サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 1

 比較的容易に手に入る限りでのプラトンの対話篇を一通り読み終えたので、目下、廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)の繙読に着手している。

 極めて断片的で通俗的な思い込みとして、所謂「哲学」の歴史は、古代ギリシャの賢人ソクラテスから始まるという認識が私の脳裡には刷り込まれていた。肝腎のソクラテス自身は、アテナイの民衆との直接的な対話や議論に終始して、自らの思想を手ずから著述という形式で記録することはなく、生前の彼の姿と学説は専ら弟子に当たるプラトンの作品の裡に窺われるのみである、というくらいの素朴な知識は弁えていたが、実際にプラトンの遺した夥しい対話篇を渉猟してみると、特に「パイドン」以降の作品に登場するソクラテスは明らかに、プラトン自身の思想を代弁する腹話術の人形のように見える。初期対話篇に登場する「アポリア」(aporia)のソクラテスと、自信満々に己の思想を開陳する神話的でプラトニックなソクラテスとの間には、明確な差異が介在しているように思われる。その程度の認識さえ、これまでの私は持たずに過ごしてきたのだ。

 プラトンの著述が後世のヨーロッパに齎した巨大な衝撃は今も衰えておらず、二十世紀の哲学者たちも、所謂「プラトニズム」(platonism)に類する主張に関して賛同するにせよ批判するにせよ、何れにしても彼の思想的な遺産に言及しないまま、固有の哲学的思惟を推し進める訳にはいかなかったらしい。それゆえに西欧の哲学を語ることは直ちにプラトンの思想を論じることに等しく、彼の独創的で画期的な業績を欠いては、そもそも「哲学」という文化的領域自体が、この世界に形成されることは有り得なかったという根強い印象が瀰漫しているように感じられる。けれども、如何に独創的な天才と雖も、自らの置かれた歴史的或いは地理的な条件から微塵も制約を受けずに、何らかの有益な成果を築き上げることなど不可能であるに決まっている。プラトンという哲学者が一個の重要な里程標であることは揺るぎない事実であるとしても、彼の登場する以前の時代においても、多くの頭脳明晰な賢者たちが粘り強い思索に打ち込み、世界の真理に関する様々な構想を粗描し、彩色していたという史実を閑却するのは、妥当な判断であるとは言い難い。生物学的個体が必ず産みの親を持つように、文化的果実もまた、伝統的な蓄積を土壌として花開くのが通例なのである。

 そうであるならば、ソクラテスプラトンの師弟関係を絶対的な「始原」(arkhe)と定めて、現存する資料の乏しさを理由に、それ以前の人類の思想的格闘を黙殺するのは明らかに不当な措置であると言える。廣川氏は著述の劈頭に当たり、ソクラテス以前の思想家たちの事績に関する最も熱心な蒐集家であったアリストテレスが、彼らの思惟の形態を「哲学」として定義する代わりに「自然学」の範疇へ組み入れたという歴史的事実への注意を読者に促している。それは翻せば、ソクラテスプラトンアリストテレスへと繋がる思想的系譜を「哲学」の正統として荘厳し、ソクラテス以前の賢者たちの知的遺産を「自然学」(physics)に留まる旧態依然の伝統として貶下する密かな意図を、アリストテレスの裡に読み取ることと同義であるように思われる。ソクラテス以前の哲学者たちを専ら「自然学者」として位置付け、その知的な関心が「生成界」における諸々の運動や現象に限って注がれていたと看做すアリストテレスの論調は必然的に、厳密な「実在」に関する「形而上学」(metaphysics)の優等を含意している。少なくともプラトンの「哲学」は明瞭に「生成」に対する「実在」の優越を宣言し、感性的な認識の価値を低く見積もる姿勢を決して革めようとはしていない。

 本書における廣川氏の探究の方針は、ソクラテス以前の哲学者たちの業績に関して、アリストテレス的な見解に基づいて捨象されてしまった側面を可能な限り浮かび上がらせ、救済することを主要な目的の一つに挙げている。不完全な哲学者として処遇された古代の思想家たちの教説を、真筆の断簡や間接的な言及から抽出し、論理的な想像力を以て補うことで復元しようとする貴重な企てが、日本語の著述として纏められ、流通していることは奇蹟にも等しい。プラトンアリストテレスの遺した著述の読解に際して、ソクラテス以前の哲学者たちの思想的系譜に関する知識を参照することが、理解度の向上に貢献するであろうことは確実である。先賢の思惟と批判的に向き合い、その成果と難点を解剖し、自己の独創性を発揮する余地を発見することは、あらゆる知性的探究の辿るべき普遍的な道程である。ピュタゴラスヘラクレイトスパルメニデスが如何なる思想を構築し、展開していたのかを学ぶことは、言い換えれば生前のプラトンが直面していた往古の風景を幻想的な仕方で追体験することに似ている。如何なる賢者であろうとも、生身の人間である限りは、最初から壮麗な知識の体系を備えた状態で地上に生を享けた訳ではないし、赤児の段階で難解な哲学用語を自在に駆使していた訳でもない。一つ一つの言葉、知識を拾い集め、それを自己の内部で錬磨し調整して、少しずつ知的な版図の拡張を推し進める地道な日々の累積があった筈なのだ。

 何かを学んだり知ったりする過程は、地図の範囲を広げ、その精度を高めることに似ている。あらゆる認識は相互に結び付き、多様な「接続」の関係を持っている。考える力を高めるということは、そのような関係の本数を増やし、認識的な関係の総体が及ぶ範囲を拡張することと同義である。プラトンしか知らない者より、ソクラテスアリストテレスと共にプラトンを知る者の方が一層賢明で、奥行きのある思惟の力を得られるだろう。無論、単なる博学、雑多な知識の寄せ集めのような頭脳の持ち主になることを奨励している訳ではない。重要なのは、夥しい知識を様々な方法で関係化する能力を鍛えることだ。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

 

Cahier(古びた手帖)

*主に仕事の為に使っている手帖を、年が明けたので真新しいものに取り換えて、去年使っていた分は二階の納戸へ蔵った。そのとき、不図思い立って鞄や戸棚を漁ると、古びた手帖の束が姿を顕した。最も古い年度は2013年、私が未だ市川の店舗に在籍していて、現在の妻と入籍した年である。気付けば早くも2020年、つまり過去七年間の私の業務と生活の履歴が、その手帖には記されていることになる。

 綴られた文字の含む内容は何れも無味乾燥な業務用の覚書で、一つ一つのセンテンスに重大な意味が籠められている訳ではないし、当時の出来事が詳細に記録されている訳でもない。商品の予約や、部下の社員の研修や、諸々の煩瑣な雑務の予定が簡潔な言葉で淡々と刻まれているだけである。それでも、その頁に登場する色々な人名に触れると、断片的な記憶が甦って仄かな郷愁を誘うのは摩訶不思議な魔術である。大抵の場合、人間の鮮明な記憶は誰かしら懐かしい「ヒト」の横顔と結び付いているものだ。

 私が仕事において手帖というものを使うようになったのは恐らく2013年頃が最初で、2006年に入社してから七年間くらいは、自分のスケジュールやタスクリストを文字に起こして管理するという頗る原始的な慣習さえ持たずに働いていたということになる。その反動のように、2013年の手帖には、殆ど余白を残さぬほどに、筆圧の強い黒々とした几帳面な文字で、様々な予定が書き込まれ、恰かも濃密な呪詛の文句を刻んだ古代の邪悪な文献のようだ。

 人間は色々な事柄を極めて容易く忘却する生き物で、自分自身ではそれなりに鮮明な記憶を保持している積りであっても、大抵の場合、それは現実離れした奇態な思い込み、或いは暢気な思い上がりに過ぎず、事物の細部は悉く忘却の彼方へ跳び退って最早軌跡を辿ることさえ叶わない。忘れていた名前もあるし、自分の記憶とは辻褄の合わない物事の時系列に面食らう場合もある。私が忘れてしまえば、きっと誰も思い出すことがないだろうと思われる個人的な出来事も、過去の隙間には無数に含有されているに違いない。だからこそ、人間は生得的な情熱のように何かを記録することに情熱的な野心を燃え立たせ、様々な手段で自己の実存の証拠をこの世界に刻み付けようと躍起になるのだろう。その試みが往々にして虚しい悪足掻きに終始し、余程の偉人でもない限り、その人の生の痕跡は拭い去られ、散り散りに吹き飛ばされ、如何なる映像も結ぶことのない孤独な沈黙の裡へ埋葬される。人が子供を作るのも、一つの記録の手段であり、自己の痕跡を生物学的な連鎖の過程へ組み入れようとする努力に他ならないのかも知れない。子供の振舞いや体形の中に、自分と類似した要素を発見して嬉しくなるのは、そこに自己の存在の証を見出すからではないだろうか。

 日々、齷齪と生きて走り廻っていると、嵐のような光陰の変転の繰り返しに殊更想いを馳せることもないので、流れ去る時間の重みと手応えを忘れてしまいがちだが、こうやって過去七年間の手帖を徒然に捲り返してみると、一頁ごとに記された筆跡の積み重ねが、知らぬ間に厖大な量へ達していることに気付いて暫し呆然とする。当面の予定を手帖の真っ白な空欄に書き入れる作業を、私は数え切れないほど幾度も繰り返して、この2020年の睦月に辿り着いたのである。その間に、私の身辺には公私を問わず様々な事件や出来事が降り注いだ。自ら招いた不幸も、突然に到来した僥倖もあったが、何れにせよ改めて回顧してみれば、自分の人生が思わぬ偶然の連鎖によって流動を強いられ、少なくとも2013年の時点では想像もしなかった場所に根を下ろしていることに気付かされる。それは記録の力を借りて思い出す以外に実感する術のない、或る奇妙な感慨である。

プラトン「ティマイオス」に関する覚書 4

 プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。

 「ティマイオス」の後半における物質の組成に関する聊か煩瑣な議論は、プラトン宇宙論と自然観が極めて宗教的で合理的な性質を孕んでいることを雄弁に物語っている。彼の物語る詳細な理窟は、経験的な観察の上に成り立っているが、それは物理的な実証を伴っている訳ではなく、寧ろ事前に構築され定められた「神話的思考」の秩序に即するように演繹されている。彼は純然たる知覚的な観察から帰納的に物事の真理や本質を抽出するという手法を駆使しているのではなく、専ら事前に構築された神話的な秩序を補強する為に、つまり予め決定された筋書きと矛盾しないように、経験的な事実を取捨選択し、それを自らの「自然」に関する理論的な枠組みに当て嵌め、代入しているのである。

 経験的な事実の背後に、容易には捉え難い何らかの神秘的な秩序が存在するという期待を持つことは、あらゆる人間的知性の駆動の端緒となる考えである。この点に関しては、知性的な探究を志す者は誰であっても、その理論的な立場の相違に拘束されることなく、共通の合意の上に立脚して自らの思惟に精励していると言える。けれども、この「ティマイオス」において開示される神秘的な宇宙論は、経験的な現象の累積から、共通する普遍的な規則を慎重に取り出そうとする謙虚な姿勢とは全く合致していない。彼の宇宙論は、根拠の曖昧な複数の「公理」から出発して、半ば強引に辻褄を合わされ、その結果として独創的な「幻想」を描き出している。この「幻想」は殆ど宗教的な神話に等しく、理論的な解釈を通じて真摯に吟味されるべき対象であるというよりも、専ら情熱的な「信憑」によって嚥下されるべきものとして読者の眼前に提示される。

 恐らくプラトンの関心は、生成する事物の精密な観察や分析には向けられていない。パルメニデスピュタゴラスといったイタリア学派の思想的系譜を受け継ぐ彼の視野において、感覚的に確かめられる個物の多様な形態は、真摯な思惟の対象には値しない。彼が重んじるのは専ら、純然たる理性的認識としての「ロゴス」(logos)であり、その「ロゴス」の自存的な連鎖と構造の帰結なのである。この「ロゴス」は感覚的で経験的な事物の振舞いによっては規制されず、改訂されることも有り得ない。寧ろ「ロゴス」に従ってあらゆる事物は自らの動きを統制しなければならないのである。何故なら、この世界の一切は、デミウルゴスによって創出された「被造物」であり、生成する事物は悉く超越的な設計図に依拠して構築されているのだから、経験的な事物が超越的な設計図の規範を超越することは原理的に有り得ないのである。彼にとって、感性的な領域における事物の個別的な振舞いは、思惟の副次的な対象に過ぎない。超越的な設計図の不完全な模倣に過ぎない感性的事物の演じる「現象」(phenomenon)を幾ら入念に観察し分析してみたところで、その結果として得られる法則性の認識が「真理」に合致する保証は何処にも存在しない。自存的な「論理」の要求する必然的な展開と帰結に従うことだけが、思惟の本質的な働きであり、どれだけ空理空論に見えようとも、経験的な事実に反する内容であろうとも、諸々の「公理」が要求する普遍的な「帰結」(corollary)だけが優先的に支持されなければならないのである。

 所謂「科学」は、主として経験論的な領域を取り扱う知性的探究の営為である。他方、プラトンの論じる哲学的な主題は原則として、経験論的な領域には含まれない不可知の分野に属している。彼の思惟は経験論的な現象の仕組みを解明する為に推進されるのではなく、一般に「形而上学」(metaphysics)と呼ばれる、知覚的な認識の及ばない領域に関する思弁的考察の為に捧げられている。形而上学の取り扱う主題は、経験的な観察によって観測することの出来ない対象であり、従って我々が活用し得る手段は精緻な「推論」(deduction)に限定されている。それは物理的な証拠を持たず、専ら推論の過程の妥当性に基づいて公共的な信頼と承認を確保する。プラトンが経験的な観察や実証に依拠せず、専ら「言論」の力を用いる「問答」(dialektike)を通じて「真理」に到達することを称揚するのは、推論の過程の正しさだけが結論の正しさを保証すると看做し、感性的な認識を「ノイズ」(noise)として斥けているからである。こうしたプラトンの思惟が極めて数学的な「論証」(proof)の形式に類似していることは明瞭な事実である。「ティマイオス」を通じて披歴された彼の宇宙論は、経験的観察の成果を累積し要約するものではなく、純然たる「論証」と感性的な世界との「照応」(correspondence)を強調する為に綴られている。理性的な「実在界」と感性的な「生成界」との「照応」を立証することは、言い換えれば、彼の「論証」が単なる観念の遊戯ではないことを訴えることに等しい。両者の「照応」が成立しない限り、プラトンの精緻な議論は実践的な効力を発揮することが出来ないからである。感性的な認識を「謬見」(doxa)として排斥するだけでは、彼の理論は経験的な現実に作用する為の具体的な「回路」を獲得することが出来ない。

 両者の「照応」が成り立つ限りにおいて、精細な「論証」への執拗な熱中は、プラトンの「知」の特権的な威光を約束する。徹底的に磨き抜かれ、如何なる瑕疵も含まぬほどに鍛えられた美しい「論証」はそのまま、経験的な現実に関する個別的な観察を一蹴し、絶対的な「正しさ」を形成するだろう。一つ一つの断片的な観察の成果に惑わされて、それらの総てを包摂する理論的な枠組みを提示し得ない憐れむべき人々に対して、プラトンの輝かしい「論証」は超越的な影響力を発揮するだろう。しかしながら、こうした振舞いそのものが、厳密な学術であるというよりは、遥かに宗教的な「知」の体系に近似しているという事実は否み難い。彼の精密な論証の正しさが、何らかの結論の正しさを証明するとしても、それは或る限られた体系の内部においてのみ適用され得る正しさではないのか。その限定された知的体系は、幾つかの普遍的な公理を認めることによって初めて参入し得る閉域である。従って、その閉域の正統な権威を認めない人々の眼には、どれほど精緻な推論によって織り成されていようとも、特定の公理から純然たる演繹によって導き出された学説は、欺瞞的な偏見として映じる虞がある。そうした事態を避ける為に、彼は超越的な「イデア」を、下界の多様な個物の裡に「臨在」(parousia)させようと試みるが、その手続きが直ちに「実在/生成」の相互的な「照応」の事実を証明することに帰着するとは言い難い。この世界が超越的な秩序に従って合理的に設計されているという信仰自体が、不可知の根拠に基づいて組み立てられた、一つの先験的な公理なのだから、その公理自体を頑強に否認する者にとっては、合理的認識が必ず経験的認識と相関するというプラトンの言い分こそ、紛れもない「謬見」(doxa)に他ならない。言い換えれば「ティマイオス」は、宇宙の生成に関する実証的な探究の書物ではない。それは宇宙の生成に関するプラトンの思想的な要請を描き出した一つの「神話」である。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本
 

プラトン「ティマイオス」に関する覚書 3

 プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。

 「ティマイオス」の宇宙論において、プラトンは従来の「生成/実在」の理論的区別に加えて、第三の要素を導入する。「コーラ」(chora)と呼ばれる、その第三の要素は、実在の形相に基づいて行われる生成を受容する「場」であると説明される。しかし、この「場」という訳語の字面に引き摺られて、「コーラ」という概念を特定の物理的な空間として捉えるのは軽率な謬見である。

 一見すると、この「コーラ」という概念は、古典的な原子論における「空虚」(kenon)の概念に類似しているように思われる。しかし、この「コーラ」は単なる「存在の欠如」を意味するものではないし、必ずしも事物の生成に先立って存在する実体的な空間であるとも言い切れない。それはあらゆる種類の事物の生成を受け容れるがゆえに、如何なる固有の形態も特質も持たず、感官を通じて捉えることも出来ない。感官を通じた把握が不可能であるという意味では、この「コーラ」は超越的な実在としての「イデア」に類似している。しかし、プラトンは明晰な筆致で「コーラ」と「イデア」との混同を戒めている。「コーラ」は事物の本質としての「イデア」ではなく、超越的な「イデア」に基づいて生成が行われる場合の、その舞台装置のようなものである。しかし、それは生成する事物から離れて独立的に存在する何らかの実体ではない。そもそも、プラトンの考えでは、生成する事物は飽く迄も単なる現象であって、それ自体では如何なる同一性も保持し得ないものである。「コーラ」は、その意味で何らかの物理的な実体ではないが、事物の生成を可能にする不可視の領域、その存在が理論的に推測される透明な空虚、存在の欠如としての空虚ではなく、存在そのものを可能とするような、純然たる存在そのもの、言い換えれば「有」そのものである。但し、この場合の「有」という概念は、所謂「イデア」とは異なる。何故なら、あらゆる「イデア」は恒常的な同一性を永久に失うことがなく、如何なる生成とも無縁で、その性質を全く変化させることがないからである。他方「コーラ」は、あらゆる種類の「イデア」に基づいて創出された多様な事物の生成的な現象を悉く受容し、感覚的な表象として現前させる。その意味では、この「コーラ」という概念は恒常的な同一性を持たず、固有の本質を備えることもない。従って「コーラ」を「イデア」の範疇に組み入れることは論理的に不可能である。

 言い換えれば、この「コーラ」という概念は「生成」そのものであり、あらゆる「生成」を受容する透明な媒体であると考えられる。それは存在の欠如としての「空虚」ではなく、あらゆる生成と不可分に顕れる見えない土台のようなものである。そして恐らく、この「コーラ」という概念は「時間」の誕生と共に生み出された相対的な遷移の領域である。若しも如何なる種類の「時間」も流れず、事物の生成変化が一切行われないとしたら、世界は完全に無時間的な「イデア」の林立する領域となり、従って「生成の場」としての「コーラ」の介在が要請される理由は消滅する。

 言い換えれば、プラトンはこの世界に「生成」が存在することを認めている。一切の生成を感覚的な謬見として、つまり単なる錯覚として棄却したエレア派の実在論的なラディカリズムに比べれば、プラトンの考えは遥かに穏当で妥協的である。用語の混乱を避ける為に、ここで「実在」と「存在」との区別を済ませておこう。「実在」という観念は、恒常的な同一性を保つ「存在」を指している。パルメニデス以来の厳格な議論に依拠すれば、あらゆる事物は「実在するか否か」の何れかに当て嵌まるのであり、所謂「生成」は感覚の生み出す虚偽の認識に他ならない。こうした考え方が、プラトニズムの或る側面を極端に純化し、拡張した論理であることは明白である(歴史的には、パルメニデスを始祖とする「エレア派」の思想の方が、プラトンに先行している)。「感覚」が純然たる「虚偽の認識」に過ぎないのであれば、所謂「アイステーシス」(aisthesis)を通じて、存在の「実相」に至ろうとする経験論的な方針が、欺瞞的な態度として排撃されるのは当然の帰結である。パルメニデスにおいては、この世界には「実在」のみが存在する。従って殊更に超越的な「実在」としての「イデア」を想定する必要が生じない。感覚的認識は不当な謬見に過ぎず、無根拠な幻影、或いは肉体的な「仮象」に過ぎない。つまり、感覚的表象は存在しない。従って、パルメニデスは「生成的存在」に関する考究に価値を認めないのである。

 けれどもプラトンは、エレア派の思想から濃密な影響を蒙りつつも、生成する事物の物理的な存在自体は認める。そこから「イデア」の「分有」(methexis)という考え方が導かれるのである。彼の思想は、パルメニデスにおける「実在」の論理と、ヘラクレイトスにおける「生成」の論理との有機的な統一という壮大な企図に向かって捧げられているのである。超越的な「イデア」が地上的な個物の裡に断片的な仕方で「臨在」(parousia)するというプラトンの考え方は「実在界」及び「生成界」の両立と併存を認めていることの証左である。感覚を通じた認識が、本来的な「知識」(episteme)の把握には至らないと看做しつつも、感覚を通じて把握される生成的な事物の「存在」そのものは容認しているのである。そして生成的な事物の存在を包摂する領域として、或いは生成的な事物の総体として「コーラ」の概念が導入される。「コーラ」は「イデア」の「似姿」(eikon)が生成され表象される透明な舞台である。言い換えれば、それは生成的事物の「存在」そのものである。何らかの個物が感覚的な世界において「存在している」という事実自体が「コーラ」の本質なのである。

 「イデア」の複合的な「分有」の過程が「生成」と呼ばれる。この「生成」の領域においては、恒常的な同一性を保持する「実在」は何処にも存在しない。唯物論的な思想家たちは、それゆえに「万物流転」(panta rhei)の無常観を採用し、飽く迄も感覚的な個物を「実体」と看做しながら、それらの運動と変異を支配する一般的な規則を「ロゴス」(logos)として抽出しようと試みた。それは感覚的認識の内部における整合性の確立を求めるものであるから、そもそも感覚的認識を「謬見」(doxa)として斥けるプラトンのエレア派的な主張とは対立する。プラトンにとって感覚的認識の世界は「イデア」の堕落した形態、超越的な秩序の壊乱された状態を意味するものであるから、感覚的認識の内部における整合性を問うことは無益な徒労に過ぎないのである。地上の感覚的世界には、打ち砕かれた「イデア」の破片が無数に散らばり、無作為に結合して、純然たる「本質的実在」の顕現を妨げている。これらの度し難い混乱を整除し、本来の普遍的な秩序に還元することが、プラトンにおける「思惟」の目的である。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本
 

プラトン「ティマイオス」に関する覚書 2

 プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。

 「ティマイオス」の前半において語られるのは、宇宙の成り立ちに関する神話的な思弁である。感覚的な証拠に基づかない、純然たる「ロゴス」(logos)の論証的な作用を重んじるプラトン宇宙論は、所謂「センスデータ」(sense data)の精緻な検証に依拠する実証的な科学の手法に慣れ親しんだ(尤も、厳密な科学的実証の方法論を熟知している素人は、現代においても殆ど皆無であると看做して差し支えない)現代人の眼には、如何にも空疎な妄想のように見えるかも知れない。けれども、プラトンの神話的思考を往古の未開の時代の朽ち果てた遺物のように冷笑するのは驕慢な態度である。厳密な論証に基づいて、四囲の万物を分析し解釈する知性の所有者は、何時の時代にも貴重な少数派の種族である。我々は日常的に、因果の証明されない曖昧な認識と推論に基づいて、様々な事柄に就いて断定的な審判を下すことに慣れ切っている。

 神話的思考とは何か。それは要するに、この世界の成り立ちや現象に就いて、超越的な意志(擬人化された「神」でなくとも、例えば抽象的な観念としての「運命」であっても構わない)の作用を信じる思惟の様式である。「デミウルゴス」(demiurge)の介在によって宇宙が生成されたという記述は正に、プラトンの超越的な設計主義の傾向を露わに告示している。この世界には予め厳然たる設計図が存在し、総ての現象はその絶対的な「アルケー」(arkhe)から必然的な因果律を辿って流出するという世界観は、純然たる「偶然」(エピクロス=ルクレーティウスの提示した「クリナメン」のような、因果律の「亀裂」)の介入を認めず、森羅万象の一切を「ロゴス」の連鎖の裡に還元する。この世界は無意味な偶然の相対的な遷移に過ぎないというニヒリスティックな世界観は、邪悪な異教として排斥されるだろう。プラトンは、神話的思考の体系に極めて厳密で精緻な「論証」(proof)を賦与した。素朴な神話的論理を、比類無い精緻な思惟を通じて錬磨し、単なる伝承に過ぎなかった言葉の連なりを、抽象的な論証の連鎖に置き換えたのである。こうした思惟の形態が、後世のヨーロッパを席捲することになるキリスト教の信仰と極めて密接に結び付いたことは周知の事実である。彼は一つの公理、信仰によって護られるべき超越的な公理に、浩瀚な論証を賦与することで、この世界の総てを正しく説明する「真理」に到達し得ると考えた。個別的な存在としての人間が適切に理解し得るかどうかに関わりなく、この世界には厳然たる「真理」が内在しており、総ての現象は「真理」から派生して、無限の生成を積み重ねているのだとプラトンは看做したのである。

 神話的思考は、この世界には必ず何らかの超越的意志が、つまり事前に定められた普遍的な「律法」が内在している筈だという確信に衝き動かされて機能する。言い換えれば、こうした思考は宇宙の総体を擬人化し、生命体として処遇するという原則に必ず従属するのである。それならば、この絶えざる遷移と流動に覆われた落ち着かない世界の「設計図」(blueprint)を如何にして発見するかという問いが、最大の関心事となる。そして神話的思考の主体にとっては、その超越的な設計図は必ず誰かの主体的な意図として想定されるべき対象なのである。神話的思考の主体が発見するのは、単なる法則や統計学的な傾向ではなく、超越的な絶対者の「深慮」である。他方、科学者たちは、物理的な法則を「意味」ではなく「現象」として捉える。言い換えれば、認識される諸々の科学的法則を、特定の主体の発揮する意志の産物として捉える態度を放棄する。

 プラトンが感覚的認識を「謬見」(doxa)として排斥するのは、それが神話的思考の首尾一貫した構成を阻害するからである。言い換えれば、彼は抽象的な「ロゴス」こそ、超越的な主体の創出した「設計図」そのものであると看做していたのだ。「ディアレクティケー」(dialektike)を通じた厳密な論証だけが、この世界を支配する潜在的な「真理」の実相を正しく映し出す。知性的な思惟だけが、感覚的な「現象」(phenomenon)の背後に潜む揺るぎない「真理」へ到達することが出来る。地上的な「生成」は悉く、絶対的な「存在」からの偶有的な流出の結果に過ぎない。言い換えれば「生成」とは「仮象」に過ぎない。こうした考え方は、ヘラクレイトスの「万物流転」(panta rhei)に象徴される「相対主義」(relativism)の理路と対蹠的な性質を有している。「生成」を万物の「実相」と看做す種類の学説は、寧ろプラトニックな「存在」の観念こそ人工的な「仮象」に他ならないと断じるだろう。我々は感覚的認識を通じて把握された事物に、後天的な仕方で「法則」を見出す。累積された経験的な認識が、諸々の抽象的な観念を析出する。知性的思惟が、事前に定められた設計図を内包していると考えるのは、倒錯した論理である。少なくとも「唯名論」(nominalism)の信徒たちは、プラトニックな「本質主義」(essentialism)が、一種の知的な驕慢であることを問責するだろう。知性の働きを通じて設定された後天的な仮象を、この世界の「起源」(arkhe)として実体化する混乱した論証の手続きを糾弾するだろう。だが、プラトンの考え方は、キリスト教神学の領域に流れ込み、その最も重要な培地として尊重され、ヨーロッパの文化と精神の構築に大きく貢献した。プラトンの神話的な宇宙論は、西欧社会の思想的原質に他ならないのである。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本
 

プラトン「ティマイオス」に関する覚書 1

 プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。

 「ティマイオス」は、プラトンの遺した夥しい著作の中で最も広範且つ深甚な影響力を発揮した書物であると言われている。四世紀ギリシャ天文学者カルキディウスによるラテン語の抄訳は、当時の西欧社会に重要で決定的な知的衝撃を与え、宇宙の成り立ちに関する一つの強力なイメージを涵養することとなった。

 あの分厚い対話篇「国家」(ポリテイア)に比べれば、その分量は極めて僅少で簡素だが、見方を変えればそれだけプラトニズムの神髄が凝縮されているとも言える。宇宙の生成に関する序盤の議論は、他の対話篇において繰り返し語られてきたプラトン実在論的な思想の特性を鮮明に浮かび上がらせている。

 さて、私の考えでは、まず最初に次のような区別を立てなければならない。つまり、常にあるもの、生成しないものとは何か、そして、常に生成し、決してあるということがないものとは何かということだ。前者は、常に同一を保つので、理とともに知性によって捉えられる。他方、後者は、生成消滅し、真にあるということが決してないので、理と合致しない感覚とともに思いなしによって捉えられる。さらに、生成されるものはすべて、必ず何らかの原因によって生成しなければならない。すべてのものは、原因なしに生成することは不可能だからである。しかし、どんなものであれ、それの造り主(デーミウールゴス)が常に同一を保つものに目を向けて、そのようなものをモデルに用いて、それの形や性質を仕上げるのであれば、すべてのものは、必ず立派なものとして作り上げられる。しかし、生成したものに目を向け、生み出されたものをモデルに用いれば、仕上げられたものは立派なものにはならない。(『ティマイオス/クリティアス』白澤社 pp.34-35)

 「存在するもの」と「生成するもの」に関する区別は、プラトン以前の古代思想を通じて育まれてきた理論的な構図である。「万物流転」(panta rhei)の学説を掲げるヘラクレイトスは、普遍的な「存在」の観念を排斥し、他方、エレア派の始祖と目されるパルメニデスは「生成」の観念を否定して、普遍的な「存在」を事物の「実相」或いは「真理」と看做した。両者の対照的な性質を徴する限り、プラトンの思想が、ピュタゴラスパルメニデスを擁する所謂「イタリア学派」の系譜に強固な親和性を懐いていることは明瞭であるように思われる。

 この理論的区別は、古代ギリシャ哲学のみならず、人類の懐き得る思想の歴史全体を貫徹する最も普遍的で基礎的な争点の一つである。ピュタゴラス及びパルメニデスから継承された実在論の厳格な思弁的性質は、神学を含む後世の「形而上学」(metaphysics)の誕生と発展に大きく寄与した。その重要な首魁がプラトンであることは論を俟たない。彼は「常に同一を保つもの」即ち「生成しないもの」を、世界の正しい範型として定義した。彼にとって「ロゴス」(logos)は、生成的な現象の背後に見出される消極的で暫定的な「法則」に留まるものではない。つまり、経験的な観察や実験を通じて絶えず「反証可能性」(falsifiability)に怯え続けるような繊弱な真実ではない。プラトンにとって、感覚的認識は「正しい知識」(episteme)の把握という崇高な目標に対して完全に無力であり、寧ろ有害であると看做される。「生成するもの」とは即ち「存在しないもの」と同義であるから、それは真摯な考究の対象には値しないのである。

 「常に同一を保つもの」つまり「同一性」こそが事物の本質的な姿であるというプラトンの観念的な実在論は、当然のことながら生成的な現象の一切を不完全な「幻影」として貶下する結果を招く。彼にとって「生成」は、完全なる「同一的実在」の不完全な模倣を意味し、従って「生成」に関する感覚的認識から「真理」を導き出すことは不可能であると看做される。尤も、この「ティマイオス」において語られる宇宙論は、こうした「生成」と「存在」の区別に関して、聊か妥協的な折衷の措置を導入しているように思われる。少なくともティマイオスは、宇宙が「生成するもの」であることを明確に認めている。その上で、彼は万有の造物主であるデミウルゴスが、宇宙の創造に際して「存在」を規範とする場合と「生成」を規範とする場合とを比較し、その優劣を定義する。こうした記述は、対話篇「国家」における「ミメーシス」(mimesis)に就いての議論を想起させる(「存在」の不完全な模倣に過ぎない「現象」を更に模倣する芸術家の所業を指弾するもの)。

 人間が肉体的な存在として地上における活動を強いられている以上、様々な生成的現象を単純に否定することは必ずしも有益な判断ではない。プラトン自身、有名な「洞窟の比喩」(「国家」)において、事物の実相である「イデア」を目の当たりにした知者は、再び洞窟に暮らす囚人たちの許へ回帰しなければならないと説いている。彼の思想は極めて論証的で思弁的な性質を備えているが、その特徴は必ずしもプラトンが実践的な人間ではなかったことを断定的に立証するものではない。言い換えれば、彼は自己の抱懐する思想と、自己が現に巻き込まれている実存的な領域との調和を図る必要に迫られていた筈である。彼は単に感覚的な事物の実在を否定した訳ではない。重要なのは「正しい知識」つまり「真理」を把握する為には如何なる手段と方法を駆使すれば良いのかという設問だ。「真理」の把握は、彼にとって純然たる学術的関心の対象に留まるものではなかった。あらゆる哲学は、哲学者自身の内なる実存的要求に基づいて営まれ、養われる。プラトンは「絶対的な正しさ」を必要としていた。それが彼自身の内なる実存的要求に基づいていることは論を俟たない。いや、このような言い方は適切ではないかも知れない。要するに哲学者とは「絶対的な正しさ」を要求せずにはいられない実存的様式の持ち主を指す単語ではないだろうか? 不完全な認識、明晰ではない認識に満足することの出来ない実存的要求が、あの難解な「哲学」という思想的制度を創出するのである。

 尤も「絶対的な正しさ」という表現自体が、精密な検証に附されねばならないだろう。プラトンは普遍的に妥当する「真理」を得る為には、相対的な「知覚」(aisthesis)に論拠を求めてはならないと判断した。言い換えれば、彼は自己完結的な「論証」(proof)の完成に莫大な情熱を燃やしたのである。その哲学的な信念は、この「ティマイオス」において語られる完全な球体としての「宇宙」のイメージと照応しているように思われる。如何なる外在的な補助も必要とせず、ただ自己自身に内在する力だけで成立する自存的な「真理」の獲得、それがプラトンの夢見た終生の「理想」だったのだ。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本
 

「サラダ坊主日記」新年の御挨拶(2020年)

 謹賀新年。毎度お馴染みサラダ坊主でございます。本年も何卒宜しく御願い申し上げます。

 過去の慣例を顧みると、念頭には必ず気鬱な仕事の愚痴を垂れ流すのが常態と化していて、同じ芸を繰り返すのも進歩のない話だと思い、今年は余計な泣き言は控えておくことに決めた。世間が大型連休を寿いで、飲めや歌えの狂宴に明け暮れるのを尻目に、彼らの酒肴や馳走を誂えるべく、日々払暁から働き出して、夜の十時過ぎに家へ帰り着く毎年の通例に、今更愚痴を並べようとは思わない。例年と比較して、随分と割り切った覚悟の固め方で課せられた業務に精励したと自負している。泣き言や文句を列ねる暇があるならば、歯を食い縛って夢中で働いた方が余程気分は清々しい。良くも悪くも自分で選んだ稼業なのだから、その稼業に付き物の苦労を厭うのは筋違いではないか。

 愛娘が生まれて直ぐに千葉市へ越して、今の店舗に赴任してから、新年を迎えるのは四度目である。生憎、入居する館が元旦営業という無慈悲な原則を一向に革めようとしないので、この四年間、元旦に休んだことは一度もない。最初はそれが恨めしく、心身の疲労も一入であるように感じられたが、慣れてしまえば平気なもので、元旦の勤務に就いて怨嗟の科白を並べ立てようとも最早考えない。誰かが引き受けねばならない役割が、偶々自分の双肩に圧し掛かっているというだけの話で、持ち場を選り好みするのは青臭い素人の考えである。毎晩、米麹の甘酒を温めて飲み乾す習慣が奏功したのか、肉体的な疲労は割合に軽微であったから、後は精神的な脆弱さを叩きのめせば完璧である。苦痛は嫌がるほどに重さを増す。苦痛に親しむならば、それは苦い良薬のように精神を鍛え、滋養を与える。

 昨年は三島由紀夫の短篇小説を渉猟しつつ、プラトンエピクロスセネカといった古代ギリシャ・ローマの思想家たちの遺した典籍に触れる機会を多く持った。自分の視野の狭さ、知識の乏しさ、頭の悪さを補う為に、先賢の遺訓に縋ろうと、珍しく殊勝な心意気を燃え立たせたのだ。実際に始めてみると、案外に充実した時間である。

 哲学書というのは、予備知識を持たずにいきなり飛び掛かって捻じ伏せられるほど容易くない。否、それは哲学書に限らず、あらゆる領域の文化に共通して言えることなのかも知れない。デカルトであれ、スピノザであれ、ヘーゲルであれ、ハイデガーであれ、デリダフーコードゥルーズであれ、彼らの樹立した独創的な知見の根底には必ず、古代ギリシャの思想家たちに関する読解の成果が横たわって、肥沃な土壌の役目を担っている。全く何もない虚無の場所から、彼らの叡智が醸成された訳ではない。それは如何なる人間も親を持たずに生まれることが出来ないのと同じ理窟である。つまり、物事には必ず歴史的な「系譜」(genealogy)というものが関与しており、その形成の過程を踏まえずに最新の断片だけを眺めるのは、途中の計算式を理解せずに最終的な答えだけを眺めるようなもので、一向に対象に就いての本質的理解が深まらないのである。文学に関しても同様で、無作為な濫読は単なる移り気な流謫の境地を育むばかりであり、様々な作品の相互的な関係性や歴史的な伝統の系譜を把握しない限り、理解は表層的な代物に留まる。三島由紀夫の小説を悉く踏破しようという私的な企図も、こうした問題意識に基づいており、ただ「金閣寺」だけを読んで、それを理解しようとするのではなく、その他の作品も軒並み通読することで、色々な「参照」(reference)の根拠を確保したいという狙いがあった。

 このように考え出せば、凡そ人間に関することで、知らなくてもいいことなど一つも存在しないのではないかと言いたくなる。文学も哲学も、政治も経済も、倫理も習俗も、同じ人類の活動の様態なのだから、相互的な聯関が全く存在しないと考える方が不自然であり、何れの分野も煎じ詰めれば、この世界の全体に関する「知」(episteme)への欲求と衝迫に支配されている点では変わりがない。仏教における「縁起」の学説のように、世界に関する一切の知識は相互に影響を及ぼし合い、生成的な関与を無限に累積しながら、巨大な体系を築き上げている。何かを知ることは、必然的にその他の認識への連絡を促すものなのだ。

 或る知識を、純然たる卑近な実用性の尺度に基づいて、意味があるとかないとか論じるのは視野狭窄の振舞いである。自分の身の周りの狭い世界に関する知識にしか興味を寄せないのは、怠惰で退嬰的な態度である。そういう悪しき未来を排する為にも、粘り強く読書に取り組みつつ、日々の生業に関しても真摯に情熱を燃やし、年月の経過を豊かな稔りで潤していきたいと思う。