サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「殉国紀」 第十四章 樹海の社にて 4

 フェレッサに帯刀を委ねて城門の前に並んだ一行の剣呑な風体を、ウェンシスは無遠慮に睥睨して入念に検分した。殉国隊の残党を名乗る素性の怪しい男女の取り合わせを、態々護官長の面前へ突き出して裁可を仰ぐことに、一抹の躊躇を覚えぬ訳ではない。特に冷淡な表情を浮かべた紅髪の女は、好戦的で残忍な眼光を此方へ差し向けることに聊かの罪悪感も懐いていないように見受けられ、仮に殉国隊の残党という身分が確かなものであったとしても、神宮の門戸を潜らせるには到底相応しくない人物に思われた。

 だが、若しも自分が本当に心の底から職務に忠実であり、眼前に雁首を揃えて突っ立っている胡乱な男女を断罪することに聊かの痛痒も覚えていないとすれば、そもそも最初から彼らを護堂へ連行するという発想自体が浮かばなかった筈だ。安易な迷妄だと謗られるのは一向に構わない。それよりも気懸りなのは、殉国隊を名乗る男の「虚言」によって確かに揺さ振られてしまった己の心の深層であった。殉国隊という懐かしい言葉の響き、歴史の風雪に晒されて一層艶やかに磨き上げられた清冽な伝説の破片、それが秘められた感情の水底へ俄かに鋭い爪を喰い入らせた。沈み込んで掠れてしまった忌まわしい記憶の輪郭が、思わず視野の内側へ迫り上がる。殉国隊の英雄譚に殊更な思い入れを懐いて、素朴な少年の如く浮足立ってしまった訳ではない。あの酷烈な戦争を終結へ導いた英雄の幻影に、ほんの少し眩惑されただけだ。総ての最終的な決定は、護官長のキーファンに委ねられるべきであった。殉国隊という名乗りの真贋も、身柄の処決も、護官頭の分際で適確な判断を下すには、余りに厄介な重責であるとウェンシスは結論していた。

 

 女犯の罪過を何よりも劇しく嫌悪し、入門する男子には必ず腐刑の処置を科すミューバ神領の特異な閉鎖性は、類例のない厳格さに達している。如何なる神領においても、俗人の立入を断じて許さぬ神聖な禁域を部分的に設けるのは共通の慣習であるが、ミューバにおいては社殿の開放さえも、黄駿帝の治世以来、不変の重大な御法度に定められている。浄身派の宗旨に信仰の誓約を示さぬ者は、たとえ神官であっても濃緑の岩壁を踏み越えることは認められない。

 何故、得体の知れぬ不審な俗人の群れを神宮の境内に招じ入れねばならないのか、露骨に納得のいかぬ表情を浮かべている護官たちの刺々しい視線を総身に浴びながら、一行は前後左右を取り囲まれて隔壁の掖門を静かに潜り抜けた。仄昏い樹林の小径と、聳え立つ巨大な岩壁の投じる陰翳に慣れ親しんだ瞳を、何も遮るもののない広大な敷地へ燦然と降り注ぐ晴れがましい陽光が鋭く射抜いた。一瞬の眩暈の後に、開いた双眸が捉えたのは、深緑の外観を備えた数多の閑寂な社殿の連なりであった。鮮やかな純白の玉砂利を敷き詰めた地面との間に目映い対照を形作るそれらの堂宇は皆、神宮を囲繞する頑丈な隔壁と同じ常緑岩を用いて建築されたものである。正門を基点として真直ぐ北へ伸びる淡い若草色の敷石道は、豪奢な意匠に鎧われた神宮の本堂へ通じており、目当ての護堂はその傍らに忠実で寡黙な召使のように侍っていた。

「人の気配がしないな」

 最初に端的な感想を独言のように漏らしたのはネルイガーであった。方形の城壁で囲われた広大な境内は息苦しいほどに張り詰めた静寂に埋もれて、社殿と陽光の外には何一つ視野に映じない。

「不浄の俗人、しかも男が来ると聞いて皆、堂宇の中に身を潜めておるのだ」

 事もなげに言い放つウェンシスの冷淡な態度に、ネルイガーは肩を竦めた。

「随分と忌み嫌われたもんだ。去勢さえすりゃ、そんなに清浄な人間になれるのかい」

「ネルイガー。止さないか」

 ラシルドの敏速な掣肘は既に時機を逸していた。周囲の護官たちの顔色が俄かに蒼褪め、その眼光が屈辱に堪えかねて剣呑な焔の揺らめきを宿した。徐に立ち止まったウェンシスは、野牛のように逞しい首筋を動かして振り返り、招かれざる客人の顔貌を峻厳な眼つきで睥睨した。

「いいか、お前たち。護官長は、この神領の安寧と秩序を司る高貴な御方だ。決して礼節を弁えぬ振舞いには及ばぬと誓え。約定を違えれば、その首を刎ねる」

「心得ております」

 要らぬ挑発を重ねて火に油を注ぎかねない軽率な連れの機先を制して、ラシルドは無難で簡潔な返答を以てウェンシスの警告に報いた。屈強な護官頭は、ラシルドの返答を聊かも信用していない顔つきであったが、押問答は無益であると考えたらしく、更なる追撃には踏み切らずに、再び護堂に向かって黙々と歩き出した。

 帝国全土に点在する正教会神領には、必ず聖域の警備を担う護官の組織が置かれている。護堂は彼らの執務と生活の拠点を兼ねており、神宮の中核である本堂へ隣接して建てられるのが慣例である。一行が辿り着いたミューバの護堂は、互いに歩廊で結び合わされた母屋と離れの長屋の一対で構成されており、裏手に築かれた哨戒の為の望楼には、口許を厳しく引き締めた精悍な若者が詰めて、此方を無言で見下ろしていた。

 ウェンシスが目顔で合図を送ると、母屋の軒先に佇立していた紅顔の門衛が直ちに玄関の戸を開け放って一行を迎え入れた。仄昏い堂宇の内部に足を踏み入れた途端、穏やかな香木の匂いが鼻腔を塞いで奥まで染み渡る。ミューバ連峰の中腹に自生するガリヤランという霊木の薄片を燻したもので、一般に「浄香」と称する。高貴で爽快な芳香が珍重され、新年の祝賀に供する為に精選された逸品が毎年、帝室へ献上されている。

 一行は木製の古びた階段を軋ませて二階へ昇り、薄暗い廊下を突き当たりまで静かに進んだ。外界からの長年の隔絶は、日進月歩の勢いで伸張する工業的な技術の恩恵さえも用心深く堰き止めて、樹海に覆われたミューバの聖域が卑俗な思想に馴染んで堕落することを防いでいた。現代的な啌気燈の代わりに古色蒼然たる意匠で飾られた質朴な油燈が天井に連なって、静寂に満ちた護堂の廊下の暗がりを仄白く潤ませている。

「ウェンシスで御座います。少し宜しいでしょうか」

 樫を用いて作られた黒光りする扉の前に少し背中を屈め、護官頭は装われた謹直な声音で見えない主人に入室の許可を請うた。柔和な響きの応えが扉越しに聞こえ、ウェンシスは慎重な手つきで扉の把手を握り、ゆっくりと押し開けた。

「お前たちは、此処で待っていろ」

 振り向いた護官頭の眼差しには露骨な威嚇の圧力が漲っていた。ラシルドたちの鼻先で頑丈な扉は閉て切られ、仄昏い廊下には息詰まるような刺々しい沈黙が迅速に行き渡った。

「結果的にミューバの樹海を選んだのは、失策だったんじゃないか?」

 護官の耳目を憚りながら、ネルイガーは小声で同意を求めた。フェロシュは倦怠という主題で創られた彫刻のように、寒々しい緘黙の淵へ沈み込んで一言も答えようとしない。

「賭けに負けたかどうかは、此れから決まるだろうさ」

 質実な光沢を帯びた扉の木目を見凝めたまま、ラシルドが無難な答えを返した。ネルイガーは片方の眉だけを大仰に吊り上げ、揶揄を含んだ苦笑を殊更に誇張してみせた。

「どう考えたって、旨みの大きな勝利は期待出来そうもないぜ」

「儲けの多寡に拘るような贅沢は言えないだろう。我々は追い詰められた鼠も同然なのだから」

「鼠ねえ。迂闊に栗鼠の真似事なんかして樹海へ忍び込んだ罰が当たったんだろうな」

 護官の一人が無断の私語を咎めるように大袈裟な咳払いを二人の背筋へ浴びせた。二人は囚われた鼠の境遇を自覚して、素直に口を噤んだ。この期に及んで無用の諍いを起こすのは如何なる利益も齎さぬ純然たる愚行に過ぎない。生憎、此れから対面する護官長の人柄に就いて具体的な情報の持ち合わせは何もないが、先方の印象を損ねる言動は成る可く控えるのが賢明であろう。先刻のネルイガーが漏らした不用意な失言の類は、厳に慎んでおくに限る。

「中に入れ。フェレッサ、お前も同行せよ」

 軈て開け放たれた扉の隙間から半身を突き出して、ウェンシスが抑制された声音で一行を招いた。導かれるままに三人は、後背をフェレッサに見守られながら護官長の部屋へ足を踏み入れた。

 廊下の薄暗さとは対蹠的に、正面の壁に切られた大きな窓から、夏の外光が一斉に足並みを揃えて閑雅な室内へ雪崩れていた。左手の壁には歴代の護官長と思しき数多の肖像が架かり、右手の壁には蔓草を象った素朴な木彫を施された大きな茶色の書棚が聳えている。正面の執務机の向こうに陣取った褐色の肌を持つ大男の表情は、逆光に紛れて黒々とした陰翳を成していた。光の目映さに瞳が慣れるまで、若干の時間が必要であった。

「掛けたまえ」

 卓子の前に置かれた革張りの椅子を掌で指し示して、護官長は穏和な声音を発した。ウェンシスに無言で促され、三人は罪人に余り相応しくない高価な椅子の座り心地を確かめる光栄に浴した。

「護官長のキーファンだ。経緯に就いては先刻、ウェンシスから報告を受けた」

 三人は無言を保ち、間近な距離に迫った護官長の栗色の瞳、短く刈り込まれた頭髪、宏闊な額に彫り込まれた聖鍵紋の刺青を仔細に眺めた。肌は赤銅色に日灼けして、頑強な体躯は濃緑の分袍の輪郭に逞しく隆起した筋骨の稜線を浮かび上がらせて、彼が単なる飾り物の年老いた護官長ではなく、一向に現役を退こうとしない精悍な人物であることを明瞭に物語っていた。

「何でも、殉国隊の生き残りを名乗っていると聞いたが、事実かね。世間知らずのミューベロス(浄身派信徒の意)を玩具にするのは止してもらいたいのだが。この通り、ウェンシスはすっかり顔色を変えている」

「護官長」

 戸口の脇に控えて罪人たちの暴発に備えていたウェンシスが、眉を潜めて護官長の軽口に異議を唱えた。キーファンは鷹揚な笑みを浮かべて片手で謹直な護官頭を制し、再び三人の不審者へ沈着な視線を戻した。

「スコルディルの森は清浄の地。黄駿帝の御世からずっと、俗界の汚穢を斥けて我々ミューベロスの生活を庇護してきた。その神聖な樹海へ堂々と忍び込んだ怪しい男女が、護官に向かって自分たちは殉国隊の残党であると言い張っている。こんなに奇妙で、俄かに信じ難い挿話が他に考えられるだろうか? 我々が疑念を懐いても、誰に責められる義理もなかろう」

 敵対的な猜疑心に満ちた護官たちの態度とは裏腹に、キーファンは突如として顕れた奇態な訪客の素性に嬉々たる好奇心を懐いているように見えた。

「殉国紀」 第十四章 樹海の社にて 3

 敏捷な鹿の背に跨って先導するフェレッサの後ろ姿を追って、渋面のサスティオは黙々と獣車を駆り立てた。午前の光が射し込む切通しを抜け、再び薄暗い樹海の小径に貧相な轍を刻む。軈て木立が途切れ、俄かに開けた視界の涯に、巨大な城壁が忽然と姿を現した。神秘的な深緑の岩石を堅牢に積み上げて作られたその城壁は、果てしなく広がる樹海の陰鬱な色彩に滑らかに溶け込んで見える。宮城を去って聖職の途へ身を投じた健気な寵姫の安全を慮って、黄駿帝が南方の都市トガインから態々運ばせた稀少な常緑岩が、不届者を眩惑する為に迷彩の効果を発揮しているのだ。常緑岩は、トガイン近郊に点在する一部の採石場でしか切り出されることのない途方もなく高価な岩石で、王家の威光と権勢がなければ到底城壁の全面に惜しみなく用いることは不可能であっただろう。

 城門を塞ぐ重厚な鋼の鎧戸は、常緑岩より聊か暗く濁って見える濃緑の塗料で表面を覆われていた。掖門の傍に警衛番所と目される古ぼけた小屋があり、獣車の轍の掻き立てる時ならぬ地響きを聞き咎めたのか、数人の屈強な護官が険相を浮かべて番所の前に居並んでいた。

「フェレッサ、何事か。神聖なるスコルディルの森に、横暴にも獣車の轍を刻むとは、不敬であろう」

 古参の風格を身に帯びた長身の護官が、日に灼けた頬を厳めしく引き絞って、分厚い喉を顫わせた。鞣革の簡素な鎧を、立派な胴回りを抑え付けるように着込んだ、恰幅の良い中年の男である。佩刀の柄頭には、高貴な地位を象徴する鮮やかな緑色の碧玉が埋め込まれて、天空から降り注ぐ清冽な光に燦然と燃えている。

「ウェンシス護官頭。彼の獣車は、私の伯父に当たりますサスティオと申す馭者の持ち物に御座います」

 鹿の背から軽やかに飛び降りたフェレッサは速やかに膝を屈して地面へ蹲踞し、緊迫した面持ちと上擦った声音で、我儘な身内の名を上官に告げた。

「縁戚の者であろうと赤の他人であろうと、此処は不浄を忌む聖域だ。スコルディルの森へ、俗人を招じ入れる罪は重いぞ。お前も当地の禁則を弁えておらぬ訳ではあるまい」

 護官頭のウェンシスは、上長から授かった職責に相応しい重厚な声音を響かせて、部下の軽率な判断を厳しく咎めた。爛々と燃え盛る榛色の瞳には、長年に亘って神聖な樹海の鎮護を担ってきた男の矜持と強固な信念が、明瞭に刻み込まれていた。

「心得ております、護官頭。どうか私に、申し開きの機会をお与え下さい」

 フェレッサは窮屈な平伏の体勢を崩さずに保ったまま、護官の靴の尖端を敬虔な眼差しで見凝めて、咬み締めるように一つ一つの言葉を発した。

「申し開きなど不要であろう。時間の無駄だ。速やかにその獣車を神域の外へ放逐せよ。逆らえば、如何に忠良の内寓であっても、破門の憂き目は避けられんぞ」

 ウェンシスの峻厳な眼差しは、フェレッサの背後に控える薄汚れた獣車を、重罪を犯した穢れた咎人のように冷ややかに蔑んでいた。

「伯父は急ぎの客人を乗せております。然る高貴な御方から密命を受けて、帝都アルヴァ・グリイスへ赴かれる途上にあるのです。どうか、御目溢しを願えませんでしょうか」

「言うに事欠いて、御目溢しだと?」

 唯でさえ刻々と猜疑心を膨れ上がらせているウェンシスの眼光は、フェレッサの不用意な言葉に煽られて一際炯々と熱を帯びた。

「お前は私に不正を犯せと言うのか? 聖域の禁則を枉げて、訳の分からぬ怪しげな俗人の為に便宜を図れと申すのか?」

「滅相も御座いません! 決してそのような意図を以て申し上げたのでは御座いません」

「ならば如何なる意図を籠めて、私に犯罪の片棒を担がせようとするのか、筋道を立てて釈明してみるがいい」

 不穏な激情を露わにしたウェンシスの眉間には、断崖を想わせる険しい皺が寄り、その総身から発せられる瞋恚の波動に打たれて、フェレッサのみならず周りの護官たちも冷汗を滴らせた。

「不届者を放逐せよと敢えて命じた私の温情を、お前は聊かも理解しておらぬ様子だな」

 ウェンシスは一歩を踏み出して、慄きと共に叩頭するフェレッサに近付き、その引き締まった項へ落雷のような凝視を浴びせた。

「直ちに捕縛せず、引き返せと命じたことそのものが、お前の望む『御目溢し』に該当するとは考えんのか? それほど浅薄な男であるとは思わなかった。己の眼力の未熟を恥じるのみだな」

「御許し下さい、護官頭」

 追い詰められたフェレッサの悲痛な訴えは、獣車に乗り組んだ招かれざる客人たちの鼓膜に、刺々しい擦過傷を幾重にも走らせた。堪りかねたラシルドが客車の扉に逞しい指先を掛けたので、フェロシュは素早く冷淡な諫言を唾のように吐き捨てた。

「自ら進んで人相を晒すのは賢明な判断ではありません。少なくとも、あの護官たちを斬り伏せる覚悟がないのならば」

「彼の立場を慮る積りはないのか。あの青年は、我々の為に不当な窮地へ追い込まれているんだぞ。指を銜えて、安穏な観客を気取る訳にはいかん」

「騒ぎが大きくなるだけです。どうせ騒ぎになるのなら、残らず殺す積りで扉を開けて下さい」

「お前は血の気が多過ぎる」

「あれだけ多くの生き血を吸った後で、今更善人の仮面なんて被れないわ」

 相変わらず、目上の人間に対する世俗的な敬意を平然と踏み躙って恥じようともしないフェロシュの傲岸な素振りに、流石のラシルドも安手の苛立ちを覚えずにはいられなかった。構わず内側の把手を握り締めて思い切り扉を開け放つと、ラシルドは護官たちの敵意に満ちた注視に臆することもなく、堂々たる足取りで眼前の修羅場へ迫った。

「お前が、ならず者の頭目か」

 這い蹲るフェレッサから目線を外して、ウェンシスは威厳に鎧われた頑強な体躯を押し出すように、ラシルドを迎えた。澄んだ緑色に燦めく碧玉を柄頭に埋め込んだ佩刀の金具が、その重厚な動作に合わせて不穏な音色を響かせた。

「如何なる料簡で、その不浄の身を、神聖なるスコルディルの樹海へ紛れ込ませたのか、釈明してもらおうか」

「釈明は無意味だと、先刻仰言ったばかりではありませんか」

 ターラー正教会の敬虔な信者であるラシルドにとっては、宗旨の垣根に拘らず、立派な風采を持つ内寓の貴人に向かって無礼な口を叩くことは決して本意ではなかった。けれども今更、樹海の道を引き返して官道を往くことは余りに危険で無防備な選択肢であるし、フェレッサの軽率な言動に護官頭が忿怒を滾らせている今となっては、無傷で逃げ帰ることも許されそうにない。ラシルドは肚を括り、相手の激情を更に煽り立てることさえ辞さずに、正面から護官頭の攻撃的な眼差しに対峙した。

「単なる商人が、態々好き好んでミューバの神領を渡ろうと思いつくとは考え難い。後ろ暗いことがなければ、誰もそのような不敬の罪を敢えて犯そうとは思うまい」

「確かに我々は、人には言えぬ密命を担っております。そうでなければ、護官頭の仰言る通り、禁断の樹海へ獣車で乗り込むことなど思いも寄りませぬ」

「ならば、如何なる密命を帯びているのか、さっさと白状するがいい」

 ウェンシスの表情を覆い尽くす野蛮な殺気が少しずつ色褪せつつあることを、ラシルドは鋭敏に察知した。固より国内で最も古参の部類に属する神領の護官頭に擬せられるほどの人物が、一過性の感情的な奔騰に長々と引き摺られて、己の理性を何時までも抑圧し続ける筈もなかろう。ラシルドは意地を張って白を切り続けるよりも、素直に一連の顛末を語って聞かせた方が得策ではないかと思案した。ミューバ神領に住まう浄身派の正教徒たちは、外界の血腥い現実から隔絶された人々である。帝国全土を震撼した二十年前の雷鳴戦争においても、彼らは鬱蒼たるスコルディルの樹海の奥深くに隠棲して、あらゆる政治的な立場からの自由を吝嗇な態度で堅持した。今、殉国隊の残党が追い込まれている窮状から、如何なる利害も享受する見込みのない彼らが、捕縛した不審者を直ちに帝都の腹黒い叛逆者たちに売り渡そうと企てるとは思えなかった。

「我々は、雷声帝の遺児、ガルノシュ・グリイスを領袖に戴く連中に、命を狙われております」

 ラシルドの発した不穏な言葉は、地面に膝を屈したまま、一連の応酬を凝然と眺めていたフェレッサの顔色を蒼白に染め上げた。ウェンシスの背後に居並ぶ護官たちも、覆面に半ば遮られた銘々の顔へ、動揺と当惑の感情を忽ち行き渡らせた。

「ガルノシュ・グリイスだと?」

 ウェンシスの双眸に浮かび上がる追憶と混乱の光を眺めて、ラシルドは己の挑んだ乾坤一擲の賭けが充分な威力と効果を発揮したことを理解した。

「何故、雷声帝の遺児が、お前たちの首を刎ねようと画策するのだ」

「我々は殉国隊の残党に御座います、護官頭」

「殉国隊? 寝言を申しておるのか」

 猜疑心に満ちた眼光が、ラシルドの鼻面を撫で斬りにするように鋭く閃いた。

「寝言ではありません。私は嘗て殉国隊の首領を務めておりました、ラシルドと申します」

 ラシルドは背筋を伸ばして改めて威儀を正し、ウェンシスの燃えるような双眸を渾身の力で凝視した。先方の立場から眼前の事態を眺めれば、俄かに現れた胡散臭い不浄の俗人が唐突に殉国隊の残党を名乗った訳で、そんな奇態な言い分を直ちに鵜呑みにすることが出来ないのは至極尤もな話であった。然し思い切って信じてもらわなければ、現下の膠着した状況を打開することは不可能である。後は相手の理性と度量の深さに総てを賭して、命運を委ねるしかない。幸いにして護官頭は、旧弊で閉鎖的なミューバ神領の住人でありながらも、決して狭隘な心根の持ち主ではなかった。

「その言葉の真偽を、今此処で糺しても無益であろうし、私にその権限は与えられていない」

 息苦しい沈黙を暫く溜め込んだ後で、ウェンシスは双肩に凝った力を抜くように逞しい首を揺すった。

「護官長の裁可を仰ぐべきであろう。護堂へ案内する。フェレッサ、この者たちの武具一切を預かれ」

Cahier(「鏡子の家」・現実・退職)

*最近は三島由紀夫の長大な「鏡子の家」(新潮文庫)を読んでいる。同時代の批評家から冷遇されたと伝えられる作品だけに、退屈しないかと心配しながらページを開いたが、そんなに悪しざまに貶されるべきものだとは思わない。ただ「金閣寺」という緊密な構造と絢爛たる文飾に支えられた芸術的達成に類するものを期待して臨んだ読者にとっては、この「鏡子の家」という作品は聊か失望の種となるかも知れない。

 未だ百ページほどしか読んでいない段階で彼是と断定的な口調で論じるのは気が退けるが、些細なことでも備忘の為に書き留めておきたい。三島由紀夫は「仮面の告白」以来、その独特の秀麗な文体を徹底的に錬磨してきた。彼の描き出す世界が常に人工的な様式美の風合いを湛えているのは、彼がそのような世界の捉え方を好み、そのような世界を紙上に構築する為の言語的技術を入念に鍛造してきたからである。彼の文学的な作法は、現実よりも観念を重んじる。美しく磨き上げられた端麗な措辞は総て、現実の世界をプラトニックな観念の反映に染め上げることに奉仕している。彼は少しも、素朴で端的な現実に関心を寄せていない。彼にとって最も重要なのは、己の信じる内在的な価値を、現実の断片を材料として組み上げることであり、現実そのものは内在的な価値への窮屈な隷属を強いられている。その集大成が「金閣寺」であり、そこでは一切の現実が、彼にとって重要だと思われる内在的な価値の為に精選され、緊密な様式美が隅々まで神経質なほどに行き渡っている。

 けれども「鏡子の家」において、作者は彼自身と現実との関係性を組み替えているように見える。彼は自身の内在的な論理を架空の世界へ充満させる代わりに、敢えて現実の即物的な諸相を模写することに重点を移している。換言すれば、彼は身も蓋もない現実を黙って受け容れ、咀嚼しようとしている。彼の審美的な規範に基づいて現実を一方的且つ残酷に裁断するのではなく、現実の不透明で奇怪な様態に眼を凝らそうとしている。この変容は何よりも先ず文体の変化において鮮明に告示されている。絢爛たる観念的な措辞は、些か無骨で飾り気のない、或る意味では単調な文体に切り替わっている。こうした変貌が従来の愛読者たちを失望させる効果を孕んでいること自体は、端的な事実として認めなければならないだろう。

*三月中旬から休職に入り、一旦他の店舗へ応援に入る形で復職していた以前の部下から、退職の手続きを済ませた旨を報告するメールが届いた。退職の方向で話が進んでいるということは既に伝え聞いて知っていた。六月の終わりに完全に勤務を終えるという。次の仕事は決まっていないが、教わったことを活かして前向きに頑張っていきたいという文面であった。

 人は色々な理由で仕事を辞める。仕事を辞めること自体に、貴賤を問うのは無益である。退職が明るい未来の端緒となることもあるだろうし、或いは地滑りのような不幸の幕開けとなる場合もあるだろう。何れの結果に帰着するか、それは本人の今後の努力に懸かっている。とりあえず七月が来たら呑みに行こうと伝えた。送別会を開く遑もなく、不本意なタイミングで休職に入ってしまったので、聊か心残りに思っていたのだ。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

 

苦しみのないところには、歓びもまた存在しない。

 人間の認識は「差異」というものの把握を前提に組み立てられている。「比較衡量」という言葉があるように、私たちは「差異」によって隔てられ、区分された対象を並べて比べてみることで、様々な観念の壮麗な伽藍を脳裡に建設する。換言すれば、私たちの有する認識と思惟の機能は、常に二元論的な比較の手続きに基づいている。

 「禍福は糾える縄の如し」という慣用句が示す通り、禍福は交互に入り組んだ状態で訪れるものであり、人生の総てを幸福と不幸の何れかで一面に埋め尽くすことは出来ない。それ以前に私たちは、幸福というものの価値を、不幸という経験との比較を通じて初めて明瞭に知覚する生き物である。これらの価値は相補的なものであり、銘々が独立した堅固な輪郭を備えている訳ではない。その意味でも「禍福は糾える縄の如し」なのだ。

 人間は贅沢な生き物であり、欲望には際限がない。一たび充足に達したとしても、その愉悦は束の間の夢幻であって、直ぐに新たな飢渇が迫り上がり、充足の魅惑的な幻影を粉微塵に吹き飛ばしてしまう。そして充足の永遠的な持続を希求し、喪失を危惧し、恋々たる執着を様々な対象に向かって抱懐し、濃縮させる。けれども、一切の瑕疵を免かれた完璧な幸福、完璧な愉楽そのものに、堪え難い飢渇を生み出す要因が含まれているのだとすれば、完璧な幸福とは永遠に不可能な夢のままに留まり続ける理念であるということになる。完璧な幸福の内側に潜在する「否認」が、既に与えられた潤沢な幸福を毀損するのならば、私たちは常に飢渇に苛まれ続けるしかない。

 完璧な幸福は退屈と倦怠を齎し、それは結果として完璧な幸福に対する破壊的な敵意を宿す。この不可解な自壊作用は、人間の精神が絶えず「比較衡量」の原則に従っていることの傍証ではなかろうか? 私たちは不幸の症候だけを選択的に抽出して除去することで、却って幸福な充足を排斥しているのである。その根底には「永遠」を希求する不可能な欲望の暴走が関与している。或る特定の状態が永遠に持続することを願う心情は、幸福が不幸との間に相補的な関係を有していることを看過している。不幸を知らない人間に、幸福というものの崇高な価値が理解出来る訳がないのだ。

 こうした消息は、あらゆる人間的な事例に共通して該当する。例えば自由は、不自由との相補的な関係性に基づいて、その実質的な真価を発揮するものである。抑圧や制約が存在するからこそ、自由の希求と獲得に重要な意義が生じるのであり、無際限に許された状態、つまり「放縦」の状態にあっては、自由であることは如何なる清新な輝きも有さない。少なくとも私たちの精神は、無際限な自由に容易く食傷して、却って不当な隷属の息苦しさに憧れるだろう。

 不自由な制約に苦しめられているとき、自由という理念は人間の眼に美しい光輝を帯びて映じる。けれども、実際に放埓な自由を授かってしまえば、光輝は忽ち色褪せ、砂を咬むように索漠とした自由の曠野で、人は途方に暮れるだろう。一方の極に偏することは常に、人間を堪え難い不満の渦中へ投げ入れる。私たちは単独で存在する絶対的で普遍的な価値の存在を信ずるべきではない。あらゆる価値の相補的な性質を理解し、極限への志向性が絶えざる反動と結び付いている現実に注目すべきである。

 欲望という器は、満たされるほどに、その容量を無限に増大させていく。換言すれば、欲望の充足とは常に一時的な現象であり、従って充足を累積することで完璧な充足に到達することが可能であると考えるのは根源的な謬見である。若しも私たちが絶えざる充足と精神の平安を望むのならば、欲望は決して充足されないという厳粛な真理に開眼する必要がある。そのとき、使い古された「少欲知足」という教訓が重要な意義を帯びて、私たちの眼前に顕現するだろう。これは「決して現状に満足しない」という近代的な欲望の経済学に対する叛逆の態度である。

 現状に満足することを拒絶し、絶えざる自己否定の精神を堅持することは、資本主義の世界においては、成長と発展の要諦として認められている。けれども、こうした進取的な精神は「成長」と引き換えに「成熟」の可能性を根本から毀損してしまう。「成長」とは絶えざる欲望の苛烈な命令に進んで従属することである。それを倫理的に断罪しようとは思わない。「成長」の効用を否定するのは、人類の進取的な側面が世界に齎してきた多様な功績の意味を不当に見縊ることに等しい。だが、死ぬまで欲望の奴隷として生き続けることが、如何なる合理性を持つのか、その点に就いて曖昧な判断を懐き続けるのは愚かしい。無論、過度に「少欲知足」の精神を堅持して、己の生きる世界を縮減するのも同様に愚かしい話である。重要なのは、不満足な状態そのものを愛することなのかも知れない。欲望は決して満たされないという理念を正しく理解するならば、貪婪な欲望と同じように「少欲知足」の精神も謬見の誹謗を免かれまい。充足から見捨てられること、絶えず飢渇に苦しみ続けること、これこそ人間の根源的な姿なのではないか?

「役割」に就いて

 人間は純粋に一人きりで生活を成り立たせていくことは出来ない。現代のように、あらゆる事柄が分業化されている世界では猶更、表面的には孤独な、自閉的で個人的な私生活が可能に見えても、実際には、高度な分業と他者との相互的な依存が、生活の前提に据えられている。分業が進めば、確かに私たちは固有の血縁や地縁に拘らず、色々なサービスを金で買うことが出来る。その意味では、私たちは厄介な関係の構築を金銭の力で省略し、自由と孤独を購うことが出来るという現代的な僥倖に恵まれている、稀有な存在だと言えるかも知れない。けれども、それは関係の在り方が変化したということであって、他者との社会的関係そのものの消滅を意味するものではない。血縁と地縁に基づいて織り成された濃密な共同体の原理は、都会的な匿名性の原理に蝕まれ、猛烈な速度で呑み込まれつつある。インターネットの発展も、そうした趨勢に拍車を掛ける要因の一つであろう。それは確かに重要で決定的な変貌には違いないけれども、それが孤独な個人の自立を齎したと判定するのは、適切な結論ではないと私は思う。

 関係性の構造が変化したとしても、人間が社会的な集団を形成しながら暮らす生物であるという根源的な条件は変わっていない。あらゆるものがパソコンやスマホの画面越しに手に入るという商業的なインフラストラクチャーが整備されているからと言って、その技術的な達成が人間の絶対的な自由と孤独を実現していると看做すことは出来ない。寧ろ人間同士の関係が余りに複雑化した所為で、可視化されなくなっていると看做す方が、妥当な解釈であろう。関係性が認識可能な範囲を超過して、不可視の暗闇へ紛れ込んでいる為に、私たちは孤独な自立が達成されているかのように誤解してしまう。無論、それは初歩的な幻想に過ぎない。

 換言すれば、私たちは自分の「役割」を把握し辛い社会に生きているということだろう。自給自足の生活を脱して、近代的な工業化と貨幣経済の浸透によって、巨大な分業の機構が発明されて以来、そうした「役割」の不透明化という事態はずっと継続しているが、通信技術の爆発的な発展は猶更、私たちの相互的な関係を錯雑した泥濘の奥底へ沈めている。こうした状況は、地縁と血縁に基づく共同体の堪え難い閉塞、門地や家柄に準ずるカースト的な制約に苦しむ人々にとっては福音であるが、如何なる福音にも必ず歓迎されない側面というものは附随している。身内と顔見知りだけで構成された世界に生きている限り、私たちは自分自身に課せられた役割とその由来を明瞭に看取することが出来る。それは殆ど自明の肉体的な役割として、私たちの意識の一隅に頑強に居座り続け、片時も醒めることのない強固な夢のように私たちの生活と行動を支配するだろう。そのとき、私たちは孤独の息苦しさよりも、濃密な関係性の息苦しさに重大な問題を見出して苦悶するに違いない。そして余りに明瞭で他律的な役割に囚われて生きることに、奴隷の絶望を覚えるかも知れない。

 こうした他律的な生き方への抵抗と、様々な技術的発展が組み合わさって、現代的な孤独の性質は形成された。私たちは可換的な役割の軽さに思い悩み、血縁の秩序の薄弱さに当惑し、容易く自分の生存の意義を見失ってしまう危険と隣接して暮らしている。それは選択の自由の漸進的な拡大という近代の果実であるが、誰もが選択の自由に肯定的な価値を認めている訳ではない。近代の自由主義は、個人の崇高な自立の実現を踏まえて設計された思想であり、それは万人に向かって開放されているが、必ずしも万人に適合した普遍的な思想であるとは言い難い側面を有している。自主独立を忌み嫌う人間にとっては、近代的な自由主義は、共同体の麗しい秩序を蹂躙する残虐なテロリズムに他ならない。自分自身の責任において、自分自身の意見を述べ、自分自身の行動を決定するという進取的な精神は、群棲する動物としての人間の本能的な部分に背反する性質を含んでいる。

 換言すれば、現代において古典的な共同体の論理は次々と崩壊の危機に瀕している。その最も具体的で象徴的な事例は「家族」という最小の社会的単位の機能的な不全であろう。未婚率と離婚率の増加、晩婚化、出生率の低下、これらの指標は悉く「家族」という古色蒼然たる共同体の論理が、具体的な現実との間に深刻な齟齬を来しつつあることの徴候である。私たちは自明の役割に従うことで「生の充実」を確保するという古典的な夢想に耽溺する為の条件を喪失する途上にある。「異性愛=家族=生殖」の三位一体の強力なイデオロギーは既に、その普遍性に関して明瞭に疑義を突き付けられている。私たちは最早「親」や「配偶者」といった役割の自明性さえも信じることの難しい、困難な境涯に立脚することを余儀無くされているのだ。役割の可換性の獲得は確かに、旧弊な共同体主義からの明朗な解放を意味している。けれども、その解放が別種の艱難を惹起することは避け難い。総てが自らの選択と決断の結果であると信ずることは、誰にとっても容易な道程ではないのである。

三十二歳の男

 結局、自分という生き物の組成を理解する為に、私は色々な事柄へ関心を寄せて、彼是と益体のない思索に耽っているのだろう。他人を理解することは、自分を理解することよりも時に容易く感じられる。それは私が、他人の外在的な事実だけを捉えて考察を加える為に、欺かれる部分が少ない為ではないかと思う。人間が最も見破り難いのは恐らく、他人の吐く嘘ではなくて、自分自身に対する欺瞞である。正当化や美化、或いは不都合な暗部の黙殺、それらの内的な欺瞞を自力で打破することは非常に困難である。

 客観的に事態の全体を眺められる立場にあるとき、対象の本質を読み解くことは寧ろ容易い。けれども、自分の行動や生活や思想を俯瞰して、その全体的な構造を滑らかに展望することは難しい。だから、私たちは自分の正体を容易く見失ってしまう。自分が何を信じ、何を欲しているのか、その矛盾した構造に気付くことさえ難しい。だが、世の中に蔓延する問題の過半は、自分で自分の本質を捉え損ねていることに起因するのではないだろうか? 自分の本当の欲望を知らず、本当の感情を無意識に偽り、結果として不毛な行為の連鎖に陥落していく。迷妄は深まり、真実は無際限に遠ざかり、不本意な行動を本質的な欲望と取り違える。この下らない混乱と謬見の深みで悶えているのが、多くの人間の逃れ難い性ではないだろうか。

 自分自身に就いて知ること、学ぶこと、その為にも他人と世界に就いて学ぶこと、それが生きることの叡智の根本に据えられなければならない。世界と、その世界に属する存在としての自分に関する理解を深める作業を省いてはならない。世界を理解しようとする欲望、或いは志向性は、人間的なものの基礎的な領域の中枢を占めている。自分自身の存在も含めた世界に対する関心を喪失したとき、人間の精神は虚無の奈落へ転がり落ちるだろう。如何なる意欲も熱情も死に絶え、世界は灰白色に染まり、生きることの理由と価値は見失われるだろう。

 自分が本当は何を望んでいるのか、その欲望に充足が与えられる見込みはあるのか、そういった抽象的で観念的な問題に、時々脳裡を抑えつけられることがある。そんなことを考えても無意味だという気分にもなる。何が本当で、何が嘘なのか、そういう問題の設定の仕方が既に一つの根本的な欺瞞の上に成り立っているような予感もする。結局、本当の自分などという便利な観念は何処にも存在しないのではないか。そういう若々しい夢想を諦めてしまうべき刻限に、実は既に到達しているのではないか。私はもう若くないのだろうか。三十二歳で、妻子を持って、十年以上続けてきた仕事があって、終の栖に定めた持ち家のローンを少しずつ返済して、それは若さの喪失だろうか?

 考えてみれば、つまり昔日を振り返ってみれば、私は何も持たない少年であった。学歴も特技も何もない、世間知らずの生意気で陰気な、そして何処か狷介な少年の端くれとして、訳も分からず社会へ飛び出した。それから十数年の歳月が過ぎたことが何だか信じられない。あの頃とは、何もかもが変わってしまった。二十歳の私は、何も持っていない自分の現実に始終苛立っていた。何かをしなければならないという焦躁と、何をすればいいのか分からない不安と、何も手に入らないのではないかという絶望が、渾然と混ざり合って私の精神を浸していた。大学を辞めて、子持ちの女性と勢いで結婚したとき、何れ子供が出来ると分かっていながら避妊もせずにセックスばかりしていたとき、私は閉塞的な日常を打破する為に、過激な手段を自ら選択したのではないかと思われる。時々、私は平坦な日常を粉々に破壊したくなる衝動に駆られることがある。そんな衝動は、妻子と部下を持つ三十二歳の男には相応しくない。犠牲者のことを何も考慮しない訳にはいかない。世間体という言葉は今も嫌いだが、それでも周囲との関係を蔑ろにするには、随分、手垢のような常識に塗れてしまっている。

 三島由紀夫の小説を読みながら、少なくとも二十歳の頃の私は、金閣寺を焼き払った僧侶のように、何らかの危険な博打に手を染めていたのだと考える。退屈な日常、未来永劫、この世界に響き続ける退屈な旋律に心底うんざりしながら、私はきっと自分の「人生」が明確な出発の号砲を告げないことに苛立っていたのだ。しかし、色々な因果に搦め捕られて、私は知らぬ間に人生の方へ滑り出していた。幸福も不幸も織り交ぜて、子供の頃に想い描いた未来とは少しも重なり合わない現実の怒涛に、私は何時しか呑み込まれていた。そうやって息継ぎを繰り返しながら、私は時に難破の危殆に瀕し、辛うじて酸素を頬張って、脆弱な命を繋いできた。これから、私はどんな世界へ向かって泳いでいくのだろうか? 別段、虚無的な心情に支配されている訳ではない。未来に絶望している訳でもない。ただ、不可思議な心境に立っているだけだ。未来は常に不確定なものである。不確定な未来に、人は不安を覚える。だが、時に人は、確定的な未来に対しても、奇妙な不安を覚えるものなのだ。

音楽における「理性」と「感性」

 偶々YouTubeフレデリックという名の関西出身のバンドの曲を聴いて、割と気に入った。きちんと歌詞を読んだ訳ではないが、言葉に過剰な意味が与えられていない。私はサカナクションPerfumeの音楽を好んでいるが、彼らの楽曲においても、言葉は意味よりも遥かに深く強く音楽に奉仕しているように聞こえる。一つ一つの言葉は、その意味によって選ばれる以上に、音の響きや調べによって選び取られている。それが耳に心地良く響くのだ。

 言葉というのは不思議なものだ。それは単なる記号でも、意味の連なりでもない。だが、そこに如何なる意味も担われていなければ、それは言語とは呼ばれないだろう。一口に音楽と言っても、歌詞の「意味」に大きな比重を与えているミュージシャンは大勢存在する。その一方で、言葉の響きだけを愛しているように見えるミュージシャンも少なくない。私は決して、両者の優劣を論じているのではない。言葉に対する意識の在り方は多様であり、それを一義的な規律によって拘束するのは退屈であり、不当である。

 言葉が明晰な意味を、つまり単純な記号のように明確な役割だけを持つとき、言葉は極めて論理的な性質を宿すようになる。一義的な言葉は、世界を明瞭に語り、事実を厳密に特定する場合には画期的な有用性を発揮する。そのとき、言葉と意味との間には不動の密接な関係が構築され、両者の輪郭は完全に重なり合う。

 けれども、それが言葉という不可思議な存在、或いは機能の価値の総てだと言い切るのは生産的な態度ではない。私たちは言葉を純粋な音として愉しむことが出来るし、文字の表情を視覚的に味わうことも出来る。文字を純然たる視覚的形象として捉える芸術、書道やタイポグラフィ(typography)もまた、言葉を意味から切り離して認識しているように見える。しかし私たちは両者を、つまり言葉の意味的=内在的な側面と、物理的=外在的な側面とを完全に分離させた上で取り扱っている訳ではない。言葉の重層性は、それが物理的な音声であったり形象であったりするのと同時に、意味という記号的な性質を伴っているという両義性によって培われ、齎されている。言葉は単なる意味の連なりではないが、意味という原理から完全に自由になることも出来ない。

 洋楽は歌詞の意味が分からないから好まないという趣味の人も世の中にはいる。そうした人々は音楽を「意味」として捉えずにいられないほど、明瞭な世界観に囚われているのだろう。けれども、言葉の意味が分からずとも、洋楽の旋律や響きに心を奪われることは可能である。音楽が国境を越え得るとすれば、それは音楽が意味に還元されない価値を発揮し得るものであるからだ。

 こうした問題は、理性と感性との二元論的な対立と同型の構造を有している。理性は絶えず意味に縛り付けられ、対象の意味を問い、世界の体系的な聯関を把握しようと努める。言葉に限らず、理性はあらゆる事物の背後に、別の事物の存在を想定しようと企てる。それが理性に内在する本能のようなものである。

 けれども感性は、そうした「事物の背後」よりも、事物そのものに強く惹きつけられ、事物そのものの知覚的な形象を重視する。事物そのものを捉えようとするとき、理性が拵えた意味の網目は却って余計な障碍となり得る。事物そのものを捉えるとき、私たちは予期される一切の意味的な拘束を解除せねばならない。

 例えば一般に私たちが金銭を欲するのは、金銭が様々な価値を代理し、可能性を想定させるからである。金銭そのものに価値を見出すのではなく、金銭が可能にする様々な人生の選択を、金銭の「背後」に見出して欲望を亢進させるのである。しかし、貨幣の蒐集家は、貨幣の経済的な意味ではなく、貨幣の物理的な存在そのものを愛する。無論、彼らの欲望が貨幣に関する種々の「意味」を完全に排斥しているとは言えない。例えば彼らが或る硬貨の「稀少性」を得々として熱く語るとき、彼らはその硬貨の「背後」に光り輝く「意味」を見凝めているだろう。

 完全に意味を排除して、事物の純然たる実相を捉えることは殆ど不可能に等しいが、少なくとも、そうした状態を目指し、肉薄することは不可能ではない。そのとき、人間は言語的な意味の体系に汚染されない、感性的な領域へ自らの存在を移行させることになる。無論、感性さえも一つの「意味」であることは確かだ。しかし、それは言語的な意味によっては汚染されない、或いは包摂されない部分を隠し持っている。

 音楽が感性的な芸術であることは言うまでもない。尤も、だから言語的な意味の混入を極力避けるべきだなどと、門外漢の驕慢な言辞を弄する積りはない。ただ、折角ならば音楽には言語的な意味の形成する秩序を超越してもらいたいと願ってしまう。言語的な意味に寄り掛かった抒情に、音の秩序を添えるだけで作品の完成を信じるならば、音楽の備えている本来的な特権は決して輝くことが出来ないだろう。