サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「生活」に就いて

 「生活」という言葉は、私たちの暮らしの中に、当たり前のように溶け込んでいる。誰もが「生活」という言葉の厳密な定義を改めて検討する必要にも迫られぬまま、遽しい世渡りに齷齪している。例えば「就活」(就職に向けた活動)やら「婚活」(結婚に向けた活動)といった最近の言葉と照らし合わせてみたとき、この「生活」という言葉を「生存に向けた活動」という具合に言い換えることが可能である。

 自らの生存を維持する為に行なわれる活動の総体を纏めて、人はそれを漠然と「生活」という言葉を用いて呼称する。そのように考えれば、この世界に「生活」という観念と無縁の人間は誰もいないということになる。死んでいない限り、人間は生きており、生きている以上は否が応でも、生きる為の様々な活動(食事や排泄といった基礎的な生物学的行動も含めて)に精励しなければならない。生活を嫌悪する人でも、自分の心臓が血流を支え、肺臓が酸素と二酸化炭素を交換していること自体に異論を唱える人はいないだろう。

 換言すれば、自殺に赴く人々は皆、生活に対する嫌悪を抱え込み、生きる為の活動に明け暮れる日々に抑え難い倦怠を懐いてしまった人々であると、定義することが出来る。場合によって人間は、生きる為に飯を食い、厠へ日に何度も入って踏ん張り、銀行口座を空っぽにしない為に自分自身に鞭打って勤めに出掛けるという日常的な現実そのものを憎悪し、排斥したくなることがある。生きているという事実と、今後も長く生きていたいという願望との間に、単純な因果関係を定言的に求めるのは必ずしも適切な考えではない。生きることへの嫌悪、日々の生活を維持していくことへの嫌悪、そうした負性の感情が降り積もって、徐々に醗酵し、或る日突然、最後の規矩を飛び越えてしまう。生活の圏域から離脱して、涅槃の境地へ物理的に移行してしまう。そのとき、周囲の人々は時に当惑を口にする。仕事振りも真面目で、人柄も良かったのに、何故、世を儚んで自殺してしまったのだろうか、と。しかし、彼は真面目に生活の規矩を守りながら、内面には堪え難い衝動を刻々と肥大させていたのかも知れない。

 私が思い立って昨秋から集中的に読み込んでいる三島由紀夫の文業には、こうした「生活への嫌悪」が随所に、署名のように刻み込まれている。彼の生涯には、生活の反復的な秩序から脱して、崇高な「死」の安逸へ逃げ込むことへの憧憬が絶えず反響している。無論、彼はずっと「死への衝動」を素朴に肯定していた訳ではない。例えば「金閣寺」において、語り手である見習いの僧侶が、幼時から憧れ続けてきた金閣寺に火を放つのは、金閣が彼の「生活」への参入と自足を妨礙する存在であったからだ。換言すれば「金閣」は、あの不幸な僧侶にとっては「死」の象徴であり、代理的な観念であったのだ。彼は死を通じて生活からの脱却を図ろうとする悲劇的な欲望と、生活に参与し、生活に没入したいと考える積極的な願望との間で苦悩を積み重ねてきた。金閣寺を焼き払うことは、三島にとって「生活」を尊重する為の重要な決断であり、内在的な誓約であったのではないかと思われる。

 生活するということ、生きるということ自体を肯定すること、それは倫理的な観点から眺めれば、一つの根本的な美徳であろう。生存を肯定しない限り、生活の為の思想も行動も生まれようがない。そして生存の肯定は、生命体を支える根本的な原理である。あらゆる破滅的な悪徳は、生きること、生活することへの敵愾心に満ちた否定から生じる。悪徳の成立する根源的な要件は、生に対する嫌悪と拒絶である。生きることを呪うとき、人間は他人が抱え込んでいる生活への憧憬や欲望さえも軽んじて、蔑視するようになる。自分の生存を肯定し、承認出来ない人間が、他人の生存の価値を安く見積もるのは当然の理窟である。

 幼い子供を虐待して殺したり、見ず知らずの他人を突発的に襲って命を奪ったりする人々の心にも当然、生きることへの已み難い嫌悪の情が根深く巣食っているのではないかと思う。生きていくことへの堪え難い疲労の感覚、生きていることに意味を見出せない虚無的な心情、そうしたものが他人の命を奪い取り、路傍へ投げ捨てることへの逡巡と躊躇を麻痺させる。そうした思想を、単なる刑事的な処罰によって解消することは殆ど不可能に等しい。生きることに価値を見出さない人間にとって、懲罰が如何なる意味を持つだろうか? それは単なる物理的な抑止以上の効果を持たない。重要なのは、彼らに生活の価値を教え、理解させ、信じさせることである。生活への肯定だけが、世上の陰惨な悪徳を衰微させる根源的な威力を持ち得る。死ぬことに憑かれた人間の法外な自由(例えば三島由紀夫の「青の時代」に登場する川崎誠という青年の有していた自由)を抑え込む為には、生活の価値を信奉させる以外に途はない。死を恐懼しない人間の悪徳を癒やすのは、生きることへの積極的な憧憬だけである。

Cahier(悲劇と日常・事実と思想・類型と独創)

三島由紀夫の「金閣寺」(新潮文庫)の再読を終えて一箇月足らずだが、未だに鮮明な印象の断片が頭の中を通り過ぎていく。幾らでも書くべきことは残っているように思うが、何処から切り込むべきか、どういう筋道で侵入すべきか、巧く纏められない。その纏まらない思考を、垂れ流すようにパソコンの画面へ刻みつけておく。

 「金閣寺」は、三島由紀夫という一個の人物の観念的な自叙伝のようなものではないかと思う。生い立ちや事件や行為は総て架空の人物に託されているが、その精神的な履歴に関しては、三島由紀夫という人物の内なる心情を明瞭に再現しているように感じられる。無論、証拠はない。曖昧な傍証を曖昧に混ぜ合わせて譫言を吐いているだけである。

 つくづく感じるのは、三島にとって「敗戦」という経験、或いは「戦争」という不確かな悪夢が齎した影響の大きさである。「金閣寺」に限らず、様々な作品に「敗戦」の齎した衝撃と「戦争」の陰翳に怯えながら憧れていた時代の奇怪な情熱が、錦糸のように織り込まれている。彼にとって「戦争」は「破局の到来」を暗示する重要な理念であった。遅かれ早かれ「破局」が決まり切った日常生活の秩序を粉砕してくれるだろうという予兆の中で生きるという終末論的思想は、彼の精神の中核を構成する基礎的な信憑である。

 もう一つの重要な指標は、不可能なものに対する深甚な憧憬である。「金閣寺」という作品自体が、いわば「到達することの不可能なものへ到達したい」という願望の遷移を描き出す為に綴られていると看做しても過言ではない。この願望は恐らく、前述した終末論的思想と絡み合っている。到達することの不可能なものへ到達したいという厄介な希求と、破局に憧れることで実存の重力から解き放たれようとする精神的作法は、根源的な部分で相互に通じ合っているのではないかと思う。換言すれば「到達不能なものへ到達する為には、破滅する以外に途はない」という奇怪な命題が、若しかすると成立するのではないか?

 到達することが不可能なものに憧れるという心情は、誰にでも経験のあることだろう。欲しいものが何もかも手に入るとは限らないのが、世の常である。だが三島に関して言えば、彼の不可能なものへのプラトニックな希求は、欲しいものが手に入らない状態に置かれているという偶然的な状況と関係しているのではない。寧ろ彼は、不可能なものを好んで、その不可能性自体に魅せられている。到達が不可能であるという事態が、彼の欲望を刺激し、教唆するのである。

 不可能性そのものに魅惑されること、そして「滅亡」や「破局」に惹かれること。これらの精神的特性は、彼の日常生活に対する嫌悪と表裏一体である。換言すれば、彼は「悲劇」というものに憧れて、そこに最大の充足を見出しているのだ。不可能性も破滅も、一般的な感受性にとっては忌避すべき事件である。しかし彼の欲望は「悲劇」にこそ誘惑されていた。平穏な日常の度し難い退屈さには、彼の欲望は聊かも充足を覚えなかった。無論、彼はそのような感受性の牢獄から脱却する為に、金閣寺に火を放ったのである。けれども、その根源的な感性の噴出は生涯、彼の胸底を去らなかったのではないかと思われる。夭折に憧れることも、割腹自殺を選ぶことも、同根の問題である。

*時々自分は「事実」というものに然したる関心を有していないのではないかと考えることがある。こうしてブログを開設し、様々な文章を公開しているが、所謂「行動の記録」みたいなものは滅多に書かない。「サラダ坊主風土記」と銘打って綴った記事には端的な「行動の記録」が残されているのだが、事実の経緯や構造を、時系列に従って淡々と書き記すのは、私にとって退屈で、砂を咬むような営為である。単なる事実の記録に何の価値があるだろうと冷笑したくなってしまう。それよりも私は、自分の思考の経路を追跡することに強い関心を持っている。事実よりも、思考されたもの、想像されたものの方が重要な意義を有していると信じているのだろう。それが何故なのかは分からない。この世界には事実しか存在しないという無味乾燥な思想に同意する気持ちが起こらないのは、私の精神が未成熟なロマンティシズムを払拭していないことの証明だろうか?

 そうした感性と関連しているのか、私は写真を撮ることに殆ど関心がない。妻が撮影した幼い愛娘の写真を、仕事や通勤の合間に携帯の画面で眺めて酔い痴れることはあるが、自分でシャッターを切ろうとは思わない。事実の記録が、長い歳月を経た後で特権的な光輝を放ち、甘美な郷愁を煽り立てるであろうことは、私も理解しない訳ではない。それでも、事実の記録に重要な価値を見出そうとは思わない。そのとき自分が何を感じ、何を考えたのか、ということの方が遥かに重要な問題であると思っている。事実そのものより、その事実から抽出された感情や思考や信条の方が大切だと思っている。同じ事実に直面しても、そこから何を汲み取るのか、それは人の個性に応じて千変万化するものである。誰にとっても共通する事実は退屈だ。それを退屈だと厭う感受性が幼稚である懸念は微かに有しているが、本気で向き合う意志も余りない。

*先日、三島由紀夫の「美徳のよろめき」(新潮文庫)を読んで考えた。作中で描かれている男女の不倫の生態を眺めながら、試しにそれを自分自身の人生に照合してみる。不倫に限らず、結婚でも何でも構わないが、愛情というものは直ぐに、人間関係の枠組みや秩序に凭れ掛かるものだ。自分たちは固有の関係性を生きている積りであっても、その関係は何万年も持続してきた類型の模倣と反復に過ぎない。つまり、何らかの役柄を演じているに過ぎない。それが導入であり、潤滑油である分には構わないだろう。だが、人間同士が本当の意味で相手の総てを理解し、受容する為には、何処かでそうした役柄と台本を擲つ覚悟が必要になるだろう。役柄、仮面、衣裳、それらの外面的な要素を摘出した上で、相手の美徳も悪徳も総て引っ括めて受け容れるとき、両者の関係は初めて独創性を纏うことになる。そのとき、彼らの関係に世上の通俗的な一般論は適用されなくなる。あらゆる世間的な規範を、両者の独特な紐帯が超越してしまうからである。愛するとは、相手との関係を類型的な枠組みから脱却させることである。そこまで辿り着かないのであれば、不倫であろうと婚姻であろうと、その関係は表層的な遊戯の範疇から逃れられない。

「倦怠」の心理的解剖 三島由紀夫「美徳のよろめき」

 三島由紀夫の『美徳のよろめき』(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 三島由紀夫という作家には「泰平無事」とか「日日是好日」といった長閑で安逸な境涯を指し示す言葉が余り似合わない。彼は「無事」よりも「有事」を愛する、些か破滅的な人物である。無論、人間の内面は多義的であるから、破滅を好む性向が彼の人格の過半を占めているなどと強弁する積りはない。けれども、彼の内部には本質的に「平穏無事な日常生活」のようなものを拒絶する心情が根深く宿っているように感じられてならない。退屈な日常、決まり切った秩序の無際限な反復、永遠的な性質、それらへの嫌悪と、破壊への欲望は、終末論的な「死」の秩序によって引き絞られ、人生を覆う灰白色の天蓋のようなものを形作っている。

 単純に言えば、この「美徳のよろめき」という作品は、男女の月並みな不倫関係の顛末を描いた小説である。筋書きだけを抽出すれば、それ以外に特筆すべき事柄もない。度重なる妊娠と堕胎の描写には聊か眉を顰めたくもなるが、典雅な文章で緩やかに綴られた不倫の光景は、凡庸と言えば凡庸である。この作品は発表当時、非常に人気を博したという話であるが、どういう理由で人々の支持を集めたのかは判然としない。二十一世紀初頭の日本でも不倫に纏わる愛憎を描いたドラマは非常に人気を博しているから、煎じ詰めれば禁断の世界への窃視症的な興味の賜物ということかも知れない。興味はあっても勇気が湧かず、罪悪感にも堪えられず、自ら踏み込むことを躊躇せずにいられない類の世界を、安全な場所から覗き込んで見物するのは、気分のいいものである。

 犀利な心理的描写と典雅な措辞は相変わらず行き届いて、安定した品質を保持している。私も余り難しいことは考えず、優雅な不倫小説だと素朴に思い込んで読み進めていたのだが、結末を過ぎてページを閉じた後、この作品の主眼は決して不倫そのものではなく、厳密には「生きることの根源的倦怠」或いは「日常生活の本質的倦怠」に就いて書くことに置かれているのではないかと考え直した。終幕の一行で「恋の終わり」の通俗的感傷を蹴飛ばすような乾いた嘲笑を閃かす辺り、作者には節子と土屋の禁じられた「悲恋」を哀惜する意志は毫も存在しないのではないかと思われる。彼は如何なる色恋沙汰も、それが剣呑な背徳に由来する耽美的な情熱に飾られていたとしても、所詮は類型的な人間関係の枠組みの一つに過ぎないと断じているのではないか。だからこそ、優雅な措辞を用いて隅々まで明瞭に、不倫の実相を可知的なものとして描き出すことが出来るのではないか。節子が破り捨てた手紙の文章に紅涙を絞るのは馬鹿げている。あの手紙に充満しているような類の感傷は、不倫という関係の枠組みが自動的に析出する類型的な情熱に過ぎない。背徳の齎す抑圧的な感情の屈折を、恋愛の想い出を輝かせる為の艶出しの釉薬として用いるのは聊か幼稚な所業であろう。若しも本当に相手を愛するのならば、背徳の香味を利用するのではなく、周囲に迷惑の掛からない範囲で、節度を保って沈着に誠実な慈愛を捧げるべきである。

 作者は決して不倫という背徳的な恋愛に身を捧げた男女の哀傷に共感しているのではない。読者がそのように通俗的な解釈を懐くのは銘々の勝手だが、作者の主要な関心は背徳的な恋愛の渦中に生起する情熱の美醜などではないだろう。彼は不倫という罪悪の小さな輝きさえも呑み込み、涼しい顔で踏み躙ってしまう日常性の恐るべき「倦怠」に就いて語っているのだ。生きることに潜在する根源的な「倦怠」の恐ろしさを語る為に作者は敢えて、不倫という小さな悪徳の輝きを逆用したのである。無論、それは砂金程度の儚い輝きを放出した揚句に虚しく潰えてしまう。作者は訣別の感傷に少しも与していない。彼にとっては不倫の瞬間的な悪徳などよりも、日常生活の孕んでいる「永い午後」の不変の虚無的性質の方が遥かに不吉なのである。「有事」の破滅的な性格を愛することの方が寧ろ、無味乾燥な「無事」の単調な安寧を愛することよりも容易いのだ。彼の世界観において、如何なる終焉も有り得ないという認識は、地獄的な啓示として鳴り響く。華々しい悲劇的な破局の到来を予期することで、己の実存を「倦怠」から救済するという彼の終末論的な精神療法は、例えば「愛の渇き」や「青の時代」や「金閣寺」といった作品にも、その波紋を色濃く投じている。けれども「美徳のよろめき」においては、かつて「愛の渇き」で描かれたような破滅の暴発は、主役の許へ到来しない。代わりに節子が味わうのは、思い詰めた涯の切迫した離別さえも虚無的な経験として押し流してしまう「倦怠」の度し難い執念深さである。つまり「破局」は有り得ないという退屈な絶望が、彼女の精神を占有してしまうのだ。それは如何にも敗戦後の風景に相応しい類の絶望の形式である。

美徳のよろめき (新潮文庫)

美徳のよろめき (新潮文庫)

 

「児童虐待」に就いて

 先日、五歳の女の子が虐待を受けて死亡したというニュースが流れていました。

 如何にも惨たらしい、そして独善的な惨劇です。概要を聞いているだけで胸が締め付けられるような事件です。虐待を日常的に行なっていたと思われる父親と、それを黙認していた母親に対する憎しみは、他人事ながら、私の胸にも湧き起こりました。

 どんな理由を拵えても、子供を長期的な拷問に掛けるような真似が正当化されることはありません。確かに日常的に接していれば、幼い子供というのは脆弱で儚い存在であるとは思えない場面にも頻々と遭遇します。我儘で、此方の都合など歯牙にも掛けず、遣りたい放題、言いたい放題の子供の姿を眺めていると、小さな怪物のようにも思われて、子供相手ながら、理不尽で聞き分けのない大人に対するときのような怒りに駆られることも、実際にあります。

 けれども、子供が無力で、大人の庇護を必要とする存在であるという事実は変わらないのです。どんなに我儘で、親を振り回すような子供であっても、少なくとも五歳くらいの年齢では、親に見放されれば忽ち餓死する他ない脆弱な存在なのです。そうした権力の構造を閑却したのか、或いは悪用したのか分かりませんが、逮捕された父親が自らの権力を用いて無力な子供に死に至るほどの苦痛な時間を与えた、腕尽くで強いたという事実は揺るがないのです。

 無論、こうやって容疑者を声高に断罪することは誰にとっても容易な所業です。育児というものが、非対称的な人間関係であると同時に、様々な道徳的=社会的抑圧の渦巻く現場である以上、綺麗事だけを並べて乗り越えることは殆ど不可能に等しいと言えるでしょう。子供も親も、銘々の個性は千差万別であり、万人に適用し得る普遍的で堅固なマニュアルは何処にも存在しません。子供に対する怒りや憎しみの感情は、悪しきものとして斥けられるのが常であり、無論それを野放図に肯定すべきではないと私も思います。けれども、悪しき感情を抑圧するだけでは、却ってこのような「密室の惨劇」は何時まで経っても消え去らないのではないかと思います。私たち親は、如何なる例外もなく、潜在的な犯罪者としての烙印を己の膚に刻んでいると考えるべきでしょう。それは私たちの性情の良し悪し以前に、親子という間柄がそもそも非対称的な権力の関係として成り立っていることに由来する宿命であると言えます。

 もっと根源的に考えていけば、私たちの生殖能力と、育児に関する能力との間には、明白な乖離があります。生殖能力は概ね肉体的な問題ですが、育児に関する能力はもっと多様で後天的な要因に左右されます。健康な赤児を産む能力と、子供を幸福へ導く能力との間に、一義的な関係は存在しません。不妊に悩む人の中に優れた親としての資質を備えている人もいれば、子沢山でありながら親としての資質に欠けている人も幾らでも存在するでしょう。

 産んだ人間が育てるということは、私たちの社会を形作る基本的な規則の一つです。けれども、産んだ人間に育てる能力が欠けていれば、子供の不幸は宿命的に決定されてしまいます。産んだ人間が、自らの子供を憎むということは現実に起こっています。それは異常な事態だと看做され、結果としてその事実は抑圧されています。不快な現実から眼を塞ぎ続ける限り、児童虐待の悲劇は今度も無限に繰り返され、無辜の命が次々と失われていくでしょう。

 子供を産み、育てる力を「生得的な本能」と看做す思想は、明瞭な客観的根拠に基づいた認識であるというより、社会の側から、その成員に向けられた期待であり、要請です。つまり、それは現実というよりも「理想」に過ぎないのです。そして現実の側には常に「理想」を裏切る準備が整っています。現実は、理想という人工的なフィクションに対して無関心なものだからです。だとしたら、諸悪の根源は「幸福な家庭」という社会的幻想そのものに内在しているということになります。「幸福な家庭」の自明性を疑わず、それを前提として社会的な制度を設計するから、その歪みが隠蔽され、矛盾が惨劇として露呈するのです。

 虐待を行なった人間に社会的な制裁を加えることは常に「後の祭り」です。今回の事件の被疑者を断罪しても、死んだ子供の命は復活しないし、彼女が味わった地獄のような時間は消去されないのです。「事後の更生」が重要であることは無論ですが、それでは犠牲者を皆無にすることは出来ません。「更生」や「教育」が常に完璧な成果を発揮するとも限りません。そもそも世の中には、明確な覚悟を持たずに子供を作る人々が無数に存在しています。その背景に「幸福な家庭」の自明性という思想が関与していることは確かでしょう。子供への愛情を人間の「生得的な本能」として定義する社会の通念は一旦、否定されねばなりません。

 こうした事態が続くならば、将来的には出産と育児を「万人に認められた選択肢」から「社会によって許可された者だけに与えられた選択肢」へ移行させねばならなくなります。出生率の低下と人口の逓減に悩む国家が、そのような制度を実際に導入することは難しいでしょう。けれども、現代の出生率の低下は、児童の幸福という観点から眺めれば、必ずしも呪うべき事態ではありません。誰もが当たり前に結婚して子供を作るのではなく、自らの思考と責任に基づいて結婚して子供を作るようになれば、相対的には、児童を虐待する不適格な親の数は減少するでしょう。「皆婚社会」は子供の数を増やしますが、それは同時に虐待の発生する危険を高めるものでもあります。ただ、こうした変化は飽く迄も根源的な解決には寄与しません。そもそも社会として「子供を産み、養育する能力」を涵養する方策を整えること、不幸にして親に恵まれなかった子供たちを養育する社会的な制度を設計して正しく運用すること、これらの抜本的な改革を抜きにして、自信のない人間は子供を持たなければいいと言い捨てるだけでは早晩、国家の滅亡は避け難い宿命と化します。同時に、他人の子供に対する不寛容を容認することにも繋がりかねません。

 児童虐待は、パワー・ハラスメントの最たるものです。差別であり弾圧であり、悲惨な暴力の典型です。子供は庇護されるべき存在であるという通念を社会全体に浸潤させない限り、そして子供を親の「所有物」であるかのように位置付ける不法な考え方を廃絶しない限り、虐待は消滅しません。この「子供は親の所有に帰属する」という考え方は、家庭という社会的単位を維持する上では必要かも知れませんが、明らかに虐待の温床となる思想であると言えます。血縁というものを過度に重視し、親子の紐帯を特権化することで、家庭は社会的なものの侵入を拒む性質を持っています。此処には錯雑した困難が存在しています。家庭の適度な閉鎖性は、家庭の成員を社会の圧力や脅威から防衛する効果を持っています。つまり、それは子供にとっても重要な安らぎの根拠となるのです。けれども、この閉鎖性の悪質な側面が強まれば、家庭は子供を縛り付ける監獄と化します。これは夫婦関係に就いても同様に指摘し得ることでしょう。家庭は防塁であると同時に監獄でもあります。この微妙な二重性の均衡が崩れてしまえば、児童虐待の温床は一挙に劇しく陰湿な暴力を芽吹かせることになるでしょう。

欲望と道徳

 一般論として、欲望と道徳との間には、相剋或いは乖離が存在していて、私たちの悩み多き動物的な心は、その隙間に片脚を奪われて動けずに悶えているものだ。道徳は共同体が円滑に回っていくように定められた規範であり約束事なのだが、何時の時代にも、誰の心にも、掟として樹立された道徳的な権威と圧力に馴染み難いものを嗅ぎ取る厄介な「真情」というものが潜在している。

 あらゆる欲望は道徳に対立するなどと大仰に断言してみせる積りもない。世の中には便利なことに「道徳そのものへの欲望」という奴が存在していて、定められた規律に完璧な服属を示してみせることに快感を覚える連中も少なくない。彼らは正しさを志向し、自らの正しさを社会的に承認されることに何物にも代え難い愉悦を見出す。大いに結構な話だ。正しい欲望だけを抱き締めて生きていけるのならば、こんなに安楽で素晴らしいことはない。社会が成立させた公共的な合意の中に己を全面的に投入して平気な顔をしていられるのならば、彼らは欲望と道徳との相剋などという古臭く青臭い御題目に頭を悩ます暇もなく、毎晩ぐっすりと枕を高くして眠れるだろう。大いに結構な話だ。

 だが、本当に人間は、社会の定める外在的な公共性と、己の内なる欲望を完全に合致させるという困難な離れ業を演じてみせることが出来るだろうか? 両者が徹頭徹尾、自然に辻褄が合うということが有り得るだろうか? 私はそうした道徳的幻想を信じない。そこにはファシズムの悪臭が漂っている。人間の抱懐する欲望や衝動が一から十まで社会的な正しさ、時代と環境によって変遷する相対的な正しさに合致するとしたら、それは驚嘆すべきストイシズムの成果か、或いは骨の髄まで染み渡った極端で純血の奴隷根性の賜物であろう。体制的なものの訓誡を何一つ疑わずに育ち、社会が正しいと認めるものだけを欲する合理的で奴隷的な欲望を成長させたインサイダーの怪物。

 他人の話に素直に耳を傾けることは確かに一面では美徳である。そうでなければ、私たちは他人の叡智を受け取ることが出来ない。だが、傾聴と隷属を混同する連中がいる。他人の話には無条件に従わねばならないと感じ、しかもそうした隷属の姿勢に正当な疑問さえ懐かない連中がいる。そうした筋金入りのインサイダーが、人間の目指すべき最終的な理想であると信じる気分にはなれない。正しさ、無数の正しさ、道徳と社会の提示する相対的な正しさを絶対化する盲目的な生き方に賛同しようとは思わない。

 大人になるということは、共同体の規範を内面化して優秀な奴隷と化すことだと看做す保守的な思想にも、何らかの効用を認めない訳ではない。実際、私は決して無秩序な世界を望む訳ではない。だが、秩序は他人から投げ与えられるものだろうか? 私たちは他人が定めた戒律の内側でしか生きられないのだろうか? 或いは、その戒律に叛こうとする心情は罪悪の根幹なのだろうか? そんな筈はない。外在的な規範を、つまり既存の道徳を少しも疑わずに暮らすなんて馬鹿げている。そもそも、そこには人間の尊厳が存在しない。

 尤も、一から十まで道徳的な規矩に則った欲望を懐ける人種など、決して多数派ではないだろう。唯々諾々と外部の規範に従う人間の卑しい性根を、優等生の美名で飾るのは欺瞞的な行ないだ。私たちの多くは、内なる欲望と、歴史的に形成された道徳的な規範との乖離に苦しんでいる。その苦悩を知らぬ者に道徳を語る資格はないし、欲望に就いて論じる権利もない。厳密には、その必要性が生じない。

 坂口安吾「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」(「風と光と二十の私と」)と書いた。道徳的な規範に何もかも預け切って安逸を貪っている連中も、反社会的な悪徳の泥濘に沈み込んで御満悦の連中も等しく「けだもの」に過ぎないと言えるのだろう。相互に矛盾する問題の狭間で、彼是と報われぬ思索に日月を費やすのが人間の実存の標準的な形式である。「堕落論」で一世を風靡した坂口安吾は時に、社会的な規範への反抗を手段ではなく目的の位置に据えた厄介な落伍者であるかのように誤解されるが、彼は決して「堕落」を無際限に称揚したのではない。社会の規範を軽んじて淪落の暗闇を這い回ることに理想的な人生を発見した訳でもない。彼は道徳と欲望の亀裂に身を挺することの必然性を語っただけだ。道徳的な規範から外れることを「正しさ」の場所に配置して語るならば、それは単に別様の道徳を拵えただけの話で、問題は「数の論理」に還元されてしまう。既成の道徳への反抗を、もう一つの道徳として謳歌することの矛盾を、安吾は明瞭に知悉していたに違いない。重要なのは、道徳と欲望の狭間に落ち込んだ己の苦悩を凝視することだ。甘ったれた言い訳を、その苦悩の軽減の為に持ち込むべきではない。道徳も欲望も、それ自体は一つの事物に過ぎない。人間の尊厳は、両義性の中で演じられる軋轢と葛藤によって辛うじて支えられている。そこにしか、革新と進歩の種子は芽吹き得ないからだ。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

 

「不義密通」に就いて

 江戸時代、日本では配偶者以外の人間と肉体的な関係を持つことを「密通」と称して、厳しく禁圧していた。独身の男女同士が関係を持つことさえ「密通」の定義に含まれていたのである。

 公共的な規律に基づいた「婚姻」以外の総ての性的関係を「不義密通」と看做して断罪する潔癖な道徳性は、時代の変化に伴って著しく緩和されてきた。独身の男女が性交渉へ赴くことは、現代においては明瞭に個人の自由と権利の範疇に属し、叱責や処罰とは無縁である。

 けれども、そもそも「恋愛」という観念自体が「結婚」の正統な公共性に対する抵抗の要素を含んでいるということを軽視すべきではない。自由な恋愛、公認された恋愛というものの矛盾した性質を看過すべきではない。つまり「恋愛」という営為の核心に埋め込まれた反社会的な含意を閑却してはならない。

 「恋愛」という言葉を聴いて、反社会性などという重苦しく攻撃的な観念を思い浮かべる人は限られているかも知れない。現代の社会において「恋愛」という精神的営為は原則的には明朗で肯定的な事象として捉えられ、位置付けられている。つまり、公共的に是認されているように見える。だが、それは現代の社会が「恋愛=結婚」という公理を導入していることの結果であって、必ずしも普遍的な思想であるとは言い難い。長い間、この国では「恋愛=結婚」の公理は一般的な規矩として認められていなかった。そもそも「結婚」という制度自体が本質的に、男女間の個人的で主観的な好悪の情などとは無関係に存立しているものであることを見落としてはならない。

 現代においては稀薄化しつつある定義であるとはいえ、歴史的に「結婚」という制度の機能的な核心は恐らく「生殖」という点に存している。配偶者を対象としない総ての性交渉を「密通」という背徳的な範疇に繰り入れる社会的な思想の根本には、そうした考え方が抜き難く横たわっている。種族の繁栄という観点から眺めれば、相互に愛し合う男女だけが周囲の祝福を享けて婚姻するべきであるという現代的な通念は極めて非効率である。感情などという曖昧で移ろい易いものを基準に据えて婚姻の可否を定めれば、夫婦の離合集散が著しくなることは眼に見えている。「皆婚社会」を成立させる為には、聊か逆説めいて聞こえるが、男女間の恋情などに重きを置いてはならないのである。生殖を目的とした婚姻の仕組みに、先ずは年頃の男女を捻じ込んでしまうことが肝要であって、両者の愛情や慈しみは後天的に育んでいけばいいと考えるのが、皆婚社会の基本的な理念なのだ。

 男女間の私的な好悪の情を「結婚」という制度に接続してしまえば、未婚率も離婚率も上昇するに決まっている。目紛しく変動する感情を基準に、数十年間の人生の行路を決定せねばならないという不可能な決断への気後れが未婚率の上昇や晩婚化を惹起し、結婚した後の感情の変動に抗いかねて、離婚を選択する夫婦が増加する。結婚の要諦が夫婦間の好悪の情に存するのであれば、配偶者に対する愛情を失ったときに離婚を選択するのは至極尤もな成り行きである。少なくともそこに論理的な矛盾は生じていない。「恋愛」を基礎に据えた結婚、換言すれば「結婚の恋愛化」という時代の趨勢は不可避的に離婚率の劇的な上昇を齎すのである。

 「結婚の恋愛化」が亢進すれば、相対的に「結婚」の有する社会的な権威は衰微していくだろう。「結婚=セックス」という厳格な戒律が緩和され、男女の自由な交情が容認されるようになれば、敢えて「結婚」という保守的で不自由な制度に固執する必然性も乏しくなっていく。

 同時にそうした趨勢は「恋愛」に関連する異様な情熱の衰弱を齎すだろう。「恋愛」の劇しい情熱は往々にして、それが「結婚」に対立する性質を備えていることに由来している。生殖を目的とした「結婚」の共同性と、好悪の情に基づいた「恋愛」の共同性との間には、本質的な懸隔が存在する。換言すれば「結婚」は生活の部類に属し、「恋愛」は遊戯の部類に属するのである。このように書くと「恋愛は遊戯に過ぎない」と侮蔑しているように聞こえるかも知れないが、それは私の本意ではない。「恋愛」の本質には、個人の思想や感情を尊重するヒューマニスティックな「自由」の信条が象嵌されている。個人主義の発達は「恋愛」の発達と同期している。けれども、個人主義の情熱は常に「個人と社会との相剋」という界面の摩擦を前提として燃え盛るものである。「不義密通」の適用される範囲と要件が緩和されるほどに、個人主義的な情熱は炎上の必要性を逓減させていく。換言すれば「恋愛」そのものが根源的な反社会性を帯びているのではない。「結婚」の絶対的な権威が信奉されていた時代と環境において「恋愛」が反社会的な役割と含意を担わずにはいられなかったと看做す方が一層精確であろう。同じく近代的な個人主義と足並みを揃えて登場した「小説」が極めて頻繁に「恋愛」を主題として取り上げてきたことも、単なる偶然ではないと私は思う。

複数形の「私」の共存共栄

 昨日の自分と今日の自分は別人である。今日の自分と明日の自分もまた別人である。私たちはそれらを首尾一貫した同一の存在として認識している。そのように考えなければ、私たちの世界観は成り立たない。

 或いは、私たちは自分を或る明確な一個の存在であると思い込んでいる。こういう人間であるという定義を持っている。だが、その定義は日常的に崩れ落ち、日常的に錯乱している。人間は自分でも信じられないような行動に踏み切ってしまうことがある。それまで信じていた「自分」の定義とは全く相容れない、奇矯とさえ感じられる言動に傾斜することがある。私たちはそれを突発的で異常な現象だと判断したがる。そのように位置付けない限り、それまで信奉してきた「自分」の秩序が瓦解してしまうからだ。しかし、それは本当に正しい考え方であろうか? どんなに異常だと思っても、その言行が実際に為されたのであれば、それは紛れもない「自分」の一部である。「自分」を構成する要素の一つである。それを異常な、突発的な故障のように捉えれば、確かに従来の自画像は混乱せず、毀損されない。そうやって頑迷に「自分」の定義を後生大事に守り抜いている限り、人間は変貌と無縁である。新しい「自分」に出逢う心配もない。少なくともその萌芽は、当事者の視野から除外される。

 「私はこういう人間である」という自己定義は、余り頼りにならないのが世上の通例である。少なくとも、そうした自己定義を純粋に客観的な解釈であると看做すのは素朴な対応である。人間の自己定義には、このように見られたいという願望、こういう自分でありたいという希求が入り混じっているものであり、従って厳密な「事実認識」のようなものを期待することは難しい。「私はこういう人間である」という解釈は往々にして恣意的なものであり、客観的な妥当性を欠いている。

 自己定義から食み出すものの存在を認めず、涼しい顔で扼殺することは出来ない。主観的な認識の上で、そうした隠然たる暗殺に踏み切ることは出来ても、殺された者の亡骸が、風に押し流される霞のように消滅することはない。或る不可解な行動、失錯、過誤、それらの事件が如何に従来の「自分」の枠組みから隔たった性質を持っていたとしても、それが実際に起こったことならば、それを「自分」の範疇から除外して考えるのは「改竄」に類する行為であると言わざるを得ない。存在したものを、存在しなかったように取り扱うのは明白に「改竄」の一例である。

 私たちは寧ろ複数形の「自分」の曖昧で緩やかな連合体なのではないかと思う。「自分」という曖昧で緩やかな旗標の下に蝟集した複数の「私たち」として、この「自分」というものは構成されているのではないかと思う。換言すれば、普通に生きているだけでは、私たちは「自分」の全体を理解することなど出来ない。或いは、このように言うべきだろうか。私たちは「自分」の範疇の内部に、夥しい数の「他人」を養っているのだと。自分という存在の中に取り込まれた無数の他者は、偏狭な自己定義の律法から逸脱して、時に私たちを想像もつかない奇矯な言動の渦中へ拉致する。それは本当に異様な悲劇に過ぎないのだろうか? それは悲劇であると答えるとき、その人物は余りにも劇しく「自己」に総てを捧げ過ぎている。内なる他者の蔓延を厭うのは、自分自身の内部に存在する不透明な暗部さえも完璧に統制したいと願う希求の反映であろう。

 自らの力で自らを治めること、つまり「自立=自律」の理念を実現すること、その輝かしい尊厳に就いて、私は幾度も雑然たる思索を巡らしてきた。自らの掲げた目標、倫理、規則に基づいて自己を支配すること、自分で自分を統制すること、それは確かに崇高で美しい「生き方」には違いない。だが、そんな風に総てを鮮やかに切り分けることが可能だろうか? そうした支配が完璧な専制へ近接するほどに、同じ熱量の「失われるもの」が存在する。内なる他者を獄舎へ繋ぐこと、自立のストイシズムは、そのような厳格な治安維持の上に辛うじて成立する理想である。無論、理想は常に、原理的に美しい。けれども、私の心は本当に、そのような精神的「独裁」の美しさを希求しているのだろうか?

 絶えず揺れ動く曖昧な自己を肯定すること、朝令暮改を戒律に定めること、昨日までの自分を信じないこと、明日の自分を予測しないこと、こうした習慣は、危険な刹那主義に属していると一般的に考えられている。だが、或る超越的な理念の下で、様々な「内なる他者」を選別し、厳格に統御するという軍隊式の生き方を、最も崇高な「善性」或いは「美徳」として崇めるのは、偏狭な話ではないか。複数形の「私」を否定し、或る確固たる明瞭な自己へ無理に集約しようと試みる腕尽くのストイシズムに、私は好意を維持することが出来ない。「内なる他者」の殺戮は最終的に、往来を行き交う普通の「他者」への殺意に転化しかねない。自縄自縛の悪弊を振り切って「他者への寛容」という美徳を正しく樹立しない限り、自主独立の崇高なストイシズムは、正義という名の暴力へ横滑りしてしまうだろう。