サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(悲劇と日常・事実と思想・類型と独創)

三島由紀夫の「金閣寺」(新潮文庫)の再読を終えて一箇月足らずだが、未だに鮮明な印象の断片が頭の中を通り過ぎていく。幾らでも書くべきことは残っているように思うが、何処から切り込むべきか、どういう筋道で侵入すべきか、巧く纏められない。その纏まらない思考を、垂れ流すようにパソコンの画面へ刻みつけておく。

 「金閣寺」は、三島由紀夫という一個の人物の観念的な自叙伝のようなものではないかと思う。生い立ちや事件や行為は総て架空の人物に託されているが、その精神的な履歴に関しては、三島由紀夫という人物の内なる心情を明瞭に再現しているように感じられる。無論、証拠はない。曖昧な傍証を曖昧に混ぜ合わせて譫言を吐いているだけである。

 つくづく感じるのは、三島にとって「敗戦」という経験、或いは「戦争」という不確かな悪夢が齎した影響の大きさである。「金閣寺」に限らず、様々な作品に「敗戦」の齎した衝撃と「戦争」の陰翳に怯えながら憧れていた時代の奇怪な情熱が、錦糸のように織り込まれている。彼にとって「戦争」は「破局の到来」を暗示する重要な理念であった。遅かれ早かれ「破局」が決まり切った日常生活の秩序を粉砕してくれるだろうという予兆の中で生きるという終末論的思想は、彼の精神の中核を構成する基礎的な信憑である。

 もう一つの重要な指標は、不可能なものに対する深甚な憧憬である。「金閣寺」という作品自体が、いわば「到達することの不可能なものへ到達したい」という願望の遷移を描き出す為に綴られていると看做しても過言ではない。この願望は恐らく、前述した終末論的思想と絡み合っている。到達することの不可能なものへ到達したいという厄介な希求と、破局に憧れることで実存の重力から解き放たれようとする精神的作法は、根源的な部分で相互に通じ合っているのではないかと思う。換言すれば「到達不能なものへ到達する為には、破滅する以外に途はない」という奇怪な命題が、若しかすると成立するのではないか?

 到達することが不可能なものに憧れるという心情は、誰にでも経験のあることだろう。欲しいものが何もかも手に入るとは限らないのが、世の常である。だが三島に関して言えば、彼の不可能なものへのプラトニックな希求は、欲しいものが手に入らない状態に置かれているという偶然的な状況と関係しているのではない。寧ろ彼は、不可能なものを好んで、その不可能性自体に魅せられている。到達が不可能であるという事態が、彼の欲望を刺激し、教唆するのである。

 不可能性そのものに魅惑されること、そして「滅亡」や「破局」に惹かれること。これらの精神的特性は、彼の日常生活に対する嫌悪と表裏一体である。換言すれば、彼は「悲劇」というものに憧れて、そこに最大の充足を見出しているのだ。不可能性も破滅も、一般的な感受性にとっては忌避すべき事件である。しかし彼の欲望は「悲劇」にこそ誘惑されていた。平穏な日常の度し難い退屈さには、彼の欲望は聊かも充足を覚えなかった。無論、彼はそのような感受性の牢獄から脱却する為に、金閣寺に火を放ったのである。けれども、その根源的な感性の噴出は生涯、彼の胸底を去らなかったのではないかと思われる。夭折に憧れることも、割腹自殺を選ぶことも、同根の問題である。

*時々自分は「事実」というものに然したる関心を有していないのではないかと考えることがある。こうしてブログを開設し、様々な文章を公開しているが、所謂「行動の記録」みたいなものは滅多に書かない。「サラダ坊主風土記」と銘打って綴った記事には端的な「行動の記録」が残されているのだが、事実の経緯や構造を、時系列に従って淡々と書き記すのは、私にとって退屈で、砂を咬むような営為である。単なる事実の記録に何の価値があるだろうと冷笑したくなってしまう。それよりも私は、自分の思考の経路を追跡することに強い関心を持っている。事実よりも、思考されたもの、想像されたものの方が重要な意義を有していると信じているのだろう。それが何故なのかは分からない。この世界には事実しか存在しないという無味乾燥な思想に同意する気持ちが起こらないのは、私の精神が未成熟なロマンティシズムを払拭していないことの証明だろうか?

 そうした感性と関連しているのか、私は写真を撮ることに殆ど関心がない。妻が撮影した幼い愛娘の写真を、仕事や通勤の合間に携帯の画面で眺めて酔い痴れることはあるが、自分でシャッターを切ろうとは思わない。事実の記録が、長い歳月を経た後で特権的な光輝を放ち、甘美な郷愁を煽り立てるであろうことは、私も理解しない訳ではない。それでも、事実の記録に重要な価値を見出そうとは思わない。そのとき自分が何を感じ、何を考えたのか、ということの方が遥かに重要な問題であると思っている。事実そのものより、その事実から抽出された感情や思考や信条の方が大切だと思っている。同じ事実に直面しても、そこから何を汲み取るのか、それは人の個性に応じて千変万化するものである。誰にとっても共通する事実は退屈だ。それを退屈だと厭う感受性が幼稚である懸念は微かに有しているが、本気で向き合う意志も余りない。

*先日、三島由紀夫の「美徳のよろめき」(新潮文庫)を読んで考えた。作中で描かれている男女の不倫の生態を眺めながら、試しにそれを自分自身の人生に照合してみる。不倫に限らず、結婚でも何でも構わないが、愛情というものは直ぐに、人間関係の枠組みや秩序に凭れ掛かるものだ。自分たちは固有の関係性を生きている積りであっても、その関係は何万年も持続してきた類型の模倣と反復に過ぎない。つまり、何らかの役柄を演じているに過ぎない。それが導入であり、潤滑油である分には構わないだろう。だが、人間同士が本当の意味で相手の総てを理解し、受容する為には、何処かでそうした役柄と台本を擲つ覚悟が必要になるだろう。役柄、仮面、衣裳、それらの外面的な要素を摘出した上で、相手の美徳も悪徳も総て引っ括めて受け容れるとき、両者の関係は初めて独創性を纏うことになる。そのとき、彼らの関係に世上の通俗的な一般論は適用されなくなる。あらゆる世間的な規範を、両者の独特な紐帯が超越してしまうからである。愛するとは、相手との関係を類型的な枠組みから脱却させることである。そこまで辿り着かないのであれば、不倫であろうと婚姻であろうと、その関係は表層的な遊戯の範疇から逃れられない。

「倦怠」の心理的解剖 三島由紀夫「美徳のよろめき」

 三島由紀夫の『美徳のよろめき』(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 三島由紀夫という作家には「泰平無事」とか「日日是好日」といった長閑で安逸な境涯を指し示す言葉が余り似合わない。彼は「無事」よりも「有事」を愛する、些か破滅的な人物である。無論、人間の内面は多義的であるから、破滅を好む性向が彼の人格の過半を占めているなどと強弁する積りはない。けれども、彼の内部には本質的に「平穏無事な日常生活」のようなものを拒絶する心情が根深く宿っているように感じられてならない。退屈な日常、決まり切った秩序の無際限な反復、永遠的な性質、それらへの嫌悪と、破壊への欲望は、終末論的な「死」の秩序によって引き絞られ、人生を覆う灰白色の天蓋のようなものを形作っている。

 単純に言えば、この「美徳のよろめき」という作品は、男女の月並みな不倫関係の顛末を描いた小説である。筋書きだけを抽出すれば、それ以外に特筆すべき事柄もない。度重なる妊娠と堕胎の描写には聊か眉を顰めたくもなるが、典雅な文章で緩やかに綴られた不倫の光景は、凡庸と言えば凡庸である。この作品は発表当時、非常に人気を博したという話であるが、どういう理由で人々の支持を集めたのかは判然としない。二十一世紀初頭の日本でも不倫に纏わる愛憎を描いたドラマは非常に人気を博しているから、煎じ詰めれば禁断の世界への窃視症的な興味の賜物ということかも知れない。興味はあっても勇気が湧かず、罪悪感にも堪えられず、自ら踏み込むことを躊躇せずにいられない類の世界を、安全な場所から覗き込んで見物するのは、気分のいいものである。

 犀利な心理的描写と典雅な措辞は相変わらず行き届いて、安定した品質を保持している。私も余り難しいことは考えず、優雅な不倫小説だと素朴に思い込んで読み進めていたのだが、結末を過ぎてページを閉じた後、この作品の主眼は決して不倫そのものではなく、厳密には「生きることの根源的倦怠」或いは「日常生活の本質的倦怠」に就いて書くことに置かれているのではないかと考え直した。終幕の一行で「恋の終わり」の通俗的感傷を蹴飛ばすような乾いた嘲笑を閃かす辺り、作者には節子と土屋の禁じられた「悲恋」を哀惜する意志は毫も存在しないのではないかと思われる。彼は如何なる色恋沙汰も、それが剣呑な背徳に由来する耽美的な情熱に飾られていたとしても、所詮は類型的な人間関係の枠組みの一つに過ぎないと断じているのではないか。だからこそ、優雅な措辞を用いて隅々まで明瞭に、不倫の実相を可知的なものとして描き出すことが出来るのではないか。節子が破り捨てた手紙の文章に紅涙を絞るのは馬鹿げている。あの手紙に充満しているような類の感傷は、不倫という関係の枠組みが自動的に析出する類型的な情熱に過ぎない。背徳の齎す抑圧的な感情の屈折を、恋愛の想い出を輝かせる為の艶出しの釉薬として用いるのは聊か幼稚な所業であろう。若しも本当に相手を愛するのならば、背徳の香味を利用するのではなく、周囲に迷惑の掛からない範囲で、節度を保って沈着に誠実な慈愛を捧げるべきである。

 作者は決して不倫という背徳的な恋愛に身を捧げた男女の哀傷に共感しているのではない。読者がそのように通俗的な解釈を懐くのは銘々の勝手だが、作者の主要な関心は背徳的な恋愛の渦中に生起する情熱の美醜などではないだろう。彼は不倫という罪悪の小さな輝きさえも呑み込み、涼しい顔で踏み躙ってしまう日常性の恐るべき「倦怠」に就いて語っているのだ。生きることに潜在する根源的な「倦怠」の恐ろしさを語る為に作者は敢えて、不倫という小さな悪徳の輝きを逆用したのである。無論、それは砂金程度の儚い輝きを放出した揚句に虚しく潰えてしまう。作者は訣別の感傷に少しも与していない。彼にとっては不倫の瞬間的な悪徳などよりも、日常生活の孕んでいる「永い午後」の不変の虚無的性質の方が遥かに不吉なのである。「有事」の破滅的な性格を愛することの方が寧ろ、無味乾燥な「無事」の単調な安寧を愛することよりも容易いのだ。彼の世界観において、如何なる終焉も有り得ないという認識は、地獄的な啓示として鳴り響く。華々しい悲劇的な破局の到来を予期することで、己の実存を「倦怠」から救済するという彼の終末論的な精神療法は、例えば「愛の渇き」や「青の時代」や「金閣寺」といった作品にも、その波紋を色濃く投じている。けれども「美徳のよろめき」においては、かつて「愛の渇き」で描かれたような破滅の暴発は、主役の許へ到来しない。代わりに節子が味わうのは、思い詰めた涯の切迫した離別さえも虚無的な経験として押し流してしまう「倦怠」の度し難い執念深さである。つまり「破局」は有り得ないという退屈な絶望が、彼女の精神を占有してしまうのだ。それは如何にも敗戦後の風景に相応しい類の絶望の形式である。

美徳のよろめき (新潮文庫)

美徳のよろめき (新潮文庫)

 

「児童虐待」に就いて

 先日、五歳の女の子が虐待を受けて死亡したというニュースが流れていました。

 如何にも惨たらしい、そして独善的な惨劇です。概要を聞いているだけで胸が締め付けられるような事件です。虐待を日常的に行なっていたと思われる父親と、それを黙認していた母親に対する憎しみは、他人事ながら、私の胸にも湧き起こりました。

 どんな理由を拵えても、子供を長期的な拷問に掛けるような真似が正当化されることはありません。確かに日常的に接していれば、幼い子供というのは脆弱で儚い存在であるとは思えない場面にも頻々と遭遇します。我儘で、此方の都合など歯牙にも掛けず、遣りたい放題、言いたい放題の子供の姿を眺めていると、小さな怪物のようにも思われて、子供相手ながら、理不尽で聞き分けのない大人に対するときのような怒りに駆られることも、実際にあります。

 けれども、子供が無力で、大人の庇護を必要とする存在であるという事実は変わらないのです。どんなに我儘で、親を振り回すような子供であっても、少なくとも五歳くらいの年齢では、親に見放されれば忽ち餓死する他ない脆弱な存在なのです。そうした権力の構造を閑却したのか、或いは悪用したのか分かりませんが、逮捕された父親が自らの権力を用いて無力な子供に死に至るほどの苦痛な時間を与えた、腕尽くで強いたという事実は揺るがないのです。

 無論、こうやって容疑者を声高に断罪することは誰にとっても容易な所業です。育児というものが、非対称的な人間関係であると同時に、様々な道徳的=社会的抑圧の渦巻く現場である以上、綺麗事だけを並べて乗り越えることは殆ど不可能に等しいと言えるでしょう。子供も親も、銘々の個性は千差万別であり、万人に適用し得る普遍的で堅固なマニュアルは何処にも存在しません。子供に対する怒りや憎しみの感情は、悪しきものとして斥けられるのが常であり、無論それを野放図に肯定すべきではないと私も思います。けれども、悪しき感情を抑圧するだけでは、却ってこのような「密室の惨劇」は何時まで経っても消え去らないのではないかと思います。私たち親は、如何なる例外もなく、潜在的な犯罪者としての烙印を己の膚に刻んでいると考えるべきでしょう。それは私たちの性情の良し悪し以前に、親子という間柄がそもそも非対称的な権力の関係として成り立っていることに由来する宿命であると言えます。

 もっと根源的に考えていけば、私たちの生殖能力と、育児に関する能力との間には、明白な乖離があります。生殖能力は概ね肉体的な問題ですが、育児に関する能力はもっと多様で後天的な要因に左右されます。健康な赤児を産む能力と、子供を幸福へ導く能力との間に、一義的な関係は存在しません。不妊に悩む人の中に優れた親としての資質を備えている人もいれば、子沢山でありながら親としての資質に欠けている人も幾らでも存在するでしょう。

 産んだ人間が育てるということは、私たちの社会を形作る基本的な規則の一つです。けれども、産んだ人間に育てる能力が欠けていれば、子供の不幸は宿命的に決定されてしまいます。産んだ人間が、自らの子供を憎むということは現実に起こっています。それは異常な事態だと看做され、結果としてその事実は抑圧されています。不快な現実から眼を塞ぎ続ける限り、児童虐待の悲劇は今度も無限に繰り返され、無辜の命が次々と失われていくでしょう。

 子供を産み、育てる力を「生得的な本能」と看做す思想は、明瞭な客観的根拠に基づいた認識であるというより、社会の側から、その成員に向けられた期待であり、要請です。つまり、それは現実というよりも「理想」に過ぎないのです。そして現実の側には常に「理想」を裏切る準備が整っています。現実は、理想という人工的なフィクションに対して無関心なものだからです。だとしたら、諸悪の根源は「幸福な家庭」という社会的幻想そのものに内在しているということになります。「幸福な家庭」の自明性を疑わず、それを前提として社会的な制度を設計するから、その歪みが隠蔽され、矛盾が惨劇として露呈するのです。

 虐待を行なった人間に社会的な制裁を加えることは常に「後の祭り」です。今回の事件の被疑者を断罪しても、死んだ子供の命は復活しないし、彼女が味わった地獄のような時間は消去されないのです。「事後の更生」が重要であることは無論ですが、それでは犠牲者を皆無にすることは出来ません。「更生」や「教育」が常に完璧な成果を発揮するとも限りません。そもそも世の中には、明確な覚悟を持たずに子供を作る人々が無数に存在しています。その背景に「幸福な家庭」の自明性という思想が関与していることは確かでしょう。子供への愛情を人間の「生得的な本能」として定義する社会の通念は一旦、否定されねばなりません。

 こうした事態が続くならば、将来的には出産と育児を「万人に認められた選択肢」から「社会によって許可された者だけに与えられた選択肢」へ移行させねばならなくなります。出生率の低下と人口の逓減に悩む国家が、そのような制度を実際に導入することは難しいでしょう。けれども、現代の出生率の低下は、児童の幸福という観点から眺めれば、必ずしも呪うべき事態ではありません。誰もが当たり前に結婚して子供を作るのではなく、自らの思考と責任に基づいて結婚して子供を作るようになれば、相対的には、児童を虐待する不適格な親の数は減少するでしょう。「皆婚社会」は子供の数を増やしますが、それは同時に虐待の発生する危険を高めるものでもあります。ただ、こうした変化は飽く迄も根源的な解決には寄与しません。そもそも社会として「子供を産み、養育する能力」を涵養する方策を整えること、不幸にして親に恵まれなかった子供たちを養育する社会的な制度を設計して正しく運用すること、これらの抜本的な改革を抜きにして、自信のない人間は子供を持たなければいいと言い捨てるだけでは早晩、国家の滅亡は避け難い宿命と化します。同時に、他人の子供に対する不寛容を容認することにも繋がりかねません。

 児童虐待は、パワー・ハラスメントの最たるものです。差別であり弾圧であり、悲惨な暴力の典型です。子供は庇護されるべき存在であるという通念を社会全体に浸潤させない限り、そして子供を親の「所有物」であるかのように位置付ける不法な考え方を廃絶しない限り、虐待は消滅しません。この「子供は親の所有に帰属する」という考え方は、家庭という社会的単位を維持する上では必要かも知れませんが、明らかに虐待の温床となる思想であると言えます。血縁というものを過度に重視し、親子の紐帯を特権化することで、家庭は社会的なものの侵入を拒む性質を持っています。此処には錯雑した困難が存在しています。家庭の適度な閉鎖性は、家庭の成員を社会の圧力や脅威から防衛する効果を持っています。つまり、それは子供にとっても重要な安らぎの根拠となるのです。けれども、この閉鎖性の悪質な側面が強まれば、家庭は子供を縛り付ける監獄と化します。これは夫婦関係に就いても同様に指摘し得ることでしょう。家庭は防塁であると同時に監獄でもあります。この微妙な二重性の均衡が崩れてしまえば、児童虐待の温床は一挙に劇しく陰湿な暴力を芽吹かせることになるでしょう。

欲望と道徳

 一般論として、欲望と道徳との間には、相剋或いは乖離が存在していて、私たちの悩み多き動物的な心は、その隙間に片脚を奪われて動けずに悶えているものだ。道徳は共同体が円滑に回っていくように定められた規範であり約束事なのだが、何時の時代にも、誰の心にも、掟として樹立された道徳的な権威と圧力に馴染み難いものを嗅ぎ取る厄介な「真情」というものが潜在している。

 あらゆる欲望は道徳に対立するなどと大仰に断言してみせる積りもない。世の中には便利なことに「道徳そのものへの欲望」という奴が存在していて、定められた規律に完璧な服属を示してみせることに快感を覚える連中も少なくない。彼らは正しさを志向し、自らの正しさを社会的に承認されることに何物にも代え難い愉悦を見出す。大いに結構な話だ。正しい欲望だけを抱き締めて生きていけるのならば、こんなに安楽で素晴らしいことはない。社会が成立させた公共的な合意の中に己を全面的に投入して平気な顔をしていられるのならば、彼らは欲望と道徳との相剋などという古臭く青臭い御題目に頭を悩ます暇もなく、毎晩ぐっすりと枕を高くして眠れるだろう。大いに結構な話だ。

 だが、本当に人間は、社会の定める外在的な公共性と、己の内なる欲望を完全に合致させるという困難な離れ業を演じてみせることが出来るだろうか? 両者が徹頭徹尾、自然に辻褄が合うということが有り得るだろうか? 私はそうした道徳的幻想を信じない。そこにはファシズムの悪臭が漂っている。人間の抱懐する欲望や衝動が一から十まで社会的な正しさ、時代と環境によって変遷する相対的な正しさに合致するとしたら、それは驚嘆すべきストイシズムの成果か、或いは骨の髄まで染み渡った極端で純血の奴隷根性の賜物であろう。体制的なものの訓誡を何一つ疑わずに育ち、社会が正しいと認めるものだけを欲する合理的で奴隷的な欲望を成長させたインサイダーの怪物。

 他人の話に素直に耳を傾けることは確かに一面では美徳である。そうでなければ、私たちは他人の叡智を受け取ることが出来ない。だが、傾聴と隷属を混同する連中がいる。他人の話には無条件に従わねばならないと感じ、しかもそうした隷属の姿勢に正当な疑問さえ懐かない連中がいる。そうした筋金入りのインサイダーが、人間の目指すべき最終的な理想であると信じる気分にはなれない。正しさ、無数の正しさ、道徳と社会の提示する相対的な正しさを絶対化する盲目的な生き方に賛同しようとは思わない。

 大人になるということは、共同体の規範を内面化して優秀な奴隷と化すことだと看做す保守的な思想にも、何らかの効用を認めない訳ではない。実際、私は決して無秩序な世界を望む訳ではない。だが、秩序は他人から投げ与えられるものだろうか? 私たちは他人が定めた戒律の内側でしか生きられないのだろうか? 或いは、その戒律に叛こうとする心情は罪悪の根幹なのだろうか? そんな筈はない。外在的な規範を、つまり既存の道徳を少しも疑わずに暮らすなんて馬鹿げている。そもそも、そこには人間の尊厳が存在しない。

 尤も、一から十まで道徳的な規矩に則った欲望を懐ける人種など、決して多数派ではないだろう。唯々諾々と外部の規範に従う人間の卑しい性根を、優等生の美名で飾るのは欺瞞的な行ないだ。私たちの多くは、内なる欲望と、歴史的に形成された道徳的な規範との乖離に苦しんでいる。その苦悩を知らぬ者に道徳を語る資格はないし、欲望に就いて論じる権利もない。厳密には、その必要性が生じない。

 坂口安吾「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」(「風と光と二十の私と」)と書いた。道徳的な規範に何もかも預け切って安逸を貪っている連中も、反社会的な悪徳の泥濘に沈み込んで御満悦の連中も等しく「けだもの」に過ぎないと言えるのだろう。相互に矛盾する問題の狭間で、彼是と報われぬ思索に日月を費やすのが人間の実存の標準的な形式である。「堕落論」で一世を風靡した坂口安吾は時に、社会的な規範への反抗を手段ではなく目的の位置に据えた厄介な落伍者であるかのように誤解されるが、彼は決して「堕落」を無際限に称揚したのではない。社会の規範を軽んじて淪落の暗闇を這い回ることに理想的な人生を発見した訳でもない。彼は道徳と欲望の亀裂に身を挺することの必然性を語っただけだ。道徳的な規範から外れることを「正しさ」の場所に配置して語るならば、それは単に別様の道徳を拵えただけの話で、問題は「数の論理」に還元されてしまう。既成の道徳への反抗を、もう一つの道徳として謳歌することの矛盾を、安吾は明瞭に知悉していたに違いない。重要なのは、道徳と欲望の狭間に落ち込んだ己の苦悩を凝視することだ。甘ったれた言い訳を、その苦悩の軽減の為に持ち込むべきではない。道徳も欲望も、それ自体は一つの事物に過ぎない。人間の尊厳は、両義性の中で演じられる軋轢と葛藤によって辛うじて支えられている。そこにしか、革新と進歩の種子は芽吹き得ないからだ。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

 

「不義密通」に就いて

 江戸時代、日本では配偶者以外の人間と肉体的な関係を持つことを「密通」と称して、厳しく禁圧していた。独身の男女同士が関係を持つことさえ「密通」の定義に含まれていたのである。

 公共的な規律に基づいた「婚姻」以外の総ての性的関係を「不義密通」と看做して断罪する潔癖な道徳性は、時代の変化に伴って著しく緩和されてきた。独身の男女が性交渉へ赴くことは、現代においては明瞭に個人の自由と権利の範疇に属し、叱責や処罰とは無縁である。

 けれども、そもそも「恋愛」という観念自体が「結婚」の正統な公共性に対する抵抗の要素を含んでいるということを軽視すべきではない。自由な恋愛、公認された恋愛というものの矛盾した性質を看過すべきではない。つまり「恋愛」という営為の核心に埋め込まれた反社会的な含意を閑却してはならない。

 「恋愛」という言葉を聴いて、反社会性などという重苦しく攻撃的な観念を思い浮かべる人は限られているかも知れない。現代の社会において「恋愛」という精神的営為は原則的には明朗で肯定的な事象として捉えられ、位置付けられている。つまり、公共的に是認されているように見える。だが、それは現代の社会が「恋愛=結婚」という公理を導入していることの結果であって、必ずしも普遍的な思想であるとは言い難い。長い間、この国では「恋愛=結婚」の公理は一般的な規矩として認められていなかった。そもそも「結婚」という制度自体が本質的に、男女間の個人的で主観的な好悪の情などとは無関係に存立しているものであることを見落としてはならない。

 現代においては稀薄化しつつある定義であるとはいえ、歴史的に「結婚」という制度の機能的な核心は恐らく「生殖」という点に存している。配偶者を対象としない総ての性交渉を「密通」という背徳的な範疇に繰り入れる社会的な思想の根本には、そうした考え方が抜き難く横たわっている。種族の繁栄という観点から眺めれば、相互に愛し合う男女だけが周囲の祝福を享けて婚姻するべきであるという現代的な通念は極めて非効率である。感情などという曖昧で移ろい易いものを基準に据えて婚姻の可否を定めれば、夫婦の離合集散が著しくなることは眼に見えている。「皆婚社会」を成立させる為には、聊か逆説めいて聞こえるが、男女間の恋情などに重きを置いてはならないのである。生殖を目的とした婚姻の仕組みに、先ずは年頃の男女を捻じ込んでしまうことが肝要であって、両者の愛情や慈しみは後天的に育んでいけばいいと考えるのが、皆婚社会の基本的な理念なのだ。

 男女間の私的な好悪の情を「結婚」という制度に接続してしまえば、未婚率も離婚率も上昇するに決まっている。目紛しく変動する感情を基準に、数十年間の人生の行路を決定せねばならないという不可能な決断への気後れが未婚率の上昇や晩婚化を惹起し、結婚した後の感情の変動に抗いかねて、離婚を選択する夫婦が増加する。結婚の要諦が夫婦間の好悪の情に存するのであれば、配偶者に対する愛情を失ったときに離婚を選択するのは至極尤もな成り行きである。少なくともそこに論理的な矛盾は生じていない。「恋愛」を基礎に据えた結婚、換言すれば「結婚の恋愛化」という時代の趨勢は不可避的に離婚率の劇的な上昇を齎すのである。

 「結婚の恋愛化」が亢進すれば、相対的に「結婚」の有する社会的な権威は衰微していくだろう。「結婚=セックス」という厳格な戒律が緩和され、男女の自由な交情が容認されるようになれば、敢えて「結婚」という保守的で不自由な制度に固執する必然性も乏しくなっていく。

 同時にそうした趨勢は「恋愛」に関連する異様な情熱の衰弱を齎すだろう。「恋愛」の劇しい情熱は往々にして、それが「結婚」に対立する性質を備えていることに由来している。生殖を目的とした「結婚」の共同性と、好悪の情に基づいた「恋愛」の共同性との間には、本質的な懸隔が存在する。換言すれば「結婚」は生活の部類に属し、「恋愛」は遊戯の部類に属するのである。このように書くと「恋愛は遊戯に過ぎない」と侮蔑しているように聞こえるかも知れないが、それは私の本意ではない。「恋愛」の本質には、個人の思想や感情を尊重するヒューマニスティックな「自由」の信条が象嵌されている。個人主義の発達は「恋愛」の発達と同期している。けれども、個人主義の情熱は常に「個人と社会との相剋」という界面の摩擦を前提として燃え盛るものである。「不義密通」の適用される範囲と要件が緩和されるほどに、個人主義的な情熱は炎上の必要性を逓減させていく。換言すれば「恋愛」そのものが根源的な反社会性を帯びているのではない。「結婚」の絶対的な権威が信奉されていた時代と環境において「恋愛」が反社会的な役割と含意を担わずにはいられなかったと看做す方が一層精確であろう。同じく近代的な個人主義と足並みを揃えて登場した「小説」が極めて頻繁に「恋愛」を主題として取り上げてきたことも、単なる偶然ではないと私は思う。

複数形の「私」の共存共栄

 昨日の自分と今日の自分は別人である。今日の自分と明日の自分もまた別人である。私たちはそれらを首尾一貫した同一の存在として認識している。そのように考えなければ、私たちの世界観は成り立たない。

 或いは、私たちは自分を或る明確な一個の存在であると思い込んでいる。こういう人間であるという定義を持っている。だが、その定義は日常的に崩れ落ち、日常的に錯乱している。人間は自分でも信じられないような行動に踏み切ってしまうことがある。それまで信じていた「自分」の定義とは全く相容れない、奇矯とさえ感じられる言動に傾斜することがある。私たちはそれを突発的で異常な現象だと判断したがる。そのように位置付けない限り、それまで信奉してきた「自分」の秩序が瓦解してしまうからだ。しかし、それは本当に正しい考え方であろうか? どんなに異常だと思っても、その言行が実際に為されたのであれば、それは紛れもない「自分」の一部である。「自分」を構成する要素の一つである。それを異常な、突発的な故障のように捉えれば、確かに従来の自画像は混乱せず、毀損されない。そうやって頑迷に「自分」の定義を後生大事に守り抜いている限り、人間は変貌と無縁である。新しい「自分」に出逢う心配もない。少なくともその萌芽は、当事者の視野から除外される。

 「私はこういう人間である」という自己定義は、余り頼りにならないのが世上の通例である。少なくとも、そうした自己定義を純粋に客観的な解釈であると看做すのは素朴な対応である。人間の自己定義には、このように見られたいという願望、こういう自分でありたいという希求が入り混じっているものであり、従って厳密な「事実認識」のようなものを期待することは難しい。「私はこういう人間である」という解釈は往々にして恣意的なものであり、客観的な妥当性を欠いている。

 自己定義から食み出すものの存在を認めず、涼しい顔で扼殺することは出来ない。主観的な認識の上で、そうした隠然たる暗殺に踏み切ることは出来ても、殺された者の亡骸が、風に押し流される霞のように消滅することはない。或る不可解な行動、失錯、過誤、それらの事件が如何に従来の「自分」の枠組みから隔たった性質を持っていたとしても、それが実際に起こったことならば、それを「自分」の範疇から除外して考えるのは「改竄」に類する行為であると言わざるを得ない。存在したものを、存在しなかったように取り扱うのは明白に「改竄」の一例である。

 私たちは寧ろ複数形の「自分」の曖昧で緩やかな連合体なのではないかと思う。「自分」という曖昧で緩やかな旗標の下に蝟集した複数の「私たち」として、この「自分」というものは構成されているのではないかと思う。換言すれば、普通に生きているだけでは、私たちは「自分」の全体を理解することなど出来ない。或いは、このように言うべきだろうか。私たちは「自分」の範疇の内部に、夥しい数の「他人」を養っているのだと。自分という存在の中に取り込まれた無数の他者は、偏狭な自己定義の律法から逸脱して、時に私たちを想像もつかない奇矯な言動の渦中へ拉致する。それは本当に異様な悲劇に過ぎないのだろうか? それは悲劇であると答えるとき、その人物は余りにも劇しく「自己」に総てを捧げ過ぎている。内なる他者の蔓延を厭うのは、自分自身の内部に存在する不透明な暗部さえも完璧に統制したいと願う希求の反映であろう。

 自らの力で自らを治めること、つまり「自立=自律」の理念を実現すること、その輝かしい尊厳に就いて、私は幾度も雑然たる思索を巡らしてきた。自らの掲げた目標、倫理、規則に基づいて自己を支配すること、自分で自分を統制すること、それは確かに崇高で美しい「生き方」には違いない。だが、そんな風に総てを鮮やかに切り分けることが可能だろうか? そうした支配が完璧な専制へ近接するほどに、同じ熱量の「失われるもの」が存在する。内なる他者を獄舎へ繋ぐこと、自立のストイシズムは、そのような厳格な治安維持の上に辛うじて成立する理想である。無論、理想は常に、原理的に美しい。けれども、私の心は本当に、そのような精神的「独裁」の美しさを希求しているのだろうか?

 絶えず揺れ動く曖昧な自己を肯定すること、朝令暮改を戒律に定めること、昨日までの自分を信じないこと、明日の自分を予測しないこと、こうした習慣は、危険な刹那主義に属していると一般的に考えられている。だが、或る超越的な理念の下で、様々な「内なる他者」を選別し、厳格に統御するという軍隊式の生き方を、最も崇高な「善性」或いは「美徳」として崇めるのは、偏狭な話ではないか。複数形の「私」を否定し、或る確固たる明瞭な自己へ無理に集約しようと試みる腕尽くのストイシズムに、私は好意を維持することが出来ない。「内なる他者」の殺戮は最終的に、往来を行き交う普通の「他者」への殺意に転化しかねない。自縄自縛の悪弊を振り切って「他者への寛容」という美徳を正しく樹立しない限り、自主独立の崇高なストイシズムは、正義という名の暴力へ横滑りしてしまうだろう。

三島由紀夫「金閣寺」再読 3

③「美的なもの」の破壊に就いての先覚者

 「金閣寺」における「私」とプラトニズムとの対決の過程には、或る脇役の存在が重要で決定的な影響を及ぼしている。「私」が大谷大学へ進学した後に知遇を得る「柏木」という級友である。彼の思想は、色々な意味で「私」に多様な示唆を与えている。言い換えれば、彼の存在は「私」と対蹠的な思想の秩序によって織り成されているのである。或いは、悪徳に蝕まれた思想的「陽画」であると言ってもいい。

 そうだ。俺は自分の存在の条件について恥じていた。その条件と和解して、仲良く暮すことは敗北だと思った。怨みようならいくらもある。両親は俺が幼児のときに、矯正手術をしてくれるべきだったのだ。今となってはもう遅い。しかし俺は両親に対しては無関心で、怨みを持ったりするのは億劫だった。

 俺は絶対に女から愛されないことを信じていた。これは人が想像するよりは、安楽で平和な確信であることは、多分君も知っているとおりだ。自分の存在の条件と和解しないという決心と、この確信とは、必ずしも矛盾しない。なぜなら、もし俺がこのままの状態で女に愛され得ると信じるなら、その分だけ、俺は自分の存在の条件と和解したことになるからだ。俺は現実を正確に判断する勇気と、その判断と戦う勇気とは、容易に馴れ合うものだと知った。居ながらにして、俺は戦っているような気になれたのだ。(『金閣寺新潮文庫 p.120)

 小説において登場する様々なキャラクターが、如何なる文学的意図にも関与せず、純然たる偶発的事件として顕れることは有り得ない。何故なら小説は、如何に素朴なリアリズムに基づいて克明に描かれていようとも、現実の単純で不完全な模写ではなく、人間の手で捏造された可能的な現実であり、従って虚構であるからだ。従って私たちは「柏木」という人物が登場することの意味を、この「金閣寺」という作品との関係において考え、捉えなければならない。

 「私」と「柏木」との複雑な友情の端緒が、銘々の抱え込んでいる身体的な「存在の条件」に基づいていることは明白である。「私」にとっての「吃音」と「柏木」にとっての「内翻足」が、彼らの間に生じた友誼の基本的な条件なのだ。両者は全く性格の異なる人物として設定されているが、彼らの間に「存在の条件」と如何にして向き合うかという実存的な課題が共有されていることは言うまでもない。

 「私」は「吃音」によって形成される内界と外界との隔たりを、プラトニズム的な二元論に基づいて認識し、処理している。「外界」の現象を「内界」に存在する超越的な理念の不完全な反映であると看做す「私」は、いわば「内界」の優位性に依存することで「外界」に対する「行為」への可能性を自ら扼殺している。換言すれば「私」は「外界」に対して常に「認識者」として留まり続けることを自らの存在に命じているのである。

 では、一方の「柏木」は、如何にして現実との関係性を処理しているのだろうか?

 俺はこういう不合理に納得がゆきかねた。その実俺の欲望はだんだん烈しく募って来ていたが、欲望が彼女と俺とを結ぶとは思われなかった。彼女がもし他人をでなくこの俺を愛しているのだとすれば、俺を他人から分つ個別的なものがなければならない。それこそは内翻足に他ならない。だから彼女は口に出さぬながら俺の内翻足を愛していることになり、そういう愛は俺の思考に於て不可能である。もし、俺の個別性が内翻足以外にあるとすれば、愛は可能かもしれない。だが、俺が内翻足以外に俺の個別性を、俺の存在理由を認めるならば、俺はそういうものを補足的に認めたことになり、次いで、相互補足的に他人の存在理由をも認めたことになり、ひいては世界の中に包まれた自分を認めたことになるのだ。愛はありえない。彼女が俺を愛していると思っているのも錯覚だし、俺が彼女を愛していることもありえない。そこで俺はくりかえし言った。「愛していない」と。

 ふしぎなことには、俺が愛していないと言えば言うほど、彼女はますます深く、俺を愛しているという錯覚の中へ溺れた。そうして或る晩、とうとう俺の前へ体を投げ出すようなことをやってのけた。彼女の体はまばゆいばかり美しかった。しかし俺は不能だったのである。(『金閣寺新潮文庫 pp.123-124)

 「柏木」は「世界」との和解を異様なほどの峻厳さで拒否している。柏木にとって生来の内翻足という「存在の条件」は断じて解消されてはならない絶対的な根拠としての役割を担っているように見える。彼は自分が「愛されない」存在であることを確信することで、己の精神的な秩序を安定させている。彼は「外界」と敵対し、永久に「和解」を拒み続けるという決意に基づいて、己の個人的な哲学を成立させているのである。

 こうした拒絶の美学が、柏木の人生に齎す具体的な効用とは何であろうか?

 俺は恥じていたが、内翻足であることの恥に比べれば、どんな恥も言うに足りなかった。俺を狼狽させたのはもっと別のことである。不能の理由が俺にはわかっていた。その場になって、俺は自分の内翻足が彼女の美しい足に触れるのを思って、不能になったのだ。この発見は、決して愛されないという確信の持っていた平安を、内側から崩してしまった。(『金閣寺新潮文庫 pp.124-125)

 柏木自身は、その絶対的な「拒絶」の効用を「平安」という言葉で呼んでいる。「絶対に女から愛されない」という「安楽で平和な確信」は、外界の現実への卑屈な従属からの解放という心理的効用を含んでいる。或いは「内翻足」という身体的条件を抱え込んだまま、社会的な現実との間に生産的な関係を取り結んでいくことからの解放を含意している。言い換えれば、彼が自らの「存在の条件」との和解を拒否するのは、それによって自らの存在を「外界」から保護する為である。この段階では、柏木の精神的秩序は「私」のそれと同一の水準に属しているように思われる。外界の現実から自らの存在を切り離し、内界の現象や観念に、外界のそれを上回る価値を賦与しようと試みる自閉的な姿勢が、彼らに共通する根源的な性質なのである。

 他人から絶対に理解されず、愛される見込みもないという内在的で独断的な確信が、何故「平安」を齎すのか。それは他者との間に繰り広げられる錯雑した社会的関係性からの離脱を意味し、その離脱を正当化する根拠として機能するからである。如何なる理解も愛情も与えられることがないという峻険な孤独の条件は、柏木の内部から、世界と和解し、世界に内属して生きようと努める理由を剥奪する。そのとき彼の孤独は、彼の絶対的な覇権を、つまり他者という厄介な異物を完全に排除した後に成立する完璧な主権を機能させる根拠と化す。愛され、理解されることに対する拒絶は、換言すればナルシシズムの「平安」を棄却することに対する拒絶なのである。自己に対する自己の評価を、他者という異物は多様な視角に基づいて身勝手に攪乱する。そのとき、自己の独裁的な視点の権威は無限に相対化され、他者との間に果てしなく持続する社会的な合意形成のプロセスが開拓される。

 柏木は「愛されても愛されなくても、どちらでも構わない」という開放的な身構えを選択することが出来ない。それは事態の決定権を他者に委任し、自己の受動的な状態を肯定することを意味するからだ。換言すれば、柏木はあらゆる対象への決定権を独占したいという幼稚なナルシシズムの欲望に囚われており、その根源には、一切の「他者的なもの」「外部的なもの」への恐懼と軽蔑が巣食っているのである。

 何故なら、そのとき、俺には不真面目な喜びが生れていて、欲望により、その欲望の遂行によって、愛の不可能を実証しようとしていたのだが、肉体がこれを裏切り、俺が精神でやろうとしていたことを、肉体が演じてしまったからだ。俺は矛盾に逢着した。俗悪な表現を怖れずに言えば、俺は愛されないという確信で以て、愛を夢見ていたことになるのだが、最後の段階では、欲望を愛の代理に置いて安心していた。しかるに欲望そのものが、俺の存在の条件の忘却を要求し、俺の愛の唯一の関門であるところの愛されないという確信を放棄することを要求しているのが、わかってしまったのである。俺は欲望というものはもっと明晰なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.125)

 これは飽く迄も我流の解釈に過ぎないが、柏木の「欲望というものはもっと明晰なものだと信じていた」という告白は要するに、欲望が如何なる他者的=社会的な枠組みとも無関係に、自律的に存在し、稼働するものであると信じていたという意味であろう。ナルシシズムの内界に閉じ籠もっていたとしても、欲望はそれ自体として独立的な実体を持ち、堅固な輪郭を備えて、愛情という社会的な関係性を媒介せずとも自在に発露し、充足させることが可能であるという確信が、柏木の内面においては「愛されないという確信」と共に同居していたのである。しかし実際には、欲望は主体の内面や他者との関係性から切り離された自律的な「機械」などではなく、明確に他者との社会的な関係性の内部に象嵌された現象であった。その認識が、彼の堅牢なナルシシズムの完結性に亀裂を走らせたのだ。欲望は明晰な独立的存在ではなく、絶えず他者との社会的な関係性の内部で構造化されているという認識は、ナルシシズムの平安の本質的な不可能性を告示するものである。他者との関係を断ち切り、世界との和解を拒否し続ける限り、欲望は機能せず、従ってその充足も成立しない。

 無論、それも一つの人生の様態であるかも知れない。つまり、本質的な意味で「欲望」の社会的な性質を拒み続けること、如何なる欲望とも無縁の状態を把持すること、出家遁世の求道者として世俗の享楽から離脱すること、それによって「涅槃の平安」を勝ち得ること、そうした生き方を選択するのは個人の自由である。

 だが、柏木はそうした仏教的修養の道筋を選び取ったのではなかった。つまり、欲望の不可能性を悟り、その抜本的な断念によって生きようと考えたのではなかった。彼は欲望というものの性質を書き換え、世界との和解を経由せずとも成立し、充足させることの可能な欲望の形態を発見したのである。

 不安の皆無、足がかりの皆無、そこから俺の独創的な生き方がはじまった。自分は何のために生きているか? こんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。俺には何でもない。内翻足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、……生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生れるものではないのか。(『金閣寺新潮文庫 pp.126-127)

 生きている理由や目的の喪失、稀薄な実感、決して充実することのない生存、そういった感情は確かに「自分が十分に存在していない」という奇怪な認識に由来している。自分自身の生存の意義を明瞭に見定められぬとき、人間は己の存在を虚無的に捉え、その価値を怪しみ、生死の境目の実効性さえも疑い始める。つまり、生きていることと死んでいることの境界線が曖昧に霞んでしまうのだ。

 けれども柏木にとっては、生きていることは死ぬことと混同しようがない。彼は常に「内翻足」という「存在の条件」を直視せずにはいられず、従って彼は己の生存を透明な空気のように看做すことが出来ない。言い換えれば、彼は結局のところ、他者の眼差し、外部的で社会的な眼差しを黙殺することが出来ない。彼は他者から見られることを常に意識し、他者の視線に支配されることに慣れ切っている。彼が自らの「存在の条件」と和解出来ず、結果的に世界との和解にも至ることが出来ないのは、前述した見解と矛盾するが、寧ろナルシシズムの不可能性という決定的な傷痍の為ではないか?

 聊か論述の流れが混濁してきているので、一旦整理しておこう。彼が「愛されないという確信」から奇怪な「平安」を抽出するのは、彼がナルシシズムの監獄に逼塞して、不動の安寧を確保しているからではない。寧ろ彼は「内翻足」という「生存の条件」と和解しないことで、内翻足に対する社会の差別的な視線を内面化し、ナルシシズムの存立する基盤を徹底的に蹂躙しているのである。彼は自閉的なナルシシズムの揺籃に横たわり、懶惰な夢を貪っているのではない。そのような特権的幸福を享受する可能性は、内翻足という条件によって根本的に毀損され、否定されている。

 他人から見られるとき、彼の欲望は不能に陥る。他人から見られるとき、彼は自分の存在が世界から拒絶されているという悲劇的な真実に目覚めずにはいられない。彼が自らの欲望を成就する為には、他人からの抑圧的で差別的な視線を完全に排斥することが必要である。

 このときから、俺には精神よりも、俄かに肉体が関心を呼ぶものになった。しかし自分が純粋な欲望に化身することはできず、ただそれを夢みた。風のようになり、むこうからは見えない存在になり、こちらからは凡てを見て、対象へかるがると近づいてゆき、対象を隈なく愛撫し、はてはその内部へしのび入ってゆくこと。……君は肉体の自覚というとき、或る質量をもった、不透明な、確乎とした「物」に関する自覚を想像するだろう。俺はそうではなかった。俺が一個の肉体、一個の欲望として完成すること、それは俺が、透明なもの、見えないもの、つまり風になることであったのだ。(『金閣寺新潮文庫 pp.125-126)

 「透明なもの、見えないもの、つまり風になること」が実現したとき、柏木は一切の外部的な視線の抑圧から解き放たれて「純粋な欲望に化身すること」が出来るだろう。彼の欲望の形態は、窃視症を連想させる。彼にとって他者の眼差しを浴びることは、欲望の不能の重要な原因である。そうした不能の原理が「内翻足」という「存在の条件」が齎した特殊な構造であることは論を俟たない。そして柏木の固陋な精神は、飽く迄も「内翻足」と「世界」との間に穏健で友愛に満ちた和解が成立することを了承しない。「内翻足」という「存在の条件」を肯定し、容認することは、彼にとって心理的な敗北を意味している。それは「世界」の求める一般的な規則に適合しない自己を肯定することであり、従ってそれは「世界」に対する敗北を自ら容認することに他ならない。

 「愛されないという確信」の把持は、内翻足という端的な現実を受容しないという高潔な覚悟と相関している。換言すれば、彼は自分自身よりも世界を優先しており、内在的な価値観よりも社会的な規矩を尊重しているのである。内翻足だから愛されないという認識への絶対的な同意は、実際に内翻足である自分が具体的な他者から愛を享けるかどうかという実際的な判断とは無関係である。内翻足である限り、他者から愛されることは有り得ないという強固な妄信は、彼が常に外在的な価値の基準に依拠していることの露骨な明証であると言えるだろう。

 ここには「仮面の告白」において明瞭に示され、描き出された「正しさへの欲望」が残響している。本来ならば内発的であるべき欲望を「知的な仮構」と看做す異様なストイシズムの陰翳が滲んでいる。そうした観点から眺めるならば、柏木は「内界への逼塞」という甘美な安逸を根源的に剥奪された人間である。彼は他者の眼差しによって隅々まで占有された存在であり、他者の眼差しを内面化している為に決して自分自身の存在、厳密には「内翻足」という「存在の条件」を意識の領野から棄却することが出来ない。

 鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。だから俺には、世間で云われている不安などというものが、児戯に類して見えて仕方がなかった。不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。世界は墓石のように動かない。(『金閣寺新潮文庫 p.126)

 柏木は断じて自らの「存在の条件」を忘却することが出来ない。換言すれば、彼は断じて他人の眼差しを、他人の視点を、他人の審美的な基準を黙殺することが出来ない。彼の眼差しは常に社会的な眼差し、他人の眼差しによって占拠されており、それが彼の欲望の発露と成就を禁圧してしまう。この厄介な罠は決して逃れることが出来ない。何故なら、他者の眼差しを逃れる為には、彼は自らの存在そのものを透明な「不在」に書き換えなければならず、それは無論、不可能な夢想に過ぎないからである。そして彼の内部には既に他者の視線が陥入しており、彼にとって他者は自己の外部ではなく内部に根を張っている。「しかし忽ち内翻足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる『物』として、そこに存在していた」(p.126)という文章を徴すれば明らかなように、最早「内翻足」という条件は、他者的な視線の象徴そのものにまで高められているのである。「内翻足」は、決して透明にならない。それは絶えず他者の眼差しに晒され、審美的に吟味され、社会的に鑑定されている。彼は他者の眼差しを仮想的に内面化することで、欲望の不能に陥り続ける。

 「俺は欲望というものはもっと明晰なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった」(p.125)という文章を改めて想起してもらいたい。この文中の「己れを夢見ることを必要とする」という言葉は、如何なる事態を指し示しているのか? それは恐らく、ナルシシズム的な夢想に耽溺することである。他者の眼差しに囚われず、外在的な基準を無造作に踏み躙って、個人的で主観的な欲望の閉域に自足することである。だが、内翻足という存在の条件を通じて他者の眼差しを内面化している柏木にとって「己れを夢見ること」は、それ自体が永遠に到達の不可能な夢想に過ぎない。

 老いた寡婦の皺だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何ものをも夢みていない俺の内的な状態に、不断の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌しない、と誰が云えよう。俺の内翻足と、この顔と、……そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。俺ははじめて、親和の感情を以て、おのれの欲望を信じた。そして問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。(『金閣寺新潮文庫 p.129)

 この発見は「金閣寺」という作品を貫く最も重要な主題との間に、密接な関連を有している。「己れを夢見ること」とは即ち「美的なものへの耽溺」である。美的なものに接近し、耽溺する為には、対象の美的な性質を夢想し、確信することが肝要である。或いは、美的な存在によって包摂された自己を信じることが必要である。しかし「内翻足」という存在の条件によって他者の審美的な眼差しを刷り込まれた柏木の欲望は、美的な対象に接近することで不本意な挫折を強いられてしまう。彼が自らの欲望を成就するに際しては、対象の美的な性質は歓びを強める触媒ではなく、寧ろ致命的な障碍となるのである。

 結果として柏木が編み出したのは「美的なものの否認」という心理的技法であり、一切の美的な観念を排除して事物の「実相」に到達するという冷徹な身構えを内面化することであった。美という尺度そのものを否認し、拒絶し、如何なる美しいものも煎じ詰めれば「夢」=「仮象」に過ぎないと断じることで漸く、彼は己の欲望の不能から脱却することに成功したのである。その意味では、柏木という友人は語り手の「私」にとって重要な先覚者の位置を占めていると言える。

 見るがいい。そのとき俺は、そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理、決して不安に見舞われぬ論理から、俺のエロティシズムの論理を発明したのだ。世間の人間が惑溺と呼んでいるものの、相似の仮構を発明したのだ。(『金閣寺新潮文庫 pp.129-130)

 性的な「欲望」は一般に対象との想像的な融合を図るものだが、柏木の編み出した論理は、それとは対蹠的な性質を帯びている。彼は寧ろ欲望の対象から無限に遠ざかることで、己の肉体的な興奮を維持し、高揚させる。一見すると禁欲的な「停止」の状態が、性的な欲望を成就する為の決定的な要件であるという逆説が、いわば彼の「人生」の方法論なのである。彼は美的なものを「仮象」に過ぎないと断じることで、欲望の不能から、つまり「人生」の不能から恢復した。その独特な論理が、プラトニックな理念の虜囚と化した「私」の眼に示唆的な仕方で映じるのは当然の理窟である。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)