サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 11

 プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンは「教育」という言葉に独自の含意を埋め込んでいる。彼にとっての「教育」は、単に技術的な知識の蓄積や発展を意味するものではない。彼が重視するのは「世界観」の「書き換え」である。言い換えれば、彼は「仮象」から「実相」へ向かって、他者の思惟の対象を移行させることに「教育」の本義を見出していたのである。

 プラトンの考え方に基づけば、事物の認識に際して肉体的な「感官」に依拠することは、最も「真実」から隔たった方法であると看做される。「感覚」に生じる諸々の情報は、事物の普遍的な「本質」を示すものではなく、飽く迄も一過性の表層的な「現象」の反映に過ぎないと定義され、劣位に定置される。彼は「感覚」から出発して漸進的に「抽象」へ至るという人間の知性的発達の過程を、大胆にも逆転させている。一般に抽象的な観念は、感覚を通じて把握された現実を蒸留することで得られる、人工的で便宜的な「仮象」であると目されている。従って抽象的な思惟の精度は、感覚を通じて把握された経験の総量によって規定されることとなる。経験という原料をより多く蒐集した方が、導き出される抽象的な認識の精度は高まると信じられているのである。このような考え方に対して、プラトンは最も尖鋭な対立者として振舞う。彼は感覚的な経験を「実在」と看做す代わりに、それらを不正確な「仮象」として、真実から遠く隔たった謬見として遇するのである。何故なら、彼は感覚的な経験の累積として抽象的な思惟が成立するという考え方に同意しないからだ。寧ろ彼は抽象的な思惟が、感覚的な経験という不完全な「仮象」によって妨げられ、真実への通路を遮断されていると看做すのである。

 「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」(『国家』岩波文庫 p.116)

 知識を外在的な物象のように捉える経験論的な思考をプラトンは峻拒する。彼にとって感覚的な経験は、幾ら積み上げたところで真実への到達を補助するものではない。不正確な事実を無限に蒐集しても、それが不意に醗酵して光り輝く真実に一変するということは期待し得ない。寧ろプラトンは、感覚的な認識を謬見と定義することで、いわば清浄な叡智を汚染する障碍として、積極的に貶下しているのである。感覚的認識を取り払い、事物の普遍的な本質だけに眼を向けること、それがプラトンにおける思惟の望ましい形式である。

 事物の普遍的な本質は定義上、如何なる条件によっても左右されない恒常的な要素を指す。従ってそれは時間的な生成変化の影響を絶対に免かれている。同一の事物に接しながら、時間の推移に応じて変化するような認識は、事物の本質を捉えているとは言い難い。端的に言って、本質は決して変異しないからである。仮に変異するのならば、それは事物の本質としては認められない。それは事物の本質に付着した偶有的要素に過ぎないと判定される。

 我々の感覚が微妙な個体差を持ち、同一の個人の裡にあっても、肉体的な条件の変化に応じて変動し得るものであることは事実である。そのように変異する認識的媒体が、事物の普遍的な本質の把握に最適な手段であるとは言えないとプラトンは考えた。彼は「肉体=感覚」によって事物を捉える経験論的な枠組みを棄却し、徹底して「魂=理性」による認識の本来的な普遍性を強調する。「魂」こそが本来の認識の主体であり、現象的な肉体は「真実在」の把握を阻害する邪悪な要素として批難される。

 「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろとあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いものかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったのが後になってから、習慣と練習によって内に形成されるものだからね。けれども、知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときにもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気づいたことがないかね――世には、『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見とおすものかということに? この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」(『国家』岩波文庫 pp.116-117)

 「身体の徳」は、時間的な生成変化の枠内で培われるものであるが、一方の「魂の徳」は、そのような時間の法則を超越し、常に完成した状態で人間の内部に備わっていると看做される。こうした考え方は所謂「想起説」(アナムネーシス)の議論とも緊密に関連した思想である。知識は時間の経過に附随して蓄積される「金利」のようなものではなく、予め人間という存在の内側に用意されているのである。問題はそれが適切な仕方で発現し、適切な対象に向かって捧げられているかどうかという点に存する。悪事を働く人間は、無智のゆえに悪徳を帯びるのではなく、その知性の運用が適切な対象に結び付けられていない為に悪徳なのである。

 純然たる白紙に諸々の知識を書き込んで増やしていくという「タブラ・ラサ」(tabula rasa)の発想に、プラトンの教育論は鋭く背馳している。何故なら、彼にとって経験的な認識は、事物の普遍的な本質ではなく、雑駁な偶有的仮象を示すものでしかないからだ。仮象に関する認識を幾ら累積しても、それは普遍的な本質の把握を阻害する要因にしかならない。別の言い方を用いるならば、プラトンの学説は極めて無時間的な特性を備えており、時間の経過と共に累積される知識という発想自体が、彼の思惟の特質と根本的に相容れないのである。「本質」は時間的な変化を超越しているという基礎的な定義を尊重する限り、つまり「本質」と「実在」を等号で結び付ける公理を採用する限り、プラトンは「タブラ・ラサ」の原理を自動的に排除せざるを得ないだろう。彼にとって「教育」は「新たな知識の獲得」を意味するものではない。彼は飽く迄も、事前に存在する真実の認識を「想起」する過程を「教育=学習」と看做すのである。

 時間に応じて生滅する認識を尊重しないという信条は、プラトンの思想の根幹を成す規約である。この規約に従って、一切の感覚的な認識は劣等な謬見として迫害される。プラトンにとっての「思惟」は、事物の偶有的要素を精密に観察する営為を意味しない。感覚的な惑溺は、正当な思惟を妨礙する忌まわしい悪徳である。感覚的惑溺を棄却し、透明で抽象的な思惟の方角へ転向すること、それがプラトン的な「教育」の定義である。尤も、それが理性によってのみ把握されるからと言って、プラトン的な「実在」を空疎な観念と看做すのは誤りである。少なくともプラトン自身においては、超越的な「本質」こそが実在する事物なのであり、感覚的に把握される生成的な現象の方が「幻影」なのである。彼の独創性は、経験的な知覚を逆撫でするような、こうした「逆転」の裡に萌芽する。言い換えれば、彼の独創性は、こうした「メタフィジックス」(Metaphysics)の厳格な探究によって開拓されたのである。事物の背後に絶対的な真実を発見しようとする知性的な努力、これは日本語で「形而上学」と呼ばれる人類の奇怪な宿痾である。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 1

 三島の代表作である「金閣寺」は、絶対的なものと相対的なものとのプラトニックな対立の構図を重要な主題に掲げている。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。(『金閣寺新潮文庫 p.33)

 溝口は「現実の金閣」よりも「心象の金閣」を本来的な「実在」と看做すプラトニックな思考に囚われていながら、他方では「目に見える美」への純一な信仰を堅持している。この矛盾が、困難な挑戦を溝口に強いる。プラトニズムの議論に依拠するならば、超越的な「実相」は理性的な思惟によってのみ把握されるだけで、肉体的な感官によっては決して認識されない。若しも溝口が純然たるプラトニストならば、金閣の本来的な美しさが肉眼に映じないことを当然の現象であると考えただろう。しかし、彼は理性的な思惟の裡に安住することを望んでいない。彼は「絶対的なもの」が生成的な現象界へ来臨することを切実に夢見ているのである。

 「実相」と「仮象」の絶えざる分断、これは直接的には溝口の「吃音」によって培われた精神的特質として描かれている。「吃音」によって齎される生成的な現実との齟齬が、彼の強靭な超越的思考を育む母胎の役目を担っているのである。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(『金閣寺新潮文庫 pp.7-8)

 この僅かな時間差が、人間の内面を肥大させる重要な培地の働きを司る。精神と現象との完全で直接的な合致を否定するところに、プラトニックな超越性は宿るのである。若しも我々の精神が、認識の裡に顕れる諸々の仮象との間に、伸縮する時間的な関係性を持ち得なかったとしたら、我々の思惟は頗る貧困な反射神経のようなものに留まっていただろう。瞬間的な現実から距離を保つこと、それが思惟の生成される根本的な要件である。そして思惟を通じて見出された完璧な「実相」は、あらゆる「仮象」の彼方へ臨在する崇高な超越性として定義される。溝口は、その崇高な超越性が可感的な領域へ顕現することを熱烈に希求している。

 溝口の不可能な期待は、空襲の予感によって大きな希望を獲得する。

 晩夏のしんとした日光が、究竟頂の屋根に金箔を貼り、直下にふりそそぐ光りは、金閣の内部を夜のような闇で充たした。今まではこの建築の、不朽の時間が私を圧し、私を隔てていたのに、やがて焼夷弾の火に焼かれるその運命は、私たちの運命にすり寄って来た。金閣はあるいは私たちより先に滅びるかもしれないのだ。すると金閣は私たちと同じ生を生きているように思われた。(『金閣寺新潮文庫 pp.57-58)

 超越的な「実相」は、時間の圧政を免かれている為に「滅亡」という観念とは決して結び付かない。しかも「金閣」という歴史的建造物は、他所へ同類の眷属を持たない為に「実相」と「仮象」が同一の場所に複合して存在し、その物理的な消滅が「実相」そのものの消滅を示唆するかのように見えるという特質を孕んでいる。一般的には、単一の「実相」に対して複数の「仮象」が存在する。しかし「金閣」に関しては、単一の「実相」と単一の「仮象」が見事に重なり合っているのである。この特異な条件が、溝口の観念的な思考の経路を難解なものに仕立てている。

 「金閣」が物理的に滅び得る存在であるという明瞭な事実は、その歴史的な永続性によって隠蔽されてきた。その惰性的な錯覚を覆す「空襲」の予感は、超越的な「実相」を生成的な「仮象」の世界へ降臨させたいという溝口の欲望に合致する認識である。「不朽の時間」という言葉は、別の表現を用いるならば「無時間」であり「久遠」である。超越的な「実相」は、その定義において時間的な生滅の法則を免除されているからである。その超越的な条件が、溝口と「金閣」との疎隔を強いている。それが物理的な破滅によって解除されるというのは、厳密に言えば錯覚である。物理的な「仮象」の消滅が、超越的な「実相」の臨在を促すということは、少なくともそれを享受する主体が生きている限りは有り得ない。但し、この「空襲」は「破滅」の「共有」ということを暗示している。単に「金閣」の焼亡のみが、両者の疎隔を癒やすのではない。両者の物理的消滅の共有が、超越的な領域における合致を約束する。この予覚は、紛れもない官能的幸福を溝口に授けるだろう。

 この美しいものが遠からず灰になるのだ、と私は思った。それによって、心象の金閣と現実の金閣とは、絵絹を透かしてなぞって描いた絵を、元の絵の上に重ね合せるように、徐々にその細部が重なり合い、屋根は屋根に、池に突き出た漱清は漱清に、潮音洞の勾欄は勾欄に、究竟頂の華頭窓は華頭窓に重なって来た。金閣はもはや不動の建築ではなかった。それはいわば現象界のはかなさの象徴に化した。現実の金閣は、こう思うことによって、心象の金閣に劣らず美しいものになったのである。(『金閣寺新潮文庫 p.58)

 結局のところ、生成的な現実は、超越的な「実相」の顕現を阻害する要因でしかない。「霊魂」の完璧な顕現にとって「肉体」は障碍なのである。つまり、溝口の祈念する「絶対者を肉体によって享受する」という欲望は原理的に不可能なのである。空襲による「破滅」の「共有」は「金閣」という超越的実相を生滅の領域へ下降させるものではない。共に滅びることによって、両者が有限な実体性を離れて、純然たる普遍的な「本質」の状態において相互に合致するという官能的な夢想が、空襲による「破滅」を通じて想像裡に喚起されることが重要なのだ。

 明日こそは金閣が焼けるだろう。空間を充たしていたあの形態が失われるだろう。……そのとき頂きの鳳凰は不死鳥のようによみがえり飛び翔つだろう。そして形態にいましめられていた金閣は、身もかるがるといかりを離れていたるところに現われ、湖の上にも、暗い海の潮の上にも、微光を滴らして漂い出すだろう。……(『金閣寺新潮文庫 p.61)

 この一節が表明している露骨なプラトニズム的理想は、物理的な実体が「束縛」であることを端的に明言している。焼亡した「金閣」の「飛翔」が、感性的な「仮象」から理性的な「実相」への「超越」を意味することは歴然としている。「金閣」は超越的な「本質」として現象界の彼方に君臨し、その「本質」はあらゆる物理的実体の裡に、様々な偶有性と合しながら砂金の燦めきのように織り交ぜられることになる。

 しかし、幸福な秘蹟のように顕現した「破滅」の予告は、忌まわしい「終戦詔勅」によって絶息させられる。「共に滅び得る」という輝かしい期待は蹂躙され、「実相」と「仮象」との根源的隔絶が復旧する。この分断は溝口に致命的な絶望を齎すが、同時に「金閣」の超越的な美しさを高める要因としても機能する。

 私の心象からも、否、現実世界からも超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅固な美を示したことはなかった! あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどに輝やいたことはなかった。

 誇張なしに言うが、見ている私の足は慄え、額には冷汗が伝わった。いつぞや、金閣を見て田舎へかえってから、その細部と全体とが、音楽のような照応を以てひびきだしたのに比べると、今、私の聴いているのは、完全な静止、完全な無音であった。そこには流れるもの、うつろうものが何もなかった。金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。

金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎりかわらぬ事態……。』(『金閣寺新潮文庫 p.81)

 焼亡の危殆を免かれた「金閣」は再び超越的実在の水位に回帰する。「金閣」は「現象界のはかなさ」(p.58)を免除され、普遍的な「本質」としての存在を再開する。しかも、こうして「流れるもの、うつろうもの」を一切含有しなくなった「金閣」の「堅固な美」は類例のない高みへ達している。現象界の側から眺めれば、超越的な「実相」は「虚無」に他ならない。「虚無」であるからこそ、それは現象界を超越した特権的で完璧な「美」を示すことが出来るのである。「実相」は決して肉体的な知覚によっては捉えられない。従って「実相」は肉体的=現象的な主体にとっては常に「虚無」として顕れる。両者の疎隔は「金閣」が「虚無」の位相へ復帰することによって齎されるのである。

絶対者を黙殺する男 三島由紀夫「商い人」

 三島由紀夫の短篇小説「商い人」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 世俗の人間の立ち入りが許されない「禁域」という設定は、「超越」と「絶対」を重んじる作者に相応しい主題である。

 知識としては、左のような知識が与えられる。現在修女は百数名で、その三分の一は白いスカプラリオを着て、祈りを主とする歌隊修女である。三分の二は茶色のスカプラリオをつけ、労働を主とする助修女である。白は観想を象徴し、茶は労働を象徴する。歌隊修女は、まるで本物の天使である。長い棒の先につけた火で燭台の蠟燭に火が点ぜられると、ラテン語の単純な譜のグレゴリアン聖歌をうたいながら、廻り行をする。修女たちは黒布をかずき、木靴サボを穿き、伏目がちに、磨き立てられた廊下を歩む。ほかの修女と話すときも、ほとんど言語を用いず、静かな手の動きで話す。……等々。(「商い人」『岬にての物語』新潮文庫 pp.326-327)

 「観想」と「労働」の対比もまた、三島的な主題に合致している。「観想」を旨とする「天使」という実存的様態は、肉体的な感覚を離れた超越的認識の象徴である。「天使園修道院」という名称は、この禁域が決して感官によっては捉えられない「実相」の世界であることを明瞭に示唆している。

 禁域を覗き込みたいという世俗的な野心は、三島の根深いロマンティシズムを暗示しているように思われる。彼にとって「実相」を肉眼によって把握することは、最も痛切で重要な欲望の対象であった。絶対的な「美」を超越的な祭壇に安置しておくことは、その実存的方針に即さない。何が何でも「実相」を「仮象」と合致させることが、彼の悲痛な宿願だったのである。

 それならば「商い人」とは何者か。彼は「実相」に対する憧憬を有していない。人々の野卑なロマンティシズムに便乗して、経済的利潤を得ることだけに齷齪している。殊更に「実相」を求めず、専ら「仮象」の世界に甘んじて何の痛痒も覚えない人種を、三島が好意的に眺めたとは思われない。彼が最も憎んだのは、無限に持続する「仮象」の退屈な連鎖である。不完全な「美」が断続的に顕現する世界は、彼の鋭敏で貪婪な感受性を満足させなかった。尤も、だからと言って彼が、純然たる「観想」の領域に殉ずることを望んでいたと判定するのは軽率である。彼は不可知の「美」を愛さず、飽く迄も感官を通じて「美」へ達することを欲していた。天使園の修女たちの境涯を模倣することは、彼の理想に反していたのである。

 戦後の日本社会に対する三島の悪しざまな批難は夙に知られている。例えば「金閣寺」における次の記述は、その明瞭な象徴であろう。

 私にとって、敗戦が何であったかを言っておかなくてはならない。

 それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.86)

 三島にとって「敗戦」は、無際限な「仮象」の持続の復活に他ならない。戦後の民主主義社会に対する彼の執拗な憎悪は、それが「仮象」への度し難い埋没を意味したからである。平和憲法に安住し、経済的繁栄に現を抜かすデモクラティックな社会の秩序は、絶対者との邂逅を欲する三島の不可能な欲望を憫笑し、黙殺するだろう。彼の末期は、そうした社会に対する異議申し立ての側面を孕んでいたように思われる。無論、それを憂国の至情として殊更に美化するのは御門違いである。彼は純然たる国粋主義者ではなく、その政治的活動は専ら審美的な理念に裏打ちされている。彼は自らの審美的な要求を叶える為に「憂国」という大義を利用したのである。絶対的な「美」に対する三島の渇仰は、常軌を逸するほどの情熱に支配されていたのだ。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

近親姦と浪漫主義 三島由紀夫「水音」

 三島由紀夫の短篇小説「水音」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 煎じ詰めれば、この「水音」は「父殺し」を主題に据えた作品である。父親の謙造は、病床に臥せる娘の喜久子に対して性的な欲望を懐いており、喜久子と長兄の正一郎との兄妹愛は「恋愛に近いもの」であると明記されている。つまり、この「水音」の世界は濃密な「近親姦」(incest)の空気に覆われているのである。

 一般に近親姦は社会的な禁忌に定められている。三島にとって「禁圧された恋情」というモティーフは重要な意味を帯びている。例えば「春の雪」において、松枝清顕が綾倉聡子に劇しい執着を示すようになるのは、聡子と皇族との婚約が勅許を得た後である。聡子との関係が「未来」を剥奪されることによって特権的な光輝に鎧われるのは、それが三島の嫌悪した平板な日常性の秩序を、つまり無限に持続する「時間」の圧政を破壊するからであると考えられる。

 実際この兄妹の愛は恋愛に近いもので、二人の間を妨げているものは、羞恥と怖れに他ならぬと思われた。それだけに一つ屋根の下に暮しながら、これほどお互いに未知のところを豊富に持っている兄妹はめずらしかった。何かの瞬間に、二人がほとんど兇暴な理解で結ばれれば、そのとき二人にとって、出来ないことは何もないだろう。(「水音」『岬にての物語』新潮文庫 p.300)

 仮にインセストが社会的な悪徳と看做されていないならば、三島はそれを重要なモティーフとして認めなかっただろう。重要なのは、それが「淪落」として忌避され、断罪の対象に挙げられているという点に存する。言い換えれば、三島は「破滅しない恋愛」に価値を見出さなかったのだ。彼にとって恋愛の情熱は、社会的制度の一環としての「婚姻」と鋭く背馳するものである。そうでなければ、熾烈な恋情を梃子として日常性を超克する悲劇的なロマンティシズムは成立しない。

 「ロマンティシズム」(romanticism)という多義的な概念の包摂する範囲を厳密に局限することは恐らく不可能であるが、少なくとも三島における「浪漫主義」は、超越的な「実相」を肉体的な「仮象」の裡に見出したいという欲望の表現であると思われる。彼が性急な死を望むのは、プラトンの対話篇「パイドン」において語られる「愛智」の欲望に強いられた結果ではなく、人生において唯一「彼岸」と「此岸」とが接触する界面としての「死の瞬間」だけが、本来ならば不可能である筈の「実相」と「仮象」との稀有な合致を可能とする奇蹟的な刹那であると定義された為ではないかと考えられる。プラトンが超越的な「実相」に就いて語り、エピクロスが経験的な「仮象」に就いて語るのだとすれば、浪漫主義者は「実相」と「仮象」の目映い融合に就いて語るのだ。三島の語彙に置き換えるならば、それは「認識」と「行為」の完璧な一致ということになる。尚且つ、三島にとって最も重要なのは「美」の「実相」である。「美しい実相」と「美しい仮象」が重なり合う奇蹟的な局面の到来を、彼は専ら「破滅」の裡に求めたのだ。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

遮断された「彼岸」への通路 三島由紀夫「志賀寺上人の恋」

 三島由紀夫の短篇小説「志賀寺上人の恋」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 地上の現象的世界を超越した「彼岸」の領域を想定する思惟の形式は、洋の東西を問わず、人類の文明に幅広く瀰漫している。特に宗教の領域において「彼岸」の想定は殆ど普遍的な類型であると言って差し支えない。

 富貴の人を見れば、夢の中の快楽であることにどうして気がつかないのかと憫笑びんしょうする。容色の美しい女に会っても、煩悩につながれて流転るてんする迷界の人を気の毒に思う。

 この現世を動かしている動機にすこしも共感を抱かなければ、その瞬間から、現世は静止してしまう。上人の目にはその静止の相だけしか見えず、現世はただ紙上の絵、他国の一枚の地図にすぎない。こうした無漏むろの心境は、恐怖をも忘れさせてしまう。なぜ地獄が存在するのかわからなくなるのである。自分に対する現世の無力はあまりに自明で、しかも決して傲慢な人ではなかったから、それがおのれの高徳の結果であるとも思いもよらなかった。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 p.270)

 上人の「高徳」は「現世」或いは「此岸」の価値を一切認めないことによって成立している。上人の眼に映じる「静止の相」を、プラトニズムの語彙に置き換えるならば恐らく「実相」に該当するだろう。「彼岸」を観ずることは即ち「実相」だけで構成された世界を幻視することである。こうした「高徳」を帯びた人間にとって、感覚的な欲望は無益な衝動に過ぎない。

 肉体はすでにあらかた上人から失われていた。浮き出た骨が衰えはてた皮膚にわずかに覆われている我身を、入浴の折など、みずから眺めて喜びを感じた。この肉体となら、もう他人のように、折れ合ってゆくことができる。浄土の飲食おんじきのほうが、すでにこの身に叶っているように思われる。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 p.270)

 極限まで老衰した肉体を眺めて、その無抵抗に喜悦を感じるという発想は、浄土信仰に内在する「厭離穢土」の感受性を鮮明に象徴している。「彼岸主義」を奉じる者にとって「肉体」は歴然たる宿敵である。人間が「肉体」という監獄に封じ込められた存在であることへの呪詛は、プラトンの遺した書物においても語られている。上人の衰えた「肉体」は単なる加齢の帰結に留まるものではない。それは長年に亘って「彼岸主義」の精神的な圧政に虐待され続けてきた「現世」の、憐憫に値する無惨な荒廃の暗喩なのである。

 夜毎の夢と云っても、浄土の夢のほかにはもう見なかった。目がさめるときに、現世に生きることの、無常の憐れな夢の中にまだつなぎとめられていることを知って哀しむのであった。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 p.270)

 「肉体」が「仮象」であり「現世」が「無常の憐れな夢」であるという上人の信仰は、素朴な経験論的実感に背馳している。彼岸主義の最大の特質は、我々の肉体的な感官に入力される情報の一切を「仮象」即ち「無常の憐れな夢」として定義し、貶下するという点に存する。「実相」は「浄土」の裡に在り、我々の肉体に映じるものは悉く迷界の幻影に過ぎない。こうした考え方の持ち主にとって「老衰」と「死」が直ちに「恩寵=救済」を意味することは明白である。生きることは「仮象」に惑わされ、贋物の認識に拘束されることと同じなのだ。

 現世が一瞬のうちに、おそろしい力で上人に復讐をしたのである。もう大丈夫と思っていたものが瓦解したのである。

 庵にかえって、本尊に向って、名号を唱えようとする。しかし妄想の面影ばかりが立ち添うて妨げた。あの美しさは仮の姿である。滅ぶべき肉体の一時の現象である、そう思おうとするが、言いがたい美しさで上人の心を搏った瞬間の力は、何か稀有の、久遠の力のように思われた。一方、この感動をひたすら肉体のいたずらのように思い込むためには、上人はあらゆる意味で若くはなかった。肉体とはそんなにも一瞬に変貌するものではない。何か迅速で微妙な毒を浴せられ、精神がたちまち変質したのだと考えるほうが当を得ている。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 pp.271-272)

 「仮象」を「実相」と取り違えることは彼岸主義にとって敗北を意味する。滅び得るものは生成し得るものであり、従ってそれらは普遍的な本質を欠いている。そうやって「現象」の世界を超越しようと企図することが、彼岸主義の最も重要な眼目なのである。上人にとって「恋」に陥ることは、彼岸主義的な「高徳」の崩壊と同義である。「厭離穢土」の徳目を信奉する精神にとって「肉体」と「感覚」は、呪わしい「宿痾」に他ならないのだ。

 しかし、この短い物語は「彼岸主義の敗北」という単純な構造に全篇を覆われている訳ではない。上人は「実相」を捨てて「仮象」の世界に降下したのではなく、「仮象」の裡に特権的な「実相」の顕現を見出して恐慌を来しているのである。

 上人は御息所みやすどころの幻をいろいろと荘厳することに喜びを感じた。そうやって恋の相手を、ますますきらびやかな存在に仕立て、ますます遠い、ますます不可能なものにすることに、どうしてこれほど喜びを感じるのかわからなかった。むしろ御息所を手近な卑しい女体として思い描くほうが、自然ではなかろうか。そのほうが少くとも、幻影の裡だけでも、恋する者を有利にすることではあるまいか。

 こう考えると、上人は自分の御息所に描いているものが、ただの肉ではなく、また、ただの幻影でもないことに気づくのであった。上人はたしかに実相を、実体を描いていた。女人の上にそういう実体を尋ねるとはふしぎなことである。高徳の僧は、恋に陥ってさえ、抽象化によってものの実体に迫ろうとするその日頃の修練を失ってはいなかった。京極の御息所は、今や二百五十由旬の巨大な蓮の幻と一つになった。多くの蓮の花に支えられてまどろんでいる彼女は、須弥山よりも、一つの国土よりも巨大なものになったのである。(「志賀寺上人の恋」『岬にての物語』新潮文庫 pp.278-279)

 上人は「恋」に落ちることで「欣求浄土」の宿願と絶縁したのではない。本来、地上には顕現する見込みのない「実相」の姿を、肉体的な「仮象」の裡に発見するという奇態な矛盾に逢着したのである。「実相」を不可知の領域に留め、専ら純一に「彼岸の幸福」を祈念する形而上学的な欲望の形態は、恐らく作者の本意に合致していない。こうした矛盾は、三島の代表作である「金閣寺」において精力的に追究された問題と相互に響き合っている。「実相」を「仮象」の裡に宿らせるという不可能な欲望が、放火犯の僧侶に託して語られた三島の牢固たる「痼疾」なのである。

 若しも上人が、長年に亘って営々と築き上げてきた貴重な「高徳」を抛ち、迷界の情慾に耽溺してしまっただけならば、自ら好んで御息所の面影を荘厳しようとは考えなかっただろう。「実相」を「空想」と看做す無粋な現世主義の信徒は、特定の女性を過度に讃美しながら具体的な関係の成就を断念するという迂遠な精神に向かって、酷薄な冷笑を浴びせるだろう。実らぬ恋に執着して無為の日月を閲するくらいならば、他所の女に鞍替えする方が遥かに合理的な判断である。他方、若しも上人が完璧な彼岸主義者であったならば、所詮は「仮象」に過ぎない特定の女人に血道を上げるような愚挙は犯さなかっただろう。事実、御息所に邂逅する以前の上人は、巷間を跋扈する「容色の美しい女」たちに聊かも心を動かさずに生きてきたのである。

 「実相」と「仮象」を重ね合わせること、それこそが三島的な欲望の枢要を成す主題である。理性によって「実相」を観ずるだけでは虚しく、感性を通じて猥雑な「仮象」の裡に惑溺するだけでも決して満たされない。この厳粛な矛盾に直面して、超克に向けた様々な方策を講じることが、彼の実存的な物語を支配する根源的な規約であったのだ。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

詩作 「限りある者たち」

静けさの裏側にひそむ

いくつかの しょうのない罪

それを重ねて 裏返して 火を点けたのだ

君たちはまだ何も学ばず

それでも餓えることには熱心だ

先生は教卓の向こう側で

世界の落日をながめていた

わたしたちの小さな背中には

まるい肩胛骨が艶めいているばかりで

翼の生えるきざしも見えない

 

立ち上がれば

飛べるのだろうか

幾千年の闇の彼方までも

限りある いのち

限りある 死に顔

わたしたちの痩せたからだには

遠い昔の朝焼けの角笛がこだましているというのに

君たちはまだ何も学ばず

瓦礫のような世界の辺境で

溜息を結わえつけることにばかり熱心だ

先生はそのようにおっしゃる

わたしたちにはまだ分からない

知らないことが多すぎる世界の辺境で

壮大な落日に酔い痴れる資格すら持たない

詩作 「とおとうみ」

遠い海から

吸い込まれるように

この船縁へ

辿り着いた影

あなたは

なかなか笑わなかった

古代の魚類のような面貌

世界史から

忘れ去られた

一幅の絵画

 

記念写真を

撮りましょうよ

忘れ難い夏の一日のために

この束の間の閃光さえ

明日には朧げな記憶に変わるのだから

遠い海原の涯に

そそりたつ積乱雲の白い横顔

あなたはなかなか笑わないのね

背中に受けた

傷痕の深さのために

 

でも

トビウオは翼がなくとも風を切って翔べる

走り出すことに

ためらいは要らない

時計の文字盤を恨めしげに見つめるまえに

靴紐を結び直すことはできるでしょう

高く上げた顎

まっすぐに伸びるまなざし

希望は光よりも眩しく

世界は人間よりも優しい