サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 1

 エピクロスの『教説と手紙』(岩波文庫)を通読した流れのままに、現在は古代ローマの詩人であるルクレーティウスの『物の本質について』(同上)の頁を少しずつ捲っている。

 古代ギリシアで活躍したエピクロスの厖大な著述は、その過半が散逸したと言われ、現存するテクストの総量は極めて僅少である。それゆえに、エピクロスの思想的精髄を長大な叙事詩の形式に移し替え、流麗なラテン語の韻文の裡に保存したルクレーティウスの業績は今日、エピクロスの思想を解明する上では不可欠の稀な手懸りとして尊重されている。

 哲学的な思想を扱った二千年前のラテン語韻文を、現代の日本語に移植するという訳者の試みが、凄絶な艱難に包囲されていたであろうことは想像に難くない。尚且つ初版から六十年近い歳月が経過しており、古色蒼然たる訳文の息遣いは聊か馴染み難い硬質な感触に満ちている。けれども、時代も文化も異なる隔絶した土地の哲学的且つ芸術的な稔りを、曲がりなりにも日本語の散文として享受することが出来る現実に対しては、読者として謙虚な感謝を捧げるべきであろう。

 僅かな書簡と断片しか残存していないエピクロスその人の「遺言」から、その思想の全貌を精確に復元することは限りなく不可能に等しい。そうした難事業を推進するに当たり、ルクレーティウスの情熱的な詩文の写本が果たした役割は極めて大きいと思われる。

 エピクロスの提唱した「原子論」(atomism)は、単に近代的な自然科学の淵源に留まるものではない。その最も重要な革命性は、エピクロスの思想における無神論的な性質、つまり神話的解釈の排斥の裡に存している。彼は認識と思考の基礎を「感覚」の明証性の裡に置いた。そして感覚を通じて確証し得ない事物に関して、神話的な解釈を持ち出す宗教的で呪術的な思考の形態を批判した。こうした思想的格闘は、決して原始的な古代社会に固有の哲学的探究ではない。感覚を通じて確証されない事物に関して、曖昧なイメージを被せて論じる安直な習慣は常に、現代に暮らす我々の日常的な思考を支配している。

 原子論の前提となる「無から有は生じない」という大原則は、造物主としての「神」という宗教的な信憑を破綻させる剣呑な着想である。また、感覚によって確証されないものを信じることは出来ないという不可知論的な探究の方針は、既成の神秘的な世界観を根底から転覆させるものである。こうした無神論的な意志の顕現は、それ自体が既に哲学的な意志の具体的な表現である。

 宗教、或いは宗教以前の或る共同体的な神話や伝承の蓄積、それが共同体の内側で暮らす成員たちの精神を規定し、その行動に揺るぎない制約と枠組みを賦与する。こうした「社会化」の過程は、二千年以上前の古代ギリシアに限らず、あらゆる人間的集団の内部で不可避的に生じる、半ば本能的な現象である。社会化を遂げるということは、必ずしも現実を客観的且つ普遍的な構図に基づいて把握したり解釈したりすることを意味しない。共同体に固有の価値観を、普遍的な認識として定義する類の擬制は、共同体への忠誠を高める為に頻繁に編み出されるものであるが、それは往々にして或る権力的な歪曲である。神話的な意識は、感覚の裡に受け止められた経験的な現実に対して賦与された局所的な意味の塊なのだ。そうした共同体の価値観を打破し、異なる視界を開拓し、誤謬や臆見を取り除こうとする意志が、ソクラテス的な「哲学」の本領なのではないか。

 そういった意味では、エピクロスにとっての原子論及び自然哲学は、単なる現実の冷静な観察という作業を超越した意義や使命を担っていると言える。現実に関する認識は常に主観的な相対性の制約を蒙っている。従って、神話的な解釈の意志に対して哲学的な解釈の意志を優越させることは必ずしも正当であるとは断言出来ない。寧ろ、或る特定の集団の内部にあっては、哲学的な意志は共同体を支える価値の枢軸を揺さ振り、倒壊させかねない危険を孕んでおり、往々にして冒瀆的な悪意のように冷遇され、排斥され得るものである。エピクロスに対して向けられた夥しい猛烈な痛罵の声は、若しかすると彼の哲学的な意志に対する逆説的な褒賞なのかも知れない。つまり、エピクロスに対して注がれた誹謗中傷の劇しさはそのまま、共同体の信奉する局所的な現実を超克しようと試みる彼の哲学的意志の鮮明な強靭さを傍証するものなのかも知れないのだ。

 エピクロスは感覚的な明証性を、つまり明瞭な感覚を認識の根拠或いは基準として尊重する。そして、明瞭な感覚によって確かめられることのない認識を疑わしい謬見として斥ける。観察し難いもの、つまり明瞭な感覚を通じて把握することの出来ない天文学的な事象に就いては、特定の説明=理論に偏重しないことを重要な規範として強調する。こうした思想の形式は、当然のことながら、感覚を通じて確かめられることのない恣意的な認識の集成である「神話」への抵抗を含んでいる。感覚を通じて立証されない事柄に就いて、多様な解釈の流通を容認せず、極めて不合理な根拠に基づいて、或る特定の解釈に優位性を与える行為は、明らかに恣意的な権力の行使に他ならない。換言すれば、そのとき哲学的意志には政治的な効用が、しかも「叛逆」という名の政治的効用が宿るのである。ソクラテスの処刑は、哲学的意志が不可避的に内包している危険な政治的効用の象徴である。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

Cahier(体罰・虐待・懲戒権)

*子供を寝かしつけた後、テレビのニュースを眺めていたら、政府が近年続発する児童虐待の防止に向けて、児童福祉法及び児童虐待防止法の改正案を纏めたという報道に偶然接した。同時に政府は法改正と併せて、民法に定められた「懲戒権」に就いて、五年間を目途に見直しに着手する方針を示したらしい。

 民法第820条 「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う

 民法第822条 「親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる

 恥ずかしながら報道に接するまで、曲がりなりにも人の親という立場でありながら、私は「懲戒権」という民法上の規定に就いて完全に無智であった。条文の詳細は無論のこと、親の子に対する「躾」に関して、法律的な規定が明示されているという事実さえ、毫も弁えていなかったのである。

 考えてみれば、親子関係に関する法律の規定すら知らない人間が、親権と監護権を保持して、日常的に幼い子供の養育に携わっているという現実は、本当は直ちに是正されるべき奇態な情況なのかも知れない。私たちは、勿論例外は多々あろうけれども、往々にして余りに無智な人間のまま、安易に子供を作って親の肩書を手に入れてしまっている。児童虐待の背景には、親の人格的な特性や未成熟も大いに関わりがあるだろうが、最も根本的な原因は、こうした親の「無智」と、親に対する教育の欠如或いは不足ではないかと思われる。

 人間の親、或いは必ずしも血縁がなくてもいい、何らかの肩書の下に、子供の監護に携わっている人間が、その役割を果たす為に保有すべき知識の量は極めて厖大である。無論、親としての自覚を懐き、自助努力によって知識の増進と拡張に努めることは当人に課せられた責務であるが、一切を親の自助努力によって賄おうとするのは冷酷な話である。無論、私は公教育を筆頭とする、育児への諸々の公的支援に対する感謝を失念している訳ではない。

 親から懲戒権を奪うような法改正が見込まれるということに就いて、輿論は様々な方面へ分裂するのではないかと思う。教育の為の体罰を容認する人間は、この国では未だ絶滅危惧種でさえない。そういう人間にとっては、体罰が禁じられるのみならず、懲戒権の規定さえ削除されるのでは、正当な親子関係は成立しないと非難の声を上げるかも知れない。確かに、子供は或る意味では愚かな側面を有している。彼らの知性も知識も経験も、成人に比して相対的に未熟なものであることは事実である。だが同様に、親の立場に置かれている人間も、往々にして未熟な存在であり、その知性も知識も不充分である。教育者としての正当な資格と力量と見識を認められていない人間が、ただ生物学的な血縁を根拠として、子に対する懲戒権を自動的に確保し得るというシステムが、そもそも深刻な危険を孕んでいることに就いて、我々はもっと開かれた議論を交わすべきであろう。

 医学的な障碍や性的な搾取を予防する為に、性教育の重要性が叫ばれるようになって既に久しいが、妊娠及び出産までの知識を持っているだけでは、二十年以上も続く養育の難事業を無事に成し遂げ得るとは言い難い。性交から子の成人までの広義の「生殖」に関する我々の知識は、質的にも量的にも必ずしも均等ではない。親になるということは、仕事で金を稼いだり家事を熟したりという作業への単純な習熟だけでは担い切れない責務を負うことである。極論を言えば、親になるに際して、何らかの国家資格の取得を義務付けるような制度を検討することも必要かも知れない。自動車の運転に免許が要るのならば、子の養育に免許が必要であっても何ら不思議ではない。そうした措置は、唯でさえ下落に歯止めの掛からない出生率を益々凋落の傾向へ追い込むことになると批判する人も現れるかも知れない。だが、無智に基づいた安易な生殖活動が、極めて悲惨な虐待の事案を生み出す温床であることを鑑みれば、少なくとも何らかの知識の取得を親に命じることは妥当な措置ではあるまいか。

 殆どの日本人が学生時代の裡に自動車の運転免許を取得する現代にあって、同様の「通過儀礼」のように、親としての教育を授ける制度を構築することは、実際の運用の局面においては様々な課題が噴出することは確実であるにせよ、長い眼で見れば重要な国家的施策となり得るのではないか。児童虐待、強姦、望まれない妊娠、性感染症など、広義の「生殖」に関する教育の不充分な効果、或いは「生殖」への関心に対する隠然たる社会的抑圧が遠因となって惹起されている悲惨な事象は枚挙に遑がない。懲戒権の見直しは、こうした広義の「生殖」に関する我々の価値観及び社会的制度の再設計の端緒となるかも知れない。

「迂遠な独裁」としての民主主義

 「民主主義」(democracy)は、一般に最も穏健で現実的な、つまり現代の世界においては最善の政治的選択肢であるという印象を纏っている。だが、我々の推戴する代議士たちの不毛な闘争の風景を眺める限り、このような印象が如何なる根拠に基づいているのか、茫漠たる困惑に囚われることもまた一般的な事実である。堕落した民主政が「衆愚政治」(ochlocracy)という蔑称で批難されることを我々は知識として弁えている。「多数決の原理」が常に最善の選択肢を支持するとは限らないという事実は、我々の信奉するデモクラシーの根源的な脆弱性を立証する重要な論拠である。

 民主主義が多数決の原理に政治的正当性の根拠を据え続ける限り、民主主義とは一個の独裁主義に他ならない。選挙や審議という煩瑣な手順を内包している為に、それは絶対王政の如き個人への極端な集権を制限する機能的側面を備えていると言えるが、その歯止めが常に有効であるとは限らないし、最も根源的な問題は、多数派の意見が最善の意見と必ず同義である必然性を欠いているという点に存している。多数派の意見が総ての成員の総意に置き換えられ、多数派の支持する政府が国民の総意を表象するという便宜的な擬制が働いている場所では、少数派の意見は極めて容易に蹂躙される。

 民主主義は構成員の平等を建前として掲げており、その能力や品性の格差に関わらず、銘々の政治的権利は同一の価値を担っていると看做される。従って公然たる階級社会のように、特別な身分の人間が国家の方針や重要な政治的決断を左右することは容認されない。それゆえに、多数派の意見を国家の総意の近似値として重んじるという便宜的な制度が案出された訳であるが、それは飽く迄も次善の策であるに過ぎず、その効用は専ら特定の個人の恣意的な判断によって巨大な集団の存亡が左右されるという危険な構造への抵抗に尽きている。

 だが、多数決の原理は必ずしも独裁者の出現を阻害しない。二十世紀における最悪の独裁者の一人であるアドルフ・ヒトラーは、選挙を通じて民衆の支持を獲得した上で、国政の頂点に登極した。後に彼が推し進めた様々な政治的施策は、確かに民主的な議会制度に対する破壊的な鉄鎚の効用を備えていたが、少なくともその出発点においては、ヒトラーの独裁は民主主義の手順に則って誕生したのである。

 多数決の原理は、多数派が権力を掌握するという我々の身も蓋もない現実の政治的反映である。それは確かに神格化された個人による極端な独裁を予防したり制限したりする一定の効果を伴っているが、不完全な発明であることは争えない事実である。多数派による支配は、諸々の手続きと規則によって不本意な渋滞と遅延を強いられた、いわば「迂遠な独裁」なのだ。

 だからこそ、民主主義は自由主義との融合を要求する。民主主義そのものは、多数派の優越を重視するばかりで、容易に少数派の弾圧へ傾斜してしまう危険を孕んでいるからである。自由主義に基づく少数派の権利や利益の保護が同時に組み込まれなければ、多数派の優越という原理は直ちに多数派の絶対化という「偽装された独裁」に掏り替えられてしまう。重要なのは、この微妙な「混同」、時には政治的必要から敢えて意識的に執行される「混同」の含んでいる毒薬のような権力である。冷静に考えてみれば、僅差で採否の決まった問題に就いて、多数派の見解が最善の妥当性を有すると宣言するのは軽率な振舞いであろう。況してや安倍内閣のように幾度も多勢を恃んで「強行採決」に踏み切るような政治的態度は、明らかに民主主義における多数決の原理の意図的な悪用の所産である。採決の完了を問題の解決と等価であるかのように取り扱う姿勢は、余りに技術的な判断だ。政治が単なる技術と化してしまえば、確かに多数派による「強行採決」は一つの効果的な戦術ということになるだろう。だが、我々は単なる技術の為に生きている訳ではない。

エピクロス「教説と手紙」に関する覚書 2

 引き続き、エピクロスの『教説と手紙』(岩波文庫)に就いて書く。

 悪しき「享楽主義」(hedonism)という汚名を着せられたエピクロスの思想が、実際には極めて穏健な「節制」の規範に基づいていることは、彼の遺した著述の断片を徴するだけでも明瞭に汲み取ることが可能である。彼は劇しい享楽的な興奮や高揚を重んじたのではない。それによって人生に付き纏う倦怠や絶望や不安を一挙に清算しようと試みたのでもない。実際には、エピクロスの思想はそうした危険な享楽主義の対義語の集成として存在している。

 つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである。つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.71)

 エピクロスは極端な禁欲や清貧の思想を推奨した訳ではない。最も重要なのは、欲望を追求するかしないかという二者択一ではなく、欲望の対象への執着を除去することである。欲望そのものを廃絶するという不可能な挑戦を志したのではなく、欲望に対する支配権を確立することを企図したのである。

 欲望は現実的でなければならない、これがエピクロスのみならずセネカの裡にも共通して指摘し得る倫理的な規矩である。彼らは欲望そのものの充足を否定したのではない。欲望が充足されること自体は、堅実で本質的な幸福の基礎を成す現象である。しかし、人間は欲望の齎す快楽に魅惑されて、限度を無視し、法外な野心に囚われ得る生き物である。

 現実に充足される見込みのない欲望を持つこと、これがあらゆる不合理で極端な「享楽主義」を生み出す源泉として機能する。不可能な欲望を懐くと、人間は解消される希望のない現実的な不満と煩悶に苛まれることとなる。そうした苦痛は堪え難いものであり、不可能な欲望を棄却することだけが、慢性的な苦痛を免かれる為の唯一の賢明な方途であるのだが、棄却することが困難に感じられる場合、人間は苦痛の一時的な忘却を欲するようになる。それが種々の「陶酔」(intoxication)に対する「依存」(dependence)を招来する。こうした依存は奇態な心理的強制力を保持しており、そのとき人間は欲望に対する主体的な支配権を喪失する。本質的な欲望の充足が現実の構造によって禁じられている為、そのような苛酷な現実を失念する為の心理的な「麻痺」(paralysis)を希求するようになるのである。

 つまり、あらゆる依存的な嗜癖は、不可能な欲望の禁圧が齎す余燼のようなものなのである。欲望の禁圧から派生する諸々の依存的症状は、幾ら反復しても根源的な充足に到達することが不可能なので、欲望の禁圧に伴う苦しみ自体が解消されない限り、無限に回帰し続けることになる。こうした症状が極限まで高じた場合には、堪え難い現実的苦痛を免かれる為の自傷及び自殺が発生するだろう。

 現実に対する否認、それがあらゆる依存的嗜癖を成立させる根源的な要因である。或る特定の欲望が現実的な問題として充足されないとき、その欲望を節制するのではなく、欲望を充足へ導かない現実そのものを否認しようと図ったとき、人間は精神的な「麻痺」を欲することになる。現実に対する否認が最も危険な水準まで亢進した場合には、恐らく人間の精神は狂気の裡に幽閉されるだろう。

 エピクロスセネカも、つまり「ヘレニズム」(hellenism)の哲学者たちの考案した倫理的美徳は総て、こうした虚しい執着の持続と反復的連鎖を断ち切る為の試みとしての性質を有している。或いは西洋に限らずとも、例えば釈迦の開創した仏教の壮大な観念的体系もまた、欲望とそれに附随する夥しい痛苦の問題に対処する方策を追究し続けてきたのである。欲望を最低限に抑制することで、それが満たされない場合に生じる苦痛の総量を減らそうと試みることは、少なくとも数千年の歴史に基づいて人類が導き出した最も合理的な選択肢であると言えるかも知れない。

 だが、欲望の抑圧が最も重要な思想的課題だとは言えない。本当に大事なことは、欲望が満たされないという現実の不快な構造を承認することである。どんなに欲望を抑えようと試みても、欲望そのものは人間の主体的な制御に完全に隷属するものではない。また、欲望が充足されないという現実は、本来ならば凡庸な事象に過ぎず、殊更に騒ぎ立てたり幼稚な否認を試みたりする必要のないものである。仏教における「四諦」の教義は(苦諦・集諦・滅諦・道諦)は、欲望そのものの完全な死滅を正しい道程として祝福しているが、こうした教義の体現が万人に可能であるとは言い難いところから、大乗仏教の運動が勃興したのではないかと思われる(「煩悩即菩提」の発想)。そもそも、我々の欲望が完全に死滅してしまったら、そのとき人類の社会は滅亡してしまうだろう。

 満たされない欲望、それが諸悪の根源であることは明瞭な歴史的事実である。従って諸悪を滅する為に、欲望そのものの全面的な廃絶を企図すること自体は理に適っている。だが、こうした発想は、倫理学的な格闘の前提である「生きることの肯定」という基準そのものを棄却している。極論を言えば、欲望の廃絶という思想は不可避的に「人類の全面的な滅亡」という発想に帰結せざるを得ないのである。これは欲望の悪しき側面だけに着目し、極めてペシミスティックな感覚に依拠して織り上げられた破滅の思想である。ここまで極端に飛躍してしまえば、確かに抜本的な解決は齎されるものの、問題の前提自体が崩壊することになる。生きるのが辛いなら死ねばいい、という「安楽死」の発想は、相応の合理性を含んでいるものの、必ずしも最良の選択肢であるとは言い難い。

 病的な禁欲は、病的な享楽と同様に、我々の精神を度し難い頽廃の裡に眠らせてしまう。禁欲は自死を、享楽は狂気を招来するだろう。その何れにも偏倚せず、飽く迄も認識の現実的な妥当性を堅持することが、倫理学の探究における最も根源的な要件であると私は考える。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 

エピクロス「教説と手紙」に関する覚書 1

 六日連続勤務の合間に、古代ギリシアの哲学者エピクロスの残存する著述と書簡を編輯した『教説と手紙』(岩波文庫)を読了したので、覚書を認めておきたい。

 夥しい数の著作を遺しながら、その殆どが散逸してしまった紀元前の哲学者の文章が、曲がりなりにも消え残って二千年以上もの風雪に堪え抜き、縁も所縁もない異国の言葉に翻訳されて、極東の島国の書店の棚に陳列されているという現実は、冷静に眺めてみれば驚嘆すべき奇蹟的な事態である。

 ストア学派の人々に限らず、多方面から劇しい批難と誹謗を浴びせられた人物であったと伝えられるエピクロスの思想には、享楽主義という偏頗で不正確なレッテルが貼られ、その真意は数多の誤解と謬見に覆われてきた。紀元前の社会も、インターネットの世界に飛び交う凄まじい悪意の増殖に苦しめられている二十一世紀の社会と同じく、異質な人間に対する峻厳な迫害の氾濫する世界であったのだと思うと、虚しくもあり、可笑しくもある。折角、二千年以上の星霜を閲した後に生まれたのだから、如何にも同時代的な偏見の数々から遠く離れて、成る可く彼の遺した思想の成果を、その貴重な余燼を、虚心坦懐に受け止めて己の生活に役立てていきたいと私は思う。

 禁欲を宗旨に定めるストア学派と、享楽を是認するエピクロス学派という通俗的な図解は、当時の誤解と無知に基づいた歴史的偏見の軽率な遺産であるように感じられる。例えばストア学派に属すると言われるセネカの文章にも、確かにエピクロス学派の思想に対する執拗で批判的な言及が含まれていることは事実だが、注意深く読めば、その筆鋒の狙撃する対象はエピクロスその人であるというよりも、その看板を悪用する放埓で淫猥な崇拝者たちであることが窺い知れる。

 私自身、個人的にはこういう意見をもっている――わが(ストア派の)朋輩は不服であろうとも私はそう言いたい――、すなわち、エピクーロスの教えは尊く、正しいものであり、さらに近寄ってよく見れば、厳格でさえある、と。彼の説く例の快楽はわずかで、ささやかなものに限定されており、彼はわれわれが徳の戒律とするものを快楽の戒律としている。彼は命じる、快楽は自然に従え、と。ところで、自然を満たすにはごくささやかな贅沢で足りる。では、どういうことなのか。懶惰な閑暇を幸福と称し、口腹の欲と肉欲こもごもの生活を幸福と称している者たちは皆、悪事の後ろ楯となってくれる立派な権威者を得ようとして、その魅惑的な名に惹かれて彼(エピクーロス)の門を叩きはするが、聴いた教えどおりの快楽ではなく、自分が携えて行った快楽を相変わらず追い続け、その挙句、自分の悪行は教義に適うものという謬見を抱き始め、それからというもの、おずおず、こそこそどころではなく、大っぴらに奢侈に耽るようになる、ということなのである。それゆえ、わが派のたいていの人たちが言っているように、エピクーロス派は醜行の教師だなどと言うつもりは、私にはない。こう言おう、それは悪しざまに言われ、評判が悪い、と。「だが、いわれのないものだ」。ある程度深く教義を学ぶことを許された者以外、誰がそうだと知りえよう。ほかならぬその外面があらぬ噂を生む隙を与え、邪な期待を刺激するのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.158-159)

 現存する断片に記された「隠れて生きよ」という語句の通り、エピクロス派の人々には聊か秘教的な閉鎖性が浸透していたのかも知れない。そうした閉鎖性が無用の誤解を招き、誤解が偏見を養って、感情的な批判を生じさせる遠因となったのかも知れない。往古の具体的な消息は最早定かではないが、少なくともセネカに限って言えば、そのような攻撃的偏見からは自由であったように思われる。そもそも、ストア学派エピクロス学派との思想的差異は、歴史的な偏見の劇しさにも拘らず、極めて軽微であるように見受けられる。エピクロスが称揚した「快楽」の内実は、決して貪婪な酒池肉林の享楽ではない。肉体的な快楽に対する無限の審美的探究は寧ろ、彼の抱懐していた哲学的信条に反するものである。

 それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。(『エピクロス――教説と手紙』岩波文庫 p.72)

 エピクロス自身が極めて明瞭にこうした陳述を書簡の中に遺していることを鑑みれば、彼とストア派との奇怪な対立は実に不毛な謬見の応酬に過ぎなかったのではないかと感じられるほどだ。欲望を規制し、過大な享楽を求めず、静謐な幸福の裡に人間の実存的理想を見出すという思考の形式は、殆ど重なり合うほどに酷似している。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 

Cahier(陶酔と狂気)

*「陶酔」(intoxication)という現象は、人間の生活の様々な局面において顕現する。それは現実に関する明晰な認識の消滅を意味し、理性的な自我の解体を齎すような経験の総称である。陶酔は様々な力によって齎される。アルコールやドラッグなどの薬物、スポーツやダンスなどの肉体的負荷を伴う行為、自慰と情事、音楽、ビデオゲーム、諸々の犯罪、自傷及び自殺、実に多様な行為が陶酔を醸成する基礎的条件として作用する。

 「陶酔」に執着し、その無際限な反復を希求することを「依存」(dependence)と称する。人間の依存する対象が極めて多様であることは広く知られた経験的事実である。依存を齎す対象の共通項は、それが「陶酔」という形で現実の「忘却」(oblivion)を人間に許可するという点に存する。陶酔は人間の意識を現実から切断し、或る閉鎖された幻想的な領域へ向けて拉致する。陶酔の裡に存するとき、人間は現実的な苦痛や煩悶から解放され、欺瞞的な浄化を味わうことが出来る。それは現実に存在する様々な苦悩(四苦八苦)を堪え忍ぶ為に案出された生物学的且つ心理学的な機制である。

 だが、陶酔は常に束の間の現象であり、仮に無限に持続して醒めることのない陶酔が有り得るとすれば、それは陶酔ではなく「狂気」(madness)と称されるべきである。我々は現実と幻想との間を自由に往来することの可能な存在であり、それこそが知性の爆発的な発達を喚起した最大の要因であることも事実だが、しかし現実から乖離した幻想は、それが幻想であるという自覚を欠いている為に、つまり現実として誤認された幻想である為に、夥しい弊害を産出してしまう。現実に基づかない認識と、そこから析出された判断は、不毛な空転に蚕食されるだろう。幻想の肥大は現実の意義の衰退を招き、生死の境界線を浸蝕し、我々を或る内在的な閉域へ押し込めてしまう。

 「陶酔」への飽くなき憧れと衝迫は「狂気」の予備的段階である。言い換えれば、狂気の濫觴は常に現実的な苦痛からの遁走の裡に育まれる。我々が狂気への頽落を免かれる為には、現実的苦痛に対する冷静で公正な注視が不可欠である。陶酔を齎す様々な対象への欲望は、現実的な欲望ではなく、建設的な性質を欠いている。それは欲望の現実的な充足を目指すものではなく、寧ろその堪え難く不可避的な挫折に水源を有しているのだ。

 陶酔への欲望は、逃避的な欲望であり、現実的な根拠を備えていない。従ってそれは、現実的な充足へ到達することを原理的に禁じられている。陶酔は現実的な欲望を通じて獲得される筈の幸福の代理的対象である。本当に欲しいものが手に入らないとき、人間は陶酔を通じてその苦痛の強度を軽減し、忘却の裡に安らぎを求める。従って、如何なる過激な外貌を纏った陶酔であっても、その根本には臆病な精神が鎮座している。しかも陶酔は決して本質的な充実を喚起せず、その欠如を補完する力しか有していない。幾ら陶酔を積み重ねても、我々は我々自身の飢渇を忘れるだけで、本来的な充実へ至ることは出来ない。寧ろ陶酔は現実的な感覚を摩耗させる為に、現実的な欲望の達成を一層困難な夢想に作り変えてしまうのである。

 我々が本質的な幸福を願うのならば、陶酔は断乎として忌避すべき不埒な悪習である。陶酔よりも覚醒を求めなければ、我々の欲望が本来の対象に到達することは出来ない。換言すれば、現実に対する適切な注視だけが、我々の欲望を実質的な充足へ導く唯一の道程なのである。

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 3

 バートランド・ラッセルの『幸福論』(岩波文庫)を読了した。

 非常に多岐に亘って「禍福」の原理を、具体的な実例と明快な考察と共に究明しているラッセルの「幸福論」の内容を、軽率で杜撰な要約に還元するのは適切でも生産的でもない態度である。けれども、枝葉末節に拘泥して肝腎の根幹を捉え損ねるのは愚かしい振舞いだ。原理は、無数の夥しい論理的悪戦苦闘の死屍累々たる曠野の上に築かれるが、総ての死屍の片鱗を残らず身に纏っている必要はない。麦が複雑な工程を経て透明で純粋な蒸留酒に作り変えられるように、理性と思索は、猥雑な現象の豊饒な姿から、一握の透明な真実、綿密に不純物を除去された簡明で堅固な真実を析出することを己の本務に定めている。従って適切な要約を試みることは、理性的な思索にとっては不可避の壮図である。

 世界には、いろんな時代に、いろんな孤独な哲学者がいた。あるものは非常に高潔であり、あるものはそれほどでもなかった。ストア学派の哲学者と初期キリスト教徒は、人間は自らの意志のみで――少なくとも人間の援助なしに――人間生活に可能な最高の善を実現することができる、と信じていた。また、権力こそが人生の目的であるとみなす人たちもいれば、さらに、単に個人的な快楽を求めるものもいた。こうした哲学は、次のような意味でおしなべて孤独な哲学である。すなわち、善というものは、大小の人間社会の中で実現されるだけではなくて、一人ひとりの人間の中でも実現されうるものだと考えられている、ということだ。(『ラッセル幸福論』岩波文庫 pp.42-43)

 ラッセルはストア学派の思想に就いて聊か批判的な含意を以て言及しているが、彼の披瀝する見解が、例えば『生の短さについて』(岩波文庫)に収められたセネカの思想と比較して、大幅に異質であると考えるのは必ずしも妥当な判断ではない。欲望に衝き動かされ、過剰な享楽に溺れる人間の「逃避」を、人間の「不幸」の重要な培地として捉える発想は、寧ろ両者に通底する特徴であると言えるのではないだろうか。

 セネカラッセルも、過剰な蕩尽とも称すべき没我的な享楽に溺れることの本質的な不幸を戒め、静謐な愉悦に満たされた幸福の境涯を目指すことを勧めている。欲望の充足を直ちに幸福の完成へ接続することの困難に就いて、彼らは豊富な実例を挙げて綿々と縷説している。ラッセルは欲望の充足を否定せず、中庸の美徳を重視した。彼が中庸という観念の重要性を説いた背景には、欲望の本質的な無限性に対する警戒心が介在していると考えられる。適切に制御された欲望は、人間の平穏な精神の堅持を妨害するものではない。セネカも、決して欲望の全面的な根絶を倫理的な規矩として称揚している訳ではない。彼は欲望の完全なる扼殺が不可能であることを明瞭に弁えている。

 さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。(『生の短さについて』岩波文庫 p.104)

 享楽的なエピクロス派と禁欲的なストア派という粗雑で不正確な便宜的区分には何の意義も備わっていないと言うべきである。セネカが懸念したのは欲望の無限性に支配されて「静謐」の美徳を失うことであり、少なくとも「静謐」の美徳を攪乱されない限りにおいては、彼もまた欲望の充足が必要な過程であることを認めている。ストア派に比べれば遥かに欲望の肯定に関して柔軟で進取的な考えを持っているラッセルも、欲望の無限性、或いは病的な渇望に就いては明確に批判的な裁定を下している。

 不幸の心理的な原因は、明らかに、多種多様である。しかし、どの場合にも、ある共通点がある。不幸な人間の見本とも言うべき人は、幼いときにある正常な満足を奪われたため、この一種類の満足を何よりも大事に思うようになり、ために、自分の人生に一方的な方向を与え、それとともに、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみをまったく不当に強調するようになった人である。しかし、現在では、事態はもっと悪化していて、それがごく普通になっている。人は、完全に意欲をくじかれたと感じるあまり、いっさいの満足を求めようとしないで、気晴らしと忘却のみを求めることがある。それから、彼は、「快楽」に血道をあげるようになる。言い換えれば、活動的に生きることをやめることで、生活をなんとか耐えられるものにしようとするわけだ。(『ラッセル幸福論』岩波文庫 pp.22-23)

 無限に亢進する欲望、充足されるほどに一層劇しい飢渇に囚われてしまう麻薬的な欲望、それは当人の本来的な欲望の不能性を隠匿し、閑却する為に出現する贋物の欲望である。本来的な欲望を抑圧して、それによって生じる不満を解消する為に、贋物の欲望を満たすことで、いわば代理的な充足を図ろうとする心理的機制、これが「不幸」の最も重大な元凶なのである。だが、こうした代理的な欲望の充足は、本来的な欲望の充足には帰結しないので、不満の抜本的な解消を齎すには至らない。従って、代理的な欲望の充足による効果は常に一時的な「忘却」に留まり、それが失効する度に再び不満が現われ、欲望は無限の反復的要求として我々の精神を呪縛することとなる。

 代理的な欲望の本義は「忘却を得ること」であり、それは一般的には「陶酔を欲すること」と同義である。種々の放縦な享楽は正に、こうした「陶酔」への絶えざる憧憬と執着なのである。そして「陶酔」の本義とは現実に関する精確な理解を破壊することであり、もっと通俗的な表現を用いるならば「現実逃避」である。代理的な欲望、贋物の欲望の特徴は、それが没我的な陶酔を志向している点に存しており、堪え難い現実の齎す不満を癒やす為に、明晰な理解を麻痺させ、知性の働きを鈍磨させることを最終的な目標に定めている。

 こうした代理的欲望の特徴は、本来的な欲望の挫折から生じる。本来的な欲望は常に現実の精確な理解と共にあり、仮に欲望が挫折した場合であっても、我々が勇気と忍耐を以て現実からの遁走を拒むならば、つまり苛烈な現実を直視する勇気と理性を堅持するならば、贋物の欲望が繁茂する危険は生じない。

 あらゆる不幸は、現実を直視せず、恣意的な幻想に逃げ込むことで培養される。現実の客体的な構造が我々の欲望を阻害することは日常的に起こり得る。セネカラッセルが欲望の充足を無際限に追求することを戒めたのは、不可能な欲望に固執することで、徐々に現実を直視する勇気と忍耐を失い、幻想の世界へ逃げ込んで贋物の欲望に耽溺するようになることを「不幸」の淵源と看做した為ではないだろうか。不可能な欲望に執着することは、それ自体が既に「現実の直視」を欠いた振舞いである。言い換えれば、不可能な欲望への過剰な執着は、それ自体が既に「贋物の欲望」の発露に他ならないのである。現実の忘却、明晰な理解の抛棄、見当識の消滅を伴う強烈な快楽、即ち「陶酔」への欲望は総て、人間の本来的な欲望からの乖離に基づいている。極限まで高められた「陶酔」への欲望は最終的に「涅槃」を希求するだろう。言うまでもなく「死」は最も強烈で根本的な「陶酔」の形態であるからだ。

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)