複雑な両義性を孕むのは、それが他者との相互的な協力と尊崇を齎す一方で、自他の不自然で奇怪な融合にも傾斜し得るという対蹠的な特質を併存させているからである。この問題を解決する為の準備的な措置として、私たちは「共同性」という観念を更に細分化して解析する必要に迫られている。つまり「共同性」という観念によって指示される対象の内的な構造や性質に関して、具体的な定義と解明を行わねばならない。漠然たる「共同性」の認識論的な靄に囚われていては、両義性に対する無気力な拝跪から脱却する方途が発見出来ない。両義性という観念的な用語には、人間の思考を安直な停滞へ頽落させる危険な魔力が備わっているのである。

 如何なる共同性からも距離を置いたとき、人は如何なる状態へ行き着くだろうか? 仮に人間の世界から遠く離れて、無人島に暮らす隠者の如き生活を選び取ったとしても、私たちには「擬人化」という豊饒な想像力に裏打ちされた精神的作用が残されている。花鳥風月を愛でる心情の中には未だ、漠然たる共同性への欲望が息衝いている。俗世から遁走するだけでは、共同性に対する欲望を振り切ったとは言えないのだ。

 自分の外部へ向かおうとするプリミティブな衝迫、それを共同性への欲望と名付けるならば、どれだけ自立を志向しようとも、人間が共同性に対する郷愁のような情熱を完全に廃絶することは出来ないだろう。他者の存在を認識する限り、自己の外部を想定する限り、人間は既に共同性の領域へ一歩踏み出していると言い得る。時に人は、そのような外部へ辿り着く為に手段を選ばず、強硬な暴力に訴えることさえも辞さない生き物である。この根源的で普遍的な欲望を抑圧することは出来ない。束の間の抑制が技術的に可能であったとしても、それは欲望自体の完全な死滅を意味しない。抑え付けられた欲望は、理性や規則の間隙を盗んで必ず地上へ顕現し、暴力的な爆発を演じるだろう。

 だが、共同性に対する欲望には常に、自他の境界線を乱暴な仕方で蹂躙しかねないという危険な側面が附随している。自他の境界線を踏み躙ることは、相手の存在に対する暴力的な関与を意味する。相手の存在を尊重し、その自主性と主体性を維持したまま、共同の関係を構築する為に智慧を働かせ、創意工夫を積み重ねることが人間の社会的な努力である。但し、その匙加減には一律的な規範など望み得ない。結局、事例に応じて臨機応変の対処を心掛けるしかない。

 逆説的に言えば、私たちが健全で相互に恩恵を蒙るような形の共同性を構築する為には、成る可く共同性に対する欲望を自制することが肝要な条件となるのかも知れない。人を正しく愛する為には依存を去って自立を果たさねばならない、つまり愛する為には孤独の内に踏み止まる強さを持たなければならない、という理窟は、このような消息を踏まえたものであると言えるだろう。或いは、自他の境界線を踏み越えたいという欲望の充足が常に「一時的な幻影」であることに留意し続けることが、私たちを他者への暴力的な関与から逃れさせるのではないか。どれほど互いを求め合い、あらゆる手段を弄して自他の距離を「融合」の次元にまで接近させようと企てても、両者が完全なる合一と同化を果たすことは出来ないし、それは厳密に言えば「共同性」という観念の定義に適合しない。共同性が成立する為の要件は、互いに異質な他者の存在である。つまり共同性とは、複数の個体の間の「異質性」を消去するのではなく、寧ろ保存することを前提としているのだ。

 共同性に対する欲望は、単純な一体化への欲望とは弁別して理解されなければならない。そうでなければ、共同性は或る強力な権威を備えた主体による一方的な包括となり、延いてはファシズム的な他者性の蹂躙に帰結するからだ。共同性の成立する要件として「異質性の保存」を明記しなければならない理由は、その点に関わっている。他者性を毀損することで成立する擬似的な共同性は寧ろ「自同性」と称すべきであり、それは結局のところ、自己のナルシシズム的な拡張に過ぎない。自己と他者を同一視する「自同性」の認識論的装置は、共同性とは全く異質な原理に基づいて稼働している。