サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩作 「魔法陣」

描かれたものは

黒い夢の続き

なごり

静かにえぐられていく心臓の鼓動

その音の終わり

靴音を響かせて

暗黒街を往く 牙の伸びた犬の群れ

 

俺たちはいつも絡み合って転げまわる

毒蛇が門柱に縋りつき

東の空から 月が高速で落下する

俺たちはいつも絡み合って転げまわる

終わらないものが多過ぎる空間の中ほどで

醒めない夢に 突き立てる罅割れた薬指

詩作 「ためらいがちに」

いつから

気づいたのでしょうか

ずっと忘れていた

とまどい

微かに記憶しています

こういう風に

心を騒めかせる瞬間があることを

ためらいがちに

名前を呼びます

ぼんやりと眺めていた水槽の向こうに

細くてきれいな月が昇っていた

 

若気の至りという言葉が

通用しないほどには 齢を重ねて

それでも成熟するには まだ早すぎる二人に

ときどき星の光が 雪のように積もり

想いが募り

一瞬の閃光のような日常の合間に

知らず知らず重ねられ 蓄えられていた夥しい電気

指先で弾けた ふたすじの眼差し

温度が 知らぬ間に上がっていたのですね

測りかねている あなたの感情の密度 温度 速度

眠れない夜が増えていきそうな 気配に

あたしはそっと呼吸を整えます

始まりかけている 物語に備えて

 

夏が来る

そう遠くない 日数の涯に

純白の砂浜

はしゃぎ立てる人々の声

あなたは青白い横顔に

剃り残したひげも構わず

自信のなさそうな脇役の素振り

ねえ もっと思いきり笑ってよ

沈黙を

言葉よりも雄弁だと信じないで

へたくそでも構わないのに

強がって

思慮深くなって

身動きのとれなくなる

お決まりのパターンを

あたしのために踏み越えてよ

図々しい御願いかしら

でも あなただって本当は

この境界線を またぎたいんじゃないの

 

ためらいがちでもいい

そっと優しく触れるだけでもいい

まとまりのつかない その魂の中身を

光のなかに 思い切ってさらして

水を浴びた

太陽のように

世界の中心で笑ってみせてよ

物語の一ページ目が

開かれようとしている 初夏の通りを

無邪気な笑顔で 歩いてみせてよ

詩作 「ひび割れて」

ひび割れた空に

白く伸びる飛行機雲

雲の割れ目に

指を這わせて

望遠レンズを

覗いたような恋をしよう

音を立てて

騒がしい街角で

青く澄み渡った夏空の下で

音楽が聞こえる

懐かしい歌

懐かしい夢

 

なかなか届かないものは

思い出 感情 あるいはその輪郭

切ないようだけれど

案外そうでもないかもしれない

ひび割れた声で君は夜通し歌っていた

夏の夜風が壁の向こうに吹き荒れて

騒がしい夕暮れの喧噪と

眩しい夜明けの

そのあわいで

 

劇しいにわか雨

路地裏の濡れた野良猫

君が かつて奏でようとした音楽の

その先に

大きく開けた真っ白な道

輝ける夏空の下

その最果て

その柔らかな響きと 怒り

「野卑」と「洗煉」の果てしなき往還 三島由紀夫「不満な女たち」

 三島由紀夫の短篇小説「不満な女たち」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 この小説の随所に、意地悪な諧謔の響きが谺しているように感じられる。それを直ちに三島のミソジニー的な側面として指弾することは差し控えたい。この作品の主題を成すものは女性への陰湿な誹謗中傷ではなく、文化的=芸術的なナルシシズムであると考えるべきだ。

 「細川ガラシヤ」と綽名された聊か高慢な女性のナルシシズム、それを揶揄する意図が作者の筆致に滲んでいることは明瞭である。彼女は文化と教養を重んじ、芸術に関する審美的な鑑識眼を誇り、いわば階級的な上昇への意欲を鮮明に漲らせている。それが画家である桑原への執着に転化するのだが、それさえ一般的な愛情とは異質である。彼女が桑原を追い掛け回すのは、彼との関係が階級的上昇を促す触媒として作用することを期待しているからである。結局のところ、彼女は「実質」を求めているのではない。社会的栄光、それが彼女の欲望の源泉である。無論、三島は細川ガラシヤの夢見る文化人的な名声の虚しさを知悉した上で、この作品を著したのだろう。

 日本でいわゆる文化人どもの人工的ながさつさに飽き飽きしていた僕には、かれらの生粋のがさつさが気に入った。十七階建の米国風のホテル・クラリッジ、その十二階の僕の部屋へ、朝八時になるとかれらの数人がたずねてくる。やっと目のさめた僕が朝飯を喰ったり、髭を剃ったりしているあいだ、かれらは勝手に軽口を叩き合っている。禿頭の東洋風の哲人の記者は、明治時代の浪漫主義にまだかぶれている。容貌魁偉の若いほうの記者は、顔に似合わない抒情詩人で、女のこととなったら目がない。ポルトガル人の美人に街ですれちがうと、大声の日本語で、「あいつをやってみてえなあ」と独り言を云うのである。(「不満な女たち」『岬にての物語』新潮文庫 p.238)

 まるで坂口安吾の自伝的な小説を思わせる文章で綴られたこの一節には、所謂「芸術」の栄光の周りに群がる餓えたナルシシストへの侮蔑が隠見している。要するに退屈で辺鄙な日常への嫌悪が祟って、芸術家の発揮する特権的な光輝に眼が眩んでしまうのだ。恐らく日本の文化人が示す「人工的ながさつさ」は、本物の野卑とは似ても似つかない迂遠な洗煉の形態であり、煎じ詰めればナルシシズムの強いる演技に過ぎないのだろう。崇高な「芸術」と、その周辺に群がる人々の構成する文化的な秩序、それを三島は疎んじているように思われる。

「日本人はだから駄目なんですわ」と昂然と言った。「サン・パウロ近辺に日本人のお金持はずいぶん多いんですの。でも芸術のわかる日本人なんか、稀にしかおりませんの。一寸お金に余裕ができれば、芸妓遊びに使うだけが能なんですもの。『青柳』という店のこと、おききになりまして? 日本人の流れものの芸者を置いて、法外なお金をとる店なんですの。そこで皆使ってしまって、白人たちのように、ヨットを買ったり、社交に使ったりしないから、日本人だけどうしても孤立してしまうんです。……不満ですわ」(「不満な女たち」『岬にての物語』新潮文庫 p.244)

 細川ガラシヤの「昂然たる不満」を観察する作者の眼差しは冷笑的である。彼女は明らかに現地の新聞社に勤める日本人たちの「生粋のがさつさ」を忌み嫌っているが、桑原に擬せられた作者の視線は寧ろ、ガラシヤの教養主義的なナルシシズムを嘲笑している。新聞記者たちの野卑な言動は、良くも悪くも純真な欲望の発露である。しかし、ガラシヤの示す教養主義的な態度は決して「芸術」そのものへの直截な愛情の産物ではない。要するに彼女は、不快な現実を蔑視することで超越的な高みに登ろうとする凡庸なスノビズムの衣裳を纏っているに過ぎないのだ。

 サロンの女主人公になることが、細川夫人の終生の夢らしかった。日本内地の頽廃した貴婦人は芸術家よりも断然拳闘選手のほうを崇拝するのだが、まだ健康な彼女たちは、野性を卑しめて、断然芸術家のほうを崇拝していた。文化的なものは生活に色彩を添えるばかりか、進んで生活の利便を提供するものと思われた。在留邦人の間では、洗練はまだ衰弱の同義語ではなかった。(「不満な女たち」『岬にての物語』新潮文庫 p.253)

 細川ガラシヤの「文化的なもの」に対する素朴な信仰を、作者は醒め切った眼差しで眺めている。無論「日本内地の頽廃した貴婦人」の方が細川ガラシヤよりも優れているという議論は成立しない。何れにせよ、彼らは押し詰まった「不満」の捌け口を、時々の境遇に応じて「芸術家」に求めたり「拳闘選手」に期待したりしているという点では同族なのだ。彼らの「昂然たる不満」には出口がない。無限に続く回廊の如く、その頑丈なスノビズムは、新たな獲物を欲して牙を剝き続けるだろう。こうした「俗物」の世界を意地悪く活写する三島の筆致には、謹直な悲劇的作品においては望み難い軽捷な躍動が感じられて面白い。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

他者の「鏡面化」 三島由紀夫「椅子」

 三島由紀夫の短篇小説「椅子」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 この自伝的な作品におけるキーワードが「呻吟しんぎんの快楽」であることは明瞭である。

 呻吟は痛みの伝達の手段である。しかし呻き声を立てることで紛らわされている痛みというものを、人は知られたがらない。われわれは痛みは知られたい。しかし痛みの快楽は知られたくない。(「椅子」『岬にての物語』新潮文庫 p.229)

 この記述は同じ作者の「真夏の死」というノヴェレットを想起させる。伊豆の海岸で二人の幼子を失い、悲劇の主人公と化した女性が、精神的恢復と平穏な日常への復帰の後に虚無を覚え、再び無惨な宿命の到来を密かに希求するという不穏な小説である。彼女の胸底には明らかに「呻吟の快楽」が潜んでいる。こうした心理的屈折に着眼する辺り、意地の悪い分析家としての三島の面目が躍如としている。

 他人の眼に映じる自画像を理想化し、他者から寄せられる関心を糧に自己の精神を支えるナルシシズムは、あらゆる人間の内部に瀰漫している。悲劇の主役として夥しい憐憫を注がれることに密かな快楽を見出すとき、そこには確実にナルシシズムの作用が介入している。無論、誰しも他者の露骨な無関心に晒されることを歓ばないのは当然である。存在を黙殺されることの屈辱は、多くの人々にとって堪え難い苦痛を齎す。しかし、大抵の人間がエゴイズムの虜囚であることを鑑みれば、酷薄な黙殺を甘受することは社会的な訓練の基礎を成すものである。

 他者に賞讃されて歓ぶだけならば、それは必ずしもナルシシズムとは言えない。他者の賞賛を想像的に先取りし、他者の眼に映り込んだ自己の姿を愛すること、それがナルシシズムの特質である。そこには恣意的な検閲が関与している。彼らは他人の眼に映じた自己の客観的な姿を是認するのではなく、飽く迄も自己の想定する自画像が他人の眼に映じることを望んでいる。理想化された自画像を他人が承認するように仕向けること、それがナルシシストの駆使する「狡智」の狙いである。彼らは他者の厳正な判断に微塵も価値を認めていない。高慢なナルシシストは、手作りの自画像が受け容れられない場合、他者の知性や感性を悪しざまに批難する。彼らの眼力の欠如を心の底から侮蔑し、憎悪する。狡猾なナルシシストは、他者の心理を適切に見究めた上で、極めて巧妙に自画像の編輯を行ない、芸術的な詐欺を成立させる。何れにせよ、彼らの快楽には他者の視線が必要であり、厳密には他者の視線を収奪する必要があるのだ。

 他者の視線を収奪するということは、要するに他者の視線を自己の思惑に従って支配し、統御するということである。恣意的な理想に他人を服属させようとする専制的な野心の発露である。「呻吟の快楽」が成立する為には、他者の視線が不可欠だ。悲劇に堪えることは、高貴な自画像を育む。その高貴な自画像を他者が肯定し、共有するとき、「呻吟」は単なる苦痛を超えて秘められた「快楽」を醸成する。誰にも知られぬ痛みならば、それは純然たる苦痛に過ぎず、逆説的な「快楽」が喚起される理由もない。それが他人に知られ、公共の関心の対象となるとき、俄かに苦痛が甘美な性質を獲得するのは、いわば「虚栄心」の作用の結果である。虚栄心は必ずしも自己の輝かしい姿を誇示するとは限らない。悲惨な境遇に置かれ、夥しい不幸に堪えている姿を顕示する場合もあるのだ。

 劇的な「宿命」を求める心情には、多かれ少なかれ「虚栄」への欲望が混入しているように思われる。そもそも「栄光」という観念自体が、他者の視線を前提しなければ成立しない。拍手喝采したり悲憤慷慨したりする観衆が不在ならば、正負の符号を問わず、栄光の享受は不可能である。言い換えれば、ナルシシズムの快楽に依存する人間は、他者を自己の「部分」として繰り入れる心理的な操作を必要とする。虚栄心の安定的な充足を維持するには、事前に仕込まれた観衆の協力が不可欠なのだ。

 私たちは呻吟の快楽を隠す。それを自覚したとき、私たちはもう隠している。母は現在の私の中から悲しみの確たる証拠を探すことは困難だろう。

 してみると、あの私の神経質な幼年期に、母の悲しみがそれほど私に痛切に感じられなかったのは、母もまた懸命に悲しみを隠していたからにちがいない。二階の籐椅子から母が見ていたものは、私がやがて隠すであろう私の悲しみであり、私がまだ気づいていなかった私自身の悲しみであった。

 ……すると二階の籐椅子から母が見ていたものは、とりもなおさず、母自身の姿ではなかろうか?(「椅子」『岬にての物語』新潮文庫 p.232)

 他者の内部に自己の反映だけを読み取ること、いわば他者の存在を「鏡」として独占的に用いること、こうしたナルシシズムの働きが、三島の文業を構成する重大な要素の一つであったことは否み難い。「禁色」や「鏡子の家」に頻出する「鏡」のモティーフが、そうした消息を暗示している。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

Cahier(「超越」と「虚無」に関する断片)

三島由紀夫の文業を「プラトニズムとニヒリズムの相剋」として読解すること、これが近頃、私の脳裡を去来する個人的読解のプログラムである。

 こうした見取り図は、決して私の創見ではない。近年では大澤真幸氏が『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書 2018年)において、プラトンの思想に基づいた「金閣寺」の分析を実践している。そもそも、三島由紀夫の作品からプラトニズムに親和する表現や構造を抽出すること自体は、それほど困難な作業ではない。「金閣寺」の序盤で語られる「心象の金閣」=「現実の金閣」の対比などは、露骨なまでにプラトニズムの図式に合致している。尤も、彼の豊饒な作品の総てを、プラトニズムの語彙で一律に裁断することは不当である。作中で示される三島の欲望が、濃密な「絶対性」への希求で充満していることは事実だが、それは彼が純然たるプラトニストであることを直ちに意味しない。

 プラトニズムが「観想」の哲学であることは歴然としている。そして三島由紀夫が優れた観想的知性の持ち主であったことも明瞭な事実である。しかし、三島の本質はプラトニズムによって描き出される世界観とは必ずしも合致しない。その端的な理由は、彼が「認識」の裡に留まり続けることを嫌悪し、絶えず「行為」への欲望に劇しく駆り立てられていたことに依拠する。彼は超越的な「実相=イデア」を「彼岸」の領域に期待する哲学者の節度とは無縁であった。三島の野蛮で貪婪な欲望は、本来ならば肉体的感官を通じて把握することが不可能であると考えられている「実相」と、生成する「現象界」の内部で邂逅したいという矛盾した夢想を生きていた。絶対的なものを、相対的な世界の裡に実現させたいと願う彼の困難な挑戦は、概ね敗北を喫したと断言して差し支えない。名高い「金閣寺」は、恐らくその挫折と転回の記録であり、金閣寺と共に焼け死ぬ幸福を辛うじて峻拒したとき、彼は索漠たる相対性の地獄へ漕ぎ出す決意を語っていたのである。

プラトニックな欲望が挫折したとき、ニヒリズムの病理が顕現する。それは必ずしも憂鬱な怠惰を意味しない。プラトニズムの挫折から生じるニヒリズムの特徴は、それが万物を等し並みに「仮象」として取り扱うという点に存する。超越的な「実在」の降臨が不可能であるならば、万物を「仮象」と看做すのは当然の措置である。そして「仮象」である限り、事物や行為は何らの価値も持たない。ここから無際限な「自由」が生じる。総てが「任意の選択」に委ねられ、如何なる事物も行為も、特権的な「価値」を剥奪される。この比類無い「自由」の行使は時に、悪魔的な有能さを人間に賦与する。ニヒリストには、あらゆる「価値」の信徒に擬態する能力が備わるからである。彼は良心の呵責を覚えず、悪徳に耽溺することもない。その融通無碍の実存的特質が、あらゆる領域に彼の活躍の場を準備するだろう。しかし、ニヒリズムを貫徹することは三島の人格に必ずしも適合しなかった。超越的な価値を棄却し、相対的な生滅の論理へ柔軟に適応しながら生きることは、彼の美学に反した。無価値な「仮象」の世界を自在に動き回ることは、絶対的な宿命に貫かれることを希求する彼の生来の実存的方針と食べ合わせが悪いのである。

*最終的に三島は、ニヒリズムの破壊を、つまり空虚な日常性の破壊を企図し、末期の蛮行に踏み切った。彼の掲げた政治的大義は、例えば「憂国」という短篇において露骨に示されているように、極端な言い方をすれば「捏造された大義」であり、人工的に構築された「任意の宿命」とでも称すべき紛い物なのである。「天人五衰」の安永透が、転生者であることを証明しようと自裁を企てて失敗するように、三島は授からない「宿命」を自らの手で作り出すことに賭け金の総てを投じたのだ。

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)

 
金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 
鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

 
花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

「債務」としての「愛情」 三島由紀夫「牝犬」

 三島由紀夫の短篇小説「牝犬」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 聊かシニカルな女誑しの若者に執着する未亡人の、法外な独占欲の顛末を描いた作者の意図が那辺にあるのか、明瞭な答えを弾き出すことは難しい。章子の異様な執着と嫉妬が、如何なる源泉を抱え込んでいるのかも不明瞭である。そもそも人間の性愛の欲望に、明瞭な原因を求めることは不可能に等しい。

 恋心が大いなる錯覚であることは誰しも弁えている。その錯覚を免かれた途端、甘美な幻影は消え去り、相手の風貌や人格は、凡庸で無味乾燥な実相を露わにする。けれども、夢が醒めない間は、我々の精神は客観的な検証に価値を見出さず、その必要も認めない。相手の存在に特権的な意義を賦与し、世界の総てを覆う天蓋の役割を宛がう。恋人の離反は、過剰な情熱に支配された者にとっては世界の破滅と同義である。そうやって、或る特定の人間や事物に依存することは、幸福な幻影を生み出すと同時に、堪え難い苦しみも蔓延させる。

 彼女の媚態には、そもそもの馴れ染めから、明瞭な敗北の身振があった。彼女の厚化粧や人並外れて派手な着物の好みは、敗北の勲章をぶらさげているようなものであった。その眼差にはいつも乞食の媚びがあった。彼女の眼はしじゅうこう言っていたのである。――『どうせ私なんか愛してもらえるわけはないんだから』(「牝犬」『岬にての物語』新潮文庫 p.178)

 過剰な執着は、相手の恋心を委縮させ、涸渇させる。何故なら、阿諛追従にも等しい恩着せがましい媚態は、自らの価値を切り下げる卑屈さで、相手の自分に対する敬意を毀損するからである。章子が繁に対して至れり尽くせりの奉仕を積み重ねるのは、自立した愛情ではなく、明確に見返りを期待して発揮される愛情の産物である。逃げ出した繁の行方を偏執的な情熱で訊ね回る章子の姿は、債権回収に血道を上げる非道な高利貸を思わせる。惜しみなく奉仕することで相手を支配しようとする、歪んだ母性的な愛情が、彼女の魂の本質を成している。それが繁の心を窒息させるのは当然の摂理である。

 章子の愛には、どこか鉄のようなものがあった。その愛は、水晶にも、薔薇にも、毛皮にも、金銀にも似ていなかったのである。この愛の鉄格子の中で、この愛の熱した鉄板の上で、この愛の小ゆるぎもしない鉄壁の内側で、囚われ人は色を失った。(「牝犬」『岬にての物語』新潮文庫 p.179)

 愛することで他人の主体性を麻痺させ、逃亡を禁じ、精神的な軟禁の状態へ追い込むこと、こうした悪徳は巷間に有り触れている。恐らく総ての嫉妬は、多かれ少なかれ「支配」の欲望に貫かれており、如何なる甘言も繊細な愛撫も熱烈な憐憫も、相手の自由を制限する偽善的な手段として濫用されるのである。恋人の離反を防ぐ為に益々劇しく募っていく奉仕の情熱は、却って相手の精神を威圧し、逃れ難い鉄鎖のように五体へ喰い入る。恋人は余計に逃亡への情熱を燃え立たせ、具体的な算段に齷齪するだろう。愛されるほどに冷めていく慕情、それは単に愛される側の酷薄な人格を意味するものではない。見え隠れする独占への欲望は、即ち「物象化」へのサディスティックな欲望である。人間としての尊厳を蹂躙し、自由と主体性を剥奪する「物象化」の衝迫は、その外見が「愛情」に類似していたとしても、根本的な部分で「愛情」とは異質である。或いは「未成熟な愛情」であると言い換えても差し支えない。成熟した愛情は、相手の自由と主体性を庇護するが、未成熟な愛情は、相手の自由と主体性を毀損してでも、相互的な依存の関係を堅持しようと画策する。

 こうした非対称的な関係性において、繁のように愛されることは殆ど、陰湿な暴力を蒙ることに等しい。愛情の仮面を被った暴力、例えば家庭内で生じる虐待において典型的に顕れる暴力の形式は、相手の尊厳や自主性を庇護するという愛情の重要な役割に背反している。しかも、それは極めて迂遠な方法で、或いは逆説的な仕方で、真綿で絞め殺すように相手の自由を蝕んでいくのである。注がれた愛情に報いないのは非道であるという尤もらしい正義の題目を悪用して、つまり「恩知らず」という論難を駆使して、章子は繁の離反を阻止しようと企てる。金貸しが債務を踏み倒すことの罪悪を声高に難詰するように、彼女は愛情を「貸借」の比喩に基づいて設計しているのである。この作品の随所に「金銭」に関する記述が象嵌されていることは、必ずしも偶然ではない。どれほど惜しみない情愛を発揮しているように見えたとしても、章子は根本的に「吝嗇な女」なのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)