サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩作 「東雲の街衢」

その春の明け方に
ゆっくりと目醒めたものは
美しい羽根を伸ばして
闇の彼方へ
溶け入りつつあった
路面電車
夕暮れの路を行き交うように
私たちは暁の空を仰いだ
影法師の重なり合う交点に
なにを夢見ただろうか
私たちは頼りない一対の絵画のように
冷たい顔で
ポーカーに勤しむ

この切実な願いが
いつか届くならば良いのに
世界の最果ての庭で
潮汐発電所が眠られぬ夜を営んでいる
私たちの遭遇の記録
一夜限りの愛情のあとで
私たちの墓標の
形作られたあとで

若き心理学者の肖像 三島由紀夫「彩絵硝子」

 三島由紀夫の短篇小説「彩絵硝子だみえがらす」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)について書く。

 作家の文体が、年輪の堆積に伴って様々な変遷を遂げるのは当然の現象であり、そこには当人の精神的組成の変貌や、徐々に培われた世智の醗酵などが影響している。「三つ子の魂百まで」という俚諺は確かに真理の或る側面を言い当てているには違いないが、根源的な感性の様式は揺るがないとしても、そこに附加される夥しい経験の重量が如何なる屈折も褶曲も魂に強いないとすれば、それは余りに杜撰で呑気な生活であると言わざるを得ないだろう。幼児のままで大人びることは不可能ではないし、実際、そのような金魚鉢の住人のような成年も現代では特に珍しくもないが(アンチエイジングが持て囃される時代、古めかしい朴訥な成熟の価値が貶下される時代なのだから)、真っ当に暮らしていれば、逢着する諸々の事件や苦労から何事かを学び取り、肝に銘じて、人生の進路を幾度も革めるのが普通であり、その反復が少しずつ当人の内面に根源的な変化や発展を齎すのは巷間の常道である。

 後年の三島は、その硬質で明晰な文体によって知られたが、十代の「花ざかり」の季節には、その文章は極めて曖昧模糊たる感覚的表象の散乱と連鎖を演じている。事実の客観的な枠組みを緊密な措辞で的確に浮かび上がらせていく後年の文体を私個人は好んでいるが、初期の幽玄な文体を珍重する人も少なくないだろう。主観的な印象と客観的事実との境目に頓着しない、殆ど晦渋な幻想の旋回が、戦時下に暮らす青年の閉鎖的で超越的な内面を露わに反映していることは疑いを容れない。

 「彩絵硝子」は、例えば「花ざかりの森」や「苧菟と瑪耶」といった作品に比べれば、相対的に客観性の程度が強い布置結構となっている。

 化粧品売場では粧った女のような香水壜がならんでいた。人の手が近よってもそれはそ知らぬ顔をしていた。彼にはそれが冷たい女たちのようにみえた。範囲と限界のなかの液体はすきとおった石ににていた。壜を振ると眠った女の目のような泡がわきあがるが、すぐ沈黙即ち石にかえって了う。

 退役造船中将男爵宗方氏は大きな香水を買った。自分のために、である。(「彩絵硝子」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.8)

 若年の三島が小説家以前に先ず「詩人」を志していたことは夙に知られた事実である。そして初期の作品において、彼の意識や技倆が過渡的な変遷の裡に置かれていたことは明らかである。例えば「花ざかりの森」における時間や空間の柔軟な変異、曖昧な主語と夥しい比喩は、彼が明晰な現実を虚構として形作ることよりも、感覚や心情の多彩な運動の言語的定着に関心を寄せていたことを傍証するように思われる。しかし「彩絵硝子」という作品に限って言えば、他人の情動や縺れた関係などに対する犀利な分析の眼差しなど、主観的で抒情的な告白や妄想に留まらない創造への意志が、相対的に強まって顕れているように見受けられる。とはいえ、生活の経験の総量が圧倒的に不足している少年が、例えば退役した軍人の時ならぬ「若さ」への渇仰を隅々まで、微に入り細を穿って描き出すことなど可能だろうか。犀利な客観性を得ることの困難が、抒情的な表白や感性的な燦めきの強調或いは羅列に傾くのは詮方ないことである。この当時の三島が、自分自身に固有の主題を明晰に、適切な仕方で把握していたかどうかは疑わしい。

 憎悪だけが二人の絆だ。闘争ともいわれるような最も物慣れた人々の間に交わされる型式によって、かれらの愛が出発したのは、とりもなおさずかれらが内気に過ぎたからだった。おそろしげに籬かげに身をひそませながら、摘もうと思う向う側の花を、手ものばせずにみているのだった。傍目には垣に心をへだてられて憎みあっているのだとでも思われるような様子をして。(「彩絵硝子」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.16)

 こうした尤もらしい心理的描写は、仔細に調べてみれば然して鋭敏な発見を含んでいるようにも思われない。また、こうした描写は概ね断片に留まり、後年の作品のように、物語の骨格へ有機的に結び付き、発展していくようなダイナミズムは充分に育っているとは言い難い。愛情の裏返しとして顕れる形式的な憎悪、という観察は、思春期の繊細な自意識が演じる極めて凡庸な現象に過ぎず、それを殊更に暴いたところで読者の認識的な構造が震撼される見込みは乏しい。固より、心理的な解剖とは、数多の観念を用いて営まれる技芸の一種に他ならない。その技芸が読者の感嘆を勝ち得る為には、作者は心理というものの多彩な変奏に就いて人並み以上に通暁していなければならない。「肉体の悪魔」において、年上の人妻と不倫する少年のエゴイズムを仮借ない筆致で解剖してみせたレイモン・ラディゲの早熟な才能に対する憧憬が、こうした背伸びを作者に強いたのであろうか。

芸術と反俗 三島由紀夫「施餓鬼舟」

 三島由紀夫の短篇小説「施餓鬼舟」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 芸術家とは一体如何なる生き物なのか、如何なる固有の実存的性質を伴っているのかという主題は、三島由紀夫の脳裡を終生去らずに苛み続けた難問であるように思われる。芸術と人生との乖離或いは相剋を巡って綴られた長篇「禁色」は固より、作者の分身と思しき菊田次郎を主役に据えた数篇の小説(「火山の休暇」「旅の墓碑銘」「死の島」)や、超越的な「美」との格闘を描いた代表作「金閣寺」もまた、芸術家の生活という奇態な主題に深く関与する系譜の作品である。

 しかし房太郎に納得の行かないのは、父の索莫たる説明に、作品のなかのあらゆる感情を加えてみて、それを混ぜ合わしてみても、一人の人間のくっきりした姿が浮び出て来ないことである。作品だけを読んでも、父の人間感情というものは十分につかめない。父から直接聴く説明には、ますますそういう人間感情が欠けている。父は一体どこに「人間感情」を隠して生きて来たのであろうか。房太郎は学生時代に読んで感銘の深かったジャン・パウルの散文「人間感情の常緑について」というのを思い浮べながら、そう考えたのである。

 一体又、父はどうしてそのように、人間感情を隠す必要があったのか? 文学がそういう要求をしたのか? ……そこまで考えると、すべては房太郎の常識に背反して、模糊たる逆説の世界へ霞んでしまう。(「施餓鬼舟」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.358-359)

 芸術家とは一体何者であり、その実存における特性は如何なる構造を備えているのだろうか。彼らは先ず、何らかの「作品」を創造する特異な才能の持ち主であると看做されている。如何なる「作品」も生み出さない人物が、滔々と芸術の意義や機密に就いて語ったとしても、それだけでは芸術家を名乗る資格は得られないだろう。それでは「作品」とは一体何か? 一般にそれは「表現されたもの」として理解されている。その具体化された「表現」が何らかの「認識」と結び付いていることは概ね確実であるが、認識を語ることは芸術的創造と必ずしも同義ではない。例えば哲学者は、極めて厳密で明晰な論理の運用を通じて何らかの認識に達し、同時にそれを精緻な言語で説明する。或いは数学者は、数式と記号を組み合わせて、壮大な抽象的観念の体系を構築し、表現する。その意味では「表現」という営為は、無条件に芸術家の専権事項であるとは言い切れない。言語や数字や図式を駆使して、多様な職種の人々が日夜「表現」の応酬に明け暮れている。そこから「芸術」という分野に固有の特質を析出する為には、如何なる論理的手続きが必要なのだろうか。

 優れた芸術を評価する根拠として一般に用いられる規範は「審美的価値」である。絵画や音楽が評価される場合に「美しさ」という観念が黙殺されることは、普遍的な傾向であるとは言えない。しかし、例えば「物語」の価値は「美しさ」という規矩だけで測り得るだろうか。音楽に関しても、所謂「抒情的な美しさ」だけが評価の唯一の基準として用いられる訳ではない。或いは「美しさ」というものは、広義の「感動」に含まれる種別の一つであると言えるかも知れない。この場合の「感動」という言葉は、湿っぽい共感だけを排他的に意味するものではない。例えば「精神の動揺」とでも言い換えるべき広範な定義の概念である。単なる明晰な文章が「表現」として至上のものであるとは言い難い。極めて明晰な文章に、固有の審美的価値が宿ることは有り得る話だが、それが如何なる「精神の動揺」も齎さないのであれば、そうした「明晰な美しさ」は決定的な意義を持ち得ない。

 それならば「感動」とは具体的に如何なる定義を持つのだろうか。あらゆる感情的な混乱が「感動」の呼び名に値するとは言えない。重要なのは、それが「認識の革新」を齎すという点に存する。しかし、このような「認識の革新」は芸術に限らず、あらゆる学問的領野に共通して求め得る普遍的な経験である。芸術だけが独占的に、人々の古びた「認識」の枠組みを刷新する訳ではない。また、一般に芸術的活動が必ず「認識の革新」だけを目指して営まれるとも限らない。古典的で保守的な感覚や感情を慰撫する為に、あらゆる新奇な性質を排除した「表現」が形成される機会も稀ではないからだ。

「すべて文学のためですか」

「そう云えるだろうな。当時の私は、作家として、人間的なものにあまり身を沈めてはいけないという確信を抱いていた。たとえば医者はやはり人間を扱う職業だが、患者に対する同情に溺れてはならぬという彼の自戒も、畢竟するところ、人間の病気を治すという医学の人間的な目的に包まれて、一種の人間的な自戒だと考えることができるだろう。しかし文学はちがう。芸術には人間的な目的というものはないのだ。

 私は自分が幸福になるのを怖れた。幸福とは、人間的なものすべてとの親和の感情だからだ。たとえ家族であっても、私と人間どもとの間には、越えてはならぬ境界があった。そうだ。小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似ている。感染しないように、ピンセットで扱わねばならぬ。言葉というピンセットで。……しかし本当に細菌の秘密を知るには、いつかはそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。そして私は感染を、つまり幸福になることを、怖れた。(「施餓鬼舟」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.359-360)

 芸術家は世俗の規範から外れた奇怪な存在である。それは社会の内省的な自意識のように、社会の内部で生起する様々な事象への冷徹な解剖を重要な機能として含んでいる。芸術の根本に存在する反社会的な特性、断じて社会との融和に甘んじてはならないという厳しい規矩、これらの要素は如何なる意味を持つのか。何故、芸術家は人間的な幸福に感染することを忌避し、排斥しなければならないのだろうか。

 若しも芸術家が人間的な幸福の裡に埋没しながら日々の制作に取り組むとすれば、彼の生み出す作品は、既存の体制に順応する無害な表象と化し、芸術に固有の「認識の革新」という作用は死滅するだろう。何故なら、人間的な幸福に順応した精神は、体制の規範に隷属し、通俗的な価値観を信奉することによって、独自の新しい視野というものを失うからだ。堕落した芸術は、従来の社会に対する衝撃力を喪失し、現状の単なる追認に終始し、社会的な現実とは異なる別様の現実、可能的な現実に関する奔放な想像力を衰退させていく。そうなったとき、芸術家の有する本来的な革命性は消滅し、彼らの作品は娯楽的な製品以上の特別な価値を持たなくなるだろう。現に「芸術=娯楽」という等式を素朴な真理として信じ込んでいる人々はとても多い。彼らにとって「芸術」は数多の「娯楽」の一つに数えられる相対的な選択肢に過ぎない。「芸術」は彼らの精神を震撼する為ではなく、専ら慰撫する為に存在し、機能する。

 世俗的な人間は次々と人生を眺め変える。立身出世した男の自叙伝を見てごらん。彼は雪の中を跣足で駈けたり、炭焼小屋に一夜を明かしたりした少年時代のロマンスを、みんな眺め変えて、一つ一つに意義を与えている。責任とは彼のために存在する言葉だ。作家はちがう。作家は人間と生との冷徹な専門家で、専門家の気むずかしさを持っている。彼が生きるに従って移った見地は、一つ一つ崩れない塔のように、彼の過去に並んでいる。そのどの一つとして、彼にとってはもはや不可変のもので、それだから責任もないのだ。今や地平線上に見える或る塔から、彼が眺めた風景はおぼえているが、その風景を彼はもはや捨てていて、二度とその塔の窓へ眺めにゆくことはない。彼は自分の犯したあらゆる誤謬を正当なものにしなければならぬのだが、少しも修正を施さずに、誤謬も、誤謬でないものも、同じ仕方で正当化するのが芸術家の遣口なのだ。誤謬も、誤謬でないものも、同じ地点で落ち合うのでなければ、われわれは本当に生きたのだとは云えないね」(「施餓鬼舟」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.362-363)

 世俗的な人間は、自分の生涯の総体を一つの単純な物語に還元する。頻繁に行われる甘美な追想は、その人生の様々な局面で享受した固有の心理的経験を書き換え、矛盾する事件は随意に捨象され、人為的な物語、自分に都合の良い解釈で鎧われた欺瞞的な物語が誇らしげに完成する。けれども芸術家は、そのような滑らかな物語の造成に抵抗する。一般に小説家こそが虚構の物語を愛し、その繁茂に貢献する種族の人間であるように看做されているが、実際には、彼らは滑らかな物語の造成に様々な方法で刃向かっているのである。言い換えれば、芸術家は「生の修正」という通俗的な手法を頑迷に排斥する生き物なのである。それでは何故、彼らは「生の修正」を断固として峻拒するのか。恐らく「生の修正」こそが「人間的なもの」との幸福な親和に至る為の最善の手段であると考えられるからではないだろうか。芸術家は不合理極まりない「生」の実相を敢然と照射し、その悲惨な構造を浮かび上がらせ、人々の眼前に提示する。それは通俗的な「幸福」を粉々に粉砕する悪魔的な所業に等しい。幸福な人間は、あらゆる事象を読み替え、他者と社会に向かって同意し、如何なる個人的な感情も余さずに譲渡する。彼らは「生の修正」を通じて美しく便宜的な物語を形成し、それを信奉することで揺るぎない「幸福」の湯舟に浸かる。しかし芸術家は、人間に関する真実を剔抉せねばならず、社会が抑圧しているものの内側を掘削せねばならない。

「……それはなあ、お前には想像もつかぬような幸福な生活だった。安穏であるばかりでなく、お前のお母さんは危険でさえあったのだ。毎日ちがう着物を着、目まぐるしいほど髪の形を変えた。……私は生れてから、そんなに人間的なものの近くにいたことはなかった。徐々に私はそれに感染した。人間的なものすべてと私は和解して、この世のしきたりをみんな受け容れた。慣習というものは何と快適だったろう。あるとき、お母さんの作ったパイに、私はうっかり手をつっこんだ。お母さんは笑って咎めた。私は自分のパイだらけになった五本の指を呆れて眺めた。パイはいかにも親密に、まるで当然のように私の指に粘ついていて、私の指を少しも警戒していなかった。それと同じことだ。人間的なものは、もうピンセットで扱われる必要がなかったのだ。……お母さんとの短かい結婚生活のあいだ、私は芸術の幸福な定義を一生けんめい探していた。人間的なものに埋没した芸術の定義を。……しかし困ったことに、幸福な状態は、幸福について考えるのにさえ適していない。そこで自分が不幸だと思う。しかし又、そんな風に不幸だと思うことが、光りかがやくばかりの喜びを私に与えた」(「施餓鬼舟」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.366-367)

 若しも人間が、社会的な慣習や規範から発せられる総ての要求を漏らさず受け容れ、そのことに如何なる疑問も不満も懐かずにいられるのであれば、その主観的世界が反俗的な芸術の効用を欲することは有り得ないだろう。融和的で幸福な生活の過程で、芸術作品は単なる娯楽や虚飾以上の価値を期待されなくなるに決まっている。それは生活の枠組みに精彩を与える無害で精緻な工芸品であれば良いのだ。それゆえに幸福な日々は、芸術家にとっては地獄の境涯を齎すのである。美しく明朗な妻の夭折は、本来ならば人間的幸福の悲惨な瓦解と失墜を意味するものである。しかし、その死を「恩寵」と捉える芸術家の生は、寧ろ破滅的な不幸の裡に創造的な光芒を見出す。彼の求める「恩寵」は、人間的幸福の廃墟の中にしか存在しないのである。

ラディゲの死 (新潮文庫)
 

「恐怖」の普遍的構造 三島由紀夫「復讐」

 三島由紀夫の短篇小説「復讐」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫の文業には時折、何らかの「恐怖」を形象化する「怪談」の系譜に列なると思しき作品が登場する。私見では「花火」や「仲間」や「雛の宿」といった作品が、そうした範疇に該当する(「真夏の死」や「月澹荘綺譚」や「牡丹」を含めてもよいかも知れない)。明瞭な恐怖ではなくとも、得体の知れない不安や謎めいた禍事が、これらの作品には染み込んでいる。この「復讐」もまた同様である。

 この作品の表題に掲げられた「復讐」という言葉が、作中における如何なる具体的な事実や経緯と結び付いているのかという問題に就いては、作者による明確な叙述は避けられている。物語の推移を適切に見通す為に必要な情報の意図的な欠落は、読者の心理に対して不断の緊張を強いる。その緊張が俄かに断ち切られたり、緩められたりする瞬間に、名状し難い「恐怖」が一挙に迫り上がって読者の心胆を震撼する。若しも物語の内部における客観的な事実が、作者によって片端から開示されていくならば、このような恐怖は生じ得ないだろう。絡繰の露顕した奇術が感動を伴わないように、因果の明瞭な物語は、不透明な動揺を惹起することがない。事態の核心が伏せられることによって、奇態な興奮が高まり、限界まで引き絞られた弓弦のように、それは運命的な瞬間の到来を待ち侘びて、沈黙の裡で待機する。こうした性質は一般に「怪談」という様式に内在する構造的な原理であると言えるだろう。

 近藤家の面々は一様に「復讐」の到来を危惧し、恐懼している。彼らの忌避する報復の原因が、当主である虎雄の戦地における悪事に基づいているらしいことは僅かに仄めかされるが、それに関する詳細な事実は説明されない。従って、この短い物語が血腥い復讐譚として明快な構成を得る見込みはない。曖昧模糊とした事実の片鱗が語られ、残虐な仇討ちに怯える一家の肖像が淡々と綴られるだけである。言い換えれば、この作品は「復讐」に関する虚構的な事実を描く代わりに、専ら「復讐」の感情的な構造だけを抽出して形象化しているのである。実際、情念の構造だけを選択的に剔抉したいのであれば、詳細な事実を彫琢することは却って企図の障礙となるかも知れない。総てが究明され、曝露されてしまえば、血塗られた復讐を恐れる近藤家の人々の情動的構造は、単なる平淡な叙述に堕して、読者との感情的共振に帰着しなくなるだろう。作者は飽く迄も事態の核心に関わる情報の過半を伏せながら、登場人物の挙措や情動の細緻な描写を積み上げることで、個別的な「恐怖」の推移ではなく、普遍的な「恐怖」の抽象的構造を鮮明に浮かび上がらせているのである。

 姑と嫁は見交わした目のなかに、お互いの八年間の絶え間のない不安を読んだ。夜が来る。すると一家は世間とのつながりを絶たれ、じかに暗黒に直面してしまう。ほんのわずかな物音にも、家じゅうが起き出して、食堂に集まって、ひそひそ話をする事がある。朝は厨の前の砂の上の足跡が、牛乳配達のそれであるかないかが、永いこと議論される。夜毎の悪夢は、少くとも一家の誰かを襲う。玄武が現われる。年老いた六尺ゆたかの巨漢が、枕もとに立ちはだかって、薪割りを寝ている人の頭へ打ち下ろそうとしているのである。(「復讐」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.344-345)

 彼らの味わう恐怖が戦時下の遺恨に由来するものであることは、倉谷玄武から送られた血文字の手紙の引用を通じて暗示されている。だからと言って、戦争に関する具体的な記憶が、この「復讐」の全篇を貫く根強い「恐怖」と直截に結び付けられて表現される場面は存在しない。読者はただ、与えられた事実の断片を縒り合わせて、事件の全貌の曖昧な輪郭を粗描してみることしか許されない。その粗描の及ばぬ空白の領域には、思うさま妄想的な臆測が注ぎ込まれ、固より漠然としている為に限度を課されることのない法外な不安が肥大し続ける。そして物語の末尾に附加された不穏な悲観の科白が、一旦は緩められた近藤家の面々の「恐怖」を再び新鮮な状態へ回帰させることとなる。これほど出口のない迷宮のような「恐怖」の構造を厳密に浮かび上がらせた作者の意図が那辺に置かれているのかは、率直に言って私には分からない。人間の「心理」の航跡と構成を稠密に再現し続ける作者の陰湿な執念に、改めて感嘆の意を表するばかりである。

ラディゲの死 (新潮文庫)
 

Ecstasy and Nihilism 三島由紀夫「ラディゲの死」 3

 三島由紀夫の短篇小説「ラディゲの死」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 少年の平静な目つきに、コクトオが見たものは、危機にはむかっている倨傲の影である。この目こそは青年たちがことごとく懐疑派になって、自暴自棄に陥っていた時代に、懐疑に与しなかった明澄な目である。

 コクトオには、この若い鹿のような目の表情がよくわかる。それは『僕は我慢ならない』と語っている。「舞踏会」であれほど人間の心を明晰にえがいてみせた作者にとって、この明晰さをおびやかすものは我慢がならない。ラディゲが理解した生命は、生きているという意識の極度の明晰さがその特徴であった。その背後から水晶のような生命をおびやかしてかかる不明瞭な影は、死のほかにはない。コクトオは、だからラディゲの告白に不安なものがまじると、それをすぐさま死の兆と思わずにはいられなかった。

 後年コクトオはこう書いている。

「僕が『天の手袋』と呼んでいるものを君は識っている筈だ。天は、手を汚さずに僕等に触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だった。彼の形は手袋のようにぴったりと天に合うのだった。天が手を抜くと、それは死だ。……だから僕は、あらかじめ十分用心していたのだった。初めから、僕には、ラディゲは借りものであって、やがて返さなければならないことが分っていた。……」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.324-325)

 天使は、超越的な存在である神と、地上的な存在である人類との媒介を担う。言い換えれば、それは「実在」と「現象」とが重なり合う奇蹟的な領域に宿るべき存在である。天使は仮初の現身を伴って実体的に降臨するが、その精神は生身の人間には到底及び得ない明晰な認識に充ちている。あらゆる感覚的謬見の彼方を透視する極限の明晰が、天使たちの備える揺るぎない習性である。極端に明晰な精神は当然のことながら、肉体や物質と謂った「仮有」の表象による「認識」の汚染を好まない。天使は神の御子であり、眷属であるから、その精神的機能において人智を遥かに超越した、畏怖すべき水準に達している。

 そうであるならば、作品の表題に掲げられた「ラディゲの死」という言葉は、単なる散文的事実の提示に留まるものではないと、推論すべきではないだろうか。極度の明晰を備えた精神、特別に「神性」の分有を認められた精神、それが物理的な死を遂げるということは、一つの神秘主義的な奇蹟の終わりを意味している。「忘我」を通じて、つまり自己の解体を通じて絶対者と融合することが、神秘主義的な欲望にとっての切迫した希求であるとするならば、レイモン・ラディゲは、その地上的な顕現を成し遂げた稀有の存在だったのである。つまり、生きながらにして絶対者と結合する不可能な夢想を、彼は自らの生命を通じて具現してみせたのだ。ラディゲの死、つまり一つの崇高な「奇蹟」の破綻は、ジャン・コクトーの精神に拭い難い悲劇的な傷痍の刻印を強いた。肉体的な「死」という事件は一般に、現象的な世界に縛り付けられた霊魂の祝福すべき釈放という含意を伴っている。けれどもラディゲの場合、肉体的な「死」は寧ろ、彼の天使的な本質を毀損する致命的な悲劇を意味する。ラディゲの死は、地上的な霊魂の天上への回帰ではなく、天上的な霊魂の地上的堕落として定義される。彼は選ばれた人間であり、肉身を与えられた奇蹟であり、それゆえに稀有な存在であったのだ。棺にも擬せられる死すべき肉体を脱ぎ捨てて昇天し、普遍的な「実体」だけが蝟集する彼岸の領域へ向かって旅立つことに祝福を見出すのは、凡百の俗人の辿るべき宿命の旅程である。しかしラディゲは、神にも等しい明晰な精神が、奇態な過誤によって肉身を纏い、地上へ顕現した姿なのである。

「でもこの原稿を読んだのはまだ君だけだぜ。世間はこの作品を読んで、掌を返して、僕を冷笑するかもしれないんだぜ」

「でも僕が傑作と認めている以上、間違いはない。とにかく二十歳で君がこれを書いたということは、生命へのおそろしい反逆でもあるんだよ。生命の法則の無視でもあるんだ。君より少し大人であるだけに、僕は法則の違反者に対する自然の残酷な復讐の例を見て来ている。生きているということは一種の綱渡りだ。君は二十歳で『舞踏会』を書いたことでこの平衡を破った。何で君が平衡を取戻すかが問題だ。しかも『舞踏会』それ自体が、完全な平衡を保った作品だということは何たる皮肉だ」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 p.326)

 通例、二十歳の少年には許されない卓越した水準の、仮借無い心理的省察によって組み立てられた傑作の創出は、一般的な自然過程の法則に叛いている。肉体と自然に対する暴力的な侮蔑のように、ラディゲの磨き抜かれた澄明な叡智は屹立している。その不均衡が、ラディゲという奇蹟を滅ぼす重要な原因として働いたのだろう。彼の存在は、肉体と自然によって構成された現象界における病的な異常値である。本来ならば、肉体を棄却しない限りは決して手に入る見込みのない筈の異様な明晰さが、ラディゲには天賦の才能として備わっていた。それゆえに強いられる夭折という論理的構図は、若年の三島が最も熱愛したロマンティシズムの偏執的な形態である。しかも、その悲劇的な病死には「神罰」という道徳的な抑圧のニュアンスが添えられている。抗い難い深刻な罪科の為に強いられる壮烈な「死」のイメージは、三島的な欲望の最も根源的で奇怪な焦点である。「戦死」或いは「殉教」という観念が、三島の官能に齎す甘美な陶酔の劇しさは相当なものであったろうと推測される。「仮面の告白」における「セバスチャン殉教図」への「射精」の挿話も、こうした消息を立証する明瞭な証拠であると言える。

ラディゲの死 (新潮文庫)
 

アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 5

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 さて、幸福を最善のものと語る点ではおおよその合意が得られているようにみえるが、さらにここでは、より明確に幸福とは何であるかを語ることが求められている。おそらく、人間の「はたらき」が把握されるときに、明確に語られることになるだろう。というのも、笛吹きや彫刻家やあらゆる技術者にとって、また一般に或るはたらきや行為をする人にとって、よさや立派さということがそのはたらきにはあると思われており、そのようにして人間[自身]にもなんらかのはたらきがあるとするならば、人間にとってもまたよさや立派さがあると思われるからである。

 さて、大工や靴職人には或る一定のはたらきや行為があるのに、人間にはそうした一定のはたらきは何もなく、人間は本来無為なものなのだろうか? それとも、目や手や足や一般に身体のそれぞれの部分に一定のはたらきがみられるように、そのようにして人間にも、それらすべての部分とは別に、人間としての或る一定のはたらきを想定できるのだろうか?(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.56-57)

 アリストテレスは「幸福」の具体的な実相に就いて論究する為の予備的な確認として、人間という種族に固有の「はたらき」とは何かを調べようとしている。但し注意すべきことは、アリストテレスが「幸福」の厳密で普遍的な「実有」(idea)に就いて精緻な議論を展開しようと試みている訳ではないという点である。言い換えれば、彼は「幸福」を普遍的な理念として眺めるのではなく、専ら感性的で経験的な現象として捉えることに力点を置いているのである。人間に固有の機能や活動が殊更に重要な論題として挙げられるのは、プラトンのように恒常的で静止的な理念として、つまり如何なる具体的な行為にも作用にも関与しない不動の実体として「幸福」や「善」を定義することを、アリストテレスが拒絶していることの紛れもない証拠である。彼が求めているのは「幸福」や「善」の本質的様態を観想することではなく、現実の生活を通じて「幸福」や「善」に到達し、実践的な仕方によって体現することなのである。

 想定できるとすれば、そのはたらきはいったい何なのだろうか? 探究されているのは[人間のはたらきとして]固有なものだが、「生きること」は、明らかに植物にも共通している。それゆえ、「栄養摂取の生」と「成長の生」は除外しなければならない。そのつぎの候補は「感覚にかかわるなんらかの生」であろうが、これもまた明らかに馬や牛など、あらゆる動物と共通している。したがって残っている候補は、「分別がある部分による行為にかかわるなんらかの生」である。ただし、「分別がある部分」については、「分別に従う部分」と「まさに分別をもち思考する部分」がある。しかし、「行為にかかわるなんらかの生」もまた、[「活動する」と、単に「性向のもとにある」の]二つの仕方で語られるので、活動の意味での生を想定しなければならない。というのも、それのほうがより本来的な意味で語られているように思われるからである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 p.58)

 アリストテレス倫理学的な探究は専ら「人間的幸福」の実現に向かって捧げられているので、必然的にその考察は人間という種族に固有の特徴的な働きを闡明する為に進められる。そこで登場するのが「分別」(logos)という概念であり、人間の類的な特性は、分別によって自己の心身が統御されているという点に見出される。

 同時にここでは「ニコマコス倫理学」の全篇に亘って幾度も登場する「性向」(hexis)と「活動」(energeia)との論理的弁別に就いて、簡潔な言及が行われている。この場合の「性向」という概念は、或る個別的な人間に内在する「本質」(ousia)を指し示すものであるように思われる。尤も、それはプラトンが提示した超越的実在としての「イデア」(idea)と厳密に重なり合うものではない。プラトン的な「イデア」は恒久不変の実体であり、時間的推移に支配される生成界の裡には顕れることがない。他方、アリストテレスの提唱する「ヘクシス」は、具体的な行為の累積である「習慣」によって形成される可変的な概念であり、人間の個別的行為に関わる選択の根幹を成すものである。「性向」にまで高められた習慣は、その人間の選択や行為を規定する重要な範例として機能し、当人の行動を支配する。それは「活動」の潜在的な要因であると言い換えることも出来る。

 アリストテレスは「性向」よりも「活動」の方に真摯な関心を寄せている。彼の考えでは、潜在的な本質を有するのみならず、それを具体的な行為として展開し、現実化する過程を踏まなければ「幸福」も「善」も十全に実現されたとは言えないのである。優れた人格そのものの存在は認めるけれども、優れた人格が内在的な性向のままに留まり、具体的な行為に帰結しないのであれば、優れた人格の意義は縮減してしまうというのがアリストテレスの見解である。

 こうしてわれわれの説は、幸福とは徳である、あるいは、或る種の徳であるとする見解と合致している。なぜなら、[われわれが唱えている]徳に基づいた活動は徳のことをいっているからである。ただし、最高善は[徳の]所有にあるとするのか、[徳の]使用にあるとするのか、すなわち[徳がそなわった]性向にあるとするのか、[徳に基づいた]活動にあるとするのかという違いは、おそらく些細な問題ではない。というのも、[徳がそなわった]性向には、性向として徳がそなわりながらも、たとえば眠っている人の場合や、それ以外にもなんらかの事情で動きがとれなくなっている人の場合のように、いかなる善いことも為し遂げないことがありうるが、[徳に基づいた]活動には、そんなことはありえないからである。というのも、[徳に基づいて]活動する人は、かならず為すのであり、しかもかならず立派に為すからである。つまり、ちょうどオリュンピア競技において栄冠を手にするのが、最高の美しさと最高の力強さをそなえた人々ではなく、実際に競技する人々であるように(というのもかれらのうちのだれかが勝利するのだから)、そのようにして、人生における美しく善き事柄についても、実際に行為する人々こそがそれらを勝ち取る人々であるとすることが、正しいのである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.66-67)

 潜在的な「性向」の裡に留まる限り、人間の徳性が最大限の「幸福」を実現することは有り得ない。こうした考え方が、プラトンの「イデア」に関する学説と対蹠的な性質に由来していることは明白である。アリストテレスは、地上的な現実に関与しない普遍的な徳性の価値を認めない。イデアが如何に崇高な要素を帯びていたとしても、地上に生起する具体的で経験的な事実に対して影響を及ぼさないのならば、イデアに関する澄明な認識は、人間の幸福の増大には全く貢献しないのである。それゆえ、イデアは具体的な現実の裡に展開されねばならない。イデアを人間の手の届かない超越的な高みに飾って崇めるだけでは無益であるし、現身の肉体が味わうことの出来ない超越的な善性や徳性に就いて論じることは、我々の現実的な生活を少しも充実させない。「実体」と「仮象」とを切断し、尚且つ「実体」を不可知の領域へ幽閉し、我々の属する経験的な現実を虚妄と看做すプラトンの論理は、人間を純然たる「観想」以外の価値には赴かせないのである。言い換えれば、プラトンの思惟は、地上的な現実や経験的な認識に対する根源的な侮蔑を含有している。地上的な幸福は有り得ず、感覚的な喜悦は悉く贋物の享楽として排斥され、普遍的な「真理」に到達する権利は、生身の人間たちの手から無条件に剥奪される。このような考え方は、様々なものを捨象することで辛うじて成立している。流動的で不安定な現実に多くの恵みを期待しないことは、プラトンに限らず、古今の賢者が口を揃えて推奨してきた倫理的な要諦ではあるが、感性的な現実を丸ごと捨象する態度は、生身の現実からの遁走に他ならないのではないか。アリストテレスが「徳の所有」よりも「徳の使用」の意義を強調するのは、師父の築いた精緻な思想に対する批判的な意識の証左であるように思われる。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)
 

アリストテレス「ニコマコス倫理学」に関する覚書 4

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 同様のことが、善のイデアについてもあてはまる。というのも、もし[さまざまな善いものに対して]共通して述べることができる或るひとつの善があるとしても、あるいは、それ自体であるものとしてほかから独立してありうるような或るひとつの善があるとしても、それが、人間が為しうる善でも、人間が獲得できる善でもないことは、明らかだろう。そして、今探究されているのは、こうした人間が獲得できて為しうる何かなのである。

 しかしこれに対して、人は、こう思うかもしれない――もろもろの善のなかでもわれわれが獲得できて為しうる善を知り、獲得するためにこそ、善のイデアを認識することは、よりよいことなのだ、というように。というのも、善のイデアを範型のようなものとしてわれわれが手にするならば、われわれは自分にとってのもろもろの善についてもいっそう知ることになるだろうし、またもし自分にとって善いものを知るならば、われわれはそれらもろもろの善を獲得できるだろうからである。――この説明は一定の説得力をもっているが、諸学問の実情とは一致しないと思われる。というのも、あらゆる学問はなんらかの善を目指し、足りていないものを探し求めるが、善のイデアの認識にはかかわらないでいるからである。それゆえ、善のイデアの認識がその点で有益だとしたら、それほど助けになるものをどの技術者も知りもしなければ探し求めもしないということは、説明がつかないことである。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.50-51)

 プラトンの哲学においては、思惟の最も崇高で本質的な企図は、超越的な範型としての「イデア」(idea)を、理性の正しい運用を通じて把握することの裡に置かれていた。感覚によって捉えられる生成的な現象に関する認識や技術は、そうした超越的観想に比して劣等なものであると看做すのが、プラトンの顕著な思想的特徴である。技術を軽蔑し、芸術を批難したプラトンにとって、個別的な事象に対応する為の実践的な思索は、哲学の本分に属するものではないと思われたらしい。そのことの是非は扨措き、少なくともアリストテレスは、倫理に関する実践的な追究の過程で、プラトニックな超越的思惟に不満を述べている。この聊か皮肉な調子の論述は、プラトンが後生大事に信奉した理性的な範型としてのイデアの価値に就いて疑問を附している。理性によってのみ到達され得る普遍的な実体としてのイデア、それは生身の人間が暮らす生成的な領域からは隔絶された存在である。対話篇「パイドン」で述べられた霊魂の不滅に関する議論は、人間が現身の状態で「真理=実有」へ直に触れることの不可能性を明瞭に告示している。現世からの超越、肉体的感覚の否定、経験論に対する蔑視、これらのプラトニックな特質が、実践的な技術や行為の問題と親和しないのは当然であると考えられる。

 アリストテレスは師父と異なり、事物の超越的な「範型」に就いて語ることよりも、個別的な真理を探究することに重要な意義を見出している。イデアに就いて論じることは、眼前の実践的課題を解決することには寄与しないというのが、彼の下した身も蓋もない診断である。様々な「善いもの」から抽出された純然たる「善性」が実在するとしても、それが超越的な領域に逼塞して地上の生成的な事象に全く関与しないのであれば、そのような「善性」に就いて議論することは確かに無益である。少なくとも、そうした思惟が「観想」という営みに固有の歓びを獲得すべく為されるのではなく、現実において「優れた人間」となる方途の一環として為されるのであれば、その効果に就いては懐疑的な判断を持たざるを得ないだろう。実践的である為には、個別的な真理の発見が不可欠である。何故なら、この生成的な現実においては、純然たる「善性」が具現化することは有り得ず、常に何らかの偶有的な要素を伴って顕れ、尚且つ絶えず流動し変貌することを強いられるからである。それゆえ、アリストテレスは自らの倫理学的探究において、普遍的な「善性」に就いて議論したり検証したりする選択肢を排除する。彼は寧ろ感覚的な経験の集積から出発し、それらの夥しい認識を整理し、吟味する作業に重点を置いている。彼は飽く迄も「人間的条件」に基づいて「善」や「徳」に関する探究を進めるべきであることを繰り返し強調している。人間の手が届かない超越的な領域に存在する「善性」に就いての考究は、実際に個々の人間が具体的な善性を獲得することの手助けには帰着しないというのが、アリストテレスの判定なのである。

 さて、目的は多くあるように思える。だが、これら多くの目的のうちの或るもの――たとえば、富や笛や、一般に道具となるさまざまなもの――をわれわれが選ぶのはそれとは別の何かのためなので、明らかに、あらゆるものがそれで完結した目的となるわけではない。しかし、明らかに、最高善とは完結した目的なのである。したがって、もし或るひとつのものだけが完結した目的だとしたら、それがわれわれの探究している善であろうし、もし多くあるのだとすれば、それらのなかでもっとも完結した目的がわれわれの探究している善であろう。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.53-54)

 普遍的で超越的な「善性」、感性による把握の及ばない、純然たる理性的実在としての「善性」に就いて論じる代わりに、アリストテレスはより具体的で実際的な方面において「善」という一般的概念の正体を闡明しようと試みている。恒常的な不動性を備えた「善性」に関する議論は、専ら理智による観想の対象であり、その観想にも高度な意義が認められ得るとしても、実践という見地から眺める限り、それは明確な実効性を持たず、従って我々の行動に関する個別的な規範の役割を果たさないということになる。「真理」に関する理性的論証の徹底的な厳密さは、個別的な行為の有用性や妥当性を高める為の手助けには相応しくないのである。何故なら、個別的な行為は普遍的で超越的な領域において実現されるのではなく、プラトンによって明確に貶下された感性的な生成界において生起するものだからである。

 われわれは、「それ自体として追求される事柄」を「ほかのもののために追求される事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言い、また、「ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「それ自体としてもほかのもののためにも選ばれる事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言っており、「それ自体として選ばれ、ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「限定ぬきに完結したもの」と言っている。そして、とりわけ幸福が、そうしたものであると思われている。というのも、われわれが幸福を選ぶのは、つねに幸福それ自体のためであって、けっしてほかの何かのためではないからである。これに対して、名誉や快楽や知性やあらゆる徳を、われわれはそれ自体のためにも選ぶが(というのも、そこから何も生まれなくても、これらそれぞれのものを選ぶだろうから)、これらを通じて幸福になるだろうと考えて、幸福のためにも選ぶからである。しかし、だれも、幸福をこれらのもののために選ばないのであり、およそ何かほかのもののために幸福を選ぶこともない。(『ニコマコス倫理学光文社古典新訳文庫 pp.54-55)

 「幸福」とは何かという問題に就いて考えるとき、アリストテレスプラトンのように「幸福」の普遍的定義を明らかにすることだけに注力しようとは考えない。「幸福」の普遍的定義は、如何なる偶有的な条件にも左右されずに保持される「幸福」の純然たる要素の範囲の確定を示すものであり、現に「この私の幸福」が如何なる偶有的条件の下に成立するかという実践的な設問とは異質な目的を担っている。人間的条件に基づいた「幸福」の定義を考えるべきであるというアリストテレスの提言は、普遍的定義の闡明に固執するだけでは「神性」に基づいた絶対的な「幸福」を論じることにしか帰着せず、従って我々「人間の幸福」に寄与することがないという判断に依拠して発せられている。それゆえに彼は、具体的な現実の観察を通じて、一般に「善」或いは「幸福」が如何なる定義を賦与されているのかを検証することによって、人間的な幸福の条件を解明しようと企てるのである。

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)