サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という長篇小説の第一巻「泥棒かささぎ編」を読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 尤も、この「泥棒かささぎ編」を通読したのは、今回が初めてではない。遡ること十数年前、私が未だ中学三年生だった頃の、高校進学直前の春休みに、誰もいない家で炬燵に浸かりながら、夢中になって貪るように読み終えたのが最初の邂逅であった。松戸駅前の良文堂書店で、分厚いハードカバーの「泥棒かささぎ編」に何故か心を惹かれ、大枚を叩いて購入したのである。いや、或いは中学二年生の終わり、大阪府枚方市から千葉県松戸市へ引っ越して来たばかりの、束の間の平穏な早春の日であったろうか。どちらでも構わないが、兎に角、それが村上春樹の作品との、最初の本格的な接触であったのだ。

 夢中になって読み終えたくせに、私は続きの二冊を読まないまま、今日まで過ごしてきた。奇妙と言えば奇妙だが、別に続きを読まねばならない義理もないと考えることも可能である。未だ作品の全篇を通読した訳ではないので、断片的な感想文となることを御了承願いたい。

 「泥棒かささぎ編」は、長大な作品の導入部に当たる一冊であるから、複数の物語の流れは未だ互いに分岐し、並行したままの状態であり、それらの複数の挿話を包括的に纏め上げる綜合的な視座のようなものは未だ具体的な形では示されていない。語り手である「僕」(岡田亨)は、法律事務所を辞めて求職中の立場であり、家計の財源は妻のクミコの収入で暫定的に賄われている。彼は決して主体的に何かを求めて行動するタイプの人間としては描写されておらず、寧ろ物語の展開に対して、常に受動的な姿勢を有している。物語は、様々な見知らぬ人々から、しかも少なからず奇妙な経歴の持ち主たちから、語り手の「僕」が接触を受けるという形式で進んでいく。彼は主体的な意志に基づいて物語を駆動させる存在ではなく、飽く迄も外部から到来する様々な異形の意志に衝き動かされるという仕方で、物語の枢軸に位置し続けるのである。

 こうした語り手のメンタリティが、極めて村上春樹的な特徴を鮮明に備えていることは、一読すれば明らかである。多くの場合、彼の描き出す主人公たちは不可解な因縁や思いも寄らぬ成り行きに引き摺られ、巻き込まれるような形で、小説の世界に対する介入を強いられる。彼らは自分の意志を適用すべき範囲を常に慎重に制限し、他者の領域へ土足で、或いは独善的に侵入することに対して非常に禁欲的である。この特徴は同時に、彼自身が己の領分を土足で侵犯されることに対して非常に防衛的であるという事実と、明瞭な対照を形成している。

 法律事務所を辞めて、所謂「専業主夫」としての勤勉な生活を送り、次の仕事を探しつつも、今一つ就職の決断に踏み切れずにいる「僕」の人物造形が、こうした村上春樹的メンタリティと親和的な関係にあることは歴然としている。言い換えれば、村上春樹的な主人公たちは「外の世界」=「社会」に対する積極的な関与を望まないという根源的な性質を共通の「魂」として附与されているのである。淡々と家事を営み、穏やかな日常生活の反復に自足しようとする傾向、社会的事件よりも審美的な事象に重要な価値を見出そうとする傾向、公共性の領域よりも個体性の領域に実存の基盤を求めようとする傾向、これらの要素は村上春樹の造形する文学的宇宙の基礎的な原理であり、特質である。

 この特質に別の表現を与えるとするならば、それは「社会的なものに対する絶望」と呼べるだろう。社会的なもの、様々な不特定多数の人間の繋がりによって構成された巨大な体系、その外在的な権力の秩序に対する絶望と諦観と不信が、村上春樹的な世界の基調を成している。その意味で私が想起するのは坂口安吾である。彼は終戦直後の崩壊した社会の内側で最も輝かしい栄光を放った異才であり、個人として生きることの意義を極限まで倫理的に問い詰めた作家であった。彼らに共通しているのは、政治的な解決というものに価値を認めない、孤高の姿勢である。無論、それは時に極端な保守的見解と重なり合ってしまう虞を孕んでいるが、私は、彼らのそういうメンタリティに「潔癖な誠実さ」を感じずにはいられない。政治的な理念に呑み込まれた作家など、語義矛盾に等しいからだ。

 社会的なものに対する絶望の介在は、物語の主体的な生成を妨げる働きを有する。少なくとも私は、そのように仮説を立ててみたいと思っている。常に受動的で、個人的な日常生活の範疇に閉じ籠もっている人間が、積極的に大胆な物語の構築へ力を尽くすということは考えられない。だから、そのようなメンタリティの人間を主役の地位に据えながら、敢えて強引に物語を駆動させようと試みるならば、どうしても筋書きの変化を齎す要因は「外部から到来するもの」として措定されざるを得ない。

 語り手の「僕」は極めて単純な個人的生活を送っているだけの、平凡な人物として描き出されている。しかし、彼は徐々に不穏な訪問者たちの手で、それまでの平穏な日常への耽溺を妨げられるようになっていく。彼は誘われ、導かれるままに奇妙な人物との対話の機会を持ち、単調な孤独の閉域から逸脱することを強いられる。このような筋書きの構成は、一体どのような意味を持つのか? 端的に言って、それは「社会的なもの」の不可避性の証明であると看做すべきであろう。人間はどんなに孤立した、極めて個人的な静穏の日々の中に留まることを熱望したとしても、知らぬ間に忍び寄る外在的な影響力、社会的な関係性の網目から完全に自由であり続けることは出来ない。この簡明な真理を、この「ねじまき鳥クロニクル」は執拗なフーガのように繰り返し訴え、厳かに告示し続けているように見える。

 安閑たる日常が、全く予期せぬ仕方で、外来的な存在によって俄かに損なわれ、深刻な混乱の渦中へ導かれるという経験に、少しも心当たりのない者は珍しいだろう。現に私たちはたった数年前、あの未曽有の大震災と原発事故に遭遇した。もっと年月を遡っても、例えば阪神淡路大震災オウム真理教による化学テロ、アルカイダによる世界貿易センタービルへの特攻など、類似の事例は幾らでも掘り起こし、呼び覚ますことが可能である。個人の意志や感情とは全く無関係に、突発的に襲い掛かる暴力的な事件の力によって、個人の平穏な生活が蹂躙されるという経験は、個別の人間に限って押し寄せる例外的な惨劇ではなく、寧ろ人間という存在に附随する普遍的な宿命なのである。

 個人的な生活、その矜持と尊厳に決して生半可なものとは言い難い執着=愛着を示す頑固な作家である村上春樹が、そのような「突発的で暴力的な事態の到来」に敵意を持つのは自然な流れである。或いは、そのような外界からの暴力的な訪問者に直面したとき、人間はどのように振舞えばいいのか、という倫理的な課題に、彼が切実な関心を寄せるのは当然であると、言い直すべきかも知れない。ミラン・クンデラは、小説という文学的形式の孕む固有の役割を「想像的自我の実存的な検討」と呼んだ。その定義を踏まえれば、村上春樹の文学的な関心は「個人の平穏な日常を踏み躙る突発的な暴力と対面したとき、どのように立ち向かえばいいのか」という倫理的な主題を検討することに存すると言えるのではないだろうか。有名なエルサレム賞の受賞演説「壁と卵」を想起すれば、私が論じている事柄の性質は一層、鮮明になるだろう。彼は常に「壁と卵」の問題に異様な執着の持続を示してきたのだ。

 こうした私的な仮説と拙劣な探究が、妥当な成果に結び付くかどうかは、全篇を通読した後に判断されるべき問題である。従って、本稿はこれで擱筆とする。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

 

 

一歳児のための、記憶の里程標

 三月十五日に、娘が一歳の誕生日を迎えた。

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 上記の文章を、落ち着かない、ふわふわとした心境の中で一人、自宅の居間でパソコンに向かって打ち込んでから、一瀉千里に、一年間という歳月が流れ去った訳だ。そして生まれたばかりの、とても簡単に壊れてしまいそうに感じられる、人間よりも爬虫類を思わせる顔立ちであった娘は、大きな口を開けて猛然と離乳食を平らげる立派な一歳児に変貌を遂げた。感無量である。

 ミルクを存分に呑み、苺やバナナや蜜柑といった果実にも眼がない娘は順調に体重を増やし、逞しく育った両脚を操って自宅の二階へ通じる階段さえ、親の知らぬ間に登頂してしまうほどの活発な女の子へ無事に進化を遂げた。無論、未だ一歳だ。それは少しも到達点ではないし、人生の本格的な入り口に辿り着いた訳でもない。それでも、ここまで何とか大きな怪我もせず病気もせずに歩いて来れたことが、何よりも嬉しく、安心である。

 人間は容易く色々な出来事を忘却の彼方へ押し流してしまう生き物である。最近読んでいる村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)にも、語り手である「僕」が何らかの出来事に関して「思い出せない」と呟く場面が散見する。未だ読了していないので(何しろ文庫本三冊分の長大な分量の小説なのだから)纏まった感想を書くことは差し控えるが、この「思い出せない」という些細な忘却=記憶の「枯死」の累積が、或る時、俄かに巨大な災厄を齎すこともあるだろうと、私は改めて考えた。妻のクミコが「僕」に向かって、次のように述べる件は良くも悪くも印象的である。

「あなたは私と一緒に暮らしていても、本当は私のことなんかほとんど気にとめてもいなかったんじゃないの? あなたは自分のことだけを考えて生きていたのよ、きっと」と彼女は言った。

 私は今から約六年前に離別した前妻から「あなたは結局、子供が一番じゃなくて、自分が一番なんでしょう」と吐き捨てられたことがある。いや、吐き捨てられたという言い方には、不当な悪意が入り混じっているかも知れない。彼女は真剣な思索と真剣な憤懣の末に、私の行動や思想を革める目的で、そのように悲痛に訴えたのかも知れないのだ。だが、私は彼女の言い方が不満であった。そのように一方的な断定を投げつけられる筋合いはないし、私は子供のことを愛していたからだ。たとえ、その愛し方が先方の眼には物足りなく、誠意が欠けているように見えたとしても、私は私なりの考え方や信条に基づいて、子供を愛していたのだ。

 だが、今になってみれば、私の愛し方は未熟であったかも知れないと思う。二十歳の私が生まれたばかりの息子に接するときの愛情の形と、三十一歳の私が一歳の誕生日を迎えた娘に接するときの愛情の形には、少なからぬ相違点がある。恐らく十年前の私は今よりも遥かに未熟であったし、父親としての覚悟も、夫としての覚悟も、一個の人間としての覚悟も恥ずかしいほどに生温いものであった。たった十年では、変わらないものも多いに違いない。だが、十年の星霜を経て培われた新しい知見や経験が、十年前の不徳を埋め合わせるように、新しい交響曲を奏でるということも、この広大な地上では充分に起こり得るのだ。

 それは十年前の悔恨や無知や、そこから派生する大小様々の「罪悪」を償還するものではない。どんな出来事も、それが繰り返し反復されるように見えたとしても、それは長い歴史の中に滴り落ちた、代替の許されない単独の現象である運命からは、断じて逃れられない。だが、そうした厳粛な事実は却って、明るい展望を齎す契機ともなり得るのではないか。償うことが不可能であるからこそ、私たちは過去の悲劇を礎として、新しい未来を建築する力を獲得する。償えるのならば、償うしかあるまい。償えないからこそ、人間は新しい一歩を踏み締めることで、己の愚かさを鞭打ち、己の惰弱を刺殺するのだ。

視線の政治学 安部公房「他人の顔」に関する試論

 安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を、十余年越しに読み終えた。

 大学一年生の春に買い求めて途中で投げ出し、それきりずっと私の小さな書棚に埋没を続けていた一冊を、改めてきちんと通読することが出来たのは、ささやかな歓びである。折角の機会なので、拙いながらも個人的な論究を試みたいと思う。

 安部公房という作家が「見る=見られる」という人間相互の関係性に対して、極めて鋭敏で執拗な関心を有していたことは、彼の作品を繙けば直ちに了解される事柄であろう。「視線の政治学」などと気取った表題を掲げてみたのも、作家が「視線」というものに重要な意義を見出している事実に焦点を合わせたいと考えた為である。

 安部公房にとって「自己の喪失」という主題は、この「他人の顔」に限らず、様々な作品を通じて繰り返し取り上げられる重要な観念としての地位を有している。彼の作品に漲る諧謔も閉塞感も、この「自己の喪失」という奇怪な現象へ直向きに注がれる解剖学的な眼差しから分泌されている。何故、彼にとって「自己の喪失」という主題は重要な意義を担っているのか? それは安部公房という作家が「現代」という時代を捉えるに当たって、こうした「自己喪失」の問題を否が応でも意識せざるを得ない「核心」として重視していたことの表れである。

 語り手である男は、液体空気の爆発によって顔一面をケロイド瘢痕によって覆われるという不幸な事故の被害者である。彼は己の顔を幾度も「蛭の巣」と呼称し、他人の視線から己の暗部を庇う為に繃帯を巻いて生活している。ここで彼が陥る屈折した自意識の監獄は、私たちにとっても決して他人事ではない。彼は「顔」の有無によって人間の本質が左右されることなど有り得ないという勇敢な持論を表明するが、実際には「顔」の喪失によって自己解体の危機に追い込まれてしまう。「顔」は所詮「皮膚の一部」に過ぎないというシニックな価値観は、表層よりも深層を重視する近代的な価値観の末裔であるが、そうした価値観の興隆を嘲笑うのが「現代」という時代の先鋭な特質なのである。寧ろ私たちは加速度的に「表層」だけが特権的な価値を有する時代の潮流の渦中へ投げ込まれつつあるのだ。

 何故、私たちの暮らす社会は「表層」の特権性という理念に拝跪しているのか? それは私たち個人の「正体」が徐々に透明性を失いつつあるからだ。そうした変容は、私たちが「共同体」の成員であることから、バラバラに切り離された原子的な「個人」として存在することへ、生存の原理を書き換えつつあることの反映である。私たちは「個人」という単位で生きることを強いられ、且つ自ら選択しつつある。実存の限りない自由は、私たちの「素顔」が何であるのかという問いの答えを、歴史的な諸条件から隔絶させ、恣意的な選択の累積として規定する。だからこそ、私たちは事物の「表層」に対する鋭敏な感性を発達させることに惜しみない情熱を注がねばならないのである。

 一見すると、この「他人の顔」という小説の主題は、個人に刻み込まれた重要な徴としての「顔」の特権性を語り尽くすことに存するかのように思われるが、そうした理解は決して適切なものではない。「素顔」を「不完全な仮面」と呼ぶ「ぼく」の発想は、私たちの世界が「表層」によって支配されていることを明瞭に告発している。だからこそ、彼は「顔」を失うことによって自己の致命的な解体に追い込まれるのである。彼は精巧な「仮面」を作り出すことによって、自己の恢復を企てるが、そうやって生み出されたものは所詮「他人の顔」に過ぎない。それは自己の恢復とは全く異質な悲喜劇を形成することになる。「表層」だけが支配する世界で、仮面という欺瞞的な「表層」を手に入れることで、彼は「他人への通路」を甦らせようと試みるが、結局それは無惨な敗北に帰着する。何故、彼の企ては失敗しなければならなかったのか?

 でも、もう、仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。

 妻からの手紙に記された、この酷薄な断罪の文章は、彼の敗因の在処を簡潔に指し示していると言えるだろう。自己回復の為に創造した精巧な「仮面」を被ることによって、彼が手に入れたのは「自分自身」ではなく「他人」としての「自分」であったのだ。つまり、彼は「表層」によって支配されるという時代の特質に紛れもなく屈服していたのである。「表層」を取り換えてしまえば、別の人間に生まれ変わることが出来るという「仮面」の悪魔的な魅力は、そもそも「自己」という観念が他愛のない幻想に過ぎないことを曝露している。

 「私」という人間の本質は、「私」という人間の「表層」によって規定されている。こうした考え方を否定していた筈の「ぼく」は、錯綜した仮面劇の世界に足を踏み入れ、結果的に「仮面」という完璧な「酩酊」の方法を発見し、その虜になってしまう。だが、そうした酩酊が完璧である為には、人間の存在論的な単独性の根拠が、その人間の「表層」だけに限定されている必要がある。「表層」さえ交換すれば、直ちに別人に生まれ変われるという奇怪な「酩酊」の現象は、人間の本質が「顔」という「表層」にしか基盤を置いていないことの傍証なのである。

 人工的に作り出された、誰でもない人間の顔としての「仮面」を装着することで、彼は自分自身の存在を維持したまま、別の「人間」として存在する権利を確保する。これは何を意味するのか? 言い換えれば、彼はケロイド瘢痕によって「素顔」を失ったのではなく、精巧な「仮面」を被ることによって「素顔」を失ったのである。蛭の巣を隠匿する為の繃帯の覆面でさえ、厳密には「ぼく」という個人の歴史的な存在と緊密に結び付いた「素顔」であったと看做すことが可能である。だが、精巧な「仮面」の魔力は、彼を完全な匿名性の鎧の中に封じ込める。完璧な「酩酊」とは即ち完璧な「匿名」の異称である。仮面を通じて、いわば「透明人間」となることで、彼は絶対的な権力を掌握することに成功するのだ。それは他人から「見られる」ことを免除され、一方的に「見る」だけの主体として自己定義することを意味する。

 ケロイド瘢痕と、それを隠す為の繃帯の覆面は、暴力的なまでに「見られる」ことを強いられる、極めて苛酷な境涯の象徴である。彼は精巧な仮面を被ることで、当初は平凡な自己の恢復に努めたが、それは「仮面」の本質を見誤った判断であったと言えるだろう。仮面は本質的に「他人の顔」であると同時に「誰でもない人間の顔」でもあるのだ。幾ら他人から凝視されたとしても、それは「ぼく」ではなく「仮面」の方である。この奇妙な自己分裂が、彼に「純粋な見者」としての法外な権力を授けるのだ。

他人の顔 (新潮文庫)

他人の顔 (新潮文庫)

 

 

ただ、そこにある道を往くばかり

 ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読み終え、次の書物として安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を読み始めた。通読には未だ時間が要るので、内容に関する覚書などは差し控えておくが、滅法面白い。十年以上前、大学に進んだばかりの生温かい春の季節に、下高井戸駅啓文堂書店だったか、或いは新宿の紀伊国屋書店で購入したと思しき、ページの上端に茶色の紙魚が浮いた手許の一冊は、最初に読み始めたときには、その陰鬱な空気に堪えかねて少しも前に進めなかったことを、漠然と記憶している。

 年齢を重ねれば感覚的な嗜好にも少なからず変化が生じるのは自然な現象であり、寧ろ十年経っても一向に趣味や感受性の内訳が固定したままでは、人間として危機的な状況に瀕していると言わざるを得ないのではないだろうか。十代の終わりから三十代の初頭にかけての十年間は良くも悪くも甚しい変容が、人々の身辺に降り掛かり易い季節である。否が応でも、子供の頃の青臭い蛹を脱ぎ捨てて、蛆虫の立場から逃れ出て、空を羽撃けるように懸命に練習するのが二十代の青年に課せられた気詰まりで苛酷な使命であることは、一般論として疑いようがない。

 そのとき、その瞬間には気付かない些末な変化であっても、改めて半生を(三十一歳の男が「半生」を叙するなど馬鹿げた話だ)振り返ってみると、少なからぬ変異が幾度も自分の魂を洗っていたことに不意に想到するのだから、不思議なものだ。昨日の自分と今日の自分との間に差異を発見することは困難な作業だが、十年前の漠然と霞み始めた己の面影と比較すれば、色々と奇妙な乖離に眼を啓かされることになる。

 四月から来期の新入社員が、私の管轄している店舗にも配属されてくる。その女の子は短大卒なので弱冠二十歳である。そして凡そ十年前、私が最初の結婚相手に選んだ年上の女性は、当時九歳の娘を連れていた。離婚して以来、その子とは一度も逢っていない。厳密には一度だけ、松戸の街中で邂逅したらしいのだが、私は気付かなかった。

 春から配属される新入社員と、恐らくは二度と会うこともないだろうと思われる義理の娘が、同じ年に千葉県で生まれ、成人式を迎えたという客観的な事実は、別に奇遇でも何でもない。単に私が齢を重ねたという生理的な事実を暗黙裡に傍証しているに過ぎない。

 入社したばかりの頃、配属先の店舗で働いている学生のアルバイトたちは皆、一つか二つ年上で、況してや主力のフリーターや主婦などは無論、私より遥かに成熟した、世慣れた人々であった。上司も同僚も悉く私より年長で、そういう感覚が未だに染み込んでいる所為か、徐々に後輩社員の数が増えつつある現実に、精神の構造が巧く馴染んでいかないような感覚がある。毎年のように新入社員を迎え入れ、その度に一つずつ年齢の開きが大きくなっていく。未だ三十歳だとも言えるし、もう三十歳だとも言える、この中途半端な年齢の自分自身が、何処か赤の他人のように遠く感じられることもある。知らぬ間に随分と、出発点から遥かに隔たった地点まで、彷徨する序でに流れ着いてしまったような、塩水に浸った南洋の流木のような心境が、私の魂に薄絹を被せている。時間の感覚が狂っていく。自己定義は何時までも十代の頃と余り変わらぬような気がしても、肉体は着実に劣化していき、精神の方も無論、我知らず硬変の症状を示しつつあるのだ。

 間もなく一歳の誕生日を迎える娘を持ち、住宅ローンを背負って粉骨砕身、いやそれほど生真面目でも情熱的でもないが、課せられた責務に少しでも見合うように働きたいという願望だけは忘れずに常時携えて、日々を過ごしている以上、もう自分を若者として定義するのは、深刻な誤謬であると悟らねばならないのだろう。その境目は単純に客観的な数値としての年齢に基づいて、截然と区切られるものではなく、個人によって隔たりの大きい、曖昧な線引きであることに留意すべきだ。何かを背負い込み、責任を負ったときから、つまり自分の人生が「自分だけのものではない」という明瞭な倫理的感情に捕縛された瞬間から、私たちは「無謀な若者」としての自己定義と絶縁しなければならない。「自分の所有物としての自分」という奇妙な命題は、他人との間に強靭な紐帯を締結したとき、根源的な破綻の危機に瀕する。無論、それを「危機」と捉えるかどうかは、個人の裁量に委ねられている。だが私は、今更「無責任な自由」に憧憬を捧げようとは思えない。それが「老化の徴候」であることに同意するのは不快ではない。ただ、そこにある道を往くばかりである。

近代化の原理 2 (ミラン・クンデラ「小説の技法」に導かれて)

 ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 現代文学の最も重要な牽引役の一人に計えられ、フランツ・カフカの熱心で雄弁な擁護者としても名高いチェコの亡命作家ミラン・クンデラの手で綴られた、このカラフルで多様性に満ちた(ポリフォニックな?)書物は、単に「小説の技法」に対する純然たる関心を充足させるだけに留まらない、極めて広範な射程を有する刺激的で魅惑的な一冊である。

 クンデラの中心的な関心が「小説」或いは「小説の精神」に向かって集中的に傾注されていることは論じるまでもないが、それはクンデラが純然たる芸術至上主義の牙城に逼塞していることを意味するものではない。寧ろ彼が「小説の精神」という言葉=観念を媒介として捕捉し、読者に理解させようとしている問題の範囲は、極めて多岐に渡り、しかも「文学」の領域に留まるものではないのだ。

 クンデラは「小説の精神」が「近代」という歴史的な理念と容易に切り離し難い「実存の形式」であることを強調する。そして「小説の精神」が、あらゆるものを計量し、数値に置き換える合理的な「自然科学の精神」と、いわば対蹠的な双生児の関係に置かれていることにも、読者の注意を促している。

 デカルト的な合理性に対して、クンデラが特別な関心と敬意を以て導入しようと試みるのは、あの「ドン・キホーテ」を著述したスペイン人作家セルバンテスの哄笑を伴った「相対性」の理念である。クンデラにとって「小説」は、デカルト的な合理性が目指す「明晰さ」を覆し、震撼させるような精神の領域として措定されている。「小説」の世界においては、あらゆる固定化された権威、樹立された絶対的な信仰、単一の真理といった諸観念が、その堅牢な礎石を失い、多角性と相対性の強烈な磁力によって解体されることを定められている。クンデラが「小説」という芸術的形式に極めて重大な意義を認め、その積極的な擁護に直向きな姿勢を示すのは、このような「小説の精神」に魅せられているからであって、必ずしも世間的に認知された総ての「小説」の実作が、彼の審美的且つ倫理的な基準に合致すると言える訳ではない。

 因みに文芸批評家の江藤淳は「作家は行動する」(講談社文芸文庫)という書物の中で、散文という形式に固有の「相対化の精神」と、そこから分泌される「ユーモア」に情熱的な口調で言及している。そこにクンデラの考え方と共通する認識の原理を見出すのは、無理からぬ推論である。

 この「小説の技法」という示唆に富んだ書物において、クンデラの思想の中心的な原理を明瞭に示しているテクストを選ぶとしたら、恐らく劈頭の「評判の悪いセルバンテスの遺産」が、その最も優れた適任者であると言い得るだろう。ここには、クンデラが「小説の精神」という観念を通じて解き明かそうと試みている世界の姿が、極めて論理的に、丁寧に結像させられているからだ。

 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。

 「近代」の誕生に関する、この神話的な荘重さを湛えた簡潔な文章は、クンデラの文学的野心が奈辺に差し向けられているのかを、極めて明晰に照らし出していると言える。「小説」と「相対的な真実」は常に結び付いており、それは「真実の一義的な確定」を目指す科学的な合理性と不可分の関係に置かれている。「相対的な真実」から出発すること、それが所謂「近代」の本質であり、例えばジョン・スチュアート・ミルの「自由論」に織り込まれているような思想もまた、こうした「近代」の原理にその淵源を有しているのである。

 だが、この「近代」という歴史的原理、つまり「神」という名の「最高審判者」の喪失から産み落とされた重要な「果実」は度々、反動的な逆襲の劫火に晒され続けてきた。私たちは全体主義のファナティックな画一的支配が齎した驚愕すべき惨禍に就いて、歴史的な教訓を既に授かっている。言い換えれば、この「近代」という原理の産み出した「果実」は、常に致命的な腐敗と慢性的な浸蝕の危殆に瀕し続けているのであり、そもそも私たちにとっての「最高審判者」の地位に鎮座し得る存在は、超越的な「神」とは限らないのだ。「相対的な真実」或いは「恐るべき両義性」は、極めて容易に見限られ、人間の社会から放逐される懸念を孕んでいる。

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ・カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。

 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。

 「不確実性の知恵」という言葉で表現される思想と精神の形式が、所謂「小説的なもの」=「小説性」の本質を形成している。そこでは「絶対的な真実」など認められず、従って究極的な権威というものが決して成立しないように構造化されていると言い得る。こうした理念の称揚が、苛烈な共産主義支配下に置かれた小説家の切実な「思想」であることに留意すべきであろう。無論、クンデラ自身は、そのような「伝記的事実」によって作品を解釈されたり、その本質を断定されたりすることを「小説性」の名の下に斥けるだろうが、彼にとって「小説」が単なる芸術の範疇や細目に留まるものではないことを理解する上では、全体主義社会との「実存」における関係は注目に値する要素である。

 とはいえ、もしセルバンテスが近代の創始者だとすれば、彼の遺産の終焉はたんに文学的形式における交替以上のものを意味するはずだ。それは近代の終焉を予告する。だからこそ私には、小説の死亡通知を口にする者たちのお目出たい微笑が軽薄に見えるのだ。それが軽薄なのは、私が人生の大半を過ごした、通常全体主義と呼ばれる世界で小説の死、(発禁、検閲、イデオロギー的圧力などによる)小説の熾烈な死をすでに見とどけ、経験したからに他ならない。このときに小説は滅びうる、西洋の近代と同じように滅びうることがはっきりと示された。人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。

 この一節を徴すれば、クンデラの「小説」に対する異様な執着が、単なる芸術上の審美的な嗜好の次元に収まるものではないことは直ちに明らかになるだろう。彼にとって「小説家」であることは、倫理的な抵抗の本質的な要素であり、従って実存的な思想に他ならないのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

 

 

「絶望の螺旋」を突破せよ 乾石智子「魔道師の月」

 乾石智子の「魔道師の月」(創元推理文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 前作の「夜の写本師」(創元推理文庫)にも共通して指摘し得ることだが、乾石智子という作家がファンタジーの体裁と様式を借りて執拗に追究している主題は、象徴的な言葉としての「闇」である。それは極めて柔軟な多義性を附与されて作中で用いられているので、その概念の適用されるべき範囲を単一的に画定することは難しいし、余り適切な措置でもない。

 「闇」は文字通り、人間の精神と存在の内部に穿たれた洞穴のような暗がりを指し示している。そこには純然たる悪意や、打算や、憎悪や、歪んだ欲望などが吹き溜まりの如く集められ、醗酵している。尤も、作者はそうした「闇」を一方的に醜悪な害悪として描いているのではなく、それが人間という生物にとって不可避の宿命であることを繰り返し強調している。そして作中に登場する多彩な魔道師たちは皆、そうした人間の「闇」を自らの内側に飼い馴らし、制御する技術に秀でた存在として定義されている。

 言い換えれば、作者は殊更に荒唐無稽な絵空事を拵えようとして、古びたファンタジーの長大な伝統に則り、魔道師という一種の古典的な類型を選び取った訳ではない。彼女が「魔道師」という存在を、豊饒なグレコローマン風の想像力を駆使して書物の世界に構築してみせたのは、単にそれがファンタジーというジャンルに必要な装飾であるからではなく、彼女の抱え込んだ一種の倫理的な主題と対峙する上で「魔道師」という設定が重要な機能を担うと目されたからであろう。その文学的な直観は、彼女自身の内なる創造への欲望と分かち難く結びつき、夥しい精気を吹き込まれているように見える。

 「闇」を抱え込むこと、それに呑み込まれず、制御されないように努めること、それ自体は、有り触れたメッセージには違いないし、この物語の重要な鍵を握る邪悪な存在「暗樹」を巡る悪戦苦闘の結末が「果たしてこれで済むのか?」と思わせるような強引な処理によって片付けられていることも、結局は作者が「闇」という主題を打倒する為の有効な展望を見出せなかったという事実の、端的な反映ではないのかという感想を持つことも、極めて容易い。だが、この作品には読者の精神に奇妙な負荷を課し続ける、奇怪な迫力が満ちている。紡ぎ出された最終的な結論が、たとえ凡庸なものであったとしても、この迫力の不可解な価値を否定することは、文学的な感興に対する非道な断罪であると看做すべきであろう。

 そもそも、誰も「闇」の問題に最終的な解決など与えられないことは、作者自身によって十全に認識され、明示されている。それは「暗樹」が滅ぼし得ない存在であり、束の間の弱体化が可能であるに過ぎない、という物語の設定を鑑みれば明白である。

 少し脱線するが、こうした設定から私が直ちに想起するのは「ファイナルファンタジーⅩ」(以下「FFX」と略す)の物語である。「FFX」の場合、世界を潰滅に導く存在として「暗樹」の代わりに「シン」と呼ばれる巨大な怪物が登場する。「シン」から世界を守ることを定められた召喚士は、自らの命を犠牲として捧げることによって、束の間の「ナギ節」と呼ばれる平和な時間を作り出す為に修行に励む。これは「魔道師の月」において、テイバドールの最後の歌が「殉ずることいとわぬ者と/ともに逝かん」という詩句で飾られている事実と、偶然にも暗合している。

 世界を危機に陥れる巨大な災厄が存在すること、それは完全に滅ぼすことが出来ず、一定の時間が経てば再び回帰すること、束の間の封印を可能にする為には、選ばれた人間の命を代償として差し出さねばならないこと、こうした構造的な原理は、必ずしも「魔道師の月」や「FFX」に限って見出される、物語の成立の要件という訳ではないだろう。重要なのは両者の符合に過大な意味を読み取ることではなく、こうした物語の原理が指し示す「世界観」の構造を解析することである。

 この世に最終的な解決など有り得ないという考えは、終末論的な構図に対する否認であると言えるだろう。それは「起源」から「終焉」へ向かおうとする単線的な歴史の発展を拒絶する世界観の形式である。言い換えれば、あらゆる悲劇は永久に再来し、私たちは絶えず「闇」の邪悪な力に捕縛される運命を免かれないと考えるペシミスティックなヴィジョンである。

 だが、この絶望的な世界観、つまり私たちは永遠に「闇」の虜囚として生きるしかないと宣言する螺旋的な世界観(「FFX」の世界に与えられた名前が「螺旋」を意味するラテン語の「スピラ」に由来していることに注意を払われたい)は、少なくとも「魔道師の月」においては物語の結論ではなく、前提であることを考慮せねばならない。決して滅ぼすことの出来ない「暗樹」を、大地の魔道師レイサンダーは自らの心の内部に幽閉することによって、究極的な解決を手に入れる。無論、それによって「暗樹」の復活が永遠に阻止されたという確証が得られる訳ではないが、少なくともレイサンダーは己の命を代償として差し出さずに「暗樹」を封印することに成功したのである。

 それは「FFX」において、大召喚士ユウナが自らの命を失うことなく「シン」を封じ込め、前代未聞の「永遠のナギ節」を世界に齎したこととも符合している。これら二つの物語は共に「永遠に解決されることのない悪」に対する屈服を拒絶し、最終的且つ根本的な解決を得る為に奮闘する人々の苦闘を描いている。彼らは「悪」の度し難い絶対的な存在感を認めているし、それらの影響が完全に廃絶されることは有り得ないと信じている。しかし、彼らはそうした絶望的なヴィジョンによって全面的に支配されることを雄々しく拒否する。言い換えれば、冷酷な現実を従容として受け容れることに納得しないのだ。

 その意味で「魔道師の月」は「希望」を物語る為に綴られた書物であると言えるだろう。「憎悪」や「悪意」が避け難いものであることは認めるが、だからと言って「憎悪」や「悪意」の絶対性に唯々諾々と隷属しなければならない理由もまた、存在しない。寧ろ「憎悪」や「悪意」の絶対性を殊更に囁きかけ、訴えようとする「声」の主人が何者なのか、その妥当性に就いて疑義を呈する勇気が必要なのだ。

 ――かくのごとく、知恵はただの知恵にすぎぬ。善意がなければ知識は闇に堕ちるのだ。いかに理をきわめようと、いかに理を求めようと、真実を探求しようと、欲の蛇が入りこみ、善きものを食らってしまえば皆かくのごとく。破滅と絶望がよみがえって支配する。混沌と醜悪の極みが狂気を呼びこむ。驕りたかぶり増上慢極まった末は皆このようになる。そなたとわれは表と裏、ひっくりかえせば同じものとなる。

 「暗樹」の忌まわしく悪意に満ちた「言葉」に耳を傾け、その禍々しい「論理」に心を蝕まれてしまえば、絶望の螺旋は決して破壊されることなく、永久に循環を続けるだろう。「魔道師の月」は、そのような無窮の螺旋を破砕し、世界に新たな様相を齎す為の艱難辛苦を描き切ることによって、読者の胸を力強く搏つのである。

 

魔道師の月 (創元推理文庫)

魔道師の月 (創元推理文庫)

 

 

「愚昧な子供」としての私

 読まなければならない、或いは端的に「読んでみたい」と思う本は幾らでもあるのに、いざ取り掛かると案外頭に入らなくて投げ出してしまったり、一冊の読書に長い日月を費やし過ぎて飽きてしまったり、といった経験は日常茶飯事である。昔は、つまり十代の頃はもっと、一冊の本を読み耽ることに慣れていたし、夢中になることも容易かったというのに、何時の間にか雑事に追われ、総てを忘れ去って書物の時空の渦中へ溺れるということが困難に感じられるようになっていた。

 無論、単純に少年時代は暇だったのだと、言ってしまえばそれだけの話で、部活も遣らず、勉強にも不熱心で、女誑しでもない十代の頃の私は、兎に角時間を持て余していた。特に夏休みなどの長期休暇は、余りにも遣るべきことが無くて退屈で死にそうだった。到底アクティブとは言い難い陰気な少年であった私は、本を読む為の時間を捻出する必要さえなかった。時間は幾らでも無限に氾濫していたからである。だが、それは単に私が非社交的で非活動的な性格であり存在であったということだけが、恐らくは理由ではないだろう。社会人になってから改めて痛感するのは、子供というのは輝かしい有閑階級であるという厳粛な事実だ。少なくとも私に限って言えば、高校卒業と大学入学の端境期に思い立ってバイトをしたいと言い出したら、父親から「学生が何故働く必要がある。金なら幾らでも出してやるから学業に専念しろ」と叱られるような家庭に育った。少なくとも現代日本の平均的な勤人に比べれば、団塊の世代の掉尾に位置する私の父親は裕福な男であった。私の母親でさえ、私が中学へ上がった頃に小遣い稼ぎの積りで働こうとしたら、父親から「俺の給料に不満があるのか」と叱られたそうだ。つまり、私は経済的な不自由というものを知らない少年期を過ごす僥倖に恵まれたのである。

 経済的な不自由に晒されることのない家庭に育まれた子供、これは無論、幸福の究極的な形態の一つである。私は大学を一年で中退して両親に無駄金を払わせたが、そういう暴虐無恥の所業に手を染めることが出来たのも、金の有難味も恐ろしさも学ばずに育ったことが背景にあるだろう。そして私には、無限に退屈な日月だけがたっぷりと与えられていた。大学へ入ってから、親の監視が余計に行き届かなくなり、私は本格的に「怠業」という悪習を覚えた。通学途中に乗り換える新宿駅で、目指すべき京王線の地下ホームへ往かずに、そのままふらふらと東口の繁華街へ彷徨するというのが、当時の私の御決りの行動規範であった。

 幼少期の私は、単純な愉しみと好奇心ゆえに、多くの本を手に取って貪った。十代後半の所謂「思春期」以降は、どうやって生きていけばいいのか、自分は何を欲しているのか、という切実で青臭い疑問に衝き動かされるように書物のページを捲った。大学をサボり、夏の日盛りの靖国通りや、新宿三丁目駅の近くのドトールで、飲み慣れない苦いアイスコーヒーと、キャスターマイルドを伴侶に選び、柄谷行人江藤淳浅田彰や、澁澤龍彦舞城王太郎イアン・マキューアンや、その他様々な書物を読み耽りつつ、私は何時も不可解な焦躁に追い回されていた。こんなことをしていて、何になるだろう。幾ら本を読んでも、私の人生そのものに纏わる個人的な真理の手懸りは、一向に見つかる気配もなかった。書物の中には様々な叡智が含まれ、困難な世界を渡り歩き、辛うじて生き延びる為に格闘してきた先人の息遣いが満ちていたが、それは私自身の呼吸の産物ではなかったからだ。私は私自身の選択と決断に基づいて生きる道程を定めなければならなかったのに、臆病な神経ゆえに、怠業という形で結論を延期し続けることだけが、当時の日常を形作る薄汚い摂理であった。私は何も決めず、総てを先送りにして、破局の日の訪れを免かれることだけに関心を示した。アルバイトに明け暮れ、稼いだ金を煙草や酒に費やして、親の苦衷など顧みようとも思わなかった。

 最近、改めてちゃんと本を読もう、その為の時間を確保しようという考えが強まってきた。一番の特効薬は、スマホの電源を切って遠くへ抛り出すか、出先ならば鞄の中に注意深く閉じ込めることだ。そうすれば、表層的な情報ばかりを薄皮を捲るように辿り続ける、あの空虚な浪費の時間を最小限に抑制することが出来る。細切れの時間の使い道に、スマートフォンは極めて有用な選択肢であろうが、指先を操って小さな画面に眼を凝らすことにばかり神経を遣っていると、何時まで経っても読書が進まないのだ。

 それは或る意味では、遠い少年時代、或いは「大人」以前の季節に今一度立ち帰る為には、必要な作業なのかも知れない。大人であることは、社会的な役割を引き受けることであり、言い換えれば「仮面」を上手に着脱する技術に習熟することだ。それは確かに人間的な成長においては必要な事柄だが、何時の間にか「仮面」を「素顔」と取り違えるような愚かな錯誤に囚われないとも限らない。私は何らかの役柄を演じる以前に、一個の奇怪な人間なのだから、そういう自分を忘れずに呼び覚まし続ける為には、読書というのは打って付けの営為なのである。夢中でページを捲ること、そして読み取った内容に就いて独善的な思索を巡らせること、それは私にとって必要な作業である。「愚昧な子供」としての私を常に頭の片隅へ鎮座させておくこと。そうしなければ何時か、「仮面」は生身の皮膚に吸いついて二度と切り離せなくなるに違いない。