サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

対話篇「関係化の技法」

甲:今回は、先達て君と議論したときに我々の間で合意に至った問題に就いて、もう少し敷衍して考えることは出来ないかと思っているんだ。

乙:具体的には、どういう話だい? あの「知識」と「実践」とを巡る煩瑣な議論の続きをやりたいという意味かね? 君も相変わらず物好きというか、凝り性な男だな。

甲:要するにそういうことだ。まあ、私の性格に就いてはどうか寛容な態度を以て接してもらいたいね。三つ子の魂は今更どうにも書き換えようがない。私が考えているのは「技術」という言葉を使って我々が論じていた内容をもっと深めて、洗練させたいということなんだよ。

乙:あの議論では物足りないのかね? 知識と実践とを結び付け、知識を外界の現実の裡に展開する為には「技術」が必要だということに関して、我々は一定の合意に達した。それだけでは、君は不満足だと言うのかい?

甲:「技術」という言葉の意味をもっと厳密に解釈してみなければ、それ自体が、実践的な知識として我々の生活の役に立たないじゃないかと思った次第さ。そうだろう? 「技術」という言葉を純然たる呪いの文句のように幾ら振り翳してみても、それだけでは少しも実践的ではないと思わないか?

乙:君は非常に面倒な男だ。そんなに理窟っぽいようでは、女性に嫌われるだろうね。

甲:それは聊か差別的な言辞じゃないかね? 女性に対しても、私に対しても。

乙:まあ、その点に就いてまで長ったらしい議論を繰り広げる意欲は生憎、皆無だ。さっさと本題に移ろうじゃないか。どうせ長引くことになるんだろうから。

甲:御要望通り、そうさせてもらおう。果たして「技術」とは具体的にどんなものか、ということを君と話し合いたい訳だ。君はどのように考えるかね?

乙:僕の意見かい? 君と話し合って合意した内容に、特段の不満はないがね。要するに「知識」を具体化する為の力が「技術」であると我々は結論したじゃないか。

甲:その点に就いては、確かに合意は成立した。だが、それだけで物事の仕組みが総て解明された訳じゃない。技術と知識は同じものではないが、技術が固有の知識を伴わないとは言えないだろう? つまり、私は「技術に固有の知識とは何か」という問題を発案したのさ。

乙:「技術に固有の知識」とは、一体どういう意味の言葉かね? それは所謂「知識」とは異なる何かだと、君は推量しているのかい。

甲:要するに、そういうことだ。少なくとも、我々は「知識」と「技術」との間に或る境界線を設定した。内在的な知識を外在的な現実へ変換する為の知性的な働きを、我々は「技術」と呼ぶことに合意した。その上で、私は敢て問いたい訳だ。「技術」の裡にも何らかの知識は潜在しているだろう。恐らく、それは我々の「行動」に関する具体的な指示のようなものではないだろうか?

乙:なるほど。何となく要領が掴めてきたよ。要するに君は「実践的知識」というものの具体的な定義を欲しているんだろう。

甲:そういうことだね。だが、それほど明瞭な見通しを事前に確保しているという訳じゃない。若しもそうならば、君と殊更に議論の時間を持つ意味が生じないからね。言い換えれば、知識には抽象と具象の二つの範疇があるという、当たり前の図式にもう一度着目すべきじゃないかと考えているんだよ。

乙:行動に関する具体的な指示のようなものが「技術」に固有の知識であると仮定するならば、実践的知識は具象の分野に属するという訳だね。

甲:そういうことだ。同時に我々は「内在的知識」という言葉に関しても、若干の表現上の変更を試みるべきだろう。それは要するに抽象化された、離散的で綜合的な知識だという風に捉えるべきじゃないだろうか。

乙:おいおい、そんな難解な言い方をされても、議論が混乱するだけじゃないか。もう少し明晰な表現に変えてくれよ。

甲:要するに知識というものは、それ自体では抽象的であったり具象的であったりするだろう? 内在化された知識とは、いわば抽象化された知識のことで、それを外界の現実の裡に展開するということは、言い換えれば抽象的な知識を具象化するということだ。これで伝わるかな?

乙:何となく分かるね。カメラのレンズに譬えるようなものかな。航空写真と顕微鏡の画像のように、いわば認識の次元を調整する作業が「実践」であり「技術」であると。

甲:そういうことさ。君は呑み込みのいい生徒だ。勲章を授与しよう。

乙:君の生徒になった覚えはないね。勲章にも興味はない。さっさと続きに取り掛かろうじゃないか。

甲:性急な男だな。まあ、いいだろう。抽象的なものと具象的なもの、或いは知識と行動との関係を考察するに当たって、差し当たり私に思い浮かぶのは、地図を読みながら知らない街を歩いて目的地へ向かうような場合だ。地図というのは、明らかに抽象的な情報だね? 一つ一つ形も見た目も様々であるような道路が、一本の着色された線描に置き換えられているのだから。

乙:まあ、抽象化するとは、そういう風に情報を圧縮するというか、削減することと同じだろうからね。

甲:そうだね。地図を読めるという能力は、紙の上やスマートフォンの画面に書かれた線描と、目の前に存在している道路とが同じものであるという認識を持ち得る能力のことだ。抽象的なものと具体的なものとを同定している訳だね。実践的な知識というのは、こういう同定や置換を指しているのではないだろうか。抽象と具象との間を往復するという能力こそ、所謂「技術」の本質であろうと私は思うんだよ。

乙:異論はないね。続けてもらおう。

甲:ありがとう。以前の議論で、私が死蔵された知識に価値はないと断定したのを覚えているかい?

乙:無論、記憶しているとも。

甲:あの議論に関しても、表現を革めるべきじゃないかと思うんだ。抽象的な知識であろうと具象的な知識であろうと、それらの知識を相互に連結したり切り離したりする能力が、知性の主な役割だね?

乙:結論として、何が言いたいんだい?

甲:例えば抽象的な知識、つまり地図に記された道路の記号と、具象的な知識、即ち現実の道路に関する視覚的な情報とを結び付けることは、知性の重要な働きの成果だ。言い換えれば、異なる表現を与えられた情報や認識の間に、同一性という関係を発見する力が、知性の働きだ。違うかい?

乙:その通りだと思うよ。ただ、それと死蔵された知識の話とは、どう関連するんだい?

甲:死蔵された知識とは、他の知識との間に如何なる関係も持ち得ないような、断片的な状態に置かれた知識のことを指すのではないかと思うんだよ。それは知識そのものの具体的な内容とは無関係に附加される属性だ。誰がその属性を賦与するのか? 無論、その知識の所有者である個々の人間が附与するんだろうと、私は考えているんだ。

乙:断片的な知識を無闇にコレクションしても無意味だと言いたいのかね。

甲:そうだね。例えば、幾ら地図記号に詳しくても、それを現実の地理学的な対象と結び付ける能力がなければ、地図記号に関する詳細な知識は価値を持たないね? それが「死蔵される」という修飾の意図さ。悪しき評論家は、例えば様々な文学作品における表現や、文学史における様々な流派の特徴を悉く諳んじているかも知れない。けれども、そうした知識が、執筆の現場において求められる知識との間に関連を持たないのならば、彼の知性は「実践的」という評価を享けられないのではないだろうか?

乙:なるほどね。そういう議論の図式においては、恐らく「抽象」と「具象」との間の関連を把握する知識というのが、重要な役目を担うだろうね。それが「実践的知識」であり、或いは「技術に固有の知識」ということになるのかな。

甲:少なくとも我々の定義する意味での「技術」という単語は、正に「抽象」と「具象」とを関係化する能力のことを指していると言い切って差し支えないだろうね。性質や次元の異なる認識同士の間を自在に往復する力、と言い換えても構わない。例えば「理論」と「行動」という二元論的な図式は、正に「抽象」と「具象」との関係性の転写された姿だね。そのように考えていけば、例えば我々は「悪しき行動家」に関する想定も行なうことが出来る訳だ。

乙:一切の抽象的な思考から切り離された、極端な行動家という訳かい?

甲:そうだ。そういう人物は、例えば自分の仕事の手順や方法を何も、言葉で他人に説明することが出来ないだろう。言葉とは正に抽象的な記号の体系だからね。寡黙な職人を侮蔑する意図はないが、例えば彼らは言葉に頼らず、感覚で物事を捉えたり解釈したりすることに長けているだろう。それ自体は素晴らしい能力だ。だが、自分のやっていることを抽象的な情報に置き換えられないというのは、問題だと思わないか? 極論を言えば、彼は一代限りで断絶する職人だ。弟子を育てることも、世間に自分の技術を広めることも出来ずに、ひっそりと絶滅していくのだ。言い換えれば、彼は具体的な行動の内部に幽閉されているんだよ。

乙:口先ばかり達者で何も出来ない人間も困るが、行動する以外に何も出来ない人間というのも同じように危険だね。それこそ極論を言えば、彼は眼に見える範囲でしか、自分の行動の及ぼす影響や生み出す結果を把握し得ないということだろうから。

甲:正にその通りだね。我々の知性が実践的である為には、つまり有効に機能する為には、様々な情報や認識を自在に結び付ける発想や柔軟性、創造性が求められる訳だ。行動一点張りも、理論一点張りも同じように宜しくない。眼前に存在する些細な風景から、如何に多くの情報を喚起出来るか、これが知性の水準の高さを規定する重要な試金石だと私は思うんだ。石を見たら石としか思わない人間より、例えば石の色や形状から、石の性質に関する知識を想起し得る人間の方が、より賢明で実践的だと思わないか? それこそ、知性の尊厳であり矜持であると言えるんじゃないだろうか。

乙:概ね賛成だ。刺激的な考察だと思うよ。そして、君の議論を更に敷衍するならば、我々はどうやって異なる知識を、どのような仕方で関係化するのか、ということを具体的に研究してみるべきじゃないかね? 例えば抽象化という知性の働きは、醸造酒から蒸留酒を作り出すように、何らかの規則に従って「要約する」ということだね? この「要約」を可能にする働きとは、一体どのようなものなのか、君には説明出来るかい?

甲:はっきりと明確な答えを持っていると、自信を持って断言することは、正直に言えば難しいが、取り組んでみたいとは思うよ。何と言えばいいのか、要約するということは、或る共通項によって、個々の事物や要素を纏めてしまうということだろう。バラバラに散らばっている様々な種類の書物を、その形状や内容に就いては不問に附した上で、一つの「本」という名前の下に集約してしまうようなことだ。言い換えれば、それは一定の条件の下に、個物の間の色々な相違点を黙殺するということだね。

乙:君の言いたいことは分かる。つまり抽象化という作業は、そうやって情報の分量を削減し、圧縮する知的な作業のことだね? それは一体、如何なる目的の為に行われるのだろう?

甲:端的に言えば、それは物事の見通しを良くする為ではないだろうか。視野を広げると言ってもいい。地図の解像度を都合に応じて調整するようなものだ。遠方の土地との位置関係を確認したいときには、我々は地図の解像度を粗くして、大まかな情報だけが自分の視野に映じるように操作するだろう。逆に詳しい道順を知りたい場合には、我々は解像度を高めて、例えば道路の僅かな湾曲や細い路地の位置などにも眼を配るようにするだろう。抽象化は、広い範囲の物事を、限られた意識の領野に映し出す為の重要な知的調整なんだと結論して差し支えないと思うよ。

乙:なるほどね。そうだとしたら、抽象化という作業の根底には必ず「同一化」という認識の働きが関わっていることになるね? 物事の共通項を発見して、それを基準に一つの「集団」を作り上げることが抽象化の重要な第一歩だとするならば、我々は先ず、共通項を見出す為に「同一である」という判断、或いは認識の形態を生み出さなければならないね。同時にそれは、根底において「比較」という作業を必ず含んでいる筈だ。そもそも「比較」という作業が存在しなければ、我々は一切「同じ」とか「異なっている」とか、そういった判断を下すことが出来ないだろうから。

甲:君の言う通りだと思うよ。恐らく「比較」ということは、二つの情報を同時に並べて把握するような認識の「場所」の存在を前提としている。それならば、君の言う「比較」という作業の根底には更に「分割」とか「境界線の設定」とでも呼ぶべき作業が潜在しているのではないだろうか? 境界線を引くということは、我々の認識や思考の最も根源的な基層の次元に存在しているんじゃないだろうか。認識の「分裂」と呼び換えてもいい。そういう根源的な分割が、あらゆる場面における知識の「関係化」の奥底で日夜、殆ど自動的に実行されているんじゃないだろうか。

乙:なかなか興味深い提案だね。それをもっと突き詰めてみることは出来るかい?

甲:そうしたい気持ちは大いにあるが、今日はもう草臥れてしまったよ。喉も随分と渇いてしまった。冷たいコーヒーでも飲みに行こうじゃないか。

対話篇「知識と実践」

甲:君は先日、私が書いた文章に就いて何か反論があるらしいね。私はその文章の中で、知性の役割を「知識」と「実践」とを結び付けるものだと説いた。そして「実践」が如何に重要であるかということを強調しようと努めた。それが君の癇に障ったのかね?

乙:まあ、そういうところだね。「実践」を強調するのは大いに結構だ。実際、四の五の理窟を並べ立てるより、何でも行動に移してみた方が、話が早いに決まっている。その点に就いては、君に同意しよう。けれども、そういう考え方は、所謂「実学志向」に関する凡庸な議論の焼き直しに過ぎないんじゃないか? 君がそれを明白に意図していたかどうかは兎も角、学術的な研究を実社会の役に立つか立たないかの一点だけで判断する性急な傾向というものは、現代社会の宿痾だろう。それに便乗するだけの議論ならば、浅薄だし退屈だと僕は思ったのさ。

甲:なるほどね。だが、死蔵された知識の価値を議論しても虚しいということに就いては、君は同意しないのかい? 私としても別に、所謂「基礎研究」というものの価値を殊更に貶めようとは思っていない。私が言いたいのは、知識と実践との分断が齎す弊害に関する話だ。知識が、実践を延期する為の弁明として用いられるような風潮に、異議を唱えたいと思ったんだよ。

乙:知識が実践を延期する為の弁明として用いられるというのは、どういう意味だね? 知識を殖やすことは、行動の効果を高めることに繋がるだろう。それは決して行動を阻害するものではない筈だ。

甲:知識が正しく用いられるのならば、確かに君の言う通りだ。問題は、単に知識を殖やすこと自体が目的化しているような場合だ。行動してみれば直ぐに分かるようなことを、行動を経由せずに彼是と議論するような人間は少なくない。既存の知識を組み立てて、予言者のように振舞って、行動の無益を諄々と説くような連中だ。彼らにとって、行動は無意味な蛇足のようなもので、行動の齎す現実的な利益は、軽蔑に値すると考えているのだ。

乙:それは大袈裟な批判ではないかね? そういう連中にしても、別に軽蔑とまでは言わないだろう。そもそも、知識と行動との分断を殊更に言い立てるのは、君の戦略的な曲解に過ぎないんじゃないのかね?

甲:とんでもないことだ。私は知識と行動との分断を解決すべき問題として積極的に捉えているんだ。両者の分断を固定化した上で、その優劣を論じようとは考えていないよ。そもそも行動は、それ自体が新しい知識の獲得であり発見だ。行動と知識は常に相互に緊密な関係を持っている。両者を切り離すことは、本当は不可能な話だ。それを切り離し得るような誤解が、世の中に蔓延していることを問題視しているのさ。

乙:それは例えば、創作家と評論家との分断のような事柄を言っているのかね? 自らは実践せず、具体的な行動に移さず、賢しらに理窟ばかりを振り翳すような人間への嫌悪を語っているのかい?

甲:別に評論家を槍玉に挙げたい訳じゃない。そもそも、そういう対立というものは、相補的な関係に置かれているとは思わないか? 少なくとも理念としての「創作家」は実践の塊で、同様に「評論家」は理窟の塊だと。両者は互いに自分に欠けているものを相手の裡に見出している。この対立は、不自然な図式化の産物に過ぎないだろう。何故なら、世の中には純然たる「創作家」も「評論家」も存在しないのだから。

乙:そういう理念化の作業を批判するのは結構だ。だが、何れにせよ、混淆の度合に個体差が存在することは明確な事実ではないかね? 創作家としての要素が強い人間もいれば、評論家の要素が強い人間もいる。その差は確かに相対的なものだが、理念的に強調されずとも、両者の差異に重要な意味を見出すのは正当な判断じゃないか?

甲:それならば、このように考えてみたらどうだろう? 「悪しき評論家」の特徴は、何だと思う? 理想ばかり並べ立てるが、それを実践する能力を持たず、しかも自己の無力を何とも思わずにいるような厚顔な人間を、君は「悪しき評論家」だと看做さないかね?

乙:まあ、それに就いては同意しよう。理窟を述べるばかりで、その理窟を実践に活かすことが出来ないのならば、その人間は確かに無力だ。しかも、己の無力に居直るというのは、人間として上等じゃないね。

甲:それならば、逆に「善い評論家」とは、如何なる性質の人間を指す言葉だろうか? 彼らは理窟を巧みに用いるが、それを単なる理窟に終わらせず、具体的な現実との聯関を絶えず重視するのではないだろうか? つまり、実践的な知識を重んじるのではないか? 現実から遊離した知識をパズルのように玩弄するのではなく、それを如何に現実と結び付けるのかを熱心に考え、場合によっては人々に向かって助言したり提案したりするのではないだろうか?

乙:まあ、それに関しても概ね異論はないね。だが、直ちに実践に結び付き得ない知識や認識が存在することも事実だろう?

甲:直ちに結び付くかどうかは重要な問題じゃないよ。大切なのは、それを取り扱う人間の方針の性質さ。現実と結び付かない知識を、努力して現実と結び付けようとせず、そのままに蒐集して羅列して悦に入っているような人間は、如何に博識で優秀な頭脳の持ち主であっても、人間としてのレヴェルは低いと思わないか? いわばデータベースのように、蒐集した知識の多寡を競い合うような精神性は、幼稚なものだ。蒐集された知識を用いて、それを何に活かすのかを考えるのが建設的な姿勢だと思わないかね?

乙:君の言いたいことは分かる。正論であると認めよう。だが、役に立たない知識であっても、それを知ること自体に精神的な快楽が附随することは、君も認めるだろう? つまり、蒐集家の歓びだ。ワインでも切手でも古銭でもいい。昆虫採集でも稀覯本の蒐集でもいい。何かを蒐集することのマニアックな快楽、その価値を君は声高に糾弾するのかね? それは余計な御節介だと思わないか?

甲:知識の蒐集そのものに付き纏う快楽を、認めるかどうかという話かね? それは無論、勝手にどうぞという話だ。個人の趣味が犯罪的なものでない限り、それを他人が批判する筋合いもないだろう。だが、少なくとも知識の蒐集という快楽が閉鎖的なものであることは事実だろうと思うね。その知識が他人の役に立つものであれば、その知識は社会的な関係を切り拓くものとなるだろう。けれども、何の役にも立たないのであれば、それは個人的な愉しみの糧に過ぎないということになる。

乙:君の論調だと、そういう社会的に開かれていない知識の蒐集に耽溺することを批判したい訳だね? だが、それは君自身が先ほど言った通り、個人的な趣味の問題ではないかね? 自分のあらゆる個人的な愉しみが、他人の役に立たないことを理由に批難されるというのは、随分と息苦しい話じゃないか。

甲:それは確かに、君の言う通りだな。他人の役に立つ、つまり何らかの社会的価値を自分自身に賦与するのは大切な心掛けだ。だが、それだけで生活の総てを覆い尽くすというのは、いわば皇族のように、極端に社会化された身分に自己を据えるということで、誰にでも耐えられる話ではないだろうね。

乙:もう少し話を進めてみると、要するに君は「知識の公共性」に関して論じたいと考えているんじゃないかね? 実践ということが問題になるのも、結局は、個人の持っている知識が死蔵されることへの懸念が関与しているように聞こえる。そもそも、知識というのは公共的なものだ。社会的な関係を通じて、個人によって分有されるものだ。それを独占的な仕方で蒐集し、愛玩することに対して、君は道徳的な嫌悪を覚えているんじゃないか? 君はマニアックな愛好家を嫌ってるんじゃないかい。

甲:まあ、そういう主観的な傾向が存在することは認めよう。ただ、知識の蒐集そのものを批難しようとは思わない。それを否定したら、あらゆる学習は成立しなくなるだろうし、知識の不在が我々の生活を肯定的な方向へ導いてくれるとは思えないからね。恐らく、私が言いたいのは、こういうことだ。知識の蒐集そのものを論難しようとは思わない。ただ、知識を実践に繋げる為の知性の働きは、知識そのものから生まれるのではなく、行動によって鍛えられるのだということだ。

乙:知識そのものと、知識を行動や実践に結び付ける技術とは、相互に異質なものだと言いたいのかね? つまり「知識」と「知性」とを弁別する通俗的な議論を信奉している訳だ。

甲:それが通俗的かどうかは知らないが、その微妙な差異を認識することは重要な心掛けだと私は思っているよ。例えば学習された「知識」と、学習という行為そのものは同一ではないと君は思わないか?

乙:まあ、区別をするのは自由だと思うよ。だが、両者の差異を明言出来るかと問われれば、聊か答えに窮するのが実情だね。それは随分と抽象的な議論のように聞こえるからね。

甲:よく引かれる譬えだが「畳の上の水練」という諺があるね? 或いは「机上の空論」という言葉を、君も知っているだろう? 言葉で伝えられた知識を、実際の技術として運用するのは簡単なことじゃない。知識の把握そのものは、知識の実践の成功を保証しないんだ。口頭で説明されただけで、経験のない人間が車を自在に運転出来ると思うかい? 仮にそういう人間がいたとしたら、その人間の知性は驚嘆すべき発達を遂げているということになるだろう。

乙:知識を技術に変換し得ることが、所謂「知性」の主要な機能であると君は言いたいのかね? だからこそ「知性」を欠いた人間が、知識の蒐集に明け暮れている姿を見て、不満を禁じ得ないんだろう?

甲:まあ、そういうことになるかも知れないね。知性の働きは、いわば「知識」と「現実」との間に通路を掘削する力のことだ。頭の中身を、外側の現実に結び付ける為には、そういう隧道の掘削技術が欠かせない筈だと私は思う。「知識」を「現実」の裡に展開する力と呼んでも構わない。それこそが本当の意味で「知性的である」ということになるんじゃないだろうか。知識そのものは、いわば脳味噌の中に蓄えられた電気的な信号の束のようなものだ。その状態では、知識は社会的で現実的な価値を発揮することが出来ない。それは誰の眼にも映らないし、現実的な効果を示すこともないからね。

乙:知識を「外在化する」ことが肝要だと言いたいのかね? 内在的な知識は眼に見えず、形状も持たず、従って実際的な影響力を欠いているのだと。だから、それを眼に見えるものへ転換することで、一種の社会的な効果を担わせるべきだというのが、君の意見かね?

甲:そうだね。知識は内在的な状態においては、一つの潜在的な可能性のようなもので、現実的には不在であると言うべきだろう。それが外在化されるとき、その知識は他人に伝達されたり、或いは実際の行動に役立てられたりする訳だ。その意味では、議論は君が先刻示してくれた要約の時点に回帰することになるね。つまり、私が「知識の公共性」に関心を持っているのではないかという、君の適切な要約の許へ舞い戻る訳だ。

乙:例えば切手の熱心な蒐集家が、同好の士と互いの大事なコレクションを見せ合って、如何にも愉しげに、専門的な談義に興じている光景を想像してみよう。そのとき、蒐集家の有する知識は専ら、相互の内密な快楽の為に捧げられている。これに君は「公共性」の成立を認めるかね? それとも否定するのかね?

甲:それは程度の問題だと答えておこう。片方の蒐集家の該博な知識が、もう一方の蒐集家の知的な興奮を喚起するのであれば、確かに彼は狭義の社会的価値を提供していると言えるだろう。その意味では、極めて狭小な範囲に限られた話であるにせよ、彼の知識は他者の幸福に寄与している訳だ。それは確かに社会的価値の発揮であり、知識の公共化に他ならないと、私は思うね。

乙:なるほどね。仮にその蒐集家が、切手に関する該博な知識を信頼されて、例えば国家の然るべき部局から、新たな切手の発行に関する意見を求められたり、斬新な意匠の考案に参加してくれるよう頼まれたりすれば、彼の知識は益々社会的に有用であると認められることになるのかな?

甲:そうなるだろうね。そこまで磨き抜かれた知識ならば、つまり、それだけ外界の現実に影響を及ぼし得るほどの知識ならば、それは充分に公共化され、外在化されていると言えるだろう。つまり、実践的知性の働きが発達しているということになるだろうね。

乙:或いは、このような角度から、同じ問題を改めて照らしてみることも可能ではないだろうか? 引き続き蒐集家の事例を用いて考えてみよう。彼の知識は、既に確立された知識の蒐集に留まるものではなく、それを基礎として新たな知識の創発に貢献したのだと。その意味で、彼の実践的知性は創造的なものであり、単なる知識の死蔵とは異質なものなのだと。どうかね、僕の提案は気に入らないかね?

甲:いや、面白くて刺激的な意見だと思うよ。つまり君は、知識を「過去」及び「未来」という時間的な尺度に基づいて捉えてみた訳だね? 古びた知識は、いわば過去の実践の成果であって、それを覚え込むだけでは、過去の実践の軌跡を想像的に追跡することでしかない。しかし、新たな実践を生み出すのならば、それは同時に新たな知識の創出を意味する訳で、それは明らかに知識の外在化、しかも最も優れた外在化の事例ということになるだろうね。ただ、それは聊か理想的な議論であって、それを外在化の理想として掲げることは結構だが、外在化の普遍的な定義として用いるのは、少し無理があるように思えるね。

乙:君はもう少し初歩的な事例も視野に収めているということかな? 例えば、該博な教師に手取り足取り基本的な泳ぎ方を教えてもらいながら、実際に練習に明け暮れている子供のような事例を考慮して、実践に関する議論を展開しているのかね。それは新しい泳ぎ方の創造ではないが、確かに一つの立派な実践であると君は言いたい訳だ。

甲:概ね、その通りの意図だよ。内在的な知識を、現実の中に展開するということ、その為の「知識」或いは「技術」の涵養が、本当は最も大事なことなんだと私は言いたいんだ。技術そのものの仕上がりや威力に関して、個体差が存在するのは止むを得ない話だろう。達人と素人との格差を難詰するのは、最も不毛な議論だからね。

乙:君は「知識」を外在化する能力を指して「技術」という言葉を使おうと考えているのかね? いわば「実践的知識」とは「技術」であるという用語法を選ぼうとしている訳だ。

甲:その結論に反駁の余地はない。少なくとも私は、君の要約に賛成する積りだよ。「知識」と「現実」とを結び付けるものは「技術」であり、そして「技術」は「実践」によって鍛えられるのだと定式化してみよう。逆に言えば「技術」とは「知識」を「現実化」する能力のことなのだと。そして「技術」の向上は単なる「知識」の増殖によっては獲得されない訳だ。「知識」は飽く迄も「技術」の対象であって「技術」そのものと同義語ではないからね。「技術」は「知識」と「現実」との接点を探し出し、両者の間に通路を開く営為のことだ。そして我々の存在における「内在的領域」と「外在的領域」の接点、或いは境界が、この「肉体」であることを考えれば、「技術」とは或る肉体的な能力であるということになるだろうね。

プラトン「国家」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて覚書を認めておきたいと思います。

 「正義」とは何かを問うことは、プラトンの思想的履歴において常に重要な地位を担い続けてきた主題であると言えます。同時に彼の哲学的探究における野心は、この「正義」という観念に至高の善性を賦与することに向けて捧げられています。「正義」であると看做される徳目を絶えず実践し続けることは、個人の実存に対して不幸な重荷を科す営為に他ならないという見方に対して、彼は熱心な対抗的措置を講じます。

 「正義」という観念が重要な課題として議論の対象になるのは、我々の人生が本質的に孤立し得ない性質を有している為であろうと考えられます。つまり、我々が「正義」に就いて熱心な議論を展開せねばならないと感じるときには、必ず「私」の人生に「他者」の人生が関与しているのです。「私」と「私」以外の人間との間に何らかの聯関や共同性が介在するときに限って、我々は「正義」を切迫した重要な課題として認知します。若しもこの世界に「私」以外の人間が存在しないのならば、何が正しくて何が不正であるかを論じることは、専ら技術的な問題に還元されるでしょう。腹痛を起こした場合に、如何なる薬を摂取すべきか、という問題における「正しさ」は、他者との社会的関係において如何なる行動を選択すべきかという問題における「正しさ」とは異質であるように見えます。薬効が如何なる結果を齎そうとも、それ自体は純然たる個人的問題であって、他者との間に何らかの利害関係を形成することはありません。しかし、例えば医者が患者に薬を処方して、その結果として患者の病状が重篤化するような事態に陥った場合、薬効に関する純粋な医学的問題とは別に、医者と患者との間には、或る倫理的な問題が生じます。

 このように考え始めると、我々が日常的に用いている「正義」という言葉の多義的な重層性によって、我々自身の思考が或る不本意な混濁に追い込まれているという現実が見えてきます。我々は「正義」の具体的な内容を論じる以前の段階で先ず、この「正義」という言葉の意味そのものを定義する作業に着手しなければならないのです。

 「正義」とは「或る目的に適っている」という含意を備えた言葉です。従って「正義」には何らかの「目的」が先行していなければなりません。「病を治癒させること」が目的である場合に、効き目のない薬を処方することは「正義」に即さぬ行為です。処方した薬が却って病状を悪化させるのならば、その処方は明らかに罪悪です。

 例えば、或る人物を憎しみの為に殺害することが目的であった場合、毒薬を処方して標的の生命を絶つことは「正義」であると言えるでしょうか? 技術的な意味では、つまり倫理的な価値判断を捨象して考えるならば、毒薬の処方は適正な選択であると言えます。しかし、我々は一般に毒殺を「成功」と呼ぶことには同意しても、それを「正義」であると呼ぶことには若干の心理的抵抗を覚えるのではないでしょうか?

 しかし、例えば虐政を布く悪質な僭主が毒殺されたのならば、それは民衆によって「正義」と呼ばれるでしょう。逆に僭主の側から眺めるならば、毒殺は明らかに「不正な行為」に該当します。そうであるならば、この「毒殺」という行為そのものの裡に「正義」或いは「不正」が本質的に装填されているとは言えないことになります。

 或る行為が「正義」であるか否かは、それを判断する人々の利害に応じて異なります。しかし、そのように考えるならば「正義」という言葉は「利益」という言葉と識別される理由を持たなくなります。また、人間が時には自分にとって明白に損失であるような行為であっても、或る正義の為にそれを意図的に選択することがあるという事実を説明することも出来ません。

 若しも他者が存在せず、個人が孤立した存在として活動しているのならば、恐らく「利害」という概念だけで一切を説明することは可能でしょう。換言すれば「個人的正義」というものは論理的に矛盾しているのです。自己の利害だけを考慮するとき、そこに「正義」という概念を導入する必要はありません。虐げられた民衆が、悪逆な僭主の毒殺を歓ぶとき、その歓びの裡に存在するのは「正義」ではなく「利益」だけです。しかし、その熱烈な歓喜と同時に、若しも民衆が殺された僭主の苦痛に一抹の配慮を示すのならば、その瞬間に「正義」の概念が萌芽したと言えるのではないでしょうか。

 自他の利害を包括的に捉えること、これが「正義」という概念の形成される根源的な培地であると私は考えます。従って「正義」とは、常に社会的関係の裡に見出され、検討されるべき主題であると説明することが出来ます。個人的利害ではなく、包括的な利害を考慮することが「正義」に関する総ての議論の出発点です。そして、包括的利益を考慮し、その最大化を図る為の手段として一般に用いられているのが「法律」です。

 「国家」の序盤において、ソクラテスに対して最も強硬な反駁を示す人物であるトラシュマコスは、法律という制度の性質に就いて語ることで、正義とは何たるかという問題に明瞭な答えを与えようと試みます。

 「しかるにその支配階級というものは、それぞれ自分の利益に合わせて法律を制定する。たとえば、民主制の場合ならば民衆中心の法律を制定し、僭主独裁制の場合ならば独裁僭主中心の法律を制定し、その他の政治形態の場合もこれと同様である。そしてそういうふうに法律を制定したうえで、この、自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって〈正しいこと〉なのだと宣言し、これを踏みはずした者を法律違反者、不正な犯罪人として懲罰する。

 さあ、これでおわかりかね? 私の言うのはこのように、〈正しいこと〉とはすべての国において同一の事柄を意味している、すなわちそれは、現存する支配階級の利益になることにほかならない、ということなのだ。しかるに支配階級とは、権力のある強い者のことだ。したがって、正しく推論するならば、強い者の利益になることこそが、いずこにおいても同じように〈正しいこと〉なのだ、という結論になる」(『国家』岩波文庫 pp.56-57)

 トラシュマコスの議論は極めて明け透けな言い方で、法律の性質を告示しています。彼の意見によれば法律は、権力を掌握した強者の利益に適うように制定されており、従って正義とは強者の利益に資する行為を指すものであるということになります。これは明らかに包括的利益という観点に欠ける考え方であると言えます。自己の利益の確保に専心する人間が、何らかの理由で自らの手に授かった強大な権力を濫用し、法律という制度を通じて他者を支配し、相対的弱者である彼らを使役して、相対的強者の利益を最大化するという考え方は、恐らくトラシュマコスが当時の社会において見聞していた一般的事実の要約なのでしょう。従って、弱者にとって「正義」とは「損害」に他ならないと彼は結論するのです。

 まったく、〈正しいこと〉と〈正義〉、〈不正なこと〉と〈不正〉についてのあんたの考えたるや、次のような事実さえ知らないほど、救いがたいものだ。すなわち、〈正義〉だとか〈正しいこと〉だとかいうのは、自分よりも強い者・支配する者の利益であるから、それはほんとうは、他人にとって善いことなのであり、服従し奉仕する者にとっては自分自身の損害にほかならないのだ。〈不正〉はちょうどその反対であって、まことのお人好しである『正しい人々』を支配する力をもつ。そして支配されるほうの者たちは、自分よりも強い者の利益になることを行ない、そして奉仕することによって強い者を幸せにするのであるが、自分自身を幸せにすることは全然ないのである。(『国家』岩波文庫 pp.72-73)

 こうした観点に基づけば、正義を志向することは自ら積極的に従順な奴隷となることと同義であり、正義を重んじる態度は自己の損害を能動的に求める奇態な倒錯であると看做されることになります。

 けれども、このような意味での「正義」は、単なる強者の利益に被せられた美名に過ぎず、そもそも「正義」の名に値するものではありません。私は別に強者の道徳的頽廃を難詰している訳ではありません。重要なのは、こうした「正義」に関する議論が、包括的利益という観点を欠いている点であり、従って「正義」の実質が、或る個人的利害と何ら異なるものではないという点にあります。強者は自己の利益を最大化する為に他者を利用しているだけであり、それを「正義」であると人々に錯覚させているだけに過ぎません。「正義」という崇高な看板はそのままでも、その中身は狡猾な手口で掏り替えられているのです。

 それに対してソクラテスは、巧妙な論証を通じて「支配」に関する定義の機軸を正反対の方向へ転換します。

 「そしてまた、トラシュマコス」とぼくは言った、「一般にどのような種類の支配的地位にある者でも、いやしくも支配者であるかぎりは、けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ、考察し命令するのだ。そしてその言行のすべてにおいて、彼の目は、自分の仕事の対象である被支配者に向けられ、その対象にとって利益になること、適することのほうに、向けられているのだ」(『国家』岩波文庫 p.71)

 支配することは自己の利益を追求する為に他者を使役することではなく、支配される側の人々の利益を配慮するものであると、ソクラテスは定義します。それが事実であるならば、強者の利益を最大化する為に「正義=法律」が案出されたというトラシュマコスの議論は自ずと破綻することになります。その論理の性質は完全に逆転し、本来「正義=法律」とは弱者の利益を庇護する為に設計された規範であると看做されるようになるのです。

 これに関連する議論は、同じくプラトンの著した対話篇『ゴルギアス』(岩波文庫)の裡に見出すことが可能です。饒舌な論客である政治家のカリクレスは、自然の本性としての「ピュシス」と人為的な規律としての「ノモス」とを対比させつつ、次のように論じます。

 しかしながら、ぼくの思うに、法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである。だから彼らは、自分たちのこと、自分たちの利益のことを考えにおいて、法律を制定しているのであり、またそれにもとづいて賞讃したり、非難したりしているわけだ。つまり彼らは、人間たちの中でもより力の強い人たち、そしてより多く持つ能力のある人たちをおどして、自分たちよりも多く持つことがないようにするために、余計に取ることは醜いことで、不正なことであると言い、また不正を行なうとは、そのこと、つまり他の人よりも多く持とうと努めることだ、と言っているのだ。というのは、思うに、彼らは、自分たちが劣っているものだから、平等に持ちさえすれば、それで満足するだろうからである。(『ゴルギアス岩波文庫 p.135)

 トラシュマコスとは反対に、カリクレスは「法律」の制定された意図を「弱者の利益の保護」にあると看做していますが、同時に彼は「ノモス」の価値を露骨に侮蔑的な態度で取り扱っています。彼は法律が強者の利益を毀損し、所謂「自然の正義」を抑圧していることに不満を懐いています。結局のところ、トラシュマコスにしてもカリクレスにしても、強者による自己の利益の追求を「正義」と看做す点においては共通しているのです。それは到底「包括的利益」に対する配慮であるとは言えません。彼らが「正義」であると信じているものは、単に私的な「欲望」であるに過ぎないのです。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

意志の力

 人間に備わった広義の「ホメオスタシス」(homeostasis)の機能は、驚くべき力を備えていて、如何なる環境にも自身の存在を適応させる強靭な威力を秘めています。

 我々は半ば自動的に、眼前のあらゆる環境に適応してしまいます。適応しなければ、自己の存在を維持することが非常に困難な作業と化してしまうからです。けれども、劣悪な環境に適応してしまうことが、常に我々にとって肯定的な利益を齎すことに繋がると考えるのは聊か性急な判断です。惨めで情けない現実を在りのままに直視する精神的な勇気が重要な価値を担っていることは明白な事実です。しかし、その惨めな現実に屈従し、それを改革する可能性に就いて悲観的な断念を抱え込むのは、人間として本当に適正な振舞いであると言えるでしょうか?

 如何なる状況に置かれても幸福であること、それは大切な心掛けです。古今東西を問わず、多くの賢人たちが、外界の環境に左右されない自己の形成を重要な倫理的課題として挙げてきました。古典と称される様々な書物を繙読すれば、我々は容易にそうした意見や教説に触れることが出来ます。しかし、それは一歩間違えると、簡単に現実への屈従や隷属へ横滑りしてしまう危険を孕んでいます。言い換えれば、我々は極めて安直な仕方で、眼前の現実に対する受動的な姿勢を選択してしまう生き物なのです。現実に向かって変革を促す為に積極的に働きかけるのではなく、現実の可能的な形態に就いて想いを馳せるのでもなく、一切の形而上学的な考想を排して、専ら受動的な立場の裡に安住すること、現実の部分として存在しようと試みること、いわば「運命」に対して従順な姿勢を貫徹すること、これらの実存的形式は、人間的な意志の棄却であると言えます。

 脆弱な動物のように生きること、或いは風に吹かれる一本の夏草のように生きること、それは確かに幸福な境涯であるかも知れません。けれども、そうした実存の形式には、人間に固有の尊厳が宿っていません。そこに欠落しているものは、明らかに「意志の力」です。屈服を拒み、世界の変革を促し、その過程を通じて自分自身の組成さえも自在に組み替え、変容させてしまうような力、単に精神のみならず、人間の実存の全体によって生み出され、形成される崇高な力、それが「意志」です。無論、それが宇宙的な規模に対して、極めて脆弱な機能に過ぎないことは分かり切っています。パスカルが人間を「葦」に譬えたように、人間の意志の力が、宇宙の冷厳な法則に対して頗る無力な機能であることは明瞭な事実なのです。けれども、その事実は、我々の現実に対する屈服を正当化するでしょうか? 敗北は挑戦の価値を否定するでしょうか? 意志の構造的で本質的な脆弱性は、意志の価値を無効化するでしょうか?

 現実を超越しようと試みる奇態な野心、眼前の現実を改革しようと試みる精神的な情熱、これらは人間の「アレテー」に他ならないと私は考えます。結果として現実が改革され得るかどうかは、重要な問題ではありません。自分の所属する現実の構造から身を引き剥がそうと企てること、それが「意志」の最も重要な権能です。間違っても、我々は人間の裡に、この世界を自在に制御し得る絶対的な権力が宿っているなどと考えるべきではありません。それは単なる誇大な夢想に過ぎず、そのような発想は人間的意志の問題とは無関係です。重要なのは、現実と理想との間に穿たれた断裂に堪えることであり、その断裂に堪えかねて身も蓋もない現実へのニヒリスティックな隷属を選ぶことへの拒絶を保つことです。意志は理想と結び付いています。理想と呼ばれる概念の有している最大の美質は、それが現実の酷薄な迫力を軽減する点にあります。苛酷な現実に直面しながら、人間は笑うことが出来ます。現実の不合理な暴力性を目の当たりにしながら、我々はそれを侮蔑する力を持っているのです。理想は、この現実の揺るぎない不変性を否認します。現実は改革され得る、これが理想における最も根幹的な命題です。

 換言すれば、我々人間は「形而上学」によって現実を超克する力を備えているのです。形而上学は、感覚的で経験的な現実から乖離した思考の形態であり、それゆえに不毛な妄想に類するものとして批判を浴びることがあります。けれども、意志の力は正に、こうした形而上学的な乖離の構造に依拠して成立しているのです。

 あらゆる形而上学的な臆見を排して、事物を在るがままに受容し、現実の裡に自足すること、こうした現実的幸福論は、眼前の現実に対する妥協の産物です。言い換えれば、現実との間に休戦協定を締結することに等しい振舞いです。しかし、如何なる迫害を受けても、不当な断罪に遭遇しても、従容と受け容れること、それが本当に人間として正しい態度であると言えるでしょうか? 抗弁せず、反駁せず、一切の運命を黙って受け容れ、能動的な働きかけを抑制すること、つまり一本の夏草のように揺れながら生きること、それが人間に固有の美徳であると言えるでしょうか?

 現実を動かしたり改変したりすることは出来ないという信憑は、人間的価値への背反です。断念と諦観、それは人間的価値を毀損する負性の感情であり認識なのです。あらゆる欲望を事前の目論見の通りに叶えることは不可能であるとしても、眼前の現実の裡に小さな変化を齎すことは誰にでも可能です。人間的意志の機能は、現実の自在な制御を実行するのではなく、現実の裡に微細な「偏倚」を持ち込むものです。あらゆる人間的思考は、そうした「偏倚」の源泉であると言えます。現実は変更することが可能である、という信憑を堅持することは、人間にとって何よりも大事な心得です。極論を言えば「現実など糞喰らえ」ということです。永遠に書き換えられることのない不動の事実を「真理」と呼ぶのならば、正に「真理など糞喰らえ」なのです。

「挑戦」に就いて

 最近、仕事や私生活を通じて重要な主題として考えているのは「挑戦」という概念です。

 「挑戦」という言葉は文字通り「戦いを挑む」という意味を含んでおり、その内部には、眼前の現実に甘んじて充足したり適応したりすることへの「抵抗」という語義が潜在しています。

 現代の社会に生きる人々は誰でも「挑戦」することの大事さを訴える言説を、飽きるくらい耳の孔に流し込まれて辟易しているのではないかと思います。特に「幸福」への切迫した欲望に囚われている人にとって、この「挑戦」という概念の備えている粗暴な響きは鬱陶しく、堪え難いもののように感じられるかも知れません。勇ましい精神論の掛け声に向かって、皮肉な唾を吐き掛けてやりたいと思うこともあるかも知れません。そういう気持ちは、私にもよく分かります。

 「幸福」とは何か、という議論に就いては古来、数多の賢人が夥しい意見を書き遺してきました。にも拘らず、それらの磨き抜かれた教説を、粉薬のように服用すれば直ちに個人の不幸が快癒へ向かう、という現象を日常的に見聞する機会は滅多にありません。それは何故なのでしょうか。

 理窟を解するということと、それを自らの実践において体現するということとの間に、巨大な深淵或いは宏遠な径庭が横たわっていることは、誰でも日常的に感受する現実ではないかと思います。頭で習い覚えた理窟や知識が、自動的に体現し得る状態に移行すると考えるのは楽観的な態度です。言い換えれば、理性的な知識と、それを実際に運用する為の実践的な知識との間には、或る構造的な分断が存在しているのです。実践或いは行動における「知性」の働きは、現実に対する理性的な観想の働きとは異質な要素を豊富に含んでいます。

 理性的な観想の働きを以て、知性の本質と看做す狭隘な議論に、私は同意したくありません。最も抽象的な思索の精髄であるかのように看做されている「哲学」の分野も、本来は銘々の具体的な生活と緊密に結び付いた実践的な方法論の支配する世界である筈です。深く精密に思考することは、大脳によって独占的に支配されるべき営為ではないのです。考えることは、行動そのものです。もっと言えば、考えることと行動することとは本来、相互に切り離し得ないものなのです。

 しかしながら、人間は恐懼や怠慢や無気力ゆえに、具体的な行動や実践を延期したり回避したりしようと試みる度し難い性向を有しています。義務を怠り、創意工夫を嫌がり、決まり切った手順に従うだけで仕事も生活も済ませてしまう堕落した実存、そうしたものは我々の社会に夥しく氾濫しています。そういう人間に若しも一定の小賢しい知性が備わっていれば、彼らは口を揃えて自己の怠慢を正当な真理に基づく態度であるかのように弁明するでしょう。「どうせやっても無駄だから、やらない」「やる意味が分からないから、やらない」「疲れるから、やりたくない」など、兎に角「実践」を怠る為に持ち出される理窟の数々は、それが如何に精緻な論証の手順によって裏打ちされていたとしても、要するに退嬰的な弁明以外の何物でもないのです。

 「実践」或いは「行動」は、単なる肉体的な行為を指すものではありません。重要なのは、それらの行為が何らかの変革を齎す可能性を秘めているという点です。世界を変革すること、それは確かに精密な理性的探究を要求します。けれども、理性的探究が具体的な実践に接続しないのならば、それは単なる死蔵された知識に過ぎません。知識そのものは、如何なる価値とも無縁であり、善悪を超越したものです。知識は実践と結合することで初めて自らの価値を確保します。知識と実践とを繋ぐことが本来の「知性」の役目であり、知識と実践とを組み合わせて世界の変革に寄与することが「知性」のアレテーなのです。厖大な知識を持ちながら、それを如何なる実践にも接続しない博識な人物は、優秀な人間ではなく、単に黴の生えた書庫に過ぎません。

 実践は、常に不可視の領域を含んでいます。誰も未来のことを完璧に予言する能力など持ち合わせていません。現実の世界には絶えずエピクロスの論じる「クリナメン」(clinamen)の介入が発生しているのです。従って世界の総てを理性的な必然性の規矩のみに基づいて管制することなど出来ないのです。既に獲得された知識は、その本性において、必ず「過去」の範疇に所属します。けれども実践は、絶えず「未来」の範疇に所属しており、既成の知識によっては包括し得ない「逸脱」の部分を備えているのです。この「逸脱」に向かって跳躍することが「挑戦」という概念の本義です。既成の知識を脱却して、新たな知識を創造することが「実践」の主要な意義です。既に確立された「真理」への到達を図ることが哲学的探究の意図ではなく、新たな「真理」を創造しようと試みることが本来の目的なのです。

 我々は何が真理であるのかを把握することが出来ません。完成された普遍的な真理が仮に存在するとしても、それが永久に改訂されないという保証は存在しないのです。真理は不可知であり、しかも絶えず流動します。知識を殖やそうと試みることは、普遍的な真理へ到達する為ではなく、探究の終焉を目指す為でもありません。「愛智」の精神は、新たな知識を求めるという欲望自体の裡に存在しているのであり、既存の知識に安住して新たな探究を取り止める退嬰的な態度は厳に批判されるべきです。知らないことを知ろうとする衝動の裡に、つまり「挑戦」と「変革」への衝動の裡に、人間的な知性の最も輝かしい側面は存在します。揺るぎない真理など、人間には不要です。ソクラテスが求めたのは未来永劫に亘って書き換えられることのない不変の真理ではなく、知らないことを知ろうとする探究そのものの無際限な持続であったのだと、私は思います。

プラトン「国家」に関する覚書 1

 ゴールデンウィークの繁忙期に追われ、その進捗は遅々としていますが、目下、プラトンの最高傑作の一つと謳われる『国家』(岩波文庫)を繙読しています。例によって、感想の断片を記しておきたいと思います。

 未だ全体の半分も読み終えていない段階で、総括紛いの言葉を列ねるのは無益な振舞いであると思いますが、現時点で感じるのは、この長大な対話篇が、従来のプラトンの思想の集大成であり、多様な思考の混在する作品であるということです。「国家」の最も重要な主題が「正義」であることは確かな事実であると思いますが、この主題を論じるに当たって持ち出される議論の豊饒な多様性は非常に刺激的なものです。恐らく意図的に内容を凝縮すれば、もっと簡潔に整理した形で叙述することは可能なのでしょうが、対話篇という形式の特性にも強いられて、プラトンの議論は実に流動的な蛇行を示します。それはプラトンの議論が熟成されていないことを傍証する現象ではなく、そもそも「哲学」という思想的営為の本質的な特性を露わに示すものです。哲学的探究の本領は、明確で簡潔な正解に向かって最短の経路で到達することではありません。厳密に言えば、プラトンの提示する論証が正しいかどうかという点も、本質的な論点ではないのです。重要なのは、思索が継続されることであり、何らかの解答に滞留して探究を停止するような態度への拒絶を保つことなのです。

 答えを拒絶すること、如何なる正解も存在しないと信じること、この根源的な懐疑の精神が、哲学的な探究の中枢を形作る要素であると言えます。「国家」の厖大な分量は、そのような懐疑の驚嘆すべき執拗な持続の物理的証明であると看做すことも可能なのではないでしょうか。若しも正解に辿り着くことが総てならば、何処かの時点で思索を停滞させ、或る体系や秩序への盲目的な信憑を選択すべきであろうと私は思います。答えを出すという決断は常に、何らかの理念や価値への信仰を確定させるという過程を含みます。思考の中断以外に、答えを確定させる手段は存在しません。そうであるならば、哲学とは一切の確信に対する峻拒として機能すべき営為であるということになります。霊魂の不滅が証明されるかどうかは、哲学的な観点から眺めるならば、些末な問題に過ぎません。確実な答えを手に入れたと信じたとき、人間の思考は頽廃への着実な傾斜に向かって進み始めるのです。

 答えを出さないこと、特定の答えに安住しないこと、それが必ずしも幸福な境涯であるとは言えません。人生において、何も疑わずに過ごせるのならば、つまり与えられた現実の環境に盲従して、その枠組みの中で死ねるのならば、それは相対的には幸福な境涯であると言えるのかも知れません。奴隷にも、奴隷の幸福というものが有り得ます。幸福の定義を、現実以外を求めないという実存的形式の裡に認めるのならば、答えを出さないことは、自ら殊更に不安を掻き立てるばかりの否定的な材料に過ぎないということになります。例えばストア学派エピクロス学派の議論は、そのような幸福を肯定しているようにも見えます。欲望を節制し、眼前の現実によって満たされることが、幸福へ至る為の要諦であるという理路は、正に一つの確固たる「解答」の齎す果実です。明瞭な答えによって庇護されること、こうした実存的状態における安息の価値を、私も否定する積りはありません。しかし、それは本当に人間の理想的な姿なのか、疑問が残ります。明確な答えを持ち、その内部に安住して救済を得ること、それ自体は確かに称讃されるべき努力の成果ですが、そこには「智慧」はあっても「慈悲」がないように思われるのです。換言すれば、人間は優れた「智慧」に到達するだけでは、利己的な閉域を脱却することが出来ないように見えます。何故なら、優れた叡智は必ずしも他者との社会的関係を必要としないからです。

 哲学的探究が純然たる「正解」への欲望に限られるのならば、それは如何に精緻な省察の上に成り立っていても、利己的な閉域を超克することが出来ません。あらゆる「正解」を拒絶することは、結果として、他者との連帯の可能性を開拓することに通じます。「真理」への到達が至高の価値であるならば、その「真理」に関心を示さない人間は堕落した存在として排撃されざるを得ません。「正義」への固執が頻繁に他者への暴力的抑圧に転化するのは、それが「真理」による支配を望んでいるからです。「私は真理を把握している」という自己定義は、あらゆる野蛮で冷酷な暴力の源泉です。

 「私は真理を把握していない」という自己定義に依拠するソクラテス的な探究と比較すれば、プラトンの思想は明らかに、師父とは異質な「真理」への露骨な欲望を抱懐しています。尤も、それはプラトンが安易に「真理」を振り翳すような人間であることを意味しません。そのような断定は既に、一切の「正解」を拒絶する開放的知性の規範に背馳しています。重要なのは、不可解な世界への内属を受け容れることです。それは現実への素朴な盲従とは異質な意味で、この世界の現実を承認しようと試みる態度であると言えます。「真理の不在」を信じること、にも拘らず「真理」への接近を試みること、この二つの営為は相互に矛盾しているように見えますが、哲学的探究の本懐は、こうした両義性に軸足を置くことに存しています。「真理の不在」を信じることは「真理の実在」を信じることと等価です。重要なのは「真理の不可知性」を理解することです。それは決して明快な正解によって充実させられることのない、或る奇態な、原理的な「空虚」です。その意味では「真理」に超越的性格を賦与したプラトンの判断は、適切なものであったと言えるでしょう。我々の知覚する現実は「真理」に反するものであるという推論自体は、確かに正当な訴えであると思います。「真理」は常に感覚的な認識の彼岸に存在します。しかし、それは理性によって確実に把握し得るものであるとも言えないのです。仏教的な表現を借りるならば、要するに「真理」とは「無記」です。確定的な判断を下し得ないということが「真理」の本質的な要件なのです。従って「真理」を把握しようと試みる総ての探究は無窮となります。仮に探究が窮まるとすれば、それは「真理」への到達ではなく、何らかの盲信への依存を意味しているのです。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

プラトニズムの特性に就いて

 最近ずっと、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作を少しずつ繙読する日々を過ごしています。仕事や雑事の合間に切れ切れに読むので、その進捗は余り順調ではありませんが、読書の過程で徐々に滲み出てきた個人的な思考の切れ端を、ここに書き記しておきたいと思います。

 所謂「プラトニズム」(Platonism)の最大の核心的な特徴は、その「真理」に関する定義の裡に含まれていると言えるのではないかと思います。プラトンにおける「真理」という概念は、簡潔に要約するならば「超越的で普遍的な事実」を指しています。超越的であり、普遍的であるということは要するに、真理と目される事実に限っては、その内容が如何なる変貌とも制限とも無縁であるということを意味しています。如何なる場合においても不変であるような絶対的で確定的な事実、これが「真理」の要件であると考えられている訳です。状況に応じて頻繁に変動する事実は、こうした要件に適合していない為に、真理であるとは看做されません。

 状況に応じて頻繁に変動する事実は、感覚を通じて把握される「現象」の世界に属しています。現象の世界に属する事実の中で、如何なる変動とも無縁のものは存在しません。現象の世界においては「常住」という概念は成立しないのです。けれども、プラトンにとっての真理は必ず「常住」という性質を保持している必要があります。こうした事情に基づいて、プラトンにおける真理の超越的性質が析出されるのです。つまり、プラトニックな真理は必ず、感覚的な現象の世界を超越するように設定され、配置されているのです。

 感性的な事実は絶えず改訂され、無限の変容の過程を辿ります。永遠に真実であると看做されるような不動の事実は、現象的な世界の裡には存在しません。何故なら、プラトンにとって感覚的な現象の世界は「幻想」に他ならないからです。我々の感覚が捉えるものは、絶対的な真実の片鱗に過ぎず、真実そのものではありません。感覚的な表象は、絶対的な真理の不完全な「反映」であると定義されます。

 このような考え方は一体、如何なる経路を辿って導き出されるのでしょうか。例えばプラトンは「美しさ」と「美しいもの」とを弁別し、尚且つ双方の実在を認めます。例えば、或る個物に関して、場合によって美しく見えたり見えなかったりする事例があることは、我々としても容易に同意し得る事実であると言えるでしょう。それは個物にとって「美しさ」という要素が外在的な特徴であることを間接的に示しています。プラトンは「美しさ」という要素が、特定の個物とは別個に存在すると看做します。そして「美しさ」は特定の個物によって独占されるようなものではなく、或る抽象的な概念として想定されます。けれども、抽象的であるということは、それが仮構された便宜的な想念であるということを意味しません。それは感覚によって把握されないという点において抽象的なのであり、その抽象的な概念の実在を認めるという点に、プラトニズムの基礎的な特徴が表れているのです。

 例えば自然科学の方法論は、何らかの方法で感覚的に実証されない仮説を真実であると断定することに対して頗る慎重で禁欲的です。人間の五感は固より、測定の為に考案された種々の機械や試薬などを通じて、その存在が感覚的に確認されない限り、自然科学は当該の事物の実在を承認しません。論理的な整合性だけでは、仮説が事実へ向かって脱皮することは許されないのです。

 けれども、プラトンは抽象的な概念の実在を、論理的な整合性に基づいて肯定します。その意味では、彼の思想は科学的であるというよりも神学的なものです。或いは形而上学的なものです。科学的な実証主義の観点から眺めれば、恐らくプラトンの披瀝する学説は、恣意的な暴論以外の何物でもないと言えるかも知れません。霊魂の不滅に関する精密で偏執的な論証(『パイドン』)が、如何に入念な配慮に基づいて推し進められているとしても、それが感覚的な実証性を欠いた学説であることは明白だからです。

 個物に附随する「美しさ」は、感覚を通じて把握することが可能です。けれども、その「美しさ」は飽く迄も個物によって分有された「美しさ」であり、その意味では完全な「美しさ」であるとは言えません。何故なら、個物を通じて顕現する「美しさ」は、個物の特性に応じて様々な差異を孕んでいるからです。花の美しさと、女性の美しさと、青空の美しさとは相互に異なります。それらを言語の上で類比的に連結させることは可能ですが、それは個々の美しさが完全に同一であるからではなく、或る不可知の抽象性の下に共通していると看做されるからです。「美しさ」という概念は、諸々の個物から受け取る要素を類比的に要約することで形成されます。諸々の個物から受け取る「美しさ」を集めて蒸留することで析出されるのが、純粋な「美しさそのもの」であるという訳です。この純粋な「美しさ」は、経験的に知覚される個物の美しさとは異なり、透明で抽象的なものです。それはあらゆる個別的な美しさの「源泉」であると定義されます。これが所謂「イデア」(idea)です。

 感覚に対して超越的であるような実在、それが「イデア」の定義です。個物における美しさは流動的で可変的な要素です。しかし、イデアとしての美しさは完全で不変であり、それゆえに人間の感覚的認識を超越しているのです。「本当に美しいものは知覚し得ない」という命題が、プラトニズムを構成する思想的核心です。我々の感覚的認識が個物に基づいている限り、我々が知覚し得る美しさは常に断片的なものであることを原理的に強いられます。「美しさそのもの」を把握するということは、個物から離れた認識を成立させるということですが、それは感覚に割り当てられた任務ではないからです。そこでプラトンが持ち出すのは「理性」という正に抽象的な機能です。イデアを認識し得るのは「理性」だけであるという限定を持ち出す訳です。しかし、そもそも事前に「理性」という機能が存在しなければ、我々は「美しさそのもの」という抽象的概念を考案することさえ出来なかった筈です。従って「美しさ」を把握出来るのは「理性」だけであるという理路は聊か「自作自演」の響きを伴って聞こえます。「美しさそのもの」を作り出したのは、そもそも理性の機能なのではないか、という考え方と、我々は理性の機能を獲得することによって初めて「美しさそのもの」を把握する能力を手に入れたのだ、という考え方が、この辺りで微妙に交錯します。

 或る個物を知覚したときに「美しい」という印象を受け、それに類する経験が記憶の地層に積み重なり、そこから過去に得た「美しい」という印象の共通項を抽出することで、個別の「美しさ」から「美しさそのもの」という概念を析出するのが、理性的な機能に認められた役割です。そして理性的認識を「超越的実在の生成」ではなく「超越的実在の把握」として定義することが、つまり理性によって発明されたのではなく発見されたのだと看做すことが、プラトニズムの根幹を成す論理です。理性的認識の対象が実在すると考えていなければ、それを「発見」することは不可能でしょう。仮に理性的認識の対象が、理性によって構成された「仮象」に過ぎないと考えるならば、それを「発明」することは出来ても「発見」することは出来ません。

 「美しさそのもの」などの理性的な「仮象」が現に実在するのならば、感覚的に把握される個物は、その仮象を分有した不完全な存在に過ぎないということになります。換言すれば、感覚的に捉えられる個物は、明瞭な理性的秩序を欠いているのです。理性的認識こそが「真理」であるならば、確かに感覚的認識は、その堕落した形態として蔑まれるに値するでしょう。プラトニズムの観点から眺めれば、諸々の個物は複数のイデアの錯雑した「アマルガム」(amalgam)です。アマルガムを個別の純粋なる要素に分解し、それらの相互的関係を究明することが「真理」への道程であるならば、確かに感覚的認識は、我々の叡智を曇らせる厄介な障碍に他ならないのです。