サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夏と女とチェリーの私と」 9

 思わず振り上げた拳を間抜けな顔で眺める長谷川の腑抜けじみた態度が猶更、気に食わなかった。己の犯した罪悪の重大さを少しも理解していない愚か者の醜さが、そのときの長谷川の総身から放射能の如く濫れ出ていた。そのことが、消え残った私の薄弱な理性に更なる負荷を課し、躊躇いを衝動の領分へ捻じ曲げて押し流した。私は私の苛立ちに怯える余裕さえ持たなかったし、本当に邪悪なものが何なのかを悟ろうと意識することさえ無意識に避けていた。暴力的なものの気配が濃密に立ち現れて、私たちの他には暇を持て余して特別な用事もない酒好きの無骨な老爺がいるだけの静かで閑寂な居酒屋の空間を、瞬く間に席捲してしまった。喉の奥が火焙りに処されたかのように荒々しく燃え立ち、胃袋が踏み潰された水風船のように頼りなく歪み、草薙紗環子という不幸な女性の過ぎ去った日々の面影が眼裏で明滅した。私は深く強く怒り、凍えるような吐息を規則的に垂れ流していた。振り上げた拳を、実際に振り下ろすまでの束の間の逡巡だけが、私にとっては生々しい記憶の映像であった。そして硬く握り締めた右の拳が虚空を引き裂いて長谷川の脂ぎった頬へ食い込み、派手な音が鳴って安物の御猪口が床の上で爆ぜた瞬間、それまで俎板と見凝め合う以外に何の人間的な関心も示そうとしなかったカウンターの向こうの店主の顔が、茫然と歪められて私の野蛮な行動に視線を捻じ込んだ。
「てめえ、何しやがる」
 予想外の攻撃に驚いた長谷川の心情の揺らぎが、そのまま直截に声となって私の鼓膜へ届いた。鼓膜の顫えはそのまま幾分か私の眠ってしまった理性に対する覚醒剤の役目を担ったが、それだけでは量が足りず、走り騒ぎ始めた私の内的な夜叉を押し留めるには至らなかった。野蛮なものが腸を煮沸しているのが、露骨な実感として迫り上がってくる。何か具体的な言葉を発して罵ろうと思ったが、どんな弁明も必要としない私の野蛮な正義は、尤もらしい罵詈雑言を捻り出すことに対して消極的であった。理論立てて誰かを罵倒するのは下品な振舞いで、それは正義の崇高な側面を忽ち致命的な仕方で毀損してしまうだろう。正義の崇高な側面? いや、そんな言い方自体がそもそも下劣で驕慢に過ぎる。私は唯、純粋に主観的な不快の劇しさの中で相手を悶えさせようと蹶起しただけだ。殴られた長谷川の惨めな狼狽と、それらの一連の光景を凝視し続ける柏木、店主、老爺の沈黙が、とても沈黙とは思えないほどの騒々しさで折り重なり、警笛のように互いに響き合っていた。
 その無言の警笛を確かに両方の鼓膜で受け止めながら、それを黙殺しても一向に差し支えないという不遜な自信が、そのときの私の胸底には威風堂々と漲っていた。何も恥じることはない、何故なら私の憤怒には正当な根拠があり、長谷川の犯した罪には淫猥と不道徳の二つの陰翳が明白に刻み込まれているからだ。彼女が不幸な事故に襲われて顔を負傷し、決して癒えることのない失明という被害を残酷な署名のように書き記されてしまった背景には確実に、長谷川の穢れた選択と判断が関わっていた。だが、一体何故、そんな奇怪な成り行きに二人の関係が行き着いてしまったのだろうか。汚らわしいという言葉以外に修飾の手段さえも思い浮かばない彼らの背徳的な癒着は、何故この世界に形作られ、産み落とされたのか。
 然し、疑問は疑問として成熟する時間を与えられぬまま、激高した私は徐々に殴られたことへの屈辱を募らせて険相を露わにし始めた長谷川を眼差しで圧することに、持てる力の過半を費やした。迫り上がる憎悪が、私の勇気を支えるたった一つの強力な根拠であった。
「あんたは、あの人とやったのか」
「何を興奮してやがるんだ、青二才」
 当惑を忍ばせた瞳に精一杯の敵意と悪意を溜め込んで、長谷川は邪悪な形に唇を歪めた。
「質問に答えろ」
「やったさ。何か文句でもあるのか」
「あんたにとっちゃ、年の離れた部下だろう。娘みたいなもんだろう」
「だったら、やっちゃいけねえとでも言うのかよ」
 野獣が腹を空かせて唸るように、長谷川は黄ばんだ前歯を剥き出して私の糾弾を無遠慮にせせら笑った。その侮辱的な調子が密かに傷つけられ損なわれていた私の霊魂に著しく不快な擦過傷を走らせた。息が詰まるような苛立ちと嫌悪、磨き上げられたナイフのような澄明な敵意、それらが一挙に連なり繋がり合って私の存在を、その内側から抉るように突き上げた。何もかもうんざりだと思わずにいられなかった。どいつもこいつも、自由に遊び呆けてやがるんだ。
「お前」
 乱れたワイシャツの襟許を掴んだ瞬間に、生温かい人間の肉体の手触りが指に伝わった。こいつは生きている、そう改めて痛感しながら、私は自分が何に対して猛り狂っているのか、その明確な答えを途端に見失いかけた。何に劇しく苛立ち、長谷川の醜悪さの如何なる側面に濁った唾を吐き掛けようとしているのか、咄嗟に分からなくなった。私は草薙紗環子という一人の不幸な女性にとって何物でもない。そのことは、実際に病院へ見舞いに訪れたときの彼女の冷淡な反応を思い返せば明瞭だ。彼女は私の見舞いを少しも有難がっていなかったし、寧ろ私に対する彼女の攻撃的な心情は剥き出しにされていた。その過剰な、或いは異常とも呼び得る攻撃性の源は奈辺にあったのか? 彼女の不幸な事故を慮り、心配し、その窮状を忖度した積りで駆け付けた私の浅ましい下心を、鋭利な直観によって見抜いていたのだろうか? だが、別の角度から問題の核心を捉えることも出来た。長谷川との忌まわしい情事によって、あの悲惨な災害が齎されたのだと、後ろ暗さから考え付いたのではないか、という仮説が、俄かに私の脳髄を領した。それは猶更、長谷川に対する私の残酷な心情を高ぶらせ、粗野な欲望を膨張させるような着想、或いは発見であった。
 冷静に考えてみよう。紗環子先輩には年齢的にも立場的にも申し分のない恋人がいて、男は彼女のことを確かな約定はないものの、許嫁のように捉えていたに違いない。あの素敵な笑顔と柔軟な知性に一旦魅せられた以上、他の女を将来の伴侶候補に計え上げようという気分にはなれないに決まっている。その紗環子先輩は、実際には予備校の穢れた上役と密かに情事の時間を持っていた。それは甘美な妄想の立ち入る余地がないほどに悪夢じみた、唾棄すべき事実である。その唾棄すべき領域に彼女が足を踏み入れた理由は定かではないが、何らかの事情に引き摺られ、禁断の扉を押し開いたことは疑いようのない事実である。その意味では、悪事を犯したのはあの汚らしい雲脂に塗れた教師の側だけではなく、二人の間の奇怪な合意が諸悪の根源であったということになる。ならば、因果応報の摂理は矢張り釈迦如来が寂滅して千年以上の月日が流れ去った今でも私たち人類の日常に等しく降り注いでいるということなのだろうか?
 そうやって考え始めた途端に猛烈な意気阻喪が私の胸倉を掴んで、心臓を抉り取るように押し寄せて来た。その抗い難い気力の喪失は、それまで私が無邪気に信じ込んでいた私憤の正当性を薄れさせ、混濁させてしまった。一体、俺は何に腹を立てているのだろう? 要するに悔しいだけじゃないか、自分の男性的な魅力があの薄汚れた中年男にすら及ばないという悲劇的な現実に打ちのめされ、固より脆弱な矜持を一層腐蝕させているに過ぎないじゃないか。私は疲れ果てた労働者の風貌で椅子に腰を落とし、唖然として私の薄暗い横顔を見凝め続ける柏木の暗愚な眼差しを鬱陶しく思いながら、眼前の酒杯に痩せた指先を這わせた。
「お前は、あの女のことが好きだったのか」
 長い沈黙を潜り抜けた後で、雨垂れのような声で長谷川が問い掛けてきた。それは紛れもなく図星の見解であったが、消え残ったプライドに喉笛を堰き止められたように、私は一言も答えられなかった。今更、惨めな矜りを奮い立たせ、唯でさえ傷つき易い己の心情に過保護な態度を貫こうとしても無益だと、理窟では心得ていたのだが、愚かな自意識は飽く迄も長谷川に対する虚栄心を保とうと努力し続けた。この男に俺は遣る瀬ない敗北を喫したのだ、この男は女に対する後ろめたさを、罪責の感情を懐ける程度には、男としての性的な成熟を遂げているのだ、という悲鳴のような認識が、脳幹の辺りを早鐘の如く乱暴に叩き続けた。
「だとしたら、悪いことをしたな。お前を呑みに誘うべきじゃなかった」
「別に、構わないさ」
 精一杯の強がり、見苦しいだけの虚勢が、そのときの私の存在の総てであった。何を言っても、この男が紗環子先輩と束の間の契りを結び、閨を共にしたことは動かし難い真実なのだ。その真実の光の前では、熟し過ぎて黒ずみ始めた櫻桃の私など、何の役にも立たない憐れむべき木偶に過ぎない。青梅のような瑞々しさを失いつつある、私の童貞というマイナスの属性。紗環子先輩は、この垢抜けない後輩が童貞であり、女の肌に触れる術さえ弁えない地蔵菩薩のようなロクデナシであることを御存知であろうか。女の鋭利な第六感で森羅万象を見通しておられるのだろうか。たとえ片目の光を失おうとも、観音菩薩の如き巨大な智慧の働きが曇ることなど有り得ない。彼女はその性来の優れた直観の力によって、チェリーボーイの見え透いた下心を密かに病室のベッドの上で嘲笑っておられるだろう。そう考えると、俄かに魂が竦むような気がした。
「だが、もうあの女は終わりだな。俺はもう、この街にはいたくない」
 身勝手な言い分を恥じらいもせずに口に出しながら、長谷川は芋焼酎の水割りを注文して、莨に火を点けた。大人の男だけに許された幸福な余裕というものだろうか。見た目は人並み以上の経年劣化を遂げていたとしても、成熟した雄の肉体からは何かしら名状し難い魅惑の成分のようなものが滲んでいるのかも知れず、それは男の肉体に惹きつけられる習慣を持たない私の曇った五感では嗅ぎ取れないオーラのようなものなのだろう。

「夏と女とチェリーの私と」 8

「俺は仕事を変えようと思ってるんだ」
 一頻り注文して、酒も幾度か注ぎ足してもらった後で、すっかり日に焼けた蛸のような色合いに目許を染め上げた長谷川は、私たちが事前に予想もしなかったことを出し抜けに言い放った。
「仕事を辞めて、実家へ帰る。親爺が死んでから、兄貴が金沢の酒屋を継いでるんだが、お前も手伝えと前々から言われてるんだ」
 やや俯いて薄汚れたカウンターの木目、ニスでも塗ったように古びて色々な汚れが染み込んだ黒っぽい横板の表皮に視線の先を預けたまま、長谷川は淡々とした口調で説明を塗り重ねた。私も柏木も、いきなり突拍子もない告白を繰り出されて、横面を張り飛ばされたような困惑を免かれなかった。四十代も半ばに差し掛かった平凡なオッサンにとって、長く続けた会社を辞めるという決断は一朝一夕に整うものではない。熟慮に熟慮を重ねて、信頼出来る人々の意見を徴し、様々な角度から最善の方途を検討した揚句に、どんな保守的な答えも贋物にしか見えないような境地に至って初めて、その決断は最期の審判のように下されるのだろう。勿論、それは私自身が学業を投げ出した経験に基づいて組み立てた、大仰な類推に過ぎなかったので、長谷川が実際にどのような経路を辿って、職を革めるという重大な結論へ到達したのかは分からなかった。私には結局、四十代半ばの中年のオッサンの心境など、幾ら挑戦しても振り払われてしまう、理解し難い巨大な謎でしかないのだ。その巨大な謎の内側へ鼻先を捻じ込む勇気も意欲も未だ、長谷川の唐突な告白を聞かされた直後の段階では、私の胸には宿っていなかった。彼は私にとって、個人的な信頼に値する目上の男性ではなく、成る可くなら関わり合いにならずに済ましておきたい忌避すべき人物であり、もっと端的に言えば荷厄介な障害物であった。
 だが、他人を単純明快な形で障害物扱いして涼しい顔をしているのは不潔な態度であるし、道徳的にも問題が大きい。障害物であるのは本来御互い様の話であって、それを一方的に指弾するのは余りに思い遣りを欠いた、非人間的な姿勢ではないか。そういう殊勝な反省が欠片ほどでも意識の片隅に突き刺さっていたので、私は辛うじて踏み止まり、長谷川の告白を退屈な身の上話として邪険に払い除ける非道な選択を自制することが出来た。明日は我が身と、古びた慣用句は軽率な私たちに訓戒を垂れる。今日は他人事でも、数日経てば痛ましいほど身につまされる境遇として、生涯の行く手に傲然と立ち開かるかも知れないのだ。安い日本酒を冷やで幾度も注ぎ足しながら、鮟鱇の肝や山葵で和えた蛸や買を摘みながら訥々と語り続ける長谷川の一層脂ぎった汚らしい風貌にも、生きてきた日々の、所謂「風雪」の痕跡は明瞭に刻まれていた。その幾重にも畳み込まれた年月の風格を気安く軽んじたり疎んじたりするのは、当方が畏れも節度も心得ぬ青二才であることを割り引いたとしても、許されることではないと今更のように思われるのであった。
「どうして、今なんですか」
 何と言葉を返したらいいのか見当もつかぬまま、手探りで唇を開き、問い掛けの文句を恐る恐る押し出してみる。奢ってもらえるのか確証が持てないので、薄っぺらな財布の中身と相談しながら慎重に安価な日本酒を頼んで少しずつ啜っていた私の頬も、アルコールの焔に灼かれてすっかり紅く染まっていた。とろみを帯び始めた鍋の中の寒天のように、適切な酩酊が瞼の裏側へ滲み出て、徐々に理性の正常な運用を妨げつつある実感が湧いていた。どうして、今なんですか、という質問が、長谷川の語りたがっている内容を更に引き出す為の潤滑油として適当であるという確信はなかった。だが、当たり障りのない訊ね方ではあったに違いない。そもそも私たち二人の側には、長谷川の転職の決断に興味を示す筋合いはなかったのだが、自分の人望の欠如にはっきりとは気付いていないように見える長谷川は、慣れ親しんだ教務課主任の唐突な覚悟に、下っ端である私たちが通り一遍の動揺や混乱を表すだろうと勝手に決め込んでいたのかも知れない。彼の内なる期待に相応しい質問ではなかったとしても、少なくとも無関心には聞こえない巧妙な訊ね方であったと、今でも私は素朴に信じている。
「そりゃあ、色々あるのさ」
 酷く歯切れの悪い口振りで韜晦するように言い捨てた長谷川の紅い横顔には、私の問いに否定的な感情を懐いたとは思えぬ、奇妙な膠着が濫れていた。探られ、暴かれることに秘められた熱望を寄せている男の鈍重な屈折が、草臥れた肩の輪郭からも、酒臭い息遣いの律動の隙間からも旺盛に零れていた。外套に蔽い隠された躰が、追剥に攫われて何もかも奪い取られることを秘密裡に望んでいるような淫猥さが、その手酌の姿から生々しく放射されてくる。私は正直に言って、劇しく当惑していた。何も知られたくないと狷介なプライドを露骨に示す一方で、その裏側から匂い立つ真実の断片に、クリトリスのように触れてもらいたいと希う醜い中年男の欲望の形に、総毛立つような感覚が背筋を刺し貫いた。
「色々って何ですか」
 回りくどい物言いに苛立ちを誘われたのか、それとも関心を巧みに掻き立てられたのか、それまで無言で傍観者の役柄を堅持していた柏木が不意に、卓袱台を引っ繰り返すような手つきで問いを抛った。長谷川が、普段ならば絶対に呑みへ連れ出したりしない下っ端の時間給講師を、こうして路地裏の酒場へ導いた背景には必ず、何らかの理由が控えている筈で、それが何なのかを明確に掴めないまま、ただ黙々と酔いだけを深めていくのは薄気味悪い体験であった。幽霊に付き纏われているような、背後を振り返らずにはいられないような不快感が持続していた。柏木の蒼褪めたようにも見える横顔の理由は単に、彼のアルコールに対する耐性の脆さへと還元出来るものではないだろう。彼はまるで、怪談の世界に連れ込まれたような気分の悪さに纏わりつかれているのだ。それは無論、私に関しても同様の現象であった。
「知りたいのかい」
 如何にも持って回った言い方を好むような淫猥な眼つきで、長谷川は私たちの顔を順繰りに見凝めた。その眼差しの卑猥で意味深長な輝き方が、私には不愉快極まりない映像として感じられた。知りたいのかいと囁くように、誘うように呟いた長谷川の血色の悪い、乾燥した唇は温くなった安物の日本酒に濡れていて、眺めるだけで嘔気が肚の底からこみ上げるようであった。一体、何を訴えようとしているのか。こうして焦らすだけ焦らしておいて、時間を無際限に引き延ばしておいて、それによって無力な学生と学生崩れの私たち二人組に何を告げようとしているのか? 底知れぬ暗闇の懐から、猫のような瞳だけを覗かせ、月明かりに煌かせて、長谷川は焦れったさに胃袋を蠕動させている私たちの不幸な窒息を嘲笑っているように見えた。それは紛れもなく不愉快な経験、忌まわしい時間であった。
「草薙の話、お前も聞いただろう」
 長谷川の鈍重な瞳がゆっくりと動いて私の顔を捉えたとき、何故か背筋を寒気が襲った。ゆっくりと、極めて緩慢な速度で、筋肉の繊維に支えられて移動する二つの色褪せた眼球が、私の内部を明るく見透かすかの如く、淫猥に光った。何を懼れているのか、自分でもよく分からず曖昧なままに、ただ時間だけが怠惰な蛇のように少しずつ草叢を這っていった。私は一体、何を懼れているのだろう? 長谷川の日本酒で汚れた唇の奇怪な光沢が、亡霊の瞬きのように薄気味悪く感じられ、その持ち主である長谷川自身の本性さえも、妖しく歪めてしまうかのようだ。
「ホテルに泊まった後で、彼奴はバイクに撥ねられたんだ」
「ホテル?」
 ホテルという単語を適切な文脈へ着地させるまでに、一分ほどの時間が必要であった。急に何を言い出すのか、散々に焦らして此方の意識を掻き乱しておきながら、揚句の涯に紡ぎ出された言葉の思わぬ単調さに、私は暫く精神を動揺させられたままであった。
 だが、私だって馬鹿ではないし、ホテルという単語に含まれた淫猥なニュアンスを嗅ぎ取れぬほど子供でもない。少しずつ澄明な水面を取り返していく意識の上方へ、ホテルという単語は美しく透明な泡のように立ち昇っていった。金魚が間抜け面で口を開いて水槽の中で喘ぐように、私の心は少しずつ狂い始めた。ホテルに泊まった? それが単なる御行儀の良い合宿などでないことは言うまでもないし、問い質すのも愚かだと言うべきだ。長谷川が脂ぎった中年の醜怪な男であることは判然としているが、見た目に穢れていることが牡の獣性を否定することにならないのは当たり前の話である。年が離れていようと、長谷川が世間並みの妻子持ちであり、紗環子先輩が素敵な彼氏を一つの資産のように保有していることが事実であろうとも、それは悲劇的な同衾の不能を証すことは断じてない。思わず、眼が眩みそうになるのを消え残った理性の力で辛うじて堪えながら、私は荒々しい息を吐いた。内なる夜叉が、間抜け面をかなぐり捨てて一挙に迫り上がろうとする。私の中の品性が、暴発しそうになる感情に猿轡を咬ませている。落ち着け、落ち着け。俺は紗環子にとって単なる知己の一人に過ぎないのだ。俺が何かを吼え立て、憤激に身を任せるのはどう考えても御門違いじゃないか。そうやって、懸命に言い聞かせる間にも、私の眼差しの鋭さは刻々と出刃包丁の野蛮さに近接しつつあった。
「運が悪かったんだとしてもだ。寝覚めが悪いのは、どうしようもない」
 長谷川の取り澄ました余裕が却って私たちの嫌悪を煽り立てたことは言うまでもない。長谷川の若い女も虜に出来るという風な大柄な自信が癪に触って堪らなくなる。その薄汚い、雲脂を浮かせた頭の中に詰め込まれた、古臭い口説き文句の数々を、残らず異臭の漂う暗渠へ叩き込んでやりたかった。ちんこを切り取って、バターでソテーして、フライヤーの熱せられた油の海へ投げ込んでやりたかった。この感情は、怒りだろうか? だとしたら、随分と手前勝手な感情じゃないか。自制心の際限のない緩み具合に、我ながら含羞を覚えつつも、それでも私の内部に培われ育まれた敵意は、旺盛な成長を止めようとしなかった。私の側には長谷川の行為を咎めたり憎んだりする資格などない筈だし、長谷川の方でも私に恨まれる筋合いなど考えられないと思い込んでいるだろう。それは合理的な推論であるには違いない、だが合理的な推論ならば何でも無事に、恙なく罷り通ると彼は本気で信じているのだろうか? 私が密かに憧れ、恋焦がれ、懸想していた草薙紗環子という一人の清純な女性の肢体に長谷川の汚らわしい指先が触れ、その陰茎が女陰へ磁石のように吸いついたという驚くべき事件に、私が燃え上がるような憤怒の感情を懐くのは理不尽な犯罪だろうか? 断じてそんなことはない。私の怒りは正当なものだ。鯰のように不細工な面構えで腐臭漂う雲脂を常時頭皮に蓄えている、身嗜みのなっていない人生下り坂の猥褻講師に怒りを覚えることが、倫理や道徳に反する訳がない。そのとき、私の精神を領した推論の純一な劇しさと強度は、恐るべきものであった。私は私の怒りを正当で的確なものであると信じ込もうと努め、酔っ払って頬も眦も額も茜色に変じた長谷川の眼差しを、遠くを見据えて物思いに耽るかのような自堕落な感傷に満ちた眼差しを、心の底から憎んだ。その憎しみは私の内なる恣意的な正義への敬虔な情熱で端から端まで満たされていた。それは改めて冷静に省みれば異様な、不気味で不吉な現象であった。

「夏と女とチェリーの私と」 7

 至極当然のことながら、先輩は予備校講師のアルバイトを辞めてしまった。本人は病室に幽閉されたままらしく、代わりに先輩の母親が菓子折を持って挨拶に来た。不幸な事故に巻き込まれた立場であるのに、仕事に急に穴を空けて御迷惑を掛けたからと、先輩の母親は何度も薄汚い主任の長谷川に向かって詫びを述べていた。そんな風に謝る必要など何もないのにと、偶々現場に居合わせた私は、不透明な憤りのような想いを懐いた。先輩も、その親族も、誰かに咎められるような悪事は何一つ働いていないのだ。実際、謝罪される側の長谷川も調子が狂ったのか、仰々しいお悔やみの科白を不器用に並べるだけで、その表情には困惑と虚偽しか映じていなかった。先輩の事故は、確かに或る不可解な波紋のような効果を備えていて、それは平穏で退屈な予備校の日常に奇妙な興奮を、或いは下世話な混乱を喚起していた。誰もが、誰の責任なのか分からない曖昧な事件に魘されるように、言葉の選択を仕損じていた。バイクを運転していた奴が悪人だと、決め付けるのは容易いことだが、それで私たちの胸底を蝕む奇怪な錯綜が解消される訳でもなかった。何故、彼女が不条理な悲劇の標的に抜擢されたのか、私たちは哀しいほどに無知であった。不運だと言い切ってしまえば済むのだろうか。それによって、先輩の身に降り注いだ邪悪な暴力の意味が、解き明かされると信じ込むのは少し横着ではないだろうか。彼女が巻き込まれた残酷な経験の意味合いを、若しも意味合いと呼べるものが存在すると仮定した場合の話だが、そんな決まり切った平凡な型枠に押し込んで安心することなど出来る訳がない。いや、他人には出来るのだ、そのような別種の暴力は極めて容易に行使され得るから。誰だって他人のことならば気安く客観的な批評を試みることが出来るし、それがたとえ的外れな指摘のオンパレードだったとしても、偽証罪に問われる訳でもない。無責任な風聞が世の中に尽きないのは、それが一種の快楽であるからに決まっている。誹謗も同情も、結局は同じ一つの現象の、互いに異なる側面に過ぎない。一見、違って見えたところで、突き詰めれば同じ絡繰に囚われてしまっているのだ。誰も彼女の不幸の意味を解き明かしたり引き摺り出したりすることは出来ない。どんな言葉も間に合わない場所に、傷ついた彼女の孤独は横たわっている。
 だが、何よりも恐ろしいのは、彼女の巻き込まれた残酷な惨劇に寄せられる無責任な論評の類ではない。彼女が陥った孤独な境遇の根深さでもない。社会の表舞台から束の間、退場させられてしまった彼女の不幸な境遇でもない。何よりも、私の頭が懼れていたのは、あの白い繃帯によって蔽い隠された「顔」の状態であった。光を失うほどの深い傷が、あの整った清潔な笑顔に墓標の如く刻まれ、強く深く穿たれたという事実そのものが、それが何を意味するかということ以上に、名状し難い恐懼の根源となって、私の胸板の裏側へ迫り上がってくるのだ。真っ黒な光が、繃帯の隙間から徐々に滲み出してくるのではないかと懸念したくなるほど、その顔に刻まれた「傷」の深刻さは、私の精神を動揺させ、平穏無事な安定性を奪い去った。女性の顔に打ち込まれた楔、その血腥い印象、それは片目が失われ、世界が半分しか映らなくなったという壮絶な事実よりも更に、秘められた魂の奥底にまで達するような破壊的効果を、昼夜を問わず発揮し続けているに違いなかった。
 紗環子先輩の母親が健気な謝罪の行脚を済ませて立ち去った後、長谷川は喫煙室へ消えて暫く戻って来なかった。普段は脂ぎった額に不快な皺を幾つも注連縄のように這わせて厭味を並べるだけの人間の屑にも、一応は他人の不幸に平伏してみせるくらいの良識は備わっていたのだろうか。席へ戻った後も、眉間に普段とは印象の異なる哲学者のような皺を寄せて考え込んでいる姿は、厭味ったらしく他人の失態に目敏い教務課主任の評判とは食い違った光景であった。他人の不幸は、時々そういう教育的効果を齎すものだが、齢を重ねて成長よりも頽落の方が相応しい年代に脳天まで浸かっている長谷川が、今更そんな殊勝な心掛けに耽溺するとは思えなかった。そんな風に幼気な心の動きを甦らせるには、紗環子先輩の存在は彼にとって物足りない筈だ。血の繋がった親子ならば、何れかの死は殆ど神秘的な啓示のように強烈な感化力を発揮するだろうが、所詮は長谷川にとって彼女は幾らでも取り替えの利くアルバイトの一人に過ぎないのだ。繃帯に呑まれて木乃伊のように存在の手応えを薄れさせた草薙紗環子の追い詰められた境遇に、過剰な憐憫を捧げるとは考えられない。
 だから、その日の夕刻に長谷川から名前を呼ばれた私と柏木は、不可解な事態の推移に面食らって互いに顔を見合わせることしか出来なかった。
「呑みに行かないか」
 使い古された科白であっても、それが他ならぬ長谷川の乾いた唇の隙間から放たれたことは、新鮮な驚きを私たちに与えた。人付き合いが良いとは御世辞にも言えず、第三者から尊崇や敬愛を捧げられることとも無縁に見える長谷川が、仕事帰りに誰かを酒席へ誘おうと試みるのは紛れもない奇蹟であったからだ。無論、偶には呑みに出掛けていく浮かれた姿を見ることもあるのだが、相手は大概、彼にとっての上役たちであって、その目論見が上長への見え透いた阿諛追従にあることは歴然としていた。使い走りのアルバイト講師どもに酒や食い物を奢るような豪気とは、最も隔絶した性格の持ち主なのである。噂では、彼は教務課主任の立場にありながらも必ずしも上役から愛されたり評価されたりしている訳ではなく、専らゴマスリの努力の積み重ねの涯に現在の地位を築いているとのことで、固より京都市の片隅に小さな校舎を幾つか抱えているだけの貧相な予備校の職員であるから、その月給は非常に安い、いや、安いとは言わずとも見栄えのする金額ではない、だから目下の人間に酒色を奢るような見返りの保証されない振舞いには禁欲的な方針を貫いているのだ、という話であった。何時も皺の寄った暗色のスーツを着込んで、職場へ着くなりネクタイを解いてクールビズを決め込む彼の風采から、高給取りの優秀な予備校職員というニュアンスを読み取るのは、実際問題、困難である。
 だから、私たちの驚きには相応の根拠があった訳で、どういう返事をしたらいいのかも、直ぐには見当がつかない有様であった。彼と同じ居酒屋で面を突き合わせて麦酒を呑んだりチューハイを呷ったりすることに積極的な関心など懐きようもなく、だからと言って滅多にない彼の誘いを無下に断ればきっと彼の面子を叩き潰してブレーンバスターを浴びせるような仕儀に相成ることは必定であり、目顔で素早く相談し互いの肚の底をまさぐり合った私と柏木は、適当な言い訳を見繕う余裕もないままに、済崩しに夕暮れの夏の京都市街へ、脂ぎった頭に綿飴の欠片のような雲脂を溜め込んだ長谷川と、連れ立って繰り出すことになってしまった。五条大橋を渡って河原町通へ出て、四条の方角へ北上しながら、私たちは余り会話らしい会話も交わさぬまま、此れから呑みに出掛けるとは思えないほど陰鬱な一行として繁華な黄昏の往来を踏み締めていった。
 大学生である柏木と、大学生であることから脱落した私と、長い間、予備校の講師というそれほど華々しいとも思えない仕事に営々と取り組み、上長の御機嫌を伺いながら世間の荒波を回遊してきた長谷川と、これら三人の組み合わせには何ら運命的な必然性は介在していなかった。私たち三人が或る夏の夕暮れに河原町通を連れ立って歩いているという凡庸な事実には、全く神秘的な要素が含まれていない。然し、その絶対的な偶然性が却って、奇妙な宿命に引っ張られ、操られているような、落ち着かない感慨を私の胸底へ湧出させた。私は以前から長谷川のことが嫌いで、直ぐに他人の粗を探し当てて声高に詰ったり、薄気味悪い不潔な見た目のくせに自分に奇妙な自信を持っていたりするところが本当に気に入らなかった。校長やら教務課長(つまりは長谷川にとっての直属の上司)なんかと飲み歩いて彼是とおべんちゃらを駆使する幇間的行為に長けていることも、にも拘らず上長から余り好かれていないという絶望的で致命的な人徳の欠如も、私にとっては目障りに感じられる要素であった。自分たちから積極的に呑みに行こうと誘いたくなるような上司でも先輩でもない、そういう男と摩訶不思議な成り行きに導かれて河原町通を北上するのは、全く以て不本意な経験であり、不毛な時間に他ならなかった。だから、それが却って、自分の欲望や意思の範疇を大きく食み出した、超越的な存在の為せる業であるかのように感じられたのであった。
 だからと言って、それを特別に崇高な時間であるとか、不可解な出来事の神秘性に取り込まれるとか、そういう風に感じた訳ではなかった。私は純粋に退屈で、気詰まりで、いざ店に入って並んでカウンターにでも座ったら、どんな風に重油のように粘つく時間を遣り過ごせばいいのか、ということばかり集中的に考えてしまっていた。粘っこい重油を思わせる長谷川の勿体振った語り口に付き合わされて、終業後の懶い疲労が総身へ行き渡った繊細な時刻を悶々と突き崩していくのは、極めて不幸な経験であると言えた。
 マルイの近く、船頭町の界隈のごみごみと入り組んだ路地裏を彷徨って、私たち青二才二人組は薄手の夏物の上着を乱暴に引っ掛けた長谷川の背中を追い掛けて歩いた。日頃、学校にいる時間は、単に卯建の上がらない風采の、冴えない中年親爺というイメージを脱ぎ捨てられない長谷川であったが、こうやって日暮れの繁華街へ、夫々に欲望を滾らせて往来していく人波に混ざり込んでみると、背広姿の彼の足取りは眺めるだけで気疲れのする雑踏の光景に素晴らしく似合っていた。どんな男にも、つまり夢も希望も高い給料も人徳も持たないような年嵩の、馬齢を重ねただけの哀れな男にも、似合いの風景というものはあり、それは彼が過ごしてきた厖大な時間の蓄積を通じて磨かれた何かが、その風景と呼応し合っているということだ。どんなに若々しい私たちが批判的で皮肉な眼差しをジャックナイフのように隠し持って、彼の一挙手一投足を密かに嘲笑っていたとしても、そんなことに一向動じないような大人の男の、いや中年のオッサンの重圧を感じさせる不敵さが、長谷川の着崩れた地味な背広の後ろ姿には濃厚に滲んでいた。
 私たちは長谷川の案内で煤けた店構えの小さな居酒屋へ入った。夕刻の賑わい始めた往来とは裏腹に、店の中は砂を撒いたように静まり返り、先客は無口な胡麻塩頭の年寄りが一人きりで冷酒の御猪口を傾けているだけであった。その手許には煮魚と沢庵の小皿が置かれて、老人は引き戸をがらりと開いた私たちの風体を訝るように横目で睨んだ。

「夏と女とチェリーの私と」 6

「足首を捻挫したって聞きました。肋骨にも罅が入ったと」
「それは大して重要な問題じゃないわ」
 怖々と切り出した私の言葉に向けられた先輩の突き放すような態度は、私の当惑と混乱を益々募らせた。重要な問題ではないと態々断る背景に、重要な問題は別個に存在するという含意が伴われていることは、既に明白な事実であった。彼女の繃帯に就いて問い訊ねることは紛れもなく危険な博打であったし、私は盆暗を自覚する腰抜けであったから、その危険な境界線を跨ぎ越すことへの覚悟は一向に生まれてこなかった。
「眼が潰れたのよ、あたし」
 重苦しい宣告のような、その簡潔な告白が、時の流れを堰き止めたように感じられた。普段の穏やかで可憐な紗環子先輩の雰囲気は欠片も残っていない。極めて静謐に、然し世界に対する純然たる悪意の塊のような口調で、彼女は私に特別な真実を語って聞かせようとしていた。
「本当は誰にも知られたくないの。だけど、見ちゃったんだから、仕方ないわ」
 冷ややかな陰気さが、薄い水色の病衣を纏った彼女の総身から、じわじわと治りの悪い傷口のように滲出を続けていた。どうやって、その噎せ返るような禍々しい気配に抗えばいいのかも分からぬまま、私は凍りついた背筋を伸ばし切って、彼女の繃帯に覆われた陰惨な姿を凝視した。
「ねえ、どういう気持ちだと思う?」
 何もかも奪われてしまったような絶望の滴が、彼女の掠れた声に朝露のように細かく列なってくっついていた。何もかも、そうだ、彼女の見える世界は半分に削り取られ、何より、その容貌には深刻な傷痕が穿たれているだろう。地獄の扉が開き、黒々とした焔が蛇のように捩れながら踊っている風景が、脳裡を占めた。咄嗟に安部公房の「他人の顔」という小説のことが、海馬の泥濘から引き摺り出されるように無意識から意識へ通じる階段を駆け上がった。大学の図書館で数ページ読んだだけで投げ出してしまったが、確か顔にケロイドを負ってしまった男が、精巧な仮面を纏う話ではなかったか。無論、そんな連想をこの場で迂闊に口に出す訳にはいかなかった。そもそも、雑談に興じることが出来るような空気ではなく、私は勝手な思い込みに衝き動かされるように病院へ駆け付けた自分の愚かさを、無言で呪うことしか出来なかった。
「分かりません」
「分からないでしょうね。だったら、何故来たの」
 声変わりした鴉のように邪悪な声音が聞こえた。紗環子先輩の生き残った隻眼は、無力な私を甚振るように見咎めていた。そこまで自分が責められる理由が分からず、当惑は既に煮詰められた恐懼へと相転移していた。何故来たの。考えてみれば、それは浅ましい下心に操られ、馬鹿げた劣情を滾らせたことの結果に過ぎない。何故来たの。私は貴方の美しい顔を眺めて、怪我を負って弱っていると聞いた貴方の精神の隙間に潜り込もうとして、卑しい感情を高ぶらせて、仕事さえ碌に身も入れずに慌てて馳せ参じたに過ぎない。振り返ってみれば、そのような自分の情念の蠢きが呪わしく、忌まわしかった。一体、どういう可能性を愚かにも信じ込んでいたのだろう。此れが要するに、童貞の限界なのだ。人と深く触れ合い、背負い切れぬものを溜息交じりに分かち合い、そうして深く御互いの存在の泥濘まで錨に掴まって降りていく、そういう甘美な紐帯の世界へ踏み込むことの許されない、哀れな私の宿命なのだ。
 いや、それは哀れさだろうか? 私は情け無いだけで、つまりは単純に惨めで無様なだけで、顔に怪我を負い、片目の光を永久に失った不幸な女性の上辺だけの幻影に、蝶のように舞い踊っていただけだ。彼女の不幸は、私にとっては未知の世界へ通じる扉を押し開く為の得難い「鍵」であると思われていた。過完熟チェリーの袋小路に追い込まれた己の腐臭漂う孤独から、その夥しい寂寥から逃れる為に縋りついた、一つの貴重なチャンスだった。童貞であり、女性との間にsteadyな関係を築き上げる力も資格も持たない私にとって、彼女や、その社会人の彼氏が暮らす世界は、殿上人の宮殿にも似ていた。それは私の醜い指先が断じて届くことのない、切り離された高度な領域であり、或る意味では「宇宙」にも等しい特異な時空であった。私が懸命に爪先立って、その果てしない高みへ身を乗り出して、その世界で営まれる種々の崇高な幸福の有様を、詳さに確かめようと試みたとしても、十中八九、そんな目論見は彼らの硬い靴底に踏み躙られてしまう。此処はお前の為に創られた場所ではないという呪いと忿怒に満ちた声が、私の唯でさえ塵のような勇気を根こそぎ吹き飛ばしてしまう。けれど、彼らが持ち前の「気高さ」と「逞しさ」を投げ捨てて、ピアニッシモの領野へ舞い降りてくる瞬間というものがある。それが私にとっては、紗環子先輩の巻き込まれたバイク事故であり、彼女が不幸にも担ぎ込まれた平板な病室の清潔な匂いなのだ。弱っている彼女、傷ついた彼女、本来的な輝きと栄誉を束の間衰えさせてしまった彼女の姿は、私との距離を奇蹟的に縮めたように思われるのだった。たとえ、それが愚かな錯覚であったとしても、愚かさには愚かさに固有の哲理というものが備わっているのだから、批判したって仕方ない。
 そうやって頭の中で言い訳を重ねるうちにも、先輩の消え残った隻眼に宿る冷たい光は、刻々とその強い艶を増していくように感じられた。貴方は何故来たの、その突き詰めるような問い掛けに、私は卑怯にも、誠実に答えようと努力しなかった。その卑しさが見透かされていることを、まるで片目を失ったことが却って見えないものを正しく精密に見通す力を彼女に与えてしまったかのように、彼女がそれを生々しい実感として捉えていることを、病室の貧しいパイプ椅子に腰掛けた私は、悟らずにはいられなかった。
「誰にも来て欲しくなかったの。帰ってくれる?」
 罪状を告発するような、抑制された怒りを滲ませる口調で、立ち竦み口籠る私に向かって、先輩は最後通牒を突き付けた。そうなれば、双手を挙げて降参する以外に取るべき途はない。私は徐に立ち上がり、悔しさを咬み殺して、最後に何か気の利いた科白の一つでも遺して去らなければ、本当に単なる敗残で終わってしまうと焦った。だが、その焦りこそ、まさしく過完熟チェリーに相応しい精神的な脆さの反映であった。私は立ち上がったまま、彼女の高潔な怒りに対して事実上、奴隷のように膝を屈していた。焦ったところで、しくじった後に慌ててその巨大なマイナスを清算しようと試みたところで、事態が綺麗さっぱり反対の方向へ逆転することなど有り得ない。それを知らない訳ではなかったし、心の奥底では確かに気付いてさえいたのだが、それでも精神の身勝手な奔流に逆らって有効な制御を行き届かせるのは困難な取り組みであった。私は度し難い愚かさの泥濘に沈み込んで、今にも窒息しかねないほどの狭隘な空間に堂々と閉じ込められていたのであった。
 病院を出て、空を見上げる頃には早くも西日は消えかかっていた。無駄な一日が又も終わろうとしている、という砂を咬むような感慨が胸郭の内側に殷々と残響していた。302号室の窓がどれなのか、見捨てられたような気分で立ち竦む往来の舗道から確かめるのも億劫なほどに、私の無様な個人的憔悴は深かった。緑色の車体のタクシーが、迎車のランプを燈して、立ち尽くす私の傍らを火箭の如く鮮やかに走り抜けていった。一体、何をする為に、慌てふためいて此処まで辿り着いたのだろうという尤もな疑問が脳裡を突き上げ、惨めな気分を一層強めた。繃帯を顔に巻き付けて、日頃の明るい微笑を跡形もなく吹き消してしまった紗環子先輩の風貌はまるで別人のようで、そこに過去の痕跡を読み取るのは不可能に近かった。彼女は決定的な負傷によって異界の扉を押し開けてしまったように見える。それは不幸な事故などという紋切り型の形容では到底間に合わない深淵の始まりに思われた。此れから、彼女はどうやって生きていくのか? 余計な御世話だとは心得ていても、そのような問いが頭の片隅で明滅するのを抑えようもなかった。
 家に帰る気にはなれなかった。がらんとした独り暮らしのアパートへ舞い戻れば、却って掻き立てられた思念が私の脳髄に幾つも野太い五寸釘を打ち込んで手酷く苦しめるに違いない。繃帯の白い陰翳が眼裏へ油のように染み込み、拭っても拭っても消えてくれない。私はどうすればよいのか? 何もかも失われた追憶として遠ざけ、闇の懐へ投げ込んで素知らぬ顔を決め込んでいればよいのか? それは確かに一つの安楽な途であるに違いない。だが、そうやって割り切れるという確信は遂に持てなかった。ふらふらと歩いて、私は京都駅の北側まで半ば無意識に流れ着き、スターバックスの近くの喫煙所で濛々と莨を吹かした。遣る瀬ない感情が渦を巻き、浮かび上がる言葉を次々に銜え込んで枯れさせた。浮かび上がる言葉、それらは無責任な思索の残骸に過ぎなかった。どんな言葉も分析も、容易く空回りを始めるに違いないという確信だけが、私にとっては信頼に値する確実な認識であった。あの繃帯の裏側に隠された絶対的な傷痍の意味を、誰が使い慣れた言葉で暴けるというのだろうか。あの白い薄い布の向こうに滲む濃密な血の凝縮を、この肉眼に映すのは恐ろしい犯罪であるように感じられた。
 それでも勇気を振り絞って莨火を揉み消した私の靴は、先輩がバイクに撥ねられたという辺りへ動いていった。半ば導かれるようにスターバックスの正面へ出てみたが、烏丸通の見飽きた喧噪には普段と異質な部分が一つも見当たらず、日暮れを過ぎても蒸し暑い盆地の熱気は未だ冷めていなかった。そこには特殊な事故の残り香が一片も澱んでおらず、賑やかな雰囲気に呑まれて直ぐに総てが踏み均されてしまうように思えた。その残酷な日常性に異議を唱えるのは僭越な振舞いだ。私は黙って黄昏の風を浴び、群青色の空を仰ぎ、消えてしまった痕跡の欠片を見失い続けた。繃帯の幻影は、そのときも確かに私の網膜を、二つともマグネシウムで焼いたように目映さの懐へ叩き込み続けていた。

「夏と女とチェリーの私と」 5

 劇しい蝉時雨が幻聴のように街路樹を濡らし、暑苦しい目映い光の中で総てが溶け合うように息衝いていたあの夏、終戦記念日を過ぎて間も無い或る月曜日に、私は夏期講習の手伝いの為に職場へ赴いた。自転車のチェーンが油切れの所為でぎしぎしと不快な音楽を奏で続け、滴り落ちる汗は蒸風呂のような盆地の擂鉢の底へ、色濃く溜まっていた。繁華な車道を東へ駆け抜け、五条坂の麓の路地に面した校舎の駐輪場へ自転車を止めて青空を振り仰ぐと、何だか妙に息切れがした。梶井基次郎の「檸檬」という小説の断片が不意に泡のように意識の上層へ噴き上がった。「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」という一節が、千切れた記憶の継ぎ目へ爪を立てるように浮かび上がったのだ。
 何時ものように肩を屈めて職員室へ行き、所詮は時給で使い倒される切ないアルバイトの身分に過ぎない己の窮状を呪いながら、宛がわれた小さな灰色のデスクへ鞄を置くと、隣に座っている同じアルバイト講師の柏木が声を潜めて話し掛けてきた。
「知ってるか。草薙さんが怪我したんだってさ」
「怪我?」
 草薙というのは紗環子先輩の苗字であり、私の知る限り生徒の中にも講師の中にも、彼女と同じ苗字の持ち主はいない筈であった。意想外の報せに思わず眼を丸くして口籠った私の顔を、柏木は普段と変わらぬ沈着な茶色の瞳で凝と眺めた。
烏丸通でバイクにぶつけられたんだってさ」
烏丸通でバイクに?」
スターバックスの辺りだって、長谷川さんは言ってたぜ」
 長谷川はアルバイトの講師たちを束ねる教務課の主任である。口髭を綺麗に整えた四十代半ばのオッサンだ。私は長谷川の勿体振った物の言い方と大蒜を思わせる口臭が以前から大の苦手であった。何時も傍へ近付くだけで毛先に絡みついた灰色の雲脂が、薄汚い口臭の流れに乗って此方へ押し寄せて来そうな気配なのだ。いや、長谷川の忌まわしい習性や風貌に関する記述はどうだって構わない。大事なのは、崇高なる紗環子先輩の安否だけである。
「大怪我なのか」
 喉の粘膜が米軍の枯葉剤を浴びたようにひりつくのを堪えて、私は重要な問い掛けを唇の隙間から慎重に押し出した。大怪我だとしたら大変なことだ、一大事だ、彼女の存在が、私の掌の中に包まれる前に重大な損傷を加えられて、取り返しのつかない悲劇の一翼を担ってしまっては、先日から終日この脳裡を抑えつけている不快な感情の凝りさえ、何の意味もない茶番に落ち着いてしまうではないか。彼女の笑顔が、病院の白々しいベッドや、或いはもっと不気味で無骨なイメージに彩られたストレッチャーの上で、曖昧な死に顔に移り変わっているのを確かめるのは、たとえ想像の世界の話であっても、遣り切れないほどの恐怖を、私の胸倉へ叩きつけた。
「足首を捻挫して、肋骨に罅が入ったって聞いたぜ」
 私の内なる動揺には素知らぬ風で、柏木は日頃と同じ冷ややかな穏和さを崩さずに、伝聞の報告を続けてみせた。柏木は私より一つ年上だが、高校三年生の暮れ方に肺炎に罹って現役で入試を受けられなかった為に浪人生活を経験した不運な男であった。同じ予備校で似通った年頃の講師と一緒に働けるというのは心強いと言えば心強いが、私は余り柏木の斜に構えた態度や気質が好みではなかった。偉そうにも生意気にも見える口の利き方や顔つきが、決して入り組んだ洞穴のような悪意から醸造されたものでないことは、この半年ほどの付き合いを経ただけでも察することは出来た。彼は年齢だけでなく予備校の講師としても私より先輩で、そもそも五条坂に位置する冴えない予備校へ講師の面接を受けに態々足を運んだのも、柏木の事前の紹介によるものであった。
 束の間の怠惰な学生生活のうちに、私が曲がりなりにも友情と呼び得る貴重な関係を取り結べた相手は、当然のことながら限られていた。私にとっては信じられないことだが、多くの学生たちは、大学という新しい世界への出立に燃えるような期待と情熱を寄せており、学業にもサークルにもアルバイトにも恋愛にも鮮烈な輝きを備えた眼光を向けることに忙しい様子であった。そんな殊勝な人々の眼に、私のように自堕落な学生が好意的な印象を与えられる理由は一つもない。彼らは私のことを陰気で無力な弱者として捉えることに何の倫理的躊躇いも覚えておらず、私の方でも敢えて彼らの目映いキャリアの華美な装飾に、卑屈な讃嘆を捧げようとは思えなかった。孤独と言えば孤独、だが孤独というのは何処にでも転がっている退屈な玩具のようなものだ。孤独は何処にでも雨上がりの水溜りの如く浮かんでおり、それは次第に結び付き、混ざり合い、一つの巨大な弧を描き出す。同じような孤独を抱えた烏合の衆が偶然の導きによって繋がり合うこと、それは少しも珍しい経験ではない。そうやって雨垂れが次第に小さな水溜りを作っていくように私は幾つかの友人を獲得し、その名簿の中に柏木が含まれていて、互いに何とも馴染み切れないものを密かに感じつつも交友を深めていったのだ。だが、それは私の退学によって聊か根拠を掠れさせていた。同じ予備校でアルバイトしているという共通項だけが今は、私たちの友情を支える貧相な礎石であった。
 それはさておき、何よりも重大に思案されるべき問題は、紗環子先輩の怪我の具合であった。不届きなバイクと如何なる経緯を辿って不幸な衝突を果たしたのか知る由もないが、そのダメージが最悪の結果を招くには至らなかったこと、それ自体は慶賀に値する。但し、伝聞だけを鵜呑みにして己の心の騒めきを地鎮祭のように落ち着かせるのは難しかった。夏期講習の手伝いなどに限られた人生の或る局面を浪費する訳にはいかない。そんなことよりも、一刻も早く紗環子先輩の安否を確認して、あのキラキラと輝き冴え渡る至高のパーソナリティが御無事であることに感謝の祈りを捧げたいのだ。そう、何処の病院に搬送されたのかを調べて、駆けつけなければ。そうだ、此れほどに疾しさを覚えることのない、紗環子先輩との接触の方法が他に考えられるだろうか? お見舞いという奴だ。迷惑だろうか? 然し同僚の致命的な危機に際して病室へ足を運びもしないなんて、人間としての倫理道徳に悖る行為ではないだろうか。
「俺、病院に往ってきてもいいかな」
 半ば興奮状態に至った私の唇は無遠慮に欲望を吐き出してしまい、柏木の冷ややかな眼差しに斬りつけられることとなった。
「何を言ってるんだよ。此れから仕事じゃないか。長谷川が黙っちゃいねえぜ」
「授業よりも大事なものがある。何か分かるか? 人命だよ」
「お前は医者じゃねえだろ。骨接ぎが出来る訳でもねえのに、何を言ってんだ」
 腹を立てると徐々に乱暴な巻き舌が目立ち始める柏木の剣幕に、不覚にも私は一歩退って怯んでしまった。冷静に考えてみれば、俄かに授業の予定を抛り出して見舞いへ行くと言い出すのは如何にも不自然な宣言であり、柏木の冷淡な対応も止むを得ないものだ。主任の長谷川が、素直にゴーサインを出すとも思えず、結局は夕方四時半に終了する予定の夏期講習の授業を、私は黙って不機嫌な顔つきで遣り過ごすしかなかった。
 間の抜けたチャイムが校舎に鳴り渡り、私は急いで荷物を纏めて階段を駆け下りた。市営バスに飛び乗って五条通を真直ぐに西へ向かい、市立病院と京都看護大の建物が視界の端に映った辺で舗道へ降り立つ。外科病棟へ入って受付で来意を告げると、看護師の女性はにこりともせずに病室の番号を告げた。302号室、クサナギサワコ。サインペンで丸っこく投げ遣りに書きつけられた片仮名の姓名には、患者に対する一般的な敬意が不足しているように思われた。だが、そんな小さなプライドに躓いて手を拱いたり地団駄を踏んだりしている場合ではない。
 灰色の陰鬱なカーテンを開くと、窓際のベッドに腰掛けて、紗環子先輩が座っていた。伸び切った足の尖端は分厚いギブスに覆われ、頭にも白い繃帯が丁寧に巻かれている。その瞳を見定めようとして、私は途端に凍りついた。紗環子先輩の繃帯に覆われていない左眼が、伏し目がちに空間を彷徨い、私を捉えて静かに動きを止めた。
「急にどうしたの」
 どうしたのと問われて、咄嗟に返すべき言葉が思い浮かばなかったのは、それが意想外の科白であったからだ。バイクとぶつかって怪我を負ったバイト先の先輩を見舞いに赴き、結果的に歓ばれるよりも先に「急にどうしたの」と当惑の言葉を投げ返されて、私は自分の足許が波に洗われる砂地のように頼りないことに、遅ればせながら気が付いた。或いは、彼女は誰にもこの病室へ来て欲しくなかったのかも知れないという不吉な認識が、意識の汀へ俄かに打ち寄せ始めた。彼女の顔の右側全面を覆うように厳重に施された繃帯の分厚い積層が、私の眼には眩しく映り込んだ。
「いや、あの柏木から聞いてきたんです」
「事故のこと」
「事故の。そうです」
 美しい左眼に澱んだ光が沈んでいるのを目の当たりにしながら、私の心は密かに顫えていた。辿り着いてしまった後で幾ら過去の選択を悔やんでも無益な話だ。彼女の繃帯に閉ざされた顔の閉域に何が起きているのか、それを具体的な言葉で訊ねることは躊躇われた。訊いたところで、そして身も蓋もない真実を明かされたところで、一体何になるというのだろうか? 彼女の封鎖された秘密に、どんな観念が通用するというのだろう。私には何一つ分からなかったし、決断を下すことも出来なかった。彼女は繃帯に取り囲まれた哀れな断崖のような存在であった。クサナギサワコという均質な音の連なりに還元された名前はまるで、彼女という存在の最も重要な核心が、決定的な仕方で損なわれてしまったことの間接的な徴のように見えた。
「長谷川先生には、誰にも伝えないで欲しいと言ってあったのに」
 哀しげな言葉の滴りが、人気の絶えた病室に転げ落ちた。カーテンで仕切られた四人部屋の病室は、紗環子先輩の他は総て空席で、開け放たれた窓から夏の京都の騒がしい匂いが刻々と流れ込んできていた。

「夏と女とチェリーの私と」 4

 眠れない夜。堪えられなくなり、訳もなく寝静まった百万遍附近の路地を歩いてみる。夏の生温い夜風が肌を洗い、私はどうにもならない胸底を何処かの工務店に頼んで舗装し直してもらおうかと馬鹿馬鹿しく考えてみるほどに憔悴していた。ボロボロに荒れ果てた砂利道のような心の表面の亀裂から、じくじくと禍々しい情熱が泡を吹いて浮き上がってくる。所詮、童貞で女を誑し込む技倆のない私には手の届かない夢に過ぎなかったか、彼氏持ちでは難易度が弥増すばかり、全く見込みのない相手に惚れてしまったものだ、こんな見境のない計算の甘い男に、天は果実を賜らぬだろう。
 だが、と改めて心の舵を無理に切ってみる。そうやって無闇に悲観してばかりいるのも虚しく能のない話じゃないか、たとえ彼氏がいたって所詮は若者同士の未熟な恋、未熟な恋は軈て腐れて地べたへ墜落するものと相場は決まっている、簡単に手を退いては益々重篤な童貞シンドロームが、自意識過剰性脳炎が悪化するばかりではないかと考え直してみると、心なしか気分が軽くなったような気もした。これは私の悪い癖だ、戦う前から結果を予測してその絶望的な試算結果に打ちのめされ、気後れしてしまい、出陣の予定を取り下げてしまうのだ。そんなことでは現実は変えられない、この圧倒的な現実の鋼壁に小さくても穴を穿つ努力は試みるべきだと至極真っ当な、彼女には傍迷惑な考えが鎌首を擡げる。
 転がっていた誰かのチューハイの空き缶を思い切り蹴飛ばして、すっかり寝静まった闇を束の間掻き乱してみる。決意と呼べるほど大層な情熱が胸底に湧き起こった訳でもないが、下ばかり向いて歩くのは止そうと思えただけでも明白な進歩である。だが、蹴飛ばされたチューハイの空き缶のように頼りない私に、一体どんな新たな、画期的なチャレンジが出来るというのだろう。彼氏がいると聞いただけで忽ち高ぶっていた欲望を日向の砂糖菓子の如く蕩けさせ、委縮させてしまう難儀な性分なのだ。チェリーボーイ。少しも甘酸っぱさのない、青々と未成熟な果実の化身。
 孫子の言葉だと思うが、敵を知り己を知れば百戦危うからずというのがある。己を知り、敵を知り、総てを知り尽くせばどんな戦いにも必ず勝機を見出せるという有難い訓示である。だが、自分がどんな人間で、相手がどんな人間なのかをはっきりと掴むのはとても難しい営為だ。それが出来たら勝てるのは当たり前だろう。いや、こんな後ろ向きの考え方に固執しているからいけないのだ。兎に角、諦める前に遣れることは幾つもある筈で、そうやって直ぐに膝を屈して断念してしまうから、この俺は何時まで経っても清々しいほどにチェリーボーイのまま、動けなくなっているのだ。
 先ずはその彼氏とやらの正体を知ると共に、彼女自身に就いてももっと詳細な知識を蓄えなければならないだろう。そうでなければ、勝負の舞台に派手なガウンを翻して躍り上がることさえ出来ないのだ。何も小難しい理窟を捏ね回して気の滅入るような日々に溺れている必要はない。社会人とのことだが、社会人とは何か? 煎じ詰めればそれは要するに日本人であって、日本人である限りは私と同族であり、従って社会人であるという理由だけで恐れ戦いたり、だらしない自分の生活を振り返って疾しさや惨めさに屈服する必要もない。そうだ、俺もそいつも同じ時代に同じ国に生まれた同じ日本人の息子、宇宙的規模から観測するならば、どちらも有り触れた芥子粒に過ぎない点では同類なのだ。だから、何も慌てる必要なんて、そうだ、何もない、いや、しかし、俺は過完熟チェリーボーイで、向こうはどうやら未来へ繋がる卑猥な種子を快楽目的で(生殖目的ではないなんて不純じゃないか)撒き散らしつつ、何事もなかったような顔で一端の社会人生活を送っていると思しき非童貞男子なのだから、やはり同類という風に一括りにするのは僭越なのかも知れない。
 そうやって徒然と下らぬ哲学的問答に時を費やすうちに、一人暮らしの薄ら寒いアパートへ再び巡り巡って帰りついていた。大学時代から使い続けている木造の黴臭いアパート。俺の宿敵たる見知らぬ紗環子先輩の彼氏は恐らくこんな薄汚い陋屋には暮らしていないだろう。もっと素敵で瀟洒なマンションにでも、月給の一部を家賃に割り当てて優雅に膝でも組んでワイングラスを傾けているのだろう。そもそも、月給なんてものが所定の口座へ月々振り込まれるような身分というのが、時給で雇われた使い走りの落ち零れである私には信じ難い厚遇のように思われた。幾ら眼の前の課題に真剣に取り組んでみたところで、所詮は時間当たり幾らの計算で僅かばかりの鳥目を頂戴しているに過ぎない身分である以上は、紗環子先輩のように子供たちへの指導の方法をどのように改善していけばいいか、などという崇高な問題に私的な時間を費やす気分にはなれない。そう、そんな風に、物事に対して真摯で殊勝な心構えを以て挑みかかるという習慣が、私という人間には哀しいほどに欠落していた。どう足掻いても、此れでは冴えない時給暮らしの御身分からは脱け出せそうにもない。
 そうやって再び根暗な心情が迫り上がり、全身を冷たく湿っぽく濡らし始めるのを、私はどうにも出来なかった。恥ずかしいことだが、自分の心に自分自身で言うことを聞かせるのは何より難しい。他人が相手ならば却って遥かに手厳しく尤もらしい御説教だって咬ませるだろうに、相手が自分自身となった途端に俄かに鞭を撓らせることさえ躊躇いたくなるのは、見苦しいほどの自己愛に染められていることの紛れもない証拠だろう。ああ、やだな。本当にこんな自分が嫌だなあ。そんな具合に呟いてみたって所詮は情け無い気持ちを紛らわせる為に下らぬ芝居を打ち、自分で自分に向かって虚言を弄しているだけなのだから、本当に始末に負えない糞野郎だ。
 だが、自己嫌悪は何よりも自己愛の裏返しに過ぎず、そんなもので見果てぬ夢を叶える為の重要な第一歩に踏み出すことは出来ない。相手が誰であれ、勝負を申し込むのは個人の裁量に属する問題であり、恋愛に資格など要らないのだ、と強く言い切ろうとして再び心が射精直後の男根の如く萎れてしまう。彼氏とごはん、という先輩の何の衒いも気負いもない生ツイートが意識の檜舞台を鏡獅子に扮した市川団十郎の如く劇しい勢いで駆け巡っていく。糞野郎に人を愛する資格があると、本当に断言し得るのか? 此れは一つの現代的な、哲学上の難問であろう。本当に誰もが誰かのことを好きになるのは自由な権利なのか? 偉大なる日本国憲法はそれを保障しているだろうか? 無論、法律に守られていなければ女性を愛することも抱擁することも出来ないなんて甲斐性のない男では、紗環子先輩が普段は誰にも見せることのない秘密の笑顔を開示したりしてくれる見込みは乏しいと言わざるを得ない。彼女はどんな男が好きなのか、その御手本の魚拓を首尾良く手に入れることが出来たとしても、却って底知れぬ絶望はブラックホールの如く無限の深淵へ広がっていくばかりではないのか?
 空転する自意識に引き摺られながら、私は錆びついた外階段を上がって冷え込み始めた夏の夜気を無言で嗅いだ。溝のような臭いが時折立ち昇ってくる、この破格の家賃だけが取り柄のアパートへとぼとぼと項垂れながら帰り着いて、私は猶更虚しくなった。誰もいない玄関の三和土で草臥れたスニーカーを脱ぎ捨て、汗臭い靴下を摘んで小さな洗濯籠へ投擲する。何も変わらない日常、若しかすると永久に代り映えのしないまま流れ去っていくかも知れない、この曖昧な一生。刻々と曖昧に霞んでいく私のくすんだ自画像。一体、何を考えているのだろうか。こうやって自分で自分の希望を荒々しく踏み躙って粉々に砕いておきながら、涼しい顔で愚痴を零すのだから、本当に私は惰弱な男だ。
 部屋の灯りを点けると、紗環子先輩の彼氏の瀟洒なマンションはきっと笠も附いていない白熱電球でも端の黒ずんだ蛍光灯でもなく、クールな輝きを無限に蓄えたLEDで照らされているのだろうと、益体もない妄想が迫り上がって前頭葉の独裁を掻き乱した。半導体やら顕微鏡やらの極めて高額であるに違いない商材を取り扱う、院卒の若く希望に満ち濫れた一人の営業マン。その男と私が、互いに不倶戴天の宿敵として土俵で塩を撒いたり四股を踏んだりしている奇怪な光景が眼裏を高速で往復した。はっけよい、のこったのこった。あの呪文のような言葉に唆されて、私は見知らぬ年上の恋敵とぶつかり合い、上手を取ったり下手に出たり、あれやこれやと策を弄して悉く無様に見破られたりしながら、少しずつ人生の土俵際へ追い詰められていくのだ。慌てふためいたところで、日頃の稽古の厖大な積み重ねが段違いなので抗ってもどんどん追い込まれ、逃げ場を塞がれていく。奈落の底へ投げ飛ばされる哀れな間男志望者。他人の女に生意気にも手を出した、不埒な童貞の滑稽極まりない醜態。ああ。ああ無情。噫無情。
 単身者用の、ビジネスホテルにでも転がっていそうな中国製の小型冷蔵庫に手を差し込んで冷えた第三のビールを取り出し、柿の種とピーナッツを袋から卓子の上に広げた洟紙へ空けて、何やら会社の仕事に倦怠を覚え始めた三十代後半の商社マンのような横顔を気取ってみる。私は未だ何も知らず、世間という果てしない曠野の彼方にどんな艱難が待ち構え、蔓延っているのかも弁えていない、単なる怠慢なフリーターでしかない。子供の教育なんて、本当は烏滸がましい話なのだ。私自身が圧倒的に教育の足りていないウンコ野郎であるにも拘らず、人様の子供を束の間預かり、その貴重な時間を奪い取って彼是と偉そうに指図してみたり、気さくな人生の先輩を気取って柔らかな物腰で数式や英単語に就いての知識を披歴したり、そんなのは全部不毛な猿芝居であるに決まっている。
 そうやって無闇に自嘲的なことばかり考えながら、特売で仕入れた第三のビールの在庫を払底させるほどに酔い潰れると、前後不覚になって私は掃出しの傍に敷いた万年床へ、腐った屍体のように倒れ込んで高鼾を掻いた。

「夏と女とチェリーの私と」 3

「勉強が嫌いな子供たちに、どうやって考えたり、学んだりする歓びを、教えてあげられるか、って、思ったりする?」
 不意に投げ付けられた的外れな質問に、唇が自然と乾いて、焦りが血管を駆け巡り、耳障りな音を奏でる。優等生の清々しい香気が隅々まで染み込んだ、純白の脱脂綿のような発言に面食らわずにはいられない。予備校には、眼の焦点も脳味噌の焦点も合っていないんじゃないかと思わせるような奴も偶に現れる。俎板に転がった、哀れな白癬の鮭。その問い掛けは、一体、貴方のどの部分から湧き出した伏流水なのですか、先輩。それにしても、紗環子という名前は、飛び切り美しい言葉に聞こえる。恋しているからなのか、それとも名前そのものを客観的に眺めた結果として感じる、審美的な感想なのか、見分けがつかない。前髪が糸のように乱れ、眦に被さり、それが一層、いやらしさを煽る。彼女がいやらしい訳では、勿論ない。彼女自身は清廉潔白、救い難く穢れているのは、この腐れ童貞、過完熟チェリーの俺の方だ、と言い聞かせ、清純な妄想に傷を刻まぬよう配慮する。
「いやあ、一生懸命教えてますけど、分かんないですね、やっぱり」
「分かんないって、何が?」
「いや、勉強が好きっていう気持ちです」
「分かんないかあ。知らないことを知るって楽しいじゃん。君も、そう思うから、講師やってるんじゃないの?」
「自分は、偶々ですよ。他に遣れることもないし」
 偶々、偶々。そればっかりだ、まるで主体性の欠けた、古い特撮ドラマのヒーローの模型のように、他の仲間と合体することと、ボタンを押せば嗄れた電子音で決め台詞を叫ぶ以外に何の機能もついていない、空っぽの自我。偶々で大事な問題も悉く片付けられると能天気に信じ込んでいる、私の度し難い怠惰な性分を、然し、紗環子先輩は嘲笑しようともしないで、穏やかに見守ってくれている。見守ってくれているのか? 或いは、何の関心も寄せていないだけではないのか。そうやって考え始めると、急に不安で堪らなくなり、表面に露出させることは辛うじて踏み止まるものの、心は俄かに忙しなく右往左往し始め、落ち着かない気持ちが半ば無意識に、親指の爪を咬ませる。
「そっか。でも、そういうのも、アリだよね。何がきっかけだって、そこは人によって色々だからね」
 優しく包み込むように言い含める先輩の落ち着き払った大人の対応が、ささくれ立った私の心の柔肌を和ませ、蒸したタオルで丁寧に拭ったように、ほわほわと温かく浮き立たせる。理知的という評価がぴったりの丁寧な、背中からそっと抱きかかえて腕を回すような態度に、蕾のような恋情が益々色づき、熟れていく。こうやって、男心を他愛もなく擽り、引っ繰り返し、掌の上で転がすのが彼女の魔性じみた趣味なのだとしても、その清潔な瞳の輝きは普段通りで、フェアトレードで輸入されたアフリカの綿布のように、得体の知れない純白の信頼感を私の存在の奥底に深々と植え込み、突き立てられた長い爪は、右心房も左心房も逃がそうとしない。
「先輩は、よくこの店、使うんですか」
 ドキドキする完熟アップルマンゴー状態の心臓をこれ以上窒息させない為に、気持ちの舳先を切り替えようと発した、形ばかりの、トタン屋根のような質問に、先輩は虚空を見凝めるような眼つきで応じた。その虹彩の清々しさは微塵も揺るがず、その清潔な笑顔は磨き上げられた大理石の床のように、いや、磨き上げられた大理石の床を見た覚えもないのに言っているのだが、きらきらと白く光っていて、僅かに唇の庇から覗いた八重歯の尖った輪郭が、見習いとはいえ学究的な佇まいの全景に、一滴の目映いマグネシウムを振りかけたような愛嬌を加えていた。
「うん、偶に彼氏とごはん食べたりするよ」
 彼氏とごはん。足許に俄かに、竜巻に捲られたように開いた奈落が、魂まで根こそぎ吸い込もうとするのに、抗うだけで精一杯の、頼りない性根。正しく、この一喜一憂の劇しさは、未成熟な腐れ童貞に固有の習性の最たるものである。ふらふらと定まらない、種々の幻想に苛まれ、濡れそぼった完熟チェリーの股間が、去年の煮干しの如く萎えていく。もうどうにもならない絶望、マリアナ海溝よりも深い絶望、マントルに達してしまうほどの絶望、その、血腥い現実の手触り。世間一般の口さがない人々は、何と大袈裟な言種かと嘲笑うだろうが、それは暢気な外野の特権と言うべきである。プラスチックのコップに注がれた生温い麦酒を片手に、豆みたいな選手が細胞みたいな球を打ったり投げたりする光景を安閑と座視するのと同じように、そうやって安全な高みから眺めている分には、どんな悲劇も、失笑すべき失態に過ぎない。だが、当事者にとっては、どんな些細なことであっても悲劇は悲劇に違いなく、その絶望の痛みは腐りかけた虫歯並みに深刻なもので、況してや凧揚げのように一喜一憂の落差が劇しく、舞い上がったり墜落したりの繰り返しに忙しい腐れ童貞にとっては、歯茎に焼け爛れた鏝をじゅっと当てられたような激甚の苦痛なのである。
 然し、踏み止まれ、マイセルフ。どんな腐れ童貞にも、いや、腐れ童貞だからこそ、分厚く硬化した蹠の角質みたいな鋼のプライドを、胸の奥底に秘めているものなのだという厳粛な真実を、読者諸賢は御存知だろうか。その暑苦しく汗臭い重厚な鎧が余りにも頑丈である為に、却って様々な物事が円滑に捗らなくなるのが、単なる童貞ではない「腐れ童貞」の悪しき生態なのだ。紛れもない純一無雑の童貞野郎でありながら、女と手も握れぬ度し難い晩熟の気持ち悪い性的不適格者であると決め付けられるのは、たとえ相手が崇高なる女神様であろうとも、いや、だからこそ猶更、絶対に堪えることの不可能な、地割れの如き屈辱と感じられるのである。悟られてはならない、この腐臭を放つフレンチローストの珈琲豆のようなペニスを、否、一度も女性の膣に突撃したことはないのだから、香り豊かな深煎りを名乗るのはおこがましい、まだまだ青臭い焙煎の足りない生豆なのだ、まあそんなことはどっちでも宜しいが、兎に角、我が童貞生活の牢固たる歴史を勘の鋭い先輩に見抜かれ、憐憫の対象となり、敬して遠ざけられるような事態に陥落することだけは回避せねばならないのだ、分かってるよな、オレ。
「そうなんですね。なんか、静かで、落ち着きますもんね」
「そうそう。ゆっくりとお喋りするのに向いてるの」
 明鏡止水の対極に位置するこの騒がしい胸のうち、そうですか、彼氏とごはん食べながらゆっくりお喋り、誠に優雅な幸福と寿ぐべきだ。若い人間というのは兎角、壮大な野望に身を焦がし、遠大な理想を赤旗に染め抜いて高々と掲げ、存在することのないユートピアへ邁進すべく走り出すのが常道というもの、然しやはり、幸福というのは慎ましく砂糖菓子のように壊れ易く、路傍の雑草の如く目立たないものこそ本物であって、凡庸極まりない景色の中にこそ、一点の紅い薔薇が、椿でもいいけど、鮮やかに際立ち、強度の近視の眼球にも美しく照り映えるものなのだ。ささやかな幸せというが、幸せというものはその本性からして些細で小さな可愛らしいもの、総身を貫くような激越な快感や悦楽の類とは決して手を結ぶことのない平和主義者である。それに風呂へ浸かるみたいに脳天まで浸かって若い身空で結構な御身分、しかも学才を嘱望され素敵な彼氏、素敵かどうかは実際に見て確かめない限り断定は出来ないが、この人が惚れるくらいだから少なくとも過完熟チェリーボーイではあるまい、その素敵な殿方と咬み締めるような幸福の時間を味わっているという、この良識的な成熟の仕方はどうだ。到底、私には叶わない夢だったと諦めたくもなるが、プライドが安易な挫折を許さないから見苦しく喰い下がるしかない。
「どういう方なんですか?」
「会社員だよ。半導体とか、顕微鏡とか、そういうものを作ってる会社の、営業を遣ってる人。院の先輩だったの」
 なんてこった、というマンガみたいな科白が胃の腑の奥底から活火山のように迫り上がる。相手は会社員、即ち社会的成熟を既に成し遂げた精悍な成人男子、こちらも辛うじて法律的には成人の部類だが、中身は小学生の頃と比較しても大して代り映えしない、無脊椎動物が無脊椎のまま陸へ上がったような体たらくだ。逆立ちしたって東京タワーは東京タワー、身長検査で押上に突っ立っているアイツに勝てる見込みはゼロ、空の木を英訳した洒落た名前のアイツに羨望の眼差しを幾ら投げつけても、天望回廊から観光客の憐れむような見返しを浴びせられるのが関の山だ。
 会社員。使い走りのようなアルバイトの身分では、きちんとした定職に就いて世の中の役に立っている一人前の男と同じ土俵で対決する訳にもいくまい、という絶望がフレンチローストの珈琲のように黒々と魂へ染みる。どうしたものか、勝てる見込みのない相手にも果敢に立ち向かい、傷だらけの肉体を叱咤激励鼓舞脅迫して駆り立てたって、勝てないものは勝てない、弱肉強食の偉大なる摂理を覆すのは幼稚園児が相対性理論を発明するより難しい。会社員か、せめて相手が同年代の学生であってくれたなら、もう少し戦いようもあっただろう、頭の出来が悪くたって、例えばそれも一つの個性だと言い包めて競い合いことも不可能ではなかったろうが、こうまで距離が開いては戦意を維持することさえ難しい、周回遅れが決まった時点で幾らアクセルを踏み込もうと途中で、志半ばで息切れの後に息絶えるのが確実な未来予想図であろう。なんてこった、先輩は既に逞しい男の腕に抱かれて刺し貫かれ、生娘の証であるというあの秘密の粘膜さえ衝き破られた後だったとは、ショック過ぎる。そうか、先輩。貴方は勉強ばっかりの頭の固い石部金吉女ではなかったのですね。勿論、貴方が生え抜きの石部金吉女であったのなら、私もこんな風に憧れたり妄想を膨らませたり妄想と一緒に股間を膨らませたりすることはなかったに違いない、だから総ては予め想定され見抜かれていた事態に過ぎないのであり、今更大袈裟にガッカリするのは己の醜態に拍車を掛けるばかりであろうと、頑張って居直ってみる。転んだ達磨が何食わぬ顔で起き上がるように、私も平然たる顔を装って、先輩に精一杯微笑みかけてみるのであった。