サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 4

 引き続き、三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)に就いて書く。

④或る芸術家のサディズム的な欲望(「精神」と「感性」の二元論的構図)

 この作品の前半を占める物語の主要な枠組みは、老齢の作家である檜俊輔の迂遠な復讐譚である。彼は過去に数多の「愚行」を積み重ねてきた人物であり、老境を迎えた現在も若い女に懸想して、無惨な失敗に終わっている。彼は今まで幾度も女性に裏切られながら、しかも女性に対する恋着の感情を捨てられないという典型的に愚昧な男性である。

 俊輔が女性全般に対して懐いている個人的な憎しみは、度重なる背信によって培われたものであるが、それが南悠一の有する女性への嫌悪(同性愛者であるが故の嫌悪)と完全に対蹠的な意味合いで合致していることによって、両者の共謀は成立する。但し、俊輔が女性に対して抱懐する感情の論理が、極めて複雑な様相を呈していることに読者は留意せねばならない。俊輔の度し難いミソジニー(misogyny)は確かに、個人史的には彼がこれまで味わってきた女性関係における数々の齟齬と屈辱によって醸成されたものだが、その根底に「精神的なもの」への嫌悪が伏流していることを看過すれば、私たちは「禁色」という作品の或る重要な側面を理解する手懸りを失うことになる。

 それは醜いとしか言いようのない一人の老人の写真であった。尤も世間で精神美と呼ばれるようないかがわしい美点を見つけ出すことは、さして困難ではなかったろう。広い額、削ぎとられたような貧しい頬、貪欲さをあらわす広い唇、意志的な顎、すべての造作に、精神が携わった永い労働の跡が歴然としていた。しかしそれは精神によって築かれた顔というよりは、むしろ精神によって蝕まれた顔である。この顔には精神性の或る過剰が、精神性の或る過度の露出があった。恥部を露わに語っている顔が醜いように、俊輔の醜さには、恥部を隠す力を失った精神の衰えた裸体のような、一種直視の憚られるものがあったのである。

 近代の知的享楽に毒せられ、人間的興味を個性への興味に置きかえ、美の観念から普遍性を拭い去り、この強盗はだしの暴行によって倫理と美の媾合を絶ち切った天晴れな連中が、俊輔の風貌を美しいと言ったからとて、それは彼らの御勝手である。(『禁色』新潮文庫 pp.8-9)

 ここには「精神的なもの」に対する俊輔の半ば自虐的な嫌悪が明瞭に告示されている。過剰な精神性によって蝕まれた醜貌という表現には、精神的なものが肉体的な美しさを毀損するという命題が自然に織り込まれている。それは外面の美しさが内面的な価値によって左右され得る近代的な価値観の反映である。

 近代の特質の一つは「純然たる表面」という価値を否定した点に存する。内面的なものの優位性を高め、個性的なものの価値を称揚する近代的な原理は、美しい肉体と外見を何よりも力強く称揚する古代的な原理(それが本当に古代の特質であるかは別として)の純朴な性質を放逐した。鍛え抜かれた肉体よりも、卓越した知性に大きな社会的価値を認める精神的な「エリーティズム」(elitism)は、俊輔自身の内在的な宿痾であるが、彼の抱え込んだ両義的な苦悩は「精神的女性という手合」(p.23)に対する嫌悪によって齎されている。「精神的女性」に対する嫌悪は、俊輔にとっては辛辣な自己嫌悪に等しい。彼は自らの醜貌を恥じて、外面的なものの価値を謳歌する青春を過ごすことが出来なかった。その不幸な履歴が、彼の実存に「精神性の或る過剰」という特徴を刻印したのである。

 女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何という損失であろう。男の精神性に加えられた何という汚辱であろう。女には精神というものはないのであり、感性があるだけだ。崇高な感性なんていうのは、噴飯物の矛盾であって、出世したさなだむしというに等しい。(『禁色』新潮文庫 pp.22-23)

 この露骨に差別的な言辞に基づくミソジニーの表明は、女性に対する俊輔の両義的な執着を示すものである。彼はどうしようもなく女性に魅了されてしまう性格の持ち主でありながら、自らは過剰な精神性の庇護によって生き延びてきた半生を有している。

 いかな俊輔も嫁の来手がないところからやむをえず泥棒や狂人の女を選んで娶ったというわけではない。世間にはこの有為な青年に思いを寄せる「精神的な」女たちもいたのである。ところが精神的女性という手合は、女の化物であって、女ではなかった。俊輔が恋し裏切られる女は、彼の唯一の長所でもあり唯一の美でもあるところの精神性を、頑として理解しない女に限られていた。そしてそれこそは本当の女、正真正銘の女であったのである。俊輔は美しい女をしか嘗て愛さず、己れの美に自足し、精神性によって何ら補われる必要を認めないメッサリイヌをしか愛さなかった。(『禁色』新潮文庫 pp.23-24)

 彼が求めているのは、精神性によって高められる必要を持たない、純然たる「美しい肉体」であり、或いは純然たる「感性の世界」における愉楽である。過剰な精神性によって蝕まれた肉体を有する俊輔の憧憬が、一切の精神性を排除した美しい女だけを欲するのは自然な理窟である。彼は観念や理窟によって粉飾された美しさに倦怠しているのだ。或いは、精神性に寄り掛かった個性的な美しさに、同族嫌悪を覚えてしまうのだ。

 だが、このような感受性の持ち主自身は明らかに己の肉体に充足しておらず、精神性による補填を日常的に必要としている。言い換えれば、このような感受性自体が既に精神的なものの濃密で邪悪な放射能を存分に浴びてしまっているのだ。若しも彼自身が精神性による補填を享受せず、自らの肉体と感性に埋没した状態で生きていたとしたら、敢えて精神性の有無を、愛する女性の選択に際しての審美的な基準に採用する必要は生じなかっただろう。俊輔の性的な嗜好には、相手の存在から精神的な要素を一切合財剥奪して、単なる物理的な肉体へ還元してしまおうと企てるサディズム的な特徴が露骨に刻み込まれているように見える。南悠一を一種の「芸術作品」に仕立て上げようとする陰謀も、煎じ詰めれば同じサディズム的性向に、その淵源を有しているように思われる。彼が「個性的な美しさ」を軽侮して「普遍的な美しさ」を称揚するのも、同質の感受性の反映であって、あらゆる「個性」が「精神」との間に根本的な契約を締結している事実を考慮すれば、彼が個性を言い訳に用いない絶対的な肉体性に偏執的な愛情を示すのは当然の理窟であると言える。

 個性という観念は、その人間の固有性や自主性を尊重する考え方と不可分であり、言い換えればその人間に固有の「精神」の働きを認めることに他ならない。だが、俊輔のサディズム的な感受性は、情交の相手を純然たる「物質」=「肉体」へ還元することによって最高の興奮に到達する性質のものであるから、彼が「精神」を疎ましげに呪詛するのは自然な現象なのである。だが、相手を肉体へ還元しようと試みる志向性と欲望そのものは、決して肉体と感性の世界から萌芽するものではなく、それ自体は明白に「精神」の産物である。精神的なものへの嫌悪は、肉体の側から発する要求ではなく、飽く迄も精神的なものの内側で生起する分裂的で両義的な感情なのだ。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)

 

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 3

 引き続き、三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)に就いて書く。

③「妻」の視点とストイシズム

 物語の後半で、養子縁組した愛人を悠一に寝取られた男が、逆恨みの余りに悠一の同性愛を告発する手紙を、南家に送り付ける場面が登場する。悠一は自分が異性愛者であることを立証する為に敢えて鏑木夫人を利用するが、その策略は妻である康子に対して思わぬマイナスの影響を与えてしまう。

 ……しかるにすでに康子は自若としていて、生活の中に腰をおちつけ、渓子を育てながら、老醜の年齢まで、悠一の家を離れない覚悟を固めていたのである。絶望から生れたこんな貞淑には、どのような不倫も及ばない力があった。

 康子は絶望的な世界を見捨てて、そこから降りて来ていた。その世界に住んでいたとき、彼女の愛はいかなる明証にも屈しなかった。悠一の冷たい仕打、彼のすげない拒否、彼の遅い帰宅、彼の外泊、彼の秘密、彼が決して女を愛さないこと、その明証の前には、密告状などは些々たるものである。康子は動じなかった。その向う側の世界に住んでいたからである。

 その世界から降りて来たのは、何も康子の発意ではない。彼女はその世界から引きずり下ろされたと謂ったほうが適当である。良人として多分親切すぎた悠一は、わざわざ鏑木夫人の力を借りて、妻をそれまで住んでいた灼熱した静けさの愛の領域から、およそ不可能の存在しない透明で自在な領域から、雑然とした相対的な愛の世界へ引きずり下ろしたのである。康子は相対的な世界の明証にとりまかれた。彼女にとって昔から既知のものでもあり、親しいものでもあった、あのおぞましい不可能の壁にとりまかれた。そこに処する方法は一つである。何も感じないことである。何も見ず、何も聴かないことである。

 康子は、悠一の旅のあいだに、新たに住まなければならなくなった世界の処世術を身に着けた。自分に対してすら敢然と、愛さない女になった。この精神的な聾唖者になった妻は、一見はなはだ健やかに、派手な黄の格子縞のエプロンを胸からかけて良人の朝食に侍っていた。もう一杯珈琲はいかが、と彼女は言った。やすやすとそう言ったのである。(P626-P628)

 この荒寥たる家庭の光景には、愛情に関する心理的な動向の複雑な逆説が絡み付いている。夫が誰のことも愛さないと信じている限り、康子にとって自分が愛されないことは、自分が悠一を愛することの決定的な障碍にはならない。そんな彼女にとって、悠一が同性愛者であるという告発は何ら危機を齎さず、寧ろ彼女の留まっている絶対的な明証の世界の安寧を一層堅固で揺るぎないものに変える福音にも等しい認識である。

 だが、悠一が女を愛し得るのだとすれば、康子が悠一に愛されないという厳然たる事実は、その従前の崇高な特権性を剥奪され、彼女の身分は「誰のことも愛さない美青年に選ばれた妻」という不可解だが絶対的な境遇から一挙に落魄してしまう。彼女の存在は単なる無数の性愛的な選択肢の一つに退嬰し、俗世間に氾濫している凄まじい男女の愛慾の騒乱の世界へ今再び投げ込まれることとなる。この相対性の明証は、彼女がずっと堪え忍んできた絶対的な明証の冷え冷えとした静寂な幸福よりも、遙かに浅ましく低俗で下劣である。少なくとも、康子は最早、己の特権的な不幸を信じることが出来ない。彼女は単に通俗的な意味で「不幸な妻」に過ぎず、そこには神秘的な悲劇性の暗い輝きなど、既に微塵も見出せないのである。

 その相対性の地獄を乗り切る為に、彼女が敢えて「愛すること」を峻拒する生き方を選んだのは、不幸だが賢明な判断であったと言わねばならない。愛し愛されることの堪え難い相対性、あらゆる場所に忍び入り、浸潤している「愛別離苦」の悲劇的な相対性と偶然性、言い換えれば「愛することの絶対的な偶然性」は、彼女がかつて素朴な仕方で夢見ていた「愛し合う男女の幸福」という理想的幻像を粉微塵に破砕してしまう。悠一が誰のことも愛さない絶対的な存在であるとき、彼を結婚という契約によって独占することは、そこに愛情が介在しないとしても、彼女を特権的な幸福の境地へ導いてくれた。彼女は自分の特権的な立場を信じ、その立場を維持する為に献身的な覚悟を示すことが出来た。だが、悠一が鏑木夫人との間に関係を持っていたという「異性愛の告白」は、そのような特権性への信仰を根底から倒壊させてしまったのである。爾来、彼女が悠一のように「誰も愛さないこと」を根拠として、自らの特権的な立場の恢復に努めたのは心理的な必然である。

 悠一はジャッキーの額に苦悩を見出した。

「ジャッキーは寛大だね」と悠一が言った。

「愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。悠ちゃん、僕だって、僕に惚れた男にはあいつ以上に残酷だよ」――そこでジャッキーは、この年になっても自分が年長の外人にいかにちやほやされるかという、にやけた自慢話をいくつかした。

「人間をいちばん残酷にするものは、愛されているという意識だよ。愛されない人間の残酷さなんて知れたもんだ。たとえば、悠ちゃん、ヒューマニストというやつはきまって醜男だ」(P503-P504)

 言い換えれば、康子は「愛する者の寛大さ」を棄却し、敢えて「妻」という役割に絶望的なまでに自身の存在を擬することで、ニヒリスティックな権力を確保し、己の心理的な負担を減殺する道を選び取ったのである。そのとき、寧ろ悠一の側で、ナルシシズムの牢獄の破綻と、康子に対する愛情の萌芽という重要な変貌が起きていたことは、皮肉な巡り会わせであり、作者の厭味で狡猾な計算の賜物であると言える。この残酷な逆転は、この小説が単なる「檜俊輔の陰湿な復讐劇」という簡便なラベリングに収まるものではないことを明瞭に訴えている。

 悠一は妻の出産の現場に立ち会ったことを契機として、檜俊輔が彼の耳目に注ぎ込んだ邪悪なナルシシズムの害毒から脱却する端緒を掴み取る。

 しかしこのとき、苦しみの絶頂にいる妻の顔と、かつて悠一の嫌悪の源であったあの部分が真紅にもえ上っているのとを、見比べていた悠一の心は、変貌した。あらゆる男女の嘆賞にゆだねられ、ただ見られるためにだけ存在しているかと思われた悠一の美貌は、はじめてその機能をとりもどし、今やただ見るために存在していた。ナルシスは自分の顔を忘れた。彼の目は鏡のほかの対象にむかっていた。かくも苛烈な醜さを見つめることが、彼自身を見ることとおなじになった。

 今までの悠一の存在の意識は、隈なく「見られて」いた。彼が自分が存在していると感じることは、畢竟、彼が見られていると感じることなのであった。見られることなしに確実に存在しているという、この新たな存在の意識は若者を酔わせた。つまり彼自身が見ていたのである。

 何という透明な、軽やかな存在の本体! 自分の顔を忘れたナルシスにとっては、その顔が存在しないと考えることさえできた。苦痛のあまり我を忘れた妻の顔が、もし一瞬でも目をみひらいて良人を見上げたら、そこに自分と同じ世界にいる人間の表情を容易に見出したに違いない。(P482-P483)

 ナルシシズムという精神的な形態の最大の特質は、その人間の思索や行動の規範が悉く「他者の視線」によって外部から規定され、制約されるという点に存する。その意味では、ナルシシズムは「他者の視線」を平然と蹂躙して恥じようともしないエゴイズムの横暴な性格とは異質である。だが、ナルシシズムが「他者の視線」によって制約されるのは、決して他者を愛するからではないし、他者の想いや考えに共感するからでもない。ナルシシズムは他者によって承認され、讃嘆されることでしか、自己の実存を支えることが出来ないという極めて深刻な病理に縛られているのである。だからこそ、作者は南悠一に絶世の美貌を授けることによって、そのナルシシズムの病態を過度に堅牢なものへと仕立て上げる手筈を整えたのだ。そして、堅固に組み上げられたナルシシズムの歪んだ支配力は、悠一の自意識を呑み尽くし、絶えざる外貌への讃嘆によって「愛される者の残酷さ」を極限まで高める働きを示したのである。

 だが、ナルシシズムに呑み込まれ、徹底的に「他者から見られること」だけを糧に己の生を支えていくという悪魔的な処世術は、言い換えれば己の存在を絶えず客体化し、如何なる主体性も厳格に排除することに等しい。彼が俊輔の傀儡と化すのは、ナルシシズムに固有の過剰な客体的受動性が最大の要因である。他者に依存し、他者の評価に左右されること、それがナルシシズムにとっての最も根源的な規範であり法律である以上、彼は自らの主体的な判断によって行動を選択することが出来ない。彼が「愛される者の残酷さ」を存分に悪用して、女たちを誑かし、男たちを弄ぶときの表層的な闊達さは、彼が一切の主体性を棄却していることの逆説的な反映なのである。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)

 

 

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 2

 引き続き、三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)に就いての感想文を認めておく。

②「鏡の契約」とナルシシズムの虜囚

 「禁色」において、檜俊輔が企てた女たちへの陰湿且つ残酷な復讐は、南悠一の「絶世の美青年でありながら、女性を愛する能力を持たない」という人間的な特性を利用することで成し遂げられる。だが、この場合の「愛する」という言葉の定義に関しては慎重な見極めが必要である。作者は明らかに「愛する」という言葉に「精神的な愛情」と「肉体的な愛情」の重要な乖離を含ませている。そして、両者を分離しようと試みる心理的な作為の欺瞞に就いて予め注意を促している。それは「禁色」という物語を成立させる為の計算された伏線であり、人工的な布石である。

「いいえ、まだ」――青年は頬を赧らめた。「しかし先生の仰言ることはわかるような気がします。僕はしょっちゅう考えるんです、何故僕は一度でも女を欲したことがないのだろうと。女に対する僕の精神的な愛を欺瞞だと考えるたびに、僕は精神そのものを欺瞞と考える考え方に傾きました。今でも僕はしょっちゅう考えるんです。何故僕は皆と同じではないんだろう、何故友人たちには僕のような肉慾と精神の乖離がないんだろうと」(P50-P51)

 「肉慾と精神の乖離」という言葉は一見すると、同性愛の志向を有する悠一の心理的な窮状を明晰に言い表しているように思われる。だが、厳密に考えてみるならば、必ずしも「異性愛の原理」に抑圧された同性愛者だけが「肉慾と精神の乖離」に苦しめられる訳ではない。異性愛者であっても「肉慾と精神の乖離」を経験することは日常茶飯事であると言うべきであろう。それを同性愛者に固有の問題であるかのように論理的な擬装を施すことによって、俊輔と悠一の厭らしい共謀は初めて成立するのである。

 同性愛という主題に過剰な意味付けを行なうこと、それが作者の文学的な戦略の焦点の一つであることは疑いを容れない。何故なら、作者にとっては「禁圧された性愛」という主題が重要な関心を唆るものであったからだ。だが「絶世の美青年でありながら女を愛さない」という悠一のキャラクターは必ずしも「肉慾と精神の乖離」を意味しない。それだけでは、悠一が俊輔の仕掛けた謀略に荷担するには不充分である。重要なことは、彼が幾らでも自在に女性を誘惑する力を持ち、その審美的な資格に非常に恵まれながらも、女に対する愛情を一切持たないという点に存しており、それは彼の「肉慾と精神の乖離」だけでは満たされない条件なのである。

 南悠一はその美しさに神秘を味わった。これほど青春の精気に充ち、これほど男らしい彫琢の深みを帯び、これほど青銅のような不幸の美しい質量をもった青年の顔が、彼なのであった。今まで悠一は自分の美を意識することに嫌悪を感じ、愛する少年たちの絶えず拒んでいるかのような彼岸の美に絶望を感じていた。男性一般の慣習に従って、悠一は自分を美しいと感ずることを自ら禁じた。しかし今目前の老人の熱情的な讃辞が彼の耳に注がれるにつれ、この芸術的な毒、この言葉の有効な毒は、永きに亘ったその禁を解いたのである。彼は今や自分を美しいと感じることを自分に許した。そのとき、悠一はこれほど美しい彼自身をはじめて見たのである。小さな丸い鏡面の中からは、見知らぬ絶美の青年の顔が立ち現われ、その男らしい唇は白い歯列を露わして思わず笑った。(P60)

 彼が自らの卓越した官能的な魅力(つまり有無を言わさぬ絶対的な「美」)を、俊輔の考案した邪悪な謀の為に使役する為には何よりも先ず、斯様な「鏡の契約」即ちナルシシズムの虜囚となることが必要なのである。女性に対する肉体的な愛情の欠如は、確かに謀略の為の重要な天分には違いない。しかし「肉慾と精神の乖離」が生じている以上は、それだけでは「女に指一本触れぬドン・ジュアン」(P59)の役柄を担い切ることは出来ないだろう。憐憫と共感が、彼に課せられた冷酷な野心を裏切りかねないからだ。だが、絶世の美青年である自分自身だけに向かって愛情を注ぐ主体が完成したならば、そのような如何にも情緒的で人間的な失錯は未然に防ぐことが可能になる。彼は絶対的な魅力によって数多の女性を容易く魅了しながら、しかも全く彼自身は相手に執着することがない(厳密に言えば、執着が皆無という訳ではないが、極めて薄弱なものである。少なくとも、官能的な執着は存在しない)。これが俊輔の企図した陰湿な計画の枢要を成す、悠一の人格的な特性である。

 同性愛とナルシシズムの奇怪な混淆によって、悠一は女性のみならず、あらゆる種類の人間に対する残虐な官能的刺客として暗躍するようになる。彼が愛さないのは女性だけではない。肉慾によって数多の男性と結び付きながらも、彼は恋人たちを斬り捨てることに殆ど痛痒を覚えていない。

『もし最初の夜にしか僕の十全な愛の発露が見られぬとすれば、その拙劣な模倣の繰り返しは、僕自身と相手とを二人ながら裏切ることに他ならない。相手の誠実で僕の誠実を量ってはならない。その逆であるべきだ。おそらく僕の誠実は、次々とかわる相手との最初の夜を無限に連続させた形をとるだろうし、僕の変らぬ愛といえば、無数の初夜の喜びのなかに共通する経糸、誰に向っても変らない強烈な侮蔑に似た一度きりの愛に他ならぬだろう』

 美青年は康子に対する人工的な愛と、この愛とを比べてみた。どちらの愛も彼を憩ませず、急き立てた。彼は孤独に襲われた。(P150-P151)

 「鏡の契約」が、俊輔の悪魔的な甘言によって生み出された心理的な幻影であることは事実だが、少なくとも悠一には、そのナルシシズムを外部から支える社会的承認を確保する為の絶対的な根拠が備わっており、それは俊輔の恣意的な詐術によっては購えないものである。作者は悠一の美しさを、個性に依拠しない「普遍的な美しさ」として描いている(「彼等の美は個性の域を脱していないのに、悠一の美は個性を蹂躙して耀いていたからである」P147)。それは悠一の「鏡の契約」が、単なる滑稽な自惚れに終始してしまうという馬鹿げた事態を回避する為の設定であろう。己の「普遍的な美」を自覚することによって創始された極めて堅牢な肉体的=感性的ナルシシズムは、あらゆる精神的な観念を駆逐しながら、無際限に強化されていき、悠一を苛酷で両義的な「社会的現実」から庇護する役目を担う。そして、悠一を冷酷な官能的謀略の世界へ連れ出していく。だが、作者の主眼がナルシシズムの病態に置かれていたなどと早合点するのは愚かしい。恐らく作者が最も重要視していた主題は「美」というものの特異な性質に関わっている。

 此岸にあって到達すべからざるもの。こう言えば、君にもよく納得がゆくだろう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……」(P680)

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)

 

 

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 1

 昨年末から営々と読み続けていた三島由紀夫の『禁色』(新潮文庫)を昨夜、漸く読了したので、感想の断片を書き留めておく。

 優れた小説は、単純明快な一つの物語の筋によっては構成されず、単一の包括的な原理によって一義的に支配されることもない。そこには必ず複数の異質な原理が共存して劇しく隠微に衝突し合っているものであり、そうでなければ「小説」という文学的様式が読者の心に或る「世界」の実在の感覚を与えることは不可能である。況してや、文庫で六百ページを超える分厚い読み応えの「禁色」を、一つの単純な論理と規矩で裁断し、その意図や価値を一義的に定めることなど出来る筈がない。優れた小説は単純明快な要約を峻拒する、輻輳と豊饒を必ず備えており、それを単一の図式に還元して総括的に論じることは常に一面的な偏倚の謗りを免かれない。言い換えれば、或る作品を解読するに当たっては実に様々な切り口を見出すことが可能なのであり、単一の正統的な解説を探し求めることは読書の本懐ではない。寧ろ私たちは多様な解読の形態を一人ずつ創出していかなければならない。多様な解釈の可能性を切り拓くことが、結果として作品に対する至高の愛情と敬意を形作るのである。

 以上の考えに基づいて、本稿では幾つかの主題を掲げながら、この「禁色」という重厚な作品に関する個人的な感想を書き連ねていくこととする。

①「異性愛の原理」に対する抵抗と屈従

 三島由紀夫の作品には、幾つかの重要な主題が反復的に登場するが、この「禁色」において最も濃密で本質的な存在感を発揮して読者の網膜に映じるのが「同性愛」という問題であることは、明白な事実であろうと思う。作家の出世作である「仮面の告白」において明瞭に打ち出された「同性愛」の表象は、この「禁色」において更に稠密で行き届いた表現を獲得した。

 電車が来たので悠一はさっさと乗り込んだ。さっきの会話をきいていた時は多分顔を見られなかったろう。同類と思われてはならない。しかしジャンパアの男の目には欲情が燃えていた。混んだ電車のなかで、男は爪先立って悠一の横顔を探していた。完全な横顔、若い狼の精悍な横顔、理想の横顔……。しかるに悠一は濃紺のトレンチコートの広い背を向けて、「秋の行楽はN温泉へ」と書いてある紅葉をえがいた広告を見上げていた。広告は皆それだった。温泉、ホテル、簡易御宿泊、御休憩にどうぞ、ロマンスルームの設備あり、最高の設備最低の料金……。一つの広告には、壁に映る裸婦の影と、ゆるやかに煙をあげる灰皿の煙草が描かれ、「この秋の夜の思い出は当ホテルで」と書いてある。それらの広告は悠一に苦痛を与えた。この社会が畢竟するに、異性愛の原理、あの退屈で永遠な多数決原理で動いていることを、否応なしに味わわされるからである。(『禁色』新潮文庫 p.89)

 「異性愛の原理」に依拠して駆動している社会の排他的な側面に、異性愛の感受性を信じて疑わない人々は何の不満も覚えない。私自身、同性愛の傾向は少なくとも現時点では持ち合わせていないので、同性愛者の抑圧された心情に対して具体的な共感を懐くことは困難である。但し、こうした問題は何も同性愛に限らない。共通して言えるのは、或る社会が運営されていく過程において、何らかの一般性が確立される限り、必ずこのような排除の原理は顕現せざるを得ないということである。

 異性愛の原理が、人間の生物学的な必要性、つまり子孫を生み出して種族の存続を図るという「繁殖」の原理との間に強固な紐帯を結んでいることは明瞭である。種族の存続を図る為に性的な欲望が存在し、性別の異なる人間同士を性的な悦楽によって結び付ける仕組みが成り立っている世界で、異性愛の原理が同性愛の原理に対する根源的な優越性を維持することは、合理的な成り行きである。だが、私たちの有する性的な感情は、必ずしも「繁殖」との間に絶対的な相関性を持たない。仮に性的欲望の起源が「繁殖」の原理に存していたとしても、私たちの感じる性的な快楽は常に、そのような「繁殖」の欲望から遊離した状態で活動している。

 この性的欲望と「繁殖」との間に生じる乖離が、私たちの性的な問題を複雑な主観性の領域へ拉してしまう。性的快楽が「繁殖」との絶対的な相関性を持たずに遊離している為に、つまり性的快楽が様々な主観的観念による修正と制約を受け得るものとして存在している為に、私たちの性的志向は、あらゆる多彩な様式を身に纏い得るのだ。しかし、性的志向の多様性は、共同体の存続という観点から眺めたとき、大きな危機の火種と看做される。宗教的な罪悪としての「姦淫」の観念が、長い歴史を通じて人類の生活を呪縛してきたことは周知の事実であり、性的志向に対する様々な社会的制約の存在は、現代においても充分に強力な影響力と威信を保持している。

 性的欲望の観念的な多様性、或いはその恣意的な性格が、「異性愛の原理」によって支配され、統合され、監視されてきたこと、そうした社会的現実に対して、物語の主人公である南悠一は「苦痛」を覚える。だが、その「苦痛」が例えば同性愛であることの公共的な表明(所謂「カミングアウト」)に繋がることはない。少なくとも「禁色」の世界においては、同性愛は社会的に隠匿すべき「異常性」の一環として捉えられている。言い換えれば、同性愛という観念が「異常性」の一環として捉えられているからこそ、この主題に作品の世界を力強く動かし、特徴付ける卓越した役割が与えられるのである。

 もう一人の重要な登場人物である檜俊輔は、異性愛の原理に骨の髄まで浸り切っていながら、幾度も女性に裏切られて痛手を負ってきた人物である。同性愛の志向ゆえに女性を愛することが出来ない悠一と、度重なる敗残によって女性に対する憎悪を募らせた俊輔との陰湿な共謀が、この作品の前半の主要な旋律を形作っている。「女を愛さない絶世の美青年に女を誘惑させる」という手間の掛かった復讐の戦略は、標的に選ばれた女性たちの精神に深刻な傷口を穿つ。だが、そのような復讐が、同性愛という悠一自身の性的な志向にとって、如何なる生産的利益も齎さないことは自明である。それは確かに広い意味では「異性愛の原理」に対する狡猾な抵抗であるが、その抵抗によって堅牢な「異性愛の原理」が崩落する見込みは乏しい。飽く迄も俊輔の個人的な怨恨が僅かに緩和されるだけの話である。

 従って、前述した狡猾な策略の成功にも拘らず、この作品から「異性愛の原理」に対する果敢な闘争の記録を抽出することは出来ない。そもそも、この作品を覆っている濃密な主題としての「同性愛」は、厳密に捉えるならば「同性愛」そのものではない。作者にとって「同性愛」が重要な意味を持つのは、それが劇しい社会的禁圧の対象に選ばれているからであり、例えばそこに「同性愛」と「異性愛」との社会的な格差を解消しようとする建設的な戦いへの志向性を見出すことは不可能である。「同性愛」は具体的な現実として捉えられているのではなく(作中における男色家たちの集まる世界の具体的な描写の精細さにも拘らず)、飽く迄も表題に掲げられた「禁色」という言葉の暗示する通り、「禁じられた性」の象徴として捉えられているのである。「同性愛」が作者にとって特権的な意義を有するのは、それが社会的な禁忌として抑圧されているからなのだ。極論を述べれば、作者にとって「同性愛」は抑圧から解放されるべきものではなく、寧ろ「異性愛の原理」への堪え難く息苦しい屈従の姿勢を維持すべきものなのである。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)

 

Cahier(新年度・会者定離・nostalgia)

*明日から、新年度が本格的なスタートを切る。何処の会社でも家庭でも組織でも、卒業の別れ、異動や転職の別れ、移住の別れを一通り嘆いたり悲しんだりして、新しい生活への心構えを整えた後の、愈々の門出の場面が数多く演じられるのだろう。私の勤め先は五月一日が期初の区切りなので、社内的には新年度ではないが、新入社員の配属は四月であり、明日は盛大な入社式が執り行われる段取りになっている。

 退職を願い出ていた部下の社員が、医者の診断書の都合で、三月の半ばから急遽休職に入らねばならなくなり、この二週間ほど、後任の補充もないままに店を切り盛りしていた。上司も連日応援に入り、辛うじて私の休日を捻出してくれた。アルバイトのスタッフたちにも助けられて、御蔭様で無事に苛酷な日々を乗り切ったところである。本日付で後継の社員が着任し、もう少し待てば研修を卒えた今年度の新入社員も入店することになる。良くも悪くも環境が激変する季節である。毎年のことだが、何だか足許の不確かな気分で、俄かに気温の上がってきた日々の中を生き抜いている。

 人事異動というのは不思議なもので、人が去っていくときには随分と名残惜しく思えるものなのに、一旦去ってしまえば、そして後任の新顔が登場して一月も経てば、過去は遠い夢のように記憶の彼方へ霞んでしまい、今まで当たり前であった日常が急に縁遠く白々しいものに感じられるようになる。どんなに重要な人物であっても、その穴は、傷口を瘡蓋が必ず覆ってしまうように、自ずと綺麗に塞がってしまうものなのだ。それが組織の生理であり、共同体の秩序の「地力」というものなのだろう。

 何はともあれ、過去を懐かしむのは感傷的な気分に過ぎず、そこに生産的な明るさは存在しない。草臥れた休日にソファで転寝しながら夢見る分には何の不都合もないが、私たちは次々と押し寄せてくる新しい猥雑な日常と連戦せねばならぬ浮世に暮らしている。泣き言や譫言に溺れて無為な時間を費やし、肉迫する否定し難い現実から顔を背けるのは愚の骨頂である。前を向いて遣れることを探すのが健全な精神であり、前を向く決意と勇気が揺るがないからこそ、過ぎ去った日々を懐かしむことが健康的な趣味として成り立つのである。ノスタルジーは精神の阿片であり、その快適な魅惑に脳髄まで銜え込まれてしまえば、未来に対する挑戦的な気概は一切合財、蒸発する。それでは過去の尊ささえ、薄汚く穢れてしまうのである。

 過去が美しく見えるとき、私たちは例外なく現実に対する否定的な理解を感傷的な糖衣で包むことで誤魔化している。勇気の涸渇を、未来への展望の欠如を、過ぎ去った幸福の残像によって埋め合わせようと企んでいる。そうした幻想が如何に人間を退嬰的な状況へ導くか、私たちは充分に慎重な検討を加えるべきであろう。過去が美しいのは、それが生身の人間に対して無害であり、一種の「画餅」である為だ。死人に鞭打つことが恥ずべき悪習と看做されるように、過去の出来事を悪く捉えたり批判したりするのは詮無い所業である。従って、過去は自動的な「聖化」の対象に据えられる。その馬鹿げた戴冠式に涙を流すのは人生の紛れもない空費である。

 未来に向かう気持ちだけが、本当の意味で過去を美しい勲章、或いは美しい傷口に変えることが出来る。未来のない人間には、想い出など産業廃棄物でしかない。別れた夫婦にとって、共に暮らしていた記憶は不良債権である。分かち合う相手を失った追憶は、単なる薄汚れた古着でしかない。未来へ通じる道を辿っている間にだけ、過去は燦然と輝き、本来の価値を発揮し、数多の教訓を汲み上げる為の井戸と化す。前進している人間にしか、過去の足跡は意味を持たない。立ち止まった人間にとって、足跡は己の限界を示す標識に過ぎないが、未来を信じる者にとっては、足跡は可能性の放物線に他ならないのである。それは果てしなく続く航跡の序奏として顕現するのだ。

ストイシズムの閉鎖的な快楽

 人間は絶えず、あらゆる種類の欲望に取り巻かれて、危うく不安定に揺らぎながら生きている。欲望は人間の主体的な理性に先立って、人間の深層から殆ど如何なる脈絡も持たずに迫り上がってくる、自律的な衝動である。その欲望が発する要求の総てに唯々諾々と従うことは、少なくとも社会的な動物としての人間には許されない。殆ど無作為に起動し、暴れ回る欲望の命令に抵抗することは、人間的な理性の尊厳に関わる崇高な使命であるからだ。

 黙っていれば、幾らでも無限に湧出して私たちの心身を果てしなく小突き回し続ける、この野蛮で原始的で幻想的な衝迫の発する命令に抵抗することは、人間が社会化された生物としての自画像を形成する上では欠かすことの出来ない基礎的な努力である。だが、如何なる欲望にも無条件に抑圧的な方針を貫徹しようとすれば、そもそも自分が生きていることの意義それ自体に関する疑念を極限まで膨張させてしまう結果に繋がるだろう。

 欲望を排除すること、或いは適切な仕方で制御すること、それによって己の人生を或る安楽な幸福の状態に維持し続けること、平たく言えば「ストイシズム」(stoicism)とは、そのような精神的方針を指す観念であると、私は理解している。放置すれば無限の変奏を繰り返して果てしなく生起し続ける個々の刹那的な欲望に振り回されることを峻拒し、常に一種の精神的な平衡の状態に留まろうとする禁欲的な主義、言い換えれば絶対的な「安心立命」の境地に到達しようとする、この半ば宗教的な潔癖さは、欲望の否定が幸福に通じるという理路を正しい教えとして採用している。つまり、欲望の充足は真の幸福と安寧を齎さない、欲望は満たされるほどに亢進し、無際限に膨張し高揚していく不死の悪魔であるという認識が、このようなストイシズムを生み出す精神的な土壌となるのである。

 無論、こうした理窟には一定の正当な説得力が備わっている。所謂「喜怒哀楽」の一切合財を抛棄することで、精神の恒久的な平穏を獲得するという論理は、仏教的な求道の方針と少なからず符合している。禁欲を通じて安心立命に至る、或いは「涅槃」に至るという理窟は、その実現の困難さを差し引いてしまえば、私たちの日常における心理的経験と部分的には重なり合っているのである。

 如何なる事件にも経験にも境遇にも揺さ振られることのない、不撓不屈の精神力が、如何なる運命に見舞われるかも分からない私たちの不安定な人生において、稀少で重要な価値を担っていることは明瞭な事実である。「少欲知足」という仏教の言葉は「何も求めないことが魂の幸福を齎す」という、俗世間とは対蹠的な理窟を駆使することで、救済の方向性を明快に打ち出している。欲望を棄却すること、何も求めず望まないこと、そのように自己の精神的秩序を改造することで「永遠の幸福」に到達しようとする態度が、所謂「ストイシズム」の本懐なのである。

 或る明瞭な価値観に基づいて、自己を厳しく律すること、つまり内なる欲望に対する専制的な姿勢だけがストイシズムと呼ばれるのではない。その純化された極限の形態においては、あらゆる欲望は死滅すべきなのである。そこまで到達すれば、死ぬことさえ少しも恐ろしくないし、寧ろ死ぬことは欲望の物理的な死滅を齎すのだから、最高の平安を意味することになる。

 だが、このようなストイシズムの極限的な帰結が、徹頭徹尾、自己の孤独な幸福だけに固執した態度であることは明白である。そこには恵まれない他者への憐憫すら存在していない。つまり大乗仏教的な「慈悲」の論理が生成される契機が存在していない。ストイシズムは不可避的に、自己という監獄から脱出する契機も構造も持たず、従って他者の救済という運動に発展する理由さえも保有し得ないのである。

 過剰に堅牢なストイシズムは、自己を限りなく「無=死」の状態に近付けることで、絶対的な安寧を獲得しようと企てる。従ってストイシズムは常に「タナトス」(thanatos)との間に緊密な関連性を有していると言い得る。自己をゼロに限りなく接近させる為の自己破壊的な克己心、そこに「自分を抹殺してしまいたい」という剣呑な欲望が関与していることは概ね確かな事実であると思う。

 無論、ストイシズムの危険性を説く余り、その良質な側面に対して完全に眼を塞いでしまうのは公正な態度ではない。無際限に膨張し暴走する欲望の野蛮な命令に従い続けるのも、過剰なストイシズムと対蹠的な意味で、自己破壊的な振舞いであり、他者に対する配慮を欠いた生き方である。自己中心的なエピキュリアンが、過剰な克己心に縛られた人間よりも上等であるという理窟は成り立たない。過度に享楽的であることも、過度に克己的であることも、共にエゴイズムの顕現に他ならない。道徳的な克己心が只管に自己の安寧だけを追求するのならば、その道徳性は他者への配慮ではなく、自己への配慮の手段に過ぎず、従ってその人物が品行方正であり清廉潔白であったとしても、それは他者や世界に肯定的な影響を及ぼす要因とはならないのである。道徳的であることは、無条件に価値を有する実存の形式ではない。道徳的であることは時に、他者に対して強烈な暴力性を発揮し得るものなのだ。

「人間」は「人間」を所有出来ない

 かつて世界と人間は超越的な「神」によって支配されていた。或いは「神」の名の下に、人間によって支配され、所有されていた。だが、時代が進むに連れて、人間が人間を所有物の如く扱うことの道徳的弊害が自覚されるようになり、倫理的な要請が高まり、フランス革命奴隷解放宣言や公民権運動、アパルトヘイトの撤廃といった重要な歴史的事件が勃発し、私たちの世界は少しずつ「人間が人間を支配し、所有するのは罪悪である」という認識を共有するようになった。

 無論、それは飽く迄も漸進的な変化に過ぎず、私たちの精神的発達は未だに途上である。道半ばである。人間は人間を所有出来ないという道義的な言説は、その重要性を公共的な領域では充分な尊敬を以て認められながらも、人間の精神に蔓延する濁った暗部の奥底にまでは未だに浸透していない。人は誰しも他人を所有することに血道を上げる。親は子供を所有し、夫婦や恋人は互いを所有し、上司は部下を所有し、そうすることが当然の権利であるかのように錯覚して、少しも恥じようとしない。場合によっては、そうした所有への欲望は相手に対する愛情や恩情の発露そのものであると信じられ、そうした考えに疑義を呈することは恩知らずの傲慢な振舞いであるかのように非難され、排撃されることさえ珍しくない。

 だが、この当然の哲理、つまり「人間の所有不可能性」という至極尤もな命題の本質的な意義に立ち帰ることは、私たちの人生を高め、世界を希望に満ちた方向へ少しでも前進させていく為には、必要不可欠の階梯であり、大切な手続きである。「所有」という問題は、私たちの内なる欲望が生み出す普遍的な主題であり、その歴史的背景は長大且つ深遠である。かつてアメリカの白人たちは、黒人の奴隷を所有し、それを物質的な財産として取り扱うことに何の疑問も羞恥も感じていなかった。或いは、日本の尊大な家父長たちは、妻や子供を自分の所有物と看做すことに何の痛痒も覚えず、それを自らの授かった当然の権利と信じて疑わなかった。こうした支配的な意識は、現代においても消滅していない。公共的な場面で、そのような「人間の所有」という欲望を露骨に表明することは、社会的な意識の変容に伴って徐々に禁圧されつつあるが、表向きは禁じられていても、それが暗闇の内部へ潜行しただけならば、問題は根本的な解決を見たとは言えない。愚かな親が子供を虐待するとき、その密室の世界では、人間の所有は禁じられているという倫理的な命題は極めて容易に、安直な仕方で蹂躙されているのである。

 人間が誰かを所有することは、その人間の固有性を毀損し、否認し、峻拒し、遂には破壊してしまうということであり、その重大な罪悪は、狙われた相手の人格に決して消えることのない深甚な傷痕を刻み込む。誰かに所有されるということは、自分という人格を破壊されることであり、独立した存在であることを禁じられるということである。他人の命令や意向に対する全面的な隷属は、その人間の生命力を衰微させ、正常な判断力や思考力を著しく減退させる。それは容易に人を物理的な死へと追い込む、根源的な暴力の発露である。例えば私たちはその具体的な事例を、アウシュビッツラーゲリに見出すことが可能である。

 しかし、誰かを所有したり管理したりすることが現代でも、組織や共同体を運営する上で不可欠の過程であると信じられていることは、素朴な現実である。仮にアナーキズム的な考え方に染まって国家による支配を廃絶し得たとしても、人間が生得的に或る「共同性」の枠組みの中で生きることを志向する存在である以上、こうした「人間の所有」という問題は絶えず私たちの意識を占有し続けるだろう。所有は、人類の肉体に刻印された、否み難いほどに根源的な要請の形態である。だからこそ、私たちは「人間の根源的な所有不可能性」という理念に関する思索を断じて途絶させてはならないのである。つまり、理念は現実に即さないことによって価値を失うのではない。寧ろ理念は積極的に、眼前の現実からの「離反」を志すべきである。そうでなければ、あらゆる理念は北極星のような指導力を喪失し、眼前の現実の単なる追認以上の役割を担うことが出来なくなってしまう。

 人間による人間の支配は有史以来、一度として途絶えたことのない普遍的な伝統である。仮に絶対的な支配者を放逐し、その地位を破壊したところで早晩、新たな僭主が他人を奴隷のように支配することになるのは眼に見えている。年端の行かない幼子の間にさえ、所謂「権力」の垂直的な関係性は燎原の火の如く燃え上がり、隅々まで浸蝕してしまう。権力は人類の宿痾であり、劇薬を想起させる危険な通弊である。だが、誰かが人間の集団を支配しなければ物事が纏まらず、無政府的な惨状が露呈することも事実なのだ。優れた君主が善政を布くことは、結果として人類を幸福にする。だが、如何なる明君であろうと、独裁に由来する弛緩した腐敗の危険を孕んでいることも事実である。つまり、所有という問題には、深刻な両義性が関与しているのである。

 しかし「人間は人間を所有出来ない」という倫理的な価値観を、そのような「権力の不可避性」に基づいて軽視したり冷笑したりするのは、余りに愚昧な態度である。或いは、傲慢な姿勢であると言い換えてもいい。本質的な意味で、人間は人間を支配することが出来ない。様々な手段を通じて、他者の心身を収奪し、極めて陰湿な方法で、その自主性や独立性を捻じ曲げてしまうことは可能である。だが、それでも他人が他人であるという根源的な事実までも書き換えてしまうことは、原理的に不可能なのだ。

 他者を支配することへの欲望、簡潔な言い方を選ぶならば「権力への欲望」は、自他の境界線を破壊しようと試みる衝迫であり、その意味では「恋愛」さえも「権力への欲望」の性的な変奏であると看做すことが可能である。自他の境界線を破壊し、総てを「自己」に還元しようとする欲望は、それがサディズム的な他者への専制に傾斜する場合でも、マゾヒズム的な他者への没入に傾斜する場合でも、何れにせよ「自己」の強制的で野蛮な拡張を願っているという点では共通している。「一つになりたい」という、この極めて根源的な欲望は、性的な領域でも政治的な領域でも、その根幹に位置して、総てを深層から操り、統御しているのである。

 自己を無限に拡張する為に、他者の「他者性」を解除するという目論見は、例えば「母胎回帰」に対する象徴的な欲望に由来するなどと、尤もらしいが随分と大雑把な見解を述べてみても始まらない。ただ、そのような「他者性の否定」が「母胎回帰への願望」に含まれている社会的な退嬰性を根深く反響させていることは、概ね承認し得る事実ではないだろうか。独裁的な君主が如何に強烈に、他者への残酷な攻撃性を発揮していたとしても、その尖鋭な攻撃性の根底には「他者からの遁走」という脆弱な構造が介在している。「他者性」という概念は、例えば「恣意性を阻むもの」という具合に読み替えることが出来る。「私の思い通りにならないもの」が「他者性」の本質的な条件であり、そのような「他者性」に対する敬意は、時代と環境によっては敬虔な宗教的信仰として顕現する。

 だが、神を信じることによって超越的な救済に与ろうとする敬虔な信徒の欲望は、煎じ詰めれば「他者からの遁走」に他ならない。「他者性」を是認し、自らの「恣意性を阻むもの」を受容するということは、超越的な救済を希求することとは異質な営為である。本当の意味で「他者性」を肯定する為には、超越的な救済を望んではならない。それは結局のところ、如何に敬虔な外貌に覆われていようとも、超越的且つ絶対的な「他者」である筈の「神」を、間接的な仕方で支配しようとする欲望の形態に過ぎないからである。