サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「少年性」をめぐる惨禍 大江健三郎「飼育」を読んで

 大江健三郎芥川賞受賞作である短篇小説「飼育」を読み終えた。

 作家の初期の傑作長編小説として名高い「芽むしり仔撃ち」にも通底する独特の空気を湛えた、この美しい小説は、独自の文体を駆使して、無垢であると同時に淫らで狂暴でもある「少年」の心理と実存を生々しく精細に描き出している。

 筋書きは異なるが、この「飼育」という作品は「芽むしり仔撃ち」の先駆的な原型という性質を有しているように感じられる。その共通点は概ね二つの主題に集約されると言い得るだろう。一つは「少年」であり、もう一つは「監禁」である。そして、それらの主題の背景には遠くからぼんやりと伝わって来る不吉な音響としての「戦争」が横たわっている。この「戦争」から遠く隔てられた領域で暮らしていた筈の少年の世界に、外部から致命的な暴力が覆い被さり、一種の理想郷として作り上げられた「子供だけの世界」が残酷な破綻を迎えるという一連の筋書きは、当時の作者の眼には単なる恣意的な思いつきの範疇を超えた、宿命的な構図のようなものとして映じていたのではないだろうか。

 作者は「子供だけの世界」を人工的に構築する為に必ず「監禁」という条件を準備する。「飼育」の舞台となる山間の「村」は長雨の影響で「町」への道を閉ざされ、「芽むしり仔撃ち」の疎開少年たちは、疫病の蔓延を危惧する大人たちの手で「村」に幽閉される。その「監禁」と「隔絶」が、子供たちだけの世界を生み出し、その精神や思想を純化することになる。

 大江健三郎は、これらの重要な初期作品において、絶えず「子供」の側から世界の実相を眺め、その美しさと醜さの総てを捉えようとしている。この文学的な企図が、所謂「大人」たちによって作り上げられた社会に対する批判的な敵愾心を孕んでいることは論を俟たない。彼は飽く迄も「少年」の論理に身を挺することによって、「大人」の眼では把握することの困難な世界の側面を剔抉しているのである。

 だが、純粋な少年の視線を通じて、大人たちの穢れた側面を暴露し、糾弾するというだけの企みであるならば、これらの小説が奇怪で不穏な緊張感を終始、纏い続けることは出来なかったであろう。作者は「少年」の論理と抒情を極めて生々しく忠実に再現しながら、同時にその避け難い脆弱さ、それが滅び去ることの必然性を明瞭に刻印することを忘れない。言い換えれば、彼はそうした「少年性」の救い難い矛盾と軋轢を、独特の屈折した文体によって入念に捉え、精確な表現を与えるべく悪戦苦闘しているのである。この孤独で果敢な奮闘が、作者の文体から単純な明快さを奪い取ったのは、必然的な現象であると言い得るだろう。

 無論、そうした「少年性」の不可避的な敗北に対して、作者が大人びた賢明な諦念で報いているとは言い難い。寧ろ、そのような物分かりの良い「和解」を排除して、どうにも遣り場のない、袋小路のような矛盾そのものを文学的に表出することが、初期の大江健三郎の仕事が有していた重要な価値だったのではないかと思われる。彼は「少年性」と「社会性」との絶えざる軋轢や衝突を詳さに捉え、描き出しながら、そこに絶望と憤怒の両面を注ぎ込んでいる。彼は大人たちの手で自分は「罠に嵌められた」という感覚への執着を、決して容易く抛棄しようとは考えない。こうした「被害者としての少年」という特権的な主題の背後には恐らく、日本が味わった「敗戦」という経験が濃密に滞留している。

 敗戦によって日本という国家を取り巻く思想的な環境が激変したことは、歴史的な認識として受け容れられている。この急激な「転回」が、日本の「少年少女」に齎した影響と衝撃は計り知れない強度を有していただろう。「大人たちによって自分たちは欺かれていたのだ」という精神的な傷口が、大江健三郎という作家の来歴には深甚に浸透しているのではないか。例えば「芽むしり仔撃ち」において、語り手を含む感化院の少年たちは一貫して、大人たちの徹底的な暴虐に苛まれる存在として描かれており、しかもその虐待に匹敵するだけの「罪悪」の内訳は殆ど明示されない。子供は無条件に暴虐の被害者であり、大人は同様に加害者であるという認識の構図は牢固として抜き難い。「死者の奢り」においては単なる理不尽な手違いとして示されるに留まっていた「被害」の構造は、「飼育」においては黒人の兵士の裏切りとして、「芽むしり仔撃ち」においては疫病を懼れる疎開先の大人たちの残虐な詐術として、陰惨な印象と共に明示される。「黒人兵」も「疎開」も、戦争という一つの強靭で深遠な主題が齎した、一方的な存在=措置であることは言うまでもない。作家が戦争犯罪を糾弾し、戦後民主主義に異様な執着を見せる背景に、こうした「被害」の宿命的な原像が関与していることは、概ね確かな事実であろうと私は思う。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)を読了した。

 この錯綜した筋書きを持つ長大な物語の概要を、何かしらの理論的な構図の中に縮約して織り込めるという自信は、少なくとも現在の私の持ち物ではない。敢えて私見を述べるならば「未整理の作品」という形容が相応しいように感じられる、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては、総ての伏線や謎めいた要素が充分に回収されたり解決されたりしているとは言い難い。だが、それらの整理されない細部と細部の整合性を確保する為に強引に理路を切り拓こうとすれば、この小説が小説として構築された意義が失われてしまうようにも思える。

 「ねじまき鳥クロニクル」の主要な筋書きが、失踪した妻クミコとの平穏な生活の「奪還」に存することは確かである。だが、その主要な筋書きに限ってさえ、それが具体的にどのような構造的真実を指し示しているのか、明瞭に把握することは困難である。読者は自らの曖昧な感受性、或いは主観性を重要な通路として用いることで、この物語の多義的な曖昧さの樹林へ分け入るしかない。

 この物語が重視している主題は多岐に渡っている。それは「暴力」であり、「分裂」であり、「穢れ」であり、「場所」であり、「暗闇」である。それらの決して一義的とは言い難い重層的な言葉の群れを組み合わせて、作者は壮大で複雑な伽藍を築き上げている。それらの主題は決して明瞭な結論や図式のようなものには結び付かず、そのまま併存を命じられているように見える。言い換えれば、そこには不可解な「夢」を解析するような類の困難と、具体的な手応えの欠如が絶えず附随している。

「つまりね、今回の一連の出来事はひどく込み入っていて、いろんな人物が登場して、不思議なことが次から次へと起こって、頭から順番に考えていくとわけがわからない。でも少し離れて遠くから見れば、話の筋ははっきりしている。それは君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。大事なのはそのシフトなんだ。もし君が本当に誰かほかの男と肉体的な関係を持ったとしても、それはあくまで副次的なものに過ぎない。見せかけに過ぎない。僕が言いたいのはそういうことだよ」(P537)

 この「僕」の科白はそのまま「ねじまき鳥クロニクル」という、平明な文章で綴られた難解な物語の、簡明な概略であるように聞こえる。重要なのは「二つの異質な世界」における「移行」であり、定められた厳格な「境界」を踏み越えるという所作である。実際、語り手の「僕」は「井戸」の奥底に潜ることで「壁抜け」という奇妙な体験を実行に移すことになる。彼は「夢」と「現実」の境界線を乗り越えて往還し、重なり合う二つの世界に向かって自分自身を分裂させる。

 こうした重層化と越境のモチーフは、村上春樹という作家にとっては恐らく極めて重要な意義を有しているに違いない。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも「海辺のカフカ」でも「1Q84」でも、異質な世界の不可解な繋がり、或いはその併走が、物語を駆動する根本的な原理としての役割を附与されているからだ。

 自分の信じている日常的=経験的な現実が、異質な世界と重なり合って存在しているという一種の強迫的な観念は、村上春樹の紡ぎ出す物語においては、本質的で堅牢な枠組みとして機能している。それは日常的な私生活の平穏な性質に筋金入りの愛着を示す村上春樹という作家にとって、何を意味するのだろうか? 彼は平穏な私生活の恐るべき脆弱さに就いて、総毛立つような危機感を有している。それは極めて簡単に破壊され得るものであり、外部から到来する不可解で想定し難い危機の前に、呆気なく覆され、二度と後戻りすることの出来ない潰滅的な状況へ追い遣られてしまう。そうした脆弱な平穏に対する作家の個人的な執着が必然的に、そのような平穏を浸蝕する「異質な世界」への過敏な意識を育むのは、決して理解し難い現象ではないと言えるだろう。

 簡単に破壊される脆弱な私生活、個人的な領域、それが村上春樹の創造する文学的な、或いは「想像的な自我」の立脚する重要な倫理的根拠である。そして「ねじまき鳥クロニクル」においては、そのような性質の想像的自我に対して、考えられる限りの不可解な惨劇が降り注ぐことになる。彼は様々な外在的暴力の到来によって、個人的な領域を徹底的に、致命的に毀損されてしまう。極めて雑駁な要約を行なうならば、この物語は外在的な暴力の象徴としての「綿谷ノボル」を襲撃し、昏倒させることで、一応の解決を示したように見受けられる。だが、それを根本的な解決として承認し得る読者は殆ど皆無に等しいのではないだろうか。綿谷ノボルの死は、個人的な領域を脅やかす巨大な「悪」の消滅に直結すると言えるだろうか? そもそも、綿谷ノボルという人物の「邪悪さ」の内実は、明瞭に描き出されていると言えるだろうか?

 恐らく根本的な意味で、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説は未完成の作品であり、文学的な過渡期を乗り越える為に要請された困難な苦闘の足跡のようなものであると言えるだろう。飽く迄も独断的な私見に過ぎないが、当時の作者は、個人的な領域への頑迷な執着(それ自体の是非を論じるのは無益である)を手放すという形で、倫理的な成熟へ向かいつつあったのだ。それは唐突な印象と共に挿入される「戦争」の記憶によっても傍証される。「戦争」が、個人的な領域とは無関係に、寧ろそれを圧倒的な権力によって踏み躙り、浸蝕するような禍々しい記憶として幾度も語られるのは、作者の倫理的な格闘の存在を暗示している。彼は「自分自身」の問題だけに意識を集中するような実存の形式が、根源的な障碍を抱えていることに、その眼差しを向けている。恐らく、そうした衝動は、この物語を書き始めた当初から意識され、企図されていたものではなく、第三部に当たる「鳥刺し男編」を執筆する過程を通じて明瞭に曝露されたのではないだろうか。第一部「泥棒かささぎ編」と第二部「予言する鳥編」においては、物語の進行や構成、文体の口調などは未だ、個人的な領域に逼塞する如何にも村上春樹的なメンタリティを濃密に帯びているが、第三部「鳥刺し男編」は明らかに、それまでの物語とは異質な雰囲気と構造を備えている。概ね「僕」の一人称で綴られてきた物語に、週刊誌の記事の引用や、笠原メイの手紙、或いは「真夜中の出来事」と題された三人称のパートなど、多様な表現の形態が一挙に混入し始めるのだ。この重要な変貌は、作者のメンタリティの倫理的な変貌と、緊密な相関性を有しているように思われる。

 個人的な領域から、公共的な領域へと移行することで、物語の構造的な原理に重要な訂正と変更が加えられる。この変貌は決して完璧に成し遂げられているとは言い難い。寧ろ作者自身が、突如として押し寄せてきた倫理的な難問に混乱しているように感じられるほどだ。だが、作者は断じて惰弱な撤退を選ぼうとはしていない。彼は困難な問題に立ち向かい、辛うじて生き延びることに成功した。本当の戦いの始まりは「ねじまき鳥クロニクル」以降の作品群に持ち越されることになるだろう。それは「自己」という閉域の限界を打破する為の、凄絶な死闘=私闘の記録である。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

 

 

二〇一七年四月の端書(銭金の亡者)

 読むことに熱心でいると、次第に書くことが疎かになるのは、難しい問題であるとも言えるし、当然の問題であるとも言える。読むことと書くこと、何れが劈頭を飾るべき要素であるか、わざわざ小難しく考えずとも、読むことが先決であるに決まっている。生まれてから一文字も読まないで、自在に文字を書き綴り、自分の思考や雑念の不安定な航跡を眼に見える形に置き換えるなど、出来る筈もない。

 先ほど、漸く勇気を振り絞ってAmazonアフィリエイト・プログラムに登録の申込みをした。以前にも一度試みたことがあったが、極めて微々たるアクセスしか集められない分際で、目先の金を欲して、そういう社会的な仕組みに手を出すのは、卑しく浅ましい心根であるような気がして、踏ん切りがつかなかった。それから暫く経つ。以前に比べれば、読者登録の数も増え、アクセスの平均値も上がった。そろそろ、図々しい行為に及んでも、看過される頃合いではないか。無論、今でも「サラダ坊主日記」が「零細」の称号に相応しい水準の運営状況であることは否み難い酷薄な現実であるが。

 審査を無事に通過出来るのか分からないが、自分の書いたものが少しでも経済的な利潤に繋がるかも知れないという希望(全く漠然とした希望だ)を持つことは、少なくとも悪い気分ではない。尤も私は、濡れ手に粟の大儲けを志すほど、愚昧な脳味噌の持ち主ではないと一応は自負しているので、ブログの記事で飯を食おうなどと、気宇壮大な妄想に現を抜かすことはないと断言し得る。ただ、千円でも二千円でも、或いは数百円であっても、つまりキャスターマイルド一箱分の金銭でも、本業以外の経路で捻り出すことが出来たら、苦しい家計の足しにもなるだろうという、実に慎ましく純朴な根性の為せる業なのである。

 本を読み、感じたことや考えたことを文章に仕立てて、ネットの海原に浮かべて見ず知らずの衆目に晒す。それだけでも随分と厚顔無恥の所業であることは疑いを容れないし、そうした自己顕示欲が既に充分浅ましいものであることは無論、理解していない訳ではない。だが、そうした欲望を、他人の眼を殊更に気に病んで腕尽くで封じ込めるのは、いささか不健全な選択であり、心身の健康には余り好ましいとも思われない。

 最近は余り、アクセスの増減ということが気にならなくなった。それより、熱心に本を読んで、その感想を書くという極めて個人的で地道な作業に精励したいという気持ちが強い。だから、ブログの更新頻度が鈍っている訳だが、それで誰かに迷惑を及ぼす気遣いもない。淡々と日々を暮らし、そして小銭を稼ぎたい。稼いだ小銭で莨一箱、書籍一冊の費用が賄えるなら、それだけで見える景色の質は変わってくるだろう。

 この言い訳がましい文章は、アフィリエイトの審査に通った暁に、俄かにブログの記事へAmazonのリンクが濫造され、狭い世間からサラダ坊主も結局は金に眼が眩んだ愚者に過ぎないかと呆れられることを危惧し、その際の読者諸賢の冷酷な視線を少しでも和らげようとする、消極的な保身を目的として著述されたものである。審査に落ちた場合には、単なるほろ苦い想い出の破片として、雪融け水の奔流の彼方へ消え去るであろう。家計の足しなど見果てぬ夢、結局は単なる電気代の濫費という虚しい宿命の前に、情けなくも跪くことになるかも知れない。

「書く」という営為は、一様ではない

 チェコに生まれ、後にフランスへ亡命したミラン・クンデラは、「小説の技法」(岩波文庫)という極めて刺激的な文学論の集成に収められた「六十九語」という興味深いエッセイの中で、小説家と呼ばれる人種の厳密な定義を試みている。この定義はそのまま、クンデラの非常に意識的で明敏な文学的価値観の本質へ通じていると言えるだろう。

 私はサルトルの短いエッセー「書くとは何か」を再読する。彼は一度として小説、小説家という言葉を使わず、散文作家についてしか語っていない。正しい区別と言うべきだ。

 作家は独創的な思想と模倣しがたい声をもち、(小説をふくむ)どんな形式でも役立てることができる。作家が書くものはすべて、彼の思考の刻印を残し、彼の声によって伝えられる以上は、彼の作品の一部になる。ルソー、ゲーテシャトーブリアン、ジッド、カミュ、マルロー。

 小説家はみずからの思想を重視しない。彼は手探りで実存の未知の側面を明らかにしようとする探索者なのだ。彼はおのれの声ではなく、彼が追求する形式に心を奪われるのであり、みずからの夢の要請に応える形式のみが彼の作品の一部になる。フィールディング、スターン、フローベールプルースト、フォークナー、セリーヌ

 作家は彼の時代、国民の精神的な地図、思想史の地図にみずからの名前を登録する。

 ある小説の価値を把握できる唯一のコンテクストは、小説の歴史というコンテクストである。小説家はセルバンテス以外の誰にも釈明する必要はないのだ。

 この私的な定義が普遍的な妥当性を備えているのか否か、私には判定する能力がない。だが、こうした緻密で神経質な定義に固執するクンデラの思考に、単なる呆れ顔を向けただけで踵を返すのは少しも魅惑的な選択ではない。彼は、このような微妙な定義を明示することによって、何を語ろうとしているのだろうか?

 小説家は自分自身の思想や実存には関心を示さない。そもそも小説が根底的にフィクションであるという事実は、小説が常に小説家自身とは異なる「他人の顔」(©安部公房)によって物語られるという原理的な宿命を内包している。つまり、小説を書き綴るとき、小説家は不可避的に「他人の顔」を被って様々な出来事に就いて言葉を費やさなければならないのだ。そのとき、敢えて自らの生身の声で語ろうとするならば、小説はその固有性を喪失することを強いられるだろう。

 小説家は自分自身への関心を上回るほどに、他人への興味が強い生き物なのだろうか。小説家ではない私には、よく分からないけれど、確かに自分とは異質な存在への強烈な関心を持続させない限り、架空の人物が動き回る形のない異界の悲喜交々を、悉く紙上へ書き表すなどという酔狂に囚われ続けることは困難であろう。存在しない他人への持続的な関心、それは小説家が小説を書き続ける為に要求する最も基礎的な条件であるに違いない。

 その意味では、私は自分という存在そのものに関心が強いのかも知れない。存在しない他人の一挙手一投足を頭の中に思い浮かべて、適切な表現を研ぎ出すことに、濫れるような情熱を持つことが困難な性格であることは、恐らく確かな事実である。私は私という人間の思想や価値観に愛着を持っており、他人の価値観に真剣な関心を寄せることは余り多くない。他人の価値観に真剣な関心を寄せることの苦手な人間が、架空の他人の行状に関して、豊饒な想像力を延々と作動させ続けるという荒業に適性を示し得る理由は存在しない。言い換えれば、小説家は他人の実存の内側に自分自身の人生に関わる重要な答えや真実を見出そうとする種族なのだ。

 私は過去に幾度も小説を書き、その一部は、このブログにも投稿している。だが、まともに小説を完成させられた経験は数えるほどしかなく、しかも私が生み出した架空の人々は存在感の稀薄な亡霊のようなものばかりだ。そこに血の通った生身の人間の息吹を感じ取ることは極めて困難である。そこに活き活きとした人間の実像が写し取られているとは到底言い難い。だが、私は書くという営為そのものには、常識的な水準以上の執着を懐いていると自負している。

 小説家とは、自分自身に就いて語ることが苦手な人種であると、クンデラは述べている。

 「芸術家はみずからが生きなかったと後世に信じさせるべきだ」とフローベールは言っている。モーパッサンはある有名作家双書にじぶんの肖像が掲げられるのに反対して、「ひとりの人間の私生活および姿は公衆のものではない」と言った。ヘルマン・ブロッホはじぶん自身、ムージルカフカについて、「私たち三人にはいずれも真の伝記はないのだ」と語った。これは彼らの人生には出来事が乏しいということではなく、特別に扱われたり、公衆の眼に曝されたり、伝記にされたりすべきものではないということなのだ。なぜ詩を書かないのですかと尋ねられたカレル・チャペックの答えは、「私はじぶんのことを語るのが嫌いだからだ」というものだった。真の小説家の特徴は、じぶんについて語るのが好きではないということである。

 クンデラの言い分を信用するならば、こんな風にブログを運営して自分の考えや記憶を誰にも頼まれていないのに公共的な領域へ開示している私のような人間が、小説を書くという営為に不適格な人間であることは、当初から明白であるということになるだろう。小説家は、自分自身に就いて語っているように見える体裁を選んだ場合でも、決して自分自身に就いては語らないのだ。寧ろ彼らは、自分自身さえも、一個の異質な他人として取り扱うことを厳格な流儀として採用しているのである。

 

小説の技法 (岩波文庫)

小説の技法 (岩波文庫)

 

 

経験的現実の解体 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第2部 予言する鳥編)

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』(新潮文庫)を読み終えた。

 読後の印象としては、長い物語が漸く具体的に、本格的に動き出したという感じである。一巻を通じて緻密に、慎重に、丁寧に整えられていった物語の基盤が、語り手の妻であるクミコの失踪という不吉な事件によって、強制的な転調を迫られ、いよいよ受動的な立場から脱け出さねばならなくなった、というのが私の個人的な要約である。

 「第一部 泥棒かささぎ編」の感想文でも述べた通り、村上春樹の作り出す主人公は概ね受動的な姿勢を示し、積極的な意図や計画に基づいて主体的な行動に踏み切るということが稀である。どちらかと言えば一歩現実から引き下がり、個人的で私的な領域の平和を何よりも優先する構えを維持し、物語の流れに対して批評的で客観的な関係を保とうと試みるのが、村上春樹的な主体の持つ典型的なメンタリティである。

 だが、少なくともこの物語において、村上春樹的なメンタリティは根本的な変更を強いられているように見える。その直接的な原因は無論、妻であるクミコの唐突な失踪という、いわば外在的な「強いられた出来事」によって齎されており、その意味では、彼は未だ主体的な意志の積極的な所有者であるとは言い難い。しかし、妻の失踪という予期せぬ悲劇(夫の境遇と立場から事態の構図を眺めれば、これほど悲劇的な現実は他に考えられないだろう)に見舞われた彼は漸く、自分自身の根源的な実存の様態に懐疑を向けることになる。当然のことながら、自分自身の実存の様態に満足して、そこに安んじている人間が、何らかの物語の主役として、事態を牽引していくということは有り得ない。あるがままの現実を肯定しているのならば、何故、敢えて物語という不可解な構造に挺身する必要があるだろうか? 何の問題もなく、現状の追認だけで然したる不都合も生じない境遇ならば、物語という装置を導入する義務はない。何故なら、物語という装置は必ず人を今、この瞬間に佇んでいる場所から、異質な時空へ連れ去ることを自らの使命として背負っているものだからだ。

 自足、それ自体に倫理的な罪科を担わせるのは余りに酷薄な措置であろう。だが、その自足が知らぬ間に他人の心へ不穏な陰翳を投影しているとしたら、或いはその自足が誰かの「飢渇」の上に辛うじて成り立っているのだとしたら、そのような事態は暗黙裡に、物語の駆動を待望していると看做すことが出来る。そして語り手の「僕」は、つまり岡田亨は、それまでの安定した個人的な領域から、血腥く暴力的な世界へ踏み出していくことになる。彼はそれまでの安定した個人的な領域が隠蔽し、黙殺していたものとの直面を命じられる。

 その第一歩として彼が選択した具体的な行動が、近所の空き家の庭に穿たれた「涸れた井戸」の中へ入ることであったというのは、如何にも奇妙な話のように聞こえる。それが事態を解決する為の最も建設的で合理的な選択であるとは到底考えられないからだ。しかし、そうした常識的な解釈に依拠して「僕」の行動の無意味な性質を指弾しても、読解は進捗しない。必要なのは、涸れた古井戸の底へ閉じ籠もって時間を過ごすことの「意味」を捉える為に思索の工夫を凝らすことである。端的に言えば、彼は誰にも邪魔されることのない孤絶した空間の奥底で、失踪した妻との思い出を改めて綿密に回想することに「井戸の中の時間」を充てている。だが、井戸における経験の含意は、それだけには限られない。

 でもいくら努力しても、僕の肉体は、水の流れにさらわれていく砂のように、少しずつその密度と重さをなくしていった。まるで僕の中で無言の熾烈な綱引きのようなことが行われていて、僕の意識が少しずつ僕の肉体を自分の領域に引きずり込みつつあるようだった。この暗闇が本来のバランスを大きく乱しているのだ。肉体などというものは結局のところ、意識を中に収めるために用意された、ただのかりそめの殻に過ぎないのではないか、と僕はふと思った。その肉体を合成している染色体の記号が並べかえられてしまえば、僕は今度は前とはまったく違った肉体に入ることになるのだろう。「意識の娼婦」と加納クレタは言った。僕は今ではその言葉をすんなりと受け入れられるようになっていた。僕らは意識で交わり、現実の中に射精することだってできる。本当に深い暗闇の中ではいろんな奇妙なことが可能になる。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 pp.135-136)

 このような「解体」の表現は「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては幾度も執拗に頻出する。一般的に信じられている経験的な現実の秩序が危うく揺らぎ、壊れ、砕けて、根本的な変質を遂げてしまうこと、そのような奇妙な「体感」が繰り返し語られる。その表現の反復は何を指し示しているのだろうか? 意識と肉体の比重が乱れ、均衡が崩れてしまうということ、言い換えればそのような変質を得る為に「井戸」の暗闇へ侵入すること、それが物語の投じる課題への有効な対策として機能し得ること、これらの奇妙で難解な諸条件は、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説世界の根本的な原理を構成しているように見える。

 「本当に深い暗闇の中ではいろんな奇妙なことが可能になる」という一文は、この井戸の奥底の暗闇が、或る象徴的な機能=役割を担った領域であることを暗示している。「いろんな奇妙なこと」を可能にする為に、岡田亨は「涸れた井戸」の奥底へ自ら足を踏み入れたのだ。だが、それは一体、どのような建設的企図を孕んでいるのか?

 僕は暗闇の中で両手の十本の指先をきちんと合わせた。親指は親指に、人さし指は人さし指に。僕の右手の指は左手の指の存在を確認し、僕の左手の指は右手の指の存在を確認した。それからゆっくりと深呼吸をした。意識について考えるのはもうやめよう。もっと現実的なことを考えよう。肉体が属している現実の世界について考えよう。そのために僕はここにやってきた。現実について考えるために。現実について考えるには、現実からなるべく遠く離れた方がいいように僕には思えたのだ。たとえば深い井戸の底のような場所に。「下に下りたいときには、いちばん深い井戸の底に下りればいい」と本田さんは言った。壁にもたれかかったまま、僕は黴臭い空気をゆっくりと吸い込んだ。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.136)

 「現実について考えるには、現実からなるべく遠く離れた方がいい」という見解の是非に就いては断定を避けたいと私は思う。この物語における「井戸の経験」は、物事の総体を把握する為には遠くから俯瞰した方が良いなどという次元の単純な解釈とは相容れないように感じられるからだ。

 「井戸の経験」を通じて、彼は記憶の深淵に遡行し、自分が何処で何を間違えたのか、何処で潮目が変わったのか、それを探究することに労力を費やした。その結果として、一つの手懸りに逢着する。

 たぶんあの時から何かが変わり始めたんだ、僕はふと思った。間違いない。あの時を境として僕のまわりで流れが確かな変化を見せ始めたのだ。今になって考えてみれば、あの堕胎手術は僕ら二人にとって、非常に重要な意味を持つ出来事だったのだ。でもその時には、僕はその重要性がうまく認識できなかった。僕は堕胎という行為そのものにあまりにも強くとらわれすぎていた。でも本当に大事なことは、もっと別のところにあったのかもしれない。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.382)

 無論、これは堕胎を巡る些細な心の擦れ違いが、知らぬ間に重大な亀裂へ繋がっていたという、凡庸な筋立ての一環ではない。それほどに単純な話ならば、これほど入り組んだ物語の展開を組み上げるのは、単に冗長な手続きでしかないだろう。重要なのは、クミコが「僕に言えない何か」を昔から抱えていたということ、その何かが失踪の起点であるということに存している。

 第二部の終盤、岡田亨は区営プールで「井戸」の幻想に包まれ、そこで一つの真実に到達する。何故、それが真実と判定されるのか、その論理的な根拠が示される訳ではない。だが、それを真実と判定しない限り、私たち読者は「ねじまき鳥クロニクル」という小説を支配する根本的な原理に手を触れることが出来ない。

 それから何かがさっと裏返るみたいに、僕はすべてを理解する。何もかもが一瞬のうちに白日のもとにさらけ出される。その光の下ではものごとはあまりにも鮮明であり、簡潔だった。僕は短く息をのみ、ゆっくりとそれを吐き出す。吐き出す息はまるで焼けた石のように固く、熱い。間違いない。あの女はクミコだったのだ。どうしてこれまでそれに気がつかなかったのだろう。僕は水の中で激しく頭を振った。考えればわかりきったことじゃないか。まったくわかりきったことだ。クミコはあの奇妙な部屋の中から僕に向けて、死に物狂いでそのたったひとつのメッセージを送りつづけていたのだ。「私の名前をみつけてちょうだい」と。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 p.425)

 この重要な「発見」が「井戸」の幻想を通じて齎されたことは注目に値する。この「井戸」が私たちの暮らす経験的な現実の秩序を解体するものであることは歴然としているように思われる。そこでは経験的な現実と幻想的な「真実」との境界線が融解している。そして村上春樹が紡ぎ出す物語の目的は、経験的な事実を説明することには存しない。彼が捉えようとしているのは、もっと象徴的で、暗示的で、不可解な機構のようなものだ。それは分析的な言葉では捉え難い、不透明な輪郭と性質を備えている。彼はその曖昧な語法を駆使して、一体何を把握しようと試みているのだろうか?

 彼の目的がクミコを取り戻すことにあるのは明白な事実である。だが、クミコが失踪した理由は極めて観念的な表現を通じて語られており、私たちはそれが如何なる経験的事実を指し示しているのか、明瞭に理解することを事実上、禁じられている。

 私とあなたのあいだには、そもそもの最初から何かとても親密で微妙なものがありました。でもそれももう今は失われてしまいました。その神話のような機械のかみ合わせは既に損なわれてしまったのです。私がそれを損なってしまったのです。正確に言えば、私にそれを損なわせる何かがそこにあったのです。私はそのことをとても残念に思います。誰もが同じような機会に恵まれるわけではないのですから。そしてこのような結果をもたらしたものの存在を、私は強く憎みます。どれほど私がそのようなものを強く憎んでいるか、あなたにはわからないでしょう。私はそれが正確に何であるのかを知りたいと思います。私はそれをどうしても知らなくてはならないと思うのです。そしてその根のようなものを探って、それを処断し、罰しなくてはならないと思うのです。(『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』新潮文庫 pp.232-233)

  間宮中尉も、加納クレタも、そしてクミコも、共に「自分」の崩壊という危殆に直面し、苦しめられている。彼らは経験的な事実が解体してしまった後の、不可解な曠野の中で生きることを余儀無くされている。何が彼らの「自分」を崩壊させたのか? 加納クレタに関して言えば、それは綿谷昇との奇怪な性交であり、間宮中尉の場合には、それは満州の井戸で味わった強烈な陽光の経験である。そこに何らかの共通項を見出すことは可能だろうか? 間宮中尉は人生の「核」を光に焼かれて失い、加納クレタは綿谷昇との性交を通じて、自分というものの流失を経験した。こうした「個人的なもの」の崩壊と破綻は、一体何を意味しているのか? 率直に言って、今の私には未だ、その答えを導き出す力が備わっていない。

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

 

間もなく、春が来る

 何処の世界でも似たり寄ったりだろうが、三月から四月にかけての季節というのは、出会いと別れが目紛しく混じり合う時期で、何だか頭の中が遽しく煮え立つような心持がする。私の勤め先でも大幅な人事異動の辞令が日夜飛び交う頃合いで、一年間同じ店舗で一緒に働いてきた昨春入社の新人の女の子も、蛹を脱ぎ捨てるように他の店舗へ移っていった。春から新規に立ち上げる店舗の二番手として抜擢されたのである。水が合うのか、小売業の現場というのは特殊な世界であるにも拘らず、随分と活き活きと働いていた子であった。前向きに愉しんでいる所為か、色々な事柄を習得するのも順調で、新入社員とは思えぬ風格を垣間見させることも稀にはあった。

 アルバイトのスタッフも、大学四年生の古株たちは一斉に就職の為に離陸していった。その途端に、今では先輩たちの影に隠れて目立たなかった子たちが、不意に雪の下で眠っていた植物の群が目覚めるように、仕事の表舞台へ飛び出して来たように感じられるのは、鈍感な私の個人的な錯覚であろうか。

 遽しさに引き摺られるようにブログの更新が数日途切れていたが、別に誰が困る話でもなかろう。尤も、何にも考えずに仕事ばかりしている訳ではなく、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の第二部を読むことに時間と労力を注いでいるのである。読み終えたら、また感想文を書きたいと考えている。

 村上春樹の小説は、文章そのものは極めて平明で、決して難解には見えない。時折挿入される奇矯な比喩も、慣れてしまえば驚かない。だが、それらの平明な文章を紡ぎ合わせて、総体的な地図のようなものを描こうと試みると、途端に焦点が合わなくなり、難解という印象が膨れ上がるのだから不思議だ。尤も、小説は主題に回収されるべきものではないという保坂和志的な価値観に依拠するならば、それは小説の欠点ではなく、寧ろ本領であると看做すべきだろう。

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えたら、何を読もうかと頭の片隅で考えながら、新潮文庫のページを繰っている。前に読みかけて途中で放置してしまったオルハン・パムクの「雪」にしようか、いやいや三島由紀夫の「午後の曳航」にしようか、或いは先日、幕張のくまざわ書店で手に取ったボルヘスの「伝奇集」も気になる、などと、候補を挙げ始めれば切りがないが、人生の時間は有限であり、私の知力も有限であるから、何処まで妄想が現実に転化し得るかは、一向に分明ではない。元気に生きている積りでも、どんな不運な星回りに強いられて貴重な命を失うか、それは地上の誰にも判断の下せない究極の難問である。死ぬ時に後悔するような生き方は御免蒙る。だから、限られた時間の中で、私たちは遣れることを着実に熟していかなければならないのだ。

 本を読む、それは気が向いたときにだけ取り組めばいいだけの、ささやかな趣味に過ぎないが、人生が有限であり、知力が有限であるという厳粛な事実、そして世界に存在する書物の無限にも等しい夥しさに眼を配るならば、そのような悠長な考え方に甘んじている訳にもいかない。積極的にページを捲ることで、生きている間に、限界まで自分の世界を広げておかなければならない。死期を迎えてから悔やむのでは遅いのだ。人生は有限であり、書物は無限である。私は成る可く無限の境涯に近付いた上で死にたい。

日常性を蝕むもの 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第1部 泥棒かささぎ編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という長篇小説の第一巻「泥棒かささぎ編」を読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 尤も、この「泥棒かささぎ編」を通読したのは、今回が初めてではない。遡ること十数年前、私が未だ中学三年生だった頃の、高校進学直前の春休みに、誰もいない家で炬燵に浸かりながら、夢中になって貪るように読み終えたのが最初の邂逅であった。松戸駅前の良文堂書店で、分厚いハードカバーの「泥棒かささぎ編」に何故か心を惹かれ、大枚を叩いて購入したのである。いや、或いは中学二年生の終わり、大阪府枚方市から千葉県松戸市へ引っ越して来たばかりの、束の間の平穏な早春の日であったろうか。どちらでも構わないが、兎に角、それが村上春樹の作品との、最初の本格的な接触であったのだ。

 夢中になって読み終えたくせに、私は続きの二冊を読まないまま、今日まで過ごしてきた。奇妙と言えば奇妙だが、別に続きを読まねばならない義理もないと考えることも可能である。未だ作品の全篇を通読した訳ではないので、断片的な感想文となることを御了承願いたい。

 「泥棒かささぎ編」は、長大な作品の導入部に当たる一冊であるから、複数の物語の流れは未だ互いに分岐し、並行したままの状態であり、それらの複数の挿話を包括的に纏め上げる綜合的な視座のようなものは未だ具体的な形では示されていない。語り手である「僕」(岡田亨)は、法律事務所を辞めて求職中の立場であり、家計の財源は妻のクミコの収入で暫定的に賄われている。彼は決して主体的に何かを求めて行動するタイプの人間としては描写されておらず、寧ろ物語の展開に対して、常に受動的な姿勢を有している。物語は、様々な見知らぬ人々から、しかも少なからず奇妙な経歴の持ち主たちから、語り手の「僕」が接触を受けるという形式で進んでいく。彼は主体的な意志に基づいて物語を駆動させる存在ではなく、飽く迄も外部から到来する様々な異形の意志に衝き動かされるという仕方で、物語の枢軸に位置し続けるのである。

 こうした語り手のメンタリティが、極めて村上春樹的な特徴を鮮明に備えていることは、一読すれば明らかである。多くの場合、彼の描き出す主人公たちは不可解な因縁や思いも寄らぬ成り行きに引き摺られ、巻き込まれるような形で、小説の世界に対する介入を強いられる。彼らは自分の意志を適用すべき範囲を常に慎重に制限し、他者の領域へ土足で、或いは独善的に侵入することに対して非常に禁欲的である。この特徴は同時に、彼自身が己の領分を土足で侵犯されることに対して非常に防衛的であるという事実と、明瞭な対照を形成している。

 法律事務所を辞めて、所謂「専業主夫」としての勤勉な生活を送り、次の仕事を探しつつも、今一つ就職の決断に踏み切れずにいる「僕」の人物造形が、こうした村上春樹的メンタリティと親和的な関係にあることは歴然としている。言い換えれば、村上春樹的な主人公たちは「外の世界」=「社会」に対する積極的な関与を望まないという根源的な性質を共通の「魂」として附与されているのである。淡々と家事を営み、穏やかな日常生活の反復に自足しようとする傾向、社会的事件よりも審美的な事象に重要な価値を見出そうとする傾向、公共性の領域よりも個体性の領域に実存の基盤を求めようとする傾向、これらの要素は村上春樹の造形する文学的宇宙の基礎的な原理であり、特質である。

 この特質に別の表現を与えるとするならば、それは「社会的なものに対する絶望」と呼べるだろう。社会的なもの、様々な不特定多数の人間の繋がりによって構成された巨大な体系、その外在的な権力の秩序に対する絶望と諦観と不信が、村上春樹的な世界の基調を成している。その意味で私が想起するのは坂口安吾である。彼は終戦直後の崩壊した社会の内側で最も輝かしい栄光を放った異才であり、個人として生きることの意義を極限まで倫理的に問い詰めた作家であった。彼らに共通しているのは、政治的な解決というものに価値を認めない、孤高の姿勢である。無論、それは時に極端な保守的見解と重なり合ってしまう虞を孕んでいるが、私は、彼らのそういうメンタリティに「潔癖な誠実さ」を感じずにはいられない。政治的な理念に呑み込まれた作家など、語義矛盾に等しいからだ。

 社会的なものに対する絶望の介在は、物語の主体的な生成を妨げる働きを有する。少なくとも私は、そのように仮説を立ててみたいと思っている。常に受動的で、個人的な日常生活の範疇に閉じ籠もっている人間が、積極的に大胆な物語の構築へ力を尽くすということは考えられない。だから、そのようなメンタリティの人間を主役の地位に据えながら、敢えて強引に物語を駆動させようと試みるならば、どうしても筋書きの変化を齎す要因は「外部から到来するもの」として措定されざるを得ない。

 語り手の「僕」は極めて単純な個人的生活を送っているだけの、平凡な人物として描き出されている。しかし、彼は徐々に不穏な訪問者たちの手で、それまでの平穏な日常への耽溺を妨げられるようになっていく。彼は誘われ、導かれるままに奇妙な人物との対話の機会を持ち、単調な孤独の閉域から逸脱することを強いられる。このような筋書きの構成は、一体どのような意味を持つのか? 端的に言って、それは「社会的なもの」の不可避性の証明であると看做すべきであろう。人間はどんなに孤立した、極めて個人的な静穏の日々の中に留まることを熱望したとしても、知らぬ間に忍び寄る外在的な影響力、社会的な関係性の網目から完全に自由であり続けることは出来ない。この簡明な真理を、この「ねじまき鳥クロニクル」は執拗なフーガのように繰り返し訴え、厳かに告示し続けているように見える。

 安閑たる日常が、全く予期せぬ仕方で、外来的な存在によって俄かに損なわれ、深刻な混乱の渦中へ導かれるという経験に、少しも心当たりのない者は珍しいだろう。現に私たちはたった数年前、あの未曽有の大震災と原発事故に遭遇した。もっと年月を遡っても、例えば阪神淡路大震災オウム真理教による化学テロ、アルカイダによる世界貿易センタービルへの特攻など、類似の事例は幾らでも掘り起こし、呼び覚ますことが可能である。個人の意志や感情とは全く無関係に、突発的に襲い掛かる暴力的な事件の力によって、個人の平穏な生活が蹂躙されるという経験は、個別の人間に限って押し寄せる例外的な惨劇ではなく、寧ろ人間という存在に附随する普遍的な宿命なのである。

 個人的な生活、その矜持と尊厳に決して生半可なものとは言い難い執着=愛着を示す頑固な作家である村上春樹が、そのような「突発的で暴力的な事態の到来」に敵意を持つのは自然な流れである。或いは、そのような外界からの暴力的な訪問者に直面したとき、人間はどのように振舞えばいいのか、という倫理的な課題に、彼が切実な関心を寄せるのは当然であると、言い直すべきかも知れない。ミラン・クンデラは、小説という文学的形式の孕む固有の役割を「想像的自我の実存的な検討」と呼んだ。その定義を踏まえれば、村上春樹の文学的な関心は「個人の平穏な日常を踏み躙る突発的な暴力と対面したとき、どのように立ち向かえばいいのか」という倫理的な主題を検討することに存すると言えるのではないだろうか。有名なエルサレム賞の受賞演説「壁と卵」を想起すれば、私が論じている事柄の性質は一層、鮮明になるだろう。彼は常に「壁と卵」の問題に異様な執着の持続を示してきたのだ。

 こうした私的な仮説と拙劣な探究が、妥当な成果に結び付くかどうかは、全篇を通読した後に判断されるべき問題である。従って、本稿はこれで擱筆とする。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)