サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

無責任な愛情の惨劇 バンジャマン・コンスタン「アドルフ」

 フランス心理小説の最高峰の一つに挙げられるバンジャマン・コンスタンの『アドルフ』(光文社古典新訳文庫)を読了した。

 男女の恋愛を巡って湧き起こる数多の諍いと悲劇を、複雑で稠密な心理的抗争として描き出した本作は、慄然とするほど陰惨な幕切れで、恰かも呪詛と怨念の書物のように読者の心に痣を刻む。この作品で描かれた物語の悲劇性は、二つの要素に大別されるだろう。一つは、愛していない他者から熱烈な愛情を捧げられることの苦痛と不幸。もう一つは、己の無責任な愛情で他者の魂を呪縛した為に、相手を極限の不幸へ陥れる事態に帰結してしまった罪人の不幸。

 わたしは愛に満たされる反面、後悔に引き裂かれた。そこまで揺るぎない、そこまで優しい愛情に代わるなにかを、自分のうちに見つけられたらいいのに、と思った。そこでわたしは手掛かりを求めて記憶や想像、まさに理性や義務感にさえすがりつくのだった。なんとむなしい努力だろう! 境遇の厳しさや、かならず別れることになるという確信、こちらからは絶つことのできない束縛に対する反発のようなものが、わたしをうちから蝕む。わたしは自分の薄情さを責め、それをごまかそうと努力する。彼女がそれほどまでに必要としている愛を信じきれない様子でいるとき、わたしはひどくつらかった。しかし信じきっている様子のときでも、つらさは変わらなかった。彼女は自分より善良な人間なのだと感じる。自分などは彼女にふさわしくないと思う。愛しているのに、愛されないのは、ひどく不幸だ。しかし、もう愛していないのに、情熱的に愛されるのも、れっきとした不幸なのだ。もしエレノールが、わたしがいなくても幸せになれるのなら、わたしは危険にさらしたばかりのこの命を何度だって捨てただろう。(『アドルフ』光文社古典新訳文庫 pp.76-77)

 此方は最早相手を愛していないにも拘らず、先方から劇しい愛情を捧げられ、あまつさえストーキング紛いの執着を示されることの不幸は、確かに一つの残酷な悲劇を齎すだろう。けれども「アドルフ」における陰惨な読後感は、エレノールの異様な愛情の齎す悲劇だけに喚起されているのではない。重要なのは、そもそも彼女の心の裡に愛情の種子を蒔き、それを極限まで繁茂させたのはアドルフの行為であるという事実だ。エレノールを伯爵との離別に追い込み、代わりに二人だけの幸福な生活を彼女に夢見させたのは、アドルフが示した熱狂的な恋情である。彼はエレノールの平穏な日常を、自分自身の恋の情熱によって破綻させておきながら、その責任を引き受けることに堪え難い苦痛を覚えたのである。しかも彼は、愛の責任を引き受けることが自分には困難であると自覚しながら、きちんとエレノールとの関係を清算し、二人の永久的な未来を彼女に断念させる峻厳な勇気と決意さえ持たず、問題の解決を何度も先送りして、最終的には最も残酷な心理的衝撃を恋人に与え、死に追い遣った。

 これらの惨劇は、恋愛という不可解な情熱の生起する場所では、聊かも珍しくない普遍的な性質を伴って顕れる。二人の堅固な未来を希求するエレノールの執着も、彼女を苦しめるような決断に踏み切ることが出来ないアドルフの優柔不断も、共に恋愛という情熱に付き物の「弱さ」であると言えるだろう。特定の異性に対する過度な執着が、彼らの理性を麻痺させ、視野を狭窄させ、適切な判断を狂わせる。その累積が、エレノールの衰弱死という残酷な結末を惹起する訳だが、こうした認識の歪みは多かれ少なかれ恋愛においては避け難い暗愚な現象である。アドルフは単に冷酷な男であった訳ではない。本当に冷酷な人物であるならば、もっと早い段階でエレノールとの関係を絶ち切る決断に傾くことが出来ただろう。それを為し得ない彼の脆弱な精神もまた、恋愛の齎す症状の一環である。言い換えれば、彼らは「正しい愛」に恵まれなかったのだ。愛情が社会的な道徳や、愛情以外の様々な領域における正義と、適切な仕方で合致するならば、愛情は幸福の同義語で有り得る。しかし、社会的正義の規矩に当て嵌まらず、多くの他者に害悪を撒き散らす形で営まれる愛情は、驚愕すべき無際限な不幸を魂の裡に流し込むのである。少なくとも、エレノールとアドルフの関係においては、恋愛の情熱は堪え難い悲惨の要因としてのみ機能している。それは世俗的な幸福を形成する代わりに、社会との軋轢の写し絵のような抗争を、彼らの関係の内部に持ち込むのだ。

 アドルフの非道は、エレノールに衰弱死という惨たらしい末路を与えた。そしてエレノールが遺した一通の手紙は、生き永らえたアドルフの未来に陰鬱な呪詛を投じた。あの手紙の文面は紛れもない呪詛、紛れもない怨嗟の蒸留された形態である。この小説は、あらゆる不幸な恋愛に投与されるべき劇薬の効能を備えている。愛に殉じる生き方は、一見すると崇高な後光に護られているように感じられる。しかし、愛に殉じる為には、我々は理性の正当な働きを停止させるという危険な措置に踏み切らねばならない。時に愛は、ウロボロスのように己の尻尾を咬み砕く。愛が愛を滅ぼすという解き難い矛盾が、この地上では大して珍しくもないのである。何という厄介な世界だろうか。

アドルフ (光文社古典新訳文庫)

アドルフ (光文社古典新訳文庫)

 

Cahier(批評家の仕事)

*過日、たまたま青空文庫夏目漱石の「作物の批評」という古めかしい文章を読んだ。

 漱石の文章は今から百年前に綴られたもので、しかも英文学と漢籍の分厚い素養がベースになっているから、現代の平均的日本人の眼には、如何にも堅苦しく難解な措辞のように映じ易い。しかし粘り強く向き合って読めば、その跳ねるような機智に魅惑される。その見解も現代に充分通用する真摯な説得力を備えている。

 漱石は「作物の批評」の中で、批評家と芸術家の関係を教師と生徒の関係に譬えて論じている。そして「評家」が単一の規矩で多様な作品を論じる偏狭な態度に、控えめな論難を加えている。

 他人の行動に安全な外野席から声高な批評を加える人間は「評論家」と罵られ蔑まれる傾向にある。この風潮は文学に限らず、社会のあらゆる側面で見受けられる心理的な慣習である。事実、他人の粗捜しばかり重ねて自分では決して手を汚そうとしない卑怯な精神が、社会的な支持や信頼を集めることは有り得ない。何故なら、単なる論難と問責だけでは、この世界は少しも良くならないし、日々の責務も進捗していかないからだ。その意味では、作者にとって評家などという存在は目障りでしかない。

 だが、作者は誠実な理解を注いでくれる読者に餓えているもので、芸術的な創造自体は、作者の孤独な産屋うぶやの中で育まれるとしても、その孤独な営為が最終的に求めているものは他者の共感ではないだろうか。理解されず、享受されない表現は寂寥に苦しむ。誰かが深甚な理解を注いでやらない限り、その表現は時に枯死の危険に見舞われるだろう。

 批評家という存在に若しも意義があるとすれば、それは他の誰よりも深く、他者の創造した「作物」に理解を授けることではないだろうか。表層的な印象に基づいて、作物の良し悪しを簡単に断定するだけならば、批評家の存在に価値はない。読者というものは我儘な存在で、気が向けば頁を捲るし、忙しければ表紙の埃を払おうともしない。それは読者の罪ではない。誰しも書物を読むだけで自分の生活を成り立たせることが出来る訳ではない。生計を立てる為に労働へ勤しみ、家事をこなして、育児や介護に齷齪していれば、時間は幾らでも迅速に消費されていくもので、捻出した寸暇を悉く読書に充てようという奇特な人物も滅多にいない。娯楽は他に幾らでもあり、個人の嗜好は実に様々であるからだ。

 何らかの絶対的で偏狭な審美的基準を独自に樹立し、その唯一の規矩を以て、数多の書籍を一律に論じ、審判を下すというだけならば、それは単なる肥大したエゴイズムの症状で、作者への敬意はなく、旺盛な自己顕示欲が炸裂しているだけに過ぎない。重要なのは、他者に向かって深甚で懇切な理解を行き届かせることであり、それだけが批評家の為し得る社会的な贈与として認められる。表面的な理解と、断定的な批判、それを評家の任務と捉えるのは傲慢な錯誤であって、重要なのは優れた眼力を磨くことだ。その為には日々着実に勉強を積み重ね、思考と実践を鍛えていくという世間一般の研鑽の過程を踏まえる以外に途はない。それはどんな業界でも変わらないし、仕事であろうとなかろうと同じことだ。

 私が中断していた三島由紀夫の作品に関する感想文の執筆計画に再び着手したのは、そういう基本的な営為に回帰して、いわば「理解の創造」とでも称すべき理想を実現したいと考えたからだ。「理解」という原点に立ち戻りたいと欲したからだ。結局、私は理解されるよりも理解したいたちの人間なのかも知れない。私は私の理解力を錬磨したい。それは他者を愛することに似ている。

「天使」という実存的形式 三島由紀夫「葡萄パン」

 三島由紀夫の短篇小説「葡萄パン」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫の作品の過半を貫く重要な主題は「認識」及び「行動」の間で繰り広げられる二元論的な相剋の図式として要約される。文学的出発の当初において、審美的認識の密室に閉じ籠っていた作者の精神は後年、陶酔的な実存に対する劇しい飢渇に衝き動かされて、芸術的作品を現実化する、つまり自分自身の存在を一個の作品に昇華するという野蛮な暴挙に結実した。

 卓越した認識の力を備えるが故に、陶酔的な実存への参与が妨げられる苦しみは、三島の代表作である「金閣寺」において、最も鮮明な構成の下に緊密な表出を与えられて燦然と輝いている。この切迫した苦悩は終生、三島由紀夫という作家の精神を拘束する黙殺し難い主題として前景化していたように思われる。陶酔への恐怖や嫌悪、それと綯い交ぜになった憧憬や欲望、こうした両義性が絶えず彼の魂を蚕食し続けている。「金閣寺」において、その両義性は「放火」という犯罪に帰結し、語り手の「私」は「認識」から「行動」への移行を密やかな口調で宣言する。

 「天使」という観念は、三島の文学において「卓越した認識者」の暗喩として機能している。「天使」は肉体的な性質を持たず、地上の事物と現象に拘束されず、あらゆる現実から遊離して、只管に透徹した認識を磨き上げる宿命を負う。この「天使」を、プラトニズムとの親近性において理解するのは、それほど傲慢な牽強付会ではないと私は思う。ギリシア最大の哲学者プラトンは、特に「パイドン」以降の著作において「肉体から離れること」「感性的認識を排除すること」「普遍的な真理へ到達すること」の重要性を執拗に強調している。彼は眼に見えるものよりも眼に見えないものを重視することに「知性」の本領を配置している。肉体的感覚への不信は正に「天使」の特質だ。何故なら「肉体」は常に局所的な存在であると共に、盲目的な「行為」の世界へ通じる唯一の回路として働くものであるからだ。純然たる「認識」の権化としての「天使」は、そのような「肉体の牢獄」に拘束されることを望まない。「天使」は絶えず脱獄を繰り返して、あらゆる監獄の隔壁を透過してしまう抽象的な存在なのである。

 彼が身を浸して歩く闇は、だんだん彼に浸透してゆくようだった。自分だけの跫音の、ひどく自分から疎遠な感じ。空気をわずかに波立たせているだけの彼の存在。その存在は極微にまで押しちぢめられ、彼が闇を拓いてゆくまでもなく、彼が闇の微粒子の間隙を縫ってゆくことさえできた。

 あらゆるものから自由になり、完全に透明であるために、ジャックには邪魔な筋肉も脂肪もなく、鼓動している心臓と、白い砂糖菓子のような「天使」という観念だけがあった。……(「葡萄パン」『真夏の死』新潮文庫 p.305)

 明らかにジャックという青年は「天使」の領域に配置された人格的形象である。彼は物質によって妨げられることのない稀薄な存在として描かれている。透徹した認識は、この世界のあらゆる意味を解読すると共に、そうした意味の連鎖の根源的な無効性を知悉している。言い換えれば、彼は「エピファニー」(epiphany)という観念の最も明晰な敵対者なのである。或る事物、或る瞬間、或る事件に特権的な価値と光輝を授ける手続き、そうした認識の特殊な偏倚は、「天使」という超越的で普遍的な認識の様態には決して合致しない。普遍的な認識は、個物の特権的な価値を原理的に容認し得ないからである。

 但し、こうした天使的性質は「葡萄パン」という作品に登場する所謂「ビートニク」(Beatnik)の若者たちの全員に共通する資質という訳ではない。例えば、明らかにジャック的人格と対蹠的なキャラクターとして造形されているゴーギは、地上的なものの象徴としての「肉体」を極端に発達させている。

 ジャックにとって困るのは、ゴーギのような肉体的な存在の、不透明な特質だった。それは、目の前に立ちはだかって来ると、透明な世界の展望を遮断し、その汗くさい体臭のつよい体で、ジャックがいつも保とうとつとめている透明な結晶を濁らせるのであった。彼のひっきりなしの力の誇示、それは何とうるさかったろう。彼の甘いしつこい腋臭、彼の全身の毛、彼の不必要に大きな声、それらは闇の中でさえ、汚れ果てた下着のように存在が明らかだった。(「葡萄パン」『真夏の死』新潮文庫 p.312)

 言い換えれば「肉体」は「透明な世界の展望」としての普遍的認識に抵抗する異物であり、天使的認識を妨害する厄介な凝結のようなものである。プラトンにとって「肉体」が「イデア」(idea)への到達を妨げる忌まわしい障碍であったように、天使であるジャックにとっても、ゴーギの筋骨隆々たる「肉体」は手に負えない「他者」の象徴なのだ。

 「肉体」は「天使」の尖鋭な対義語である。そして三島的な主題の核心が「天使」から「肉体」への移行に存していたことは、既に述べた通りである。それは世界に特権的な意味を恢復することであり、空疎で単調な日常性の秩序を停止させることに等しい。三島は狂おしいほどに特権的な意味、普遍的な認識の立場から眺めれば瑣末で不毛な思い込みに過ぎない「意味」或いは「価値」の厳然たる実在性に憧れていた。言い換えれば、彼は「普遍」よりも「偏倚=変異」への没入を劇しく欲していたのである。

 枕の前に置いた目覚時計が、扇風器の唸りにもめげず、鈍重な音を立てて時を刻んでいる。これはジャックの生活の皮肉な装飾品で、彼は決して目覚しの目的でそれを使ったことはなかった。昼も夜もかわらず流れつづける一本の細流ささながれのような彼の意識、そのなかに水晶のように透明な自分を保つのは、彼の毎夜の永い習慣で、目覚時計はこんな習慣をたえず喜劇化してくれる彼の友、彼のサンチョ・パンサだった。その安っぽい機械の音は、すばらしい慰めで、彼のすべての持続を滑稽にしてしまうのである。(「葡萄パン」『真夏の死』新潮文庫 p.319)

 ジャックは密かに「水晶のように透明な自分」を破壊してくれる悲劇的な宿命を待望しているのではないだろうか。彼の内なる虚無は、彼の透徹した厳密な普遍的認識の所産である。彼の卓越した心眼は、あらゆる事物の滑稽で悲惨な構造を端的に照射し、認識の行き届かない暗がりを残らず曝露する。だが、それはジャックの心に充実や幸福を決して齎さないだろう。精密な認識は、一切の価値の棄却を代償として得られる超越的な果実であるからだ。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

Cahier(恋情の力学・論客の実存)

*引き続き、バンジャマン・コンスタンの高名な恋愛小説『アドルフ』(光文社古典新訳文庫)を読んでいる。恋心という感情の力学的な構造を鮮明に描き出すコンスタンの筆致は、性急なほどに簡明で合理的である。この作品に備わった、身も蓋もない冷徹な大人の諦観に比べれば、ラディゲの伝説的な処女作「肉体の悪魔」は、如何にも若々しい少年の情熱と絶望に鎧われている。ラディゲの筆致は極めて硬質であるという評価を享けているが、その鋼鉄の理智は成熟の証であるというより、青春の紛れもない刻印であると看做すべきではないか。エゴイズムと臆病な感情の入り混じる若者の暴虐を、ラディゲは自分自身の衣服として仕立てている。しかし、コンスタンの筆鋒は、情熱の化身としての自己を追憶の彼方へ予め放逐しているように感じられる。彼は既に情熱の行方を見届けている。彼は劇しい恋心の備えている酷薄で身も蓋もない力学的構造を知悉している。だから読者は、挫折する情熱の甘美な様相に感傷的な紅涙を絞ることが出来ない。

 この差異は恐らく「アドルフ」が背徳的な愛情の悲劇を描いたものではなく、維持されない情熱の齎す逆説的な悲劇を描いている為だろう。「愛されない不幸」や「引き裂かれる不幸」には突拍子もない激情の奔騰が美しい波濤を散らす余地が残されているが、愛情を失いながら関係を清算し得ない男の惰弱と狡智を描いた「アドルフ」においては、語り手の視線は必然的にセンチメンタリズムの泥濘を否定的に捉えずにはいられない。彼の苦悩の根源は、破滅的な愛情の狂気に身を委ねることが出来ないという「知性の悲劇」の裡に存する。溺れることが出来ないという苦悩の形式、それは三島由紀夫の「貴顕」を連想させる。「陶酔的な生」を排撃せずにいられない柿川治英という貴人の肖像を描いた「貴顕」の苦悩は、本質的に「アドルフ」の苦悩と通底している。

*小説をたくさん書くと勇ましく宣言してから半月ほどで、早くも私の筆は滞っている。続きを書こうと思えば書けるのに、書く理由を自分自身に巧く呑み込ませることが出来なくなっている。脇目も振らずに没頭すべき場面で没頭出来ないのは、私の「貴顕」じみた性質の帰結であるという訳ではない。仕事でも私生活でも、物事に没頭する局面は多々ある。だが、小説という虚構の世界の建設に没頭し難い障りを覚えるのは、私の内なる欲望が「小説」の創造という夢想に捧げられていない為だろうか。

 出力された成果の巧拙は問わず、例えば本を読んで自分なりの考えや感想を認めるということならば、幾らでも筆は運ぶというのに、小説の創作は長続きしない。単に分量の問題なのだろうか? もっと言えば、私の小説は分析と説明で出来上がっているようなところがあって、それ自体が直ちに芸術作品としての瑕疵になるとは断言し難いが、それならば小説ではなくても構わないのではないか、という見解は否みようがない。

 議論というのは空疎なもので、それ自体は行動の齎す価値に遠く及ばない。理窟を捏ねている暇があったら、さっさと行動して結果を明確にするに越したことはない。これは確かに真理であるが、一方で我々人類は果てしなく続く無益な「おしゃべり」に興じる愉悦も知っている。我々は事物を様々な角度から捉え、互いの意見を共有する快楽的な営為を何千年も繰り返してきた。批評という行為は、こうした無益な「おしゃべり」の厚顔な典型であり、他人の作品を彼是と好き勝手に論じて決め付けたり誤読したりする下世話な振舞いが、厳しい創造の実践に比べて遥かに軽薄で不毛な行動であることは歴然としている。しかしながら、広義の「議論の快楽」は人間の心に励ましと慰めを与える。共通の関心に就いて親しく語り合う歓びは時に、行動の歓びを遥かに超越する。勿論、これは個人の趣味の問題で、寡黙な行動家は無用の議論を潔く排斥するだろう。それが彼の魂の形に相応しいからだ。しかし私は黙々と一つの行動に打ち込むだけで充たされる性質の人間だろうか。自分の意見を何も語らずに、一切を具体的な行動の裡に充塡して安らぐことが可能だろうか。

アドルフ (光文社古典新訳文庫)

アドルフ (光文社古典新訳文庫)

 

詩作 「祝詞」

今日は はじまりの一日

あふれる光とながれる風のなかで

空は透き通るように青く眩しい

私たちはこの場所に誓いのことばを刻みます

祈りが天に届くように

願いが世界を動かすように

今日は はじまりの一日

遠い日のあらゆる過ちを押し流して

優しい夢の揺籃を形作るために

祝福の歌声が響き渡る

どんな忌まわしい罪もかなしみも

光の泡となって消えていく

今日は はじまりの一日

すべての不幸と困難を飛び越えて

軽やかに駆け出すための一日

 

そう

今日は はじまりの一日

貴方の幸福な出発を寿ぐために

私たちは集いました

手をつなぎ 声を重ねて

貴方の気高い夢を支えましょう

どんな過ちも愚かな諍いも

この晴れ渡った秋空にはふさわしくない

永久に 添い遂げるためには

僅かなすれちがいに躓いてなどいられない

今日は はじまりの一日

傷だらけの心にも

光射す最高の一日

 

この世界にはびこる様々な不幸

怒り 憎しみ 悪意 驕慢 不正

その重たく手強い鎖に縛られて

耳障りな音をたてる油のきれた歯車

誤解と不信

絶望と厭世

しかし私たちは悪に染まる訳にはいかない

私たちは様々な不幸に屈してなどいられない

なぜなら今日ははじまりの一日

どんな苦悩も乗り越えられると

誓うための大切な一日

 

醜いものが敷き詰められた庭にも

咲き乱れる花がある

私たちは互いを伴侶として望み

祝福のなかで結ばれました

だから誓います

共に生きていくために

私たちは互いの心を学びます

私たちは互いの弱さを赦します

私たちは互いの理想を支えます

私たちは互いの不幸を悲しみます

私たちは互いの幸福を願います

そしてこの世界に染み込んだ

あらゆる罪がいやされることを祈ります

この澄みきった大空の下で

あふれる光と ながれる風のなかで

私たちの戦いがはじまる

今日は はじまりの一日

希望を信じる二人の

確かなはじまりの一日

詩作 「WORKING BLUES」

夜明け前に目覚めて

暗い商店街を駆けぬけ

始発の電車に飛び乗る

ぼやけた視界に手を伸ばして

無意識に着替えたら

くたびれたライブティーシャツだったけど気にしない

どうせ今日も一日仕事

朝から晩まで東京駅のあなぐらで

いらっしゃいませいらっしゃいませ

ありがとうございます またお待ちしております

 

食欲はなく

ひたすらに眠気ばかり

休憩室で深煎りのブラックコーヒーをすすり

苛立ちを鎮めるようにタバコを二、三本

これがマリファナならもっと効くんだろうな

疲れがまだ肩や腰に残っている

だってつい数時間前までここにいたんだぜ

昨夜の十時に店が閉まるまでずっと

いらっしゃいませいらっしゃいませ

まもなく閉店 どれでもお買い得でございます

 

働いて働いて

犬のように駆けずりまわるのさ

光り輝くショーケース 美人が行き交うコンコース

スーツケースを飼い犬みたいに従えるホワイトカラー

新幹線に乗るのなら

当店の美味しいおべんとうはいかがでしょうか

快適なビジネストリップに

さあ お客様

カードもスイカも御利用になれます

 

早くしろよ急いでんだよ

おれののぞみがいっちゃうだろが

箸入ってねえじゃねえか手で食えっていうのか

おれののぞみがいっちゃうだろが

大変恐れ入りますがお客様 スイカ残額不足でございます

うるせえな早くしろよ

おれののぞみがいっちゃうだろが

今日は十一時から梅田で大事な会食なんだ

早くしろよ のろまな店員だな

おれののぞみがいっちゃうだろが

 

今日も疲れた

むかつく客ばっかり

そんなに慌てるなら早めに着くようにしろよ

時刻表読んどけよ うんこサラリーマン 万年係長

イカに金入れとけよ ていうかオートチャージにしろよ

箸ごときでガタガタ騒ぐなよ ちんぴらが

どうせあんたも犬みたいに働かされてんだろう

だったら犬みたいに顔つっこんで食えよ その鰻重

詩作 「はじまりの歌」

長い間

暗がりをさまよっていた

どんな光も滲んで見えた

私たちの衰えた情熱

私たちの老いさらばえた理性

長い時間が過ぎていったあとの

沙漠で私たちは

はじまりの合図を待っていた

何の?

 

自ら踏み締める一歩の深さ

そこからはじめる以外に方法はないのに

私たちは誰かの呼び声を暢気に待っていた

誰かが手を曳いてくれるだろうと

子供のような安易さで考え

うずくまっていた

何も始まらない世界の夜がしんしんと更ける

私たちは何も知らなかった

四方を取り囲む高い隔壁の

重苦しい溜息と威容のなかで

私たちは己の肖像にさえ眼を向けなかった

 

長い間

ベッドの上で

私たちは寝返りを繰り返した

輾転反側五里霧

終わらない苦悩

降り止まぬ雨

明けることのない夜

息衝くのは憎しみだろうか

それとも哀しみだろうか

やがて世界が変わることさえ信じなかった

洞窟に似た絶望の奥深く

指先がちりちりと痛む

静電気の

哀しみのなかで

私たちは

はじまりの合図を待っていたのかもしれない

しかし 何の?

 

答えを出すことが怖かった

答えが出れば

否応なくそこからはじめるしかないから

間違いを正して

精密な海図を卓子に広げる

答えはどこに隠されているのか

譫言のように

貴方はつぶやく

 

けれど

もう暗がりに立ち止まるのは終わりにしよう

繰り返される無力な過ちに

引き摺られないように

私たちは長い間

答えを出すことをためらっていた

その先に訪れる苛酷な現実に

怯えるあまり

しかし私たちは

本当は答えを知っていた

答えはいつも問いかける場所に埋もれているから

答えはいつもこの視界を掠めているから

これが辿り着いた答えならば恥じることはない

さあ はじまりの合図だ

すべての終わりを告げる調べが

私たちの新たなはじまりの号砲だ

 

自ら踏み締める一歩の深さ

そこからはじめる以外に方法はない

物語はつねに目覚めることを望んでいる

離れ離れになった二人の靴音が

街路に甲高くこだまする

はじまりの歌を奏でよう

はじまりの歌をうたおう

自ら踏み締める一歩の深さで

この泥濘んだ雨上がりの道を駆けだそう