サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(歴史と虚構)

*最近は日本史に関する初学者向けの書物を渉猟していたが、徐々に飽きてきた。石原比伊呂の『北朝天皇』(中公新書)や亀田俊和の『観応の擾乱』(中公新書)などを読み、それなりに向学心は満たされるのだが、夥しく飛び交う人名や地名と、その錯綜した関係性が、淡々とした事実の羅列だけでは容易に頭へ浸潤しない。何より最大の問題は、私自身が直接に歴史的な文献に接し、それを読みこなす能力を欠いているという点だ。歴史的な事実は、明瞭に確定された体系として完璧に確立されている訳ではなく、限られた史料を頼りに、歴代の研究者たちが綿密な読解と適切な推論に基づいて組み立てた想像的な結論の集積として存在している。従って私に出来ることは、研究者たちの読解の成果を受け取ることだけであり、自ら史料の読解を通じて個人的な見解を提出するという行為には一指も触れることが出来ない。その隔靴掻痒の感覚が、私の情熱に冷水を浴びせる。熱心に読み耽れば、それなりに歴史的な知識を身に着けることは出来るが、結局は「批評の批評」という構造を脱け出すことが出来ないし、しかも研究者による「批評」の整合性や真贋を独自に判定することさえ儘ならない。こうした状態を、真実の意味で「読書」と呼称することが許されるだろうか。
 相手が若しも「小説」ならば、少なくともそれは「一次史料」であり、私の個人的な読解の当否は兎も角、原典から思惟の原料を汲み取るという当たり前の営為を実践していることは揺るがない。力量の差異を捨象すれば、数多の学者や批評家と対等の立場で「作品」に接していると言える。ところが歴史における「文献」は、私の智力では文字を判読することすら叶わないのだ。そして私には、古語を学んで本物の文献を読みこなす努力に挑もうという積極的な衝迫が宿っていない。これでは、皮相な知識を蒐集するだけの徒労に帰着しかねない。

*もう一つの問題は、良くも悪くも私の脳味噌が「虚構」に親和しているという点である。無論、歴史の世界にも「虚構」を読み取ることは容易である。古今東西を問わず、厖大な数の「歴史小説」が綴られてきた事実を徴すれば、歴史の世界が「虚構」と極めて密接な関係を有していることは容易に立証し得る。しかし、恐らく歴史の研究とは、過去の「事実」を何らかの筋書きに当て嵌めて要約することではないし、奔放な「虚構」を構築することでもない。歴史家が目指すのは、失われた「事実」の厳密な再生であり、単一の視座に基づいて「事実」を裁断するのではなく、相互に矛盾し続ける「事実」同士の適切な関係を模索し続けることである。
 無論、文学の研究においても同様の姿勢は重要な意味を持つ。作品の内部には、複数の相互に鬩ぎ合う異質な要素が編み込まれており、読者の一元的な読解に抵抗し、安易な要約を拒絶する。しかしながら、根本的な差異として挙げ得るのは、文学作品が「虚構」であり、「事実」による呪縛と無縁であるという条件である。歴史の研究の現場において、僅少な史料に基づいて飛躍的な推論を組み立てることは、恐らく事実の歪曲として指弾される罪深い行いだろう。しかし、文学の世界においては寧ろ、その飛躍的な推論こそ無上の価値を帯びるのだ。「事実」の単純な反映や復刻は、文学的価値の尺度から眺めるならば堕落であり、罪悪である。文学は、単なる「事実」を貴ばない。人間が「事実」だけで生きられるならば、きっと文学は無用の長物である。史実に題材を求めた作品が、専ら史実の厳格な再生であることを命じられるのならば、そのとき文学の固有性は決定的に毀損されるだろう。端的に言ってしまえば、文学とは「妄想」の表象である。その「妄想」を読解する愉しみは、厳格な「事実」の摘出の裡に存するのではない。「妄想」自体の内在的な構造を究明することが、文学に触れる歓びの源泉である。我々は誰も三島由紀夫の「金閣寺」を読んで、一九五〇年に発生した金閣寺放火事件に関する精確な「事実」を知ろうとは思わないだろう。三島は綿密な取材に基づいて創作に取り組むことで知られた作家だが、その綿密な取材は作品の裡に厳密な「事実」を蘇生させる為ではなく、専ら飛躍的な妄想の原料の蒐集の為に行なわれたものである筈だ。例えば水上勉の「金閣炎上」と比較して、三島の「金閣寺」は「事実」を離れた独善的な「妄想」の縷述に過ぎないと批判するのは、そもそも無益な論難である。文学とは作家の「妄想=幻想」を嘆賞する営みなのである。明日から再び、安部公房の小説の繙読を再開しようと考えている。

政治的権威の「盗用/奪還」 坂井孝一「承久の乱」 3

 引き続き、坂井孝一の『承久の乱』(中公新書)に就いて感想文を認める。

 天皇家にとっては、中央集権的な統治の徹底は、自らの血統の繁栄を意味する。人臣が過剰な権勢を揮って国政に容喙することは、天皇家の権益に対する侵犯を意味するだろう。そもそも律令制の樹立は、日本列島の全土に蟠踞する有力な豪族たちへの統制を貫徹する為の政略であると考えられる。しかし、日本における氏族的な社会の機構は相当に強靭であり、律令制の形骸化は刻々と進展して、例えば藤原氏の専横や、源平に代表される武家の台頭を許すことになったのだろう。
 「氏族」という単位に根差した強固な分権的社会を統合し、中央集権的な体制を確立する為には、つまり「日本」という国家的な意識に基づいて政事を執り行う為には、異国との緊張関係の介在が重要な鍵を握っているように思われる。共通の敵を有するとき、人間は個別の利害を超えて一致団結する習性を持つ。例えば律令制に基づいた中央集権体制への移行は、白村江の戦いにおける敗北と、中国の唐王朝による侵略への危機意識によって促進されたと看做されている。「日本」という骨格そのものが倒壊の危殆に瀕しているときに、国内の利権を巡る政争に明け暮れるのは不毛な選択である。
 何れにせよ、天皇家が自らの独裁的権力を強化し、地方の豪族による専横を抑圧するのは、国家の存立の面でも、自家の繁栄の面でも、望ましい結果を齎すと期待される為である。しかし、一門の繁栄を希うのは天皇家に固有の欲望ではない。人臣から庶民に至るまで、自家の権益の拡張を求めるのは共通の本能である。例えば古代から有力な公卿たちは、自家の娘を天皇に嫁がせて姻戚関係を築き、自らの血を引く皇子を践祚させることで、強大な政治的実権を獲得する手法(所謂「外戚政治」である)を常套とした。彼らは天皇家との間に血縁関係を作り出すことで、謂わば擬似的な皇族として高貴な社会的盛名を確保し、莫大な実益を手に入れたのである。こうした手法は、天皇家の側から眺めれば主権の侵害であり、外戚の公卿は、悪しざまに言えば貪婪な寄生虫のような存在である(無論、そこには宿主との密接な共生の関係が存在する)。幼帝を践祚させ、摂政・関白として輔弼するという体裁で、政務の実権を握るという手口は、天皇家への寄生以外の何物でもない。
 無論、天皇家の側でも、こうした公卿の狡猾な政略を常に唯々諾々と受け容れた訳ではない。例えば後三条院及び白河院の時代に創始され、後に発展を遂げた中世期の「院政」は正に、摂関政治の興隆に対して、天皇家の主権を奪還しようとする動向であると言えるだろう。附言すれば、白河院鳥羽天皇の時代に、摂政・関白の地位に就く為の自明の要件と看做されていた「天皇との外戚関係」を排除し、専ら藤原道長嫡流が継ぐべき家業と定めることで、摂関家の勢威を形骸化させるという政策を実施した。言い換えれば、中世期の「院政」は要するに摂関政治に対する強力な「上書き」の効果を備えているのである。それが天皇家の主権を恢復する有効な手段であったことは明瞭な事実である。
 保元の乱以後、急速に台頭し政治的な存在感を高めた武家との関係は、天皇家にとって新たな課題の形成を意味した。特に平氏及び源義経の追討を大義名分として「日本国惣追捕使」に補任された鎌倉殿・源頼朝の権威は絶大であった。彼は個人的な主従の関係を取り結んだ数多の御家人を軍事力として駆使し、国家の軍事・警察に関する職権を独占的に請け負った。しかし右大臣実朝暗殺以後、鎌倉の実権を握った北条義時と、京都に鎮座する「治天の君後鳥羽院との関係は徐々に悪化し、義時を逆賊と認定した後鳥羽院は、義時討伐の院宣を発した。これが所謂「承久の乱」の勃発である。後鳥羽院の意図は必ずしも「倒幕」ではなく、専横を極める執権・北条義時の排除に置かれていたが、事態の推移は後鳥羽院の描いた理想の通りには運ばなかった。在京の御家人を自らの派閥に抱き込み、義時を誅伐して東国の主権を掌中に収めようとする後鳥羽院の戦略は、頼朝の妻であり「尼将軍」と謳われた北条政子の絶大な政治力によって頓挫を強いられた。
 勃発した内乱は、大軍を以て京都へ押し寄せた鎌倉方の勝利に帰着し、後鳥羽院隠岐国へ、順徳院は佐渡国へ、土御門院は土佐国及び阿波国へそれぞれ配流され、仲恭天皇は廃位となった。幕府の意向に基づいて持明院守貞親王安徳天皇の異母弟、後鳥羽院の同母兄)が「治天の君」に選ばれ(追号は「御高倉院」)、その皇子である茂仁ゆたひと親王後堀河天皇として践祚した。こうした一連の事態は、天皇家の主権の著しい凋落と、鎌倉殿の権威の飛躍的な増大を明瞭に示唆している。院政という政治的形態は本来、摂関家の容喙を斥けて天皇家の主権を恢復する為の政略であったが、承久の乱による後鳥羽院の皇統の没落が引鉄となって、東国に陣取る鎌倉殿の権威が伸張し、院政の本義は形骸化した。爾来、皇位の継承に就いて武家の介入が行われることは常態と化したのである。
 承久の乱を重要な転機として、東国に地盤を置く武家政権の勢力は大幅に拡大した。端的に言えば、それは京都の朝廷及び西国に対する鎌倉殿の影響力の浸透である。京都には六波羅探題が設置され、北条氏の一門が責任者を務め、西国支配の総指揮を担った。加之、戦後処理の一環として京方の御家人たちの所領を没収し、東国の御家人に割り当てる措置が進められた。それが西国に対する鎌倉殿の支配力の強化を意味することは明らかである。朝廷においても、後嵯峨院践祚や、それに続く持明院統及び大覚寺統の「両統迭立」の時代に至るまで、皇統の決定には絶えず鎌倉の関与が伴い、京都と鎌倉の関係を取り持つ「関東申次かんとうもうしつぎ」の職務を世襲した西園寺家が絶大な権勢を揮うようになった。爾来、国政の中枢における諸々の問題の解決に、軍事力を背景として武家の棟梁が介入するという方式は、日本の社会的秩序の標準的な元型と化したのである。

政治的権威の「盗用/奪還」 坂井孝一「承久の乱」 2

 引き続き坂井孝一の『承久の乱』(中公新書)に就いて、感想文を認める。

 各地に蟠踞する豪族を折伏し、屈服させる為に、文明の先進国である中国唐朝から「律令」を輸入して、中央集権的な統一国家の樹立という壮大な青写真を描いたのが古代日本の姿であるとするならば、中世期の日本は、その専制的な理想主義の腐蝕、或いは瓦解、或いは変質の過程であると言える。天皇による国家の版籍の直接的支配という律令の名目は徐々に形骸化し、有力な人臣の家門が私腹を肥やして権力を強め、天皇家自体も、血統と皇位を結び付けて考えるゆえに幾度も後継者の地位を巡った悲惨な政争を惹起した。つまり「律令」という普遍的な法規の権威よりも、それぞれの氏族の権益の方が尊重されたということだ。言い換えれば、当時の政治家たちは「日本」という包括的な単位で版籍の統治に就いて考えておらず、中央集権的な統治を可能にする意識の土壌が充分に培養されていなかったということだろう。それゆえに氏族を単位とした啀み合いが常時渦巻いて、官位官職は氏族の権益を高める有効な便宜に過ぎなくなった。彼らは「国家」という観念を持たず、専ら「氏族」や「家門」の為に権謀術数を巡らせ、軍馬を疾駆させた。その意味で、律令国家の瓦解は「日本」という包括的理念の失墜と同義である。
 中世期における院政の開始は、天皇家摂関家との政治的な綱引きを通じて生み出された変革であると言える。天皇との外戚関係を利用して政治的実権を掌握する摂関家の伝統的な手口に対して、天皇の実父であるという揺るぎない権威を利用し、天皇家の首座として政務を主宰するという方式を対置したのが院政の重要な意義である。それは皇帝による絶対的な直裁を旨とする中央集権的国家、つまり「律令」の精神の恢復であるというよりも、皇帝自身が「家門」や「血族」の論理に基づいて、謂わば「氏族」として振舞ったということの象徴的な現象ではないかと思われる。要約すれば、中世期の日本の支配層は「血縁・血統」に対する並々ならぬ執着に身を焦がし、自家の権益を増強して末永い繁栄を希求することに身命を賭していたのである。それは「国益」という理念とは隔絶した振舞いである。日本列島という狭小な島国における利権の相対的拡大ということが往古の「政治」の主要な目的であり、日本列島全体を統一的に組織して外夷に備えるという考え方は、少なくとも中世期の日本においては極めて稀薄であったように思われる(「外夷に備える」ということが喫緊の課題として例外的に浮上したのは、言うまでもなく「元寇」の時期であろう)。
 更に院政期の日本の政治的状況を複雑化する要因となったのは、所謂「武家」の台頭である。保元の乱平治の乱と相次いだ政変において、持ち前の軍事的能力を駆使して事態を解決に導いた平清盛の権勢は飛躍的に向上し、公卿の地位に列せられ、定番である天皇との外戚関係を活用して政権の中枢を領することに成功した。しかし、平家一門の驕慢な専横に不満を滾らせる氏族は数多く、清盛は彼らの叛逆を抑え込む為に後白河院の身柄を幽閉し、院政を廃絶することによって、有力な院近臣たちを国政の中枢から排除した。それに憤激した後白河院の第二皇子以仁王が、平家誅伐の令旨を発したことで、名高い「平家物語」に写し取られた治承・寿永の大乱が勃発する。平家一門を壇ノ浦に追い詰めて滅ぼした源頼朝は、後白河院から勲功を認められて東国の支配権を名実共に確立した。
 源頼朝は、御家人との強固な主従関係を堅持することで、強大な軍事力を掌握する「棟梁」の地位を確保した。平家掃討及び源義経征伐を名目に、守護・地頭を全国へ設置して国家の軍事・警察に関する職権を独占した頼朝は、征夷大将軍に補任され、飽く迄も朝廷の権威に対する臣従の建前を遵守しながら、源氏一門の権益の強化に励んだ。彼は武士の頂点に鎮座することで、天皇をも圧倒する強大な権力を獲得したのである。
 けれども、頼朝嫡流の将軍が三代で途絶え、特に後鳥羽院と親交の篤かった右大臣実朝が暗殺されて以後、鎌倉の政情は不安定化する。固より鎌倉幕府の権威は、平家を誅伐し、征夷大将軍に補任された源頼朝嫡流に対する御家人たちの圧倒的な忠誠によって支えられている。その崇高な血統の途絶が、数多の武士を糾合する超越的象徴の欠損を意味することは論を俟たない。
 鎌倉の混迷は、公武の宥和と協調を阻害する重大な悪弊となる。執権の地位にあった北条氏は、京都から摂家将軍(本来の希望は「親王将軍」つまり皇族である)を迎えて擁立し、幕府の威信を維持することを試みた。北条氏の政略は、要するに京都の公卿が駆使する摂関政治の方式の踏襲である。当初は源氏将軍を輔弼する立場として、後には摂家親王将軍の権威を活用することで、幕政の実権を掌握するという戦略を彼らは弄した。空洞化した権威の光輝に紛れて実利を得るというのは、古代から連綿と続く日本の政治的伝統なのである。執権のみならず、征夷大将軍である源頼朝嫡流にしても、天皇の威光に臣従することで自らの権威を強化した点は同様である。
 承久の乱は、北条義時の権勢を排除し、幕政を支配しようと企てる後鳥羽院院宣によって火蓋を切った。著者は、後鳥羽院の本意が「倒幕」ではなく、飽く迄も北条義時個人の排除に向けられていたことを強調する。事実、朝廷が鎌倉の軍事力に対する重度の依存を病んでいたことは明瞭である。そもそも平氏以来の武家の台頭は、朝廷が彼らの軍事力に対する依存を深めていったことと密接に相関している。重要なのは、鎌倉が朝廷の意向に対して従順であるかどうかという点であって、例えば後鳥羽院が北条氏による親王将軍の東国下向の請願に難色を示したのは、それによって鎌倉殿の勢威が高まり、朝廷への臣従という建前が形骸化して、東国が謂わば軍政国家として京都の朝廷から分立してしまうのではないかと懸念したことに由来すると思われる。

政治的権威の「盗用/奪還」 坂井孝一「承久の乱」 1

 坂井孝一の『承久の乱』(中公新書)を読了したので感想文を認める。

 後鳥羽院鎌倉幕府との間に勃発した中世期の大乱である「承久の乱」の経緯と構造の解明に焦点を当てた本書は、読者の精密で行き届いた理解を促す為に「承久の乱」のみならず、そこへ至る事前の過程として、中世における「院政」の開始と定着から説き起こしている。「院政」は、天皇に譲位した後の「治天の君」と呼ばれる天皇家の家長による政務の直裁を意味する。本書によれば、その歴史的端緒は後三条天皇の譲位の時期に見出される。但し、後三条院は譲位の後、程なくして崩御した為、院政という政治的慣習の本格的な展開は、後三条院の跡目を継いだ白河院の時代に始まったと看做すのが通説となっている。
 この「院政」という制度の眼目の一つは、皇統の継承の保全である。主上が未だ健在の裡に後継者を定めて天皇の地位を承継することで、皇統の継承に関する無用の混乱を予防し、自らの嫡流の繁栄の礎を揺るぎないものとするのが、後に「院政」と呼ばれる政治的慣習の創始された直接的な契機であると思しい。尚且つ、この「院政」という制度は、藤原氏による所謂「摂関政治」への排撃という効果も併せ持っている。
 人間が自己の遺伝子を保全し、継承することに並々ならぬ執着を燃やすのは、生物学的な本能なのだろう。日本史の書物を繙き、遼遠たる時代の政争の数々を眺める限り、そこに登場する人物たちの行動の背景には必ず、自己の「血統」或いは「家系」の末永い繁栄を企図する強烈な感情が渦巻いていることが分かる。天皇家による「院政」の創始が、藤原氏による「摂関政治」の排除という側面を担っていることも、そうした基礎的文脈に位置付けることが出来るだろう。
 「家族」の論理が、少なくとも日本の社会において行使してきた伝統的な影響力は絶大である。そもそも「院政」という仕組みが成り立つ為には、天皇家の家長であるということと、政治的機構における元首であるということとを同一視する風土が予め存在し、機能していなければならない。言い換えれば、家族の内部における長幼の序列、或いは「惣領」及び「庶子」の垂直的な関係性が、その家族の占有する官位官職における上下関係と重なり合っていなければならない。律令制の衰退或いは崩壊に伴って「官司請負制」の傾向が強まり、特定の官職に特定の血族が排他的な結合を行なうことが常態化すると、そのような風土は皇室においても一般化して、中世的な「院政」の仕組みを成立させる土壌を形作ったのである。
 中国から輸入された「律令」は本来、皇帝が臣民と直接的に結び付く独裁的な親政の理念を支持する制度であり、律令を制定し、尚且つそれを超越する特権を皇帝に認める中国的な「王土王民思想」が、極端な中央集権を志向していることは明瞭である。しかしながら、日本に輸入されて土着化した「律令」は、本家の中国に比して「皇帝=天皇」の独裁的な権限を認めることに就いて慎重である。日本では相対的に、公卿たちで構成された太政官の権限と発言力が強大であり、例えば天皇詔勅を発する場合にも、太政官との協議を経由せずに発給を実施することは出来ない構造になっていた。加之、本来ならば天皇の独断的な直裁だけで行える筈の「勅符の発給」及び「奏弾」さえも、律令の条文に反して太政官を経由することが常態化していたと言われる(佐藤進一『日本の中世国家』岩波文庫)。言い換えれば日本において「律令」という制度は、天皇の専断に基づく中央集権的な執政を実現する為に用いられたのではなく、寧ろ天皇の専断を認めずに必ず君臣による合議を経由して政務を決裁しようとする分権的な志向を有していたと考えられるのである。
 皇帝個人の直裁で総てが決まる一元的な執政の方式は、日本の風土に馴染まぬ代物であった。そして往古の日本においては「血族=氏族=家族」の論理が根強く、中央集権的な統一国家であるというよりも、氏族的な分権主義に依拠した連邦制の国家であったと看做した方が適切ではないかと推察される。日本の天皇は超越的な個人でも絶対的な君主でもなく、実際には数多の氏族で構成された連邦の「盟主」であり、その権威は他の氏族との関係性の変化によって揺れ動いていた。天皇の一存で万事が決せられるという極端な親政は、それが連邦を構成する有力な家門の利益に反する場合には非難され、抑圧された。
 従って中世期に発祥した「院政」を、単なる独裁的な専断の常態化として捉えるのは短慮に他ならないと思われる。天皇による親政が、摂関家による介入と掣肘に絶えず晒され、その権威の実効性を骨抜きにされてきた経緯を鑑みれば、上皇による「院政」が直ちに絶対的な専横の権限を発揮し得たと看做すのは軽率であろう。そこには皇室と公卿との複雑な権力関係が存在しており、後三条院及び白河院の時代に創始された「院政」は、天皇外戚という地位を得ることで、人臣の立場にありながら摂政として国政の実権を掌握した摂関家の手法に対する反撃の意味合いを色濃く湛えていると言える。特に摂政・関白の官職と、天皇外戚という血族的な地位とを切断し、藤原道長嫡流摂関家として固定するという措置を講じた白河院の政治的判断は、所謂「院政」が「摂関政治」と同質の構造を内包していることを示唆しているように思われる。何れの場合にも、天皇の「身内」(摂関家の場合は姻戚である)の中で最も地位の高い人間が、天皇の威光を利用して隠然たる権力を発揮するという構造は共通しているからである。
 言い換えれば、日本という国家の歴史においては「権威」と「権力」との間に微妙な乖離が頻繁に見出される傾向が強いのである。例えば「院政」における上皇の卓絶した権力は明らかに、後継者である今上天皇との父子関係によって保証されている。「持明院統」及び「大覚寺統」による皇位の「両統迭立」の時代には、院政を主宰する「治天の君」の地位を上皇が得られるのは、嫡子が天皇の地位に就いている間に限定された。つまり、現下の皇位が異なる系統に移ってしまえば、上皇の肩書は変わらずとも「治天の君」を名乗ることは認められなくなったのである。「院政」における天皇との血縁関係の重要性は、摂関家天皇外戚という立場を絶大な権威の源泉としていた歴史的事実と符節を合している。言い換えれば「治天の君」としての上皇にとって、政治的に競合する相手は「天皇」ではなく「摂関家」なのである。このように眺めると、日本における「天皇」の権力の実態は、中国における「皇帝」の権力と比較する限り、極めて脆弱であると言わざるを得ない。
 無論、あらゆる政治的権威の源泉が「天皇」という称号の裡に存在することは厳然たる事実である。重要なのは、その絶対的な権威から政治的実権を借用するという手法が、日本の歴史の随所に見出される普遍的な手口だという点である。例えば藤原道長嫡流である摂関家に限らず、天皇外戚となることで自己の権力を強化するという手法は、古代から受け継がれてきた有力な人臣の政治的常套であるらしい。しかし、彼らは自ら「天皇」の地位を簒奪しようと企てた訳ではない。不思議なことに、強大な権力を獲得した公卿や武家の棟梁の誰一人として、自ら「天皇」の称号を名乗ろうとはせず、飽く迄も「天皇」の権威に対する臣従の構えを捨てなかったのである。表向きは既存の秩序を保持したまま、その水面下の内実だけを恣意的に改変するという政治的手法が、本邦の歴史的常道である。時代や環境に適合しなくなった「律令」の条文を公式に革めることなく、専ら明法家による柔軟で恣意的な「解釈」に頼って、崇高な建前としての「律令」に反する特例を正当化するのも、そうした傾向の一環であると言えるだろう。

「中央集権」を拒絶する風土 佐藤進一「日本の中世国家」 2

 佐藤進一の『日本の中世国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 治承・寿永の苛烈な内乱を経て東国に誕生した鎌倉幕府は、王朝期における官職の「家職化」という傾向の新たな展開、その画期的な帰結であると言えるだろう。天皇を頂点とする日本の国政の体系は、少なくとも中国に倣って律令制が発布された当時は、成文法に基づいた厳格な統属関係の運用を旨としていたが、時代が降り、律令の精神が形骸化するに連れて、純然たる上意下達の機能的機構は「氏族」或いは「家業」の論理によって蚕食されていくようになる。その傾向は、立法・行政・司法のあらゆる領域に共通して見出される重要な変貌の累積である。
 律令制の成文化された規定の数々は、現場の論理に捻じ曲げられ、無数の曲解に蝕まれて、その権威の実効性を徐々に奪われていった。律令の見地から眺めれば特例に他ならない「令外官」の増大は、中国から齎された「律令」の論理と、日本の社会的現実との齟齬の存在を明瞭に示唆している。「律令」の論理は、本来であるならば氏族的な「家業」の論理を否定するものである。絶大な権力を賦与された皇帝が、森羅万象を統御する為に編み出した独裁的な論理が「律令」であるとするならば、日本における「家業」の論理は、絶対的君主の権威に多方面から掣肘を加えるものである。言い換えれば、日本の社会的風土は、あらゆる土地とあらゆる氏族を統括する一元的で綜合的な論理を好まないのである。
 極言すれば、天皇家でさえ「家職」或いは「家業」の観念から自由ではないように思われる。皇族と姻戚関係を結び、その権威を借用して自家の格式を高め、栄華を極めようとする公卿たちの常套を徴する限り、臣下であるべき彼らは実質的に、天皇の超越的な権威を信じていないように見えるのだ。彼らにとって皇室は隔絶した人々であるというより、最も優等な公卿とでも称すべき存在であって、両者の垣根は実質において相対的なものであったのではないか。北極星が不動の位置を占めるとしても、それが星辰の一種であることは疑いを容れない。従って、日本の国政は格式の様々な氏族=血縁的集団による協業によって営まれ、単一の絶対者が統治されるべき人民と直接的に結び付く中国的=儒教的=中央集権的なイデオロギーとしての「王土王民思想」には馴染まなかった。森羅万象が天皇の所有と支配に帰するのではなく、天皇天皇家の私領を有するだけで、天皇家の私領を国家の公領と同一視することは出来ない。言い換えれば、日本においては、単一の絶対的論理が万物を包摂するという考え方が受容され難いのである。
 そのように考えるならば、東国における鎌倉幕府の誕生、そして朝廷との相補的な共存の体制は、固より中央集権に馴染まない日本的な風土においては何ら奇異な現象であるとは言えないだろう。日本的な組織は「分権」が原則であり、派閥の内包は常態であり、派閥同士の政治的均衡を通じて組織の意思決定が為されるのは現代にも通じる歴史的宿痾であると思われる。単純化して言えば、日本的風土は「全体最適」という考え方を堅持し、それに基づいて判断したり行動したりすることが極めて不得手なのである。天皇の独裁的な権限に対する抑圧は、律令国家における太政官の強力な権限、或いは摂関家に代表される公卿たちの強固な政治的発言力など、様々な形式を伴って絶えず維持されている。それは日本的風土が「単一的論理による万物の包摂」を容認しないことの間接的な証拠である。そもそも、往古の政治家たちは専ら自らの属する氏族=血族の利益を最大化することに関心を持っており、日本という国家的枠組みに対する意識を備えること自体が稀であったのではないか。その原因は恐らく、日本人が「外夷」との政治的緊張に免疫を有していないことの裡に求められるだろう。異民族との絶えざる政治的緊張が、国民国家という意識を形成する基礎的な土壌であることは明瞭である。共通の敵が存在するとき、人々が紐帯を取り結ぶことは比較的容易い。若しも日本という国家が、例えば「元寇」に類する異国との政治的緊張に常時曝されていたとすれば、日本という「国家」の単位に基づいた広範な視野が涵養されたであろうし、異民族との交流が極めて盛んな環境であったとすれば、それらを包摂する超越的な論理の構築に重点が置かれたであろう。言い換えれば、日本において「単一的論理による万物の包摂」が容認されないのは、多様性の尊重という殊勝な御題目が崇拝されているからではなくて、そもそも自他を包摂する共通の基盤や土壌を想定する能力が薄弱であるからではないか。或いは「赤の他人」を屈服させることに関心を持たず、専ら「身内」を増殖させることだけに尽力する傾向が強いからではないか。
 「中央集権」という制度が成立する為には、前提として「家族」の論理を超越する視野が整備されていなければならない。或いは「家族」を「国家」や「公共」といった理念に拡張する論理が成立していなければならない。しかし、日本史における様々な事件の推移を観察する限り、国政の頂点に位置する天皇でさえも「家族」の論理、もっと具体化して言えば「血縁」の論理に基づいて、事物の理非を判定しているように思われる。例えば藤原氏が自家薬籠中の政治的手段とした「外戚」による栄達の方式は、血族を優遇するという極めて原始的な精神が国政の場において堂々と罷り通っていた事実を鮮明に証している。天皇の姻戚であることが政治的栄達を齎すという事実は、政務が能力によって営まれるのではなく、世襲の「家業」として執行されるという論理の介在を意味している。つまり、個人の能力の多寡を越えて、その家柄に繋がる者であるという宿命的資格が、何にも況して当人の政治的権威を保証するのである。その最も集約的な典型は正に天皇家であって、天皇天皇であることの理由は、当人の属人的資質ではなく、専ら「血統」に由来している。数多の公卿たちは、こうした天皇家の「血統主義」を模倣し、自らの血統を皇室の血統と混ぜ合わせることで、その権威の余禄を享受した。中国においても皇帝の地位は世襲が原則であったが、他方では、儒教的な徳治主義に基づいた「易姓革命」の思想が存在し、皇帝の資質に重大な瑕疵が認められる場合には謀叛さえ正当化されたのである。
 鎌倉の首班たる源頼朝は、軍事を以て天皇に仕えることを「家業」とする者であり、平清盛の先例に倣って、武威を以て公卿の地位に列することに成功した稀有な人物であった。彼は武家の「棟梁」として数多の御家人を従え、彼らとの間に擬似的な家族としての主従関係を締結した。尚且つ、自らの血統に備わる権威を盤石のものとする為に、娘の入内を計画した。つまり、鎌倉幕府と呼ばれる東国の重要な政治的勢力もまた、血族の論理に従い、その利益を最大化することに価値を置いていたのである。
 しかし不幸にも、三代将軍実朝の暗殺によって頼朝の嫡流は断絶し、代わって執権の北条氏が東国の首班たる地位を襲った。その後の北条氏の専横は広く知られる通りである(尤も、北条氏が特別に横暴だったという意味ではない)。ところが、北条氏は決して頼朝の嫡流が三代に亘って受け継いできた征夷大将軍の地位を簒奪した訳ではなかった。承久の乱において後鳥羽院を配流した後も、北条氏の得宗天皇として登極することはなかった。こうした事実は「家門」と「官職」との緊密な癒合を傍証するものではないだろうか。明の太祖朱元璋が、貧農の子として生まれながら乱世を制して至尊の地位に昇り詰めた「易姓革命」の論理は、日本では容易に適用されないのである。つまり「天皇」という「官職」は「血統」以外の根拠を持たず、如何なる徳性や資質に恵まれた人物であっても、その称号を勝ち得ることは不可能なのだ。否、厳密に言えば、そのような簒奪の営為は無益なのである。権威の源泉は「天皇」の称号そのものに存するのではなく、専ら「天皇」の「血統」であるからだ。称号そのものが価値を有するのであれば、天皇家家督である上皇が政務を主宰する中世の「院政」は決して正当化されないだろう。「院政」の定着は、皇室における「家族」の論理の明瞭な顕在化に等しい。「天皇」は皇室の「家業」であり、ここにおいても一種の「官司請負制」が貫かれているのである。要約すれば、少なくとも中世期の日本は究極の「分業社会」であり、国政の頂点に位置する天皇でさえも「分業」の担い手に他ならない。尚且つ、その分業は能力などの属人的資質ではなく、専ら当人の帰属する「血統=氏族=家門」に基づいて賦課される。「血縁」と「姻戚」によって織り成された「家族」の論理が、社会的分業と密接に癒合することで、中世期の日本社会は組み立てられていたのである。

日本の中世国家 (岩波文庫)

日本の中世国家 (岩波文庫)

 

「中央集権」を拒絶する風土 佐藤進一「日本の中世国家」 1

 佐藤進一の『日本の中世国家』(岩波文庫)を読了したので、感想文を認める。

 一応、通読は済んだとはいえ、律令制国家から室町幕府へ至る国家権力の構造の変遷を取り扱った本書は、私の如き歴史の初学者を念頭に置いて執筆されたものではなく、日本史に関する一通りの基礎的知識や、古語や漢籍の素養を持たぬ者には難解な一冊であると言えるだろう。引用される史料の文言を簡潔な現代語に置き換える懇切な配慮を、本書に期待しても裏切られる。無論、これは著者の越度でも作品の瑕疵でもなく、史学に関する数多の書物に就いて手に取るべき順番を適切に考慮し選択しなかった私の不手際である。けれど、愚かしい蛮勇であっても、一知半解にすら及ばぬ通読の成果であっても、何かしら向後の勉学の糧になる経験であったことは疑いを容れない。
 古代から中世に至る時期の官制の詳細に就いて学ぶことは、そのまま国家の構造的特性を理解することに等しい。実際、著者は官制の変遷を通じて日本という国家の構造的推移を究明すべく、夥しい史料を渉猟して緻密で丁寧な読解を試みている。その精確な要約を、浅学菲才の私が実践してみせることは不可能であるから、門外漢らしく殊勝に、自己の気儘な感想を記して備忘に役立てたいと思う。
 第一に、国家の構造的変遷を促す重要な原動力として着目すべきは、絶対君主としての「天皇」と、その有力な臣下である「公卿」或いは「武家」との間で演じられる不断の政治的闘争である。著者は律令制国家における「天皇権」の性質や規定を、中務省及び宮内省の内廷的性質(つまり天皇家の家政=内情に関連する業務が、太政官の管下に組み込まれていること)や公文書の発給手続きなどを通じて考察している。臣下の体系的組織である太政官の制度は、天皇という絶対的な君主の恣意的な専横を阻み、その法外な権威に一定の抑制を強いる為の機構としての政治的特性を含有している。天皇による詔勅の発布に必ず太政官が介入する取り決めであること、本来ならば天皇の意のままに執行される専権事項であるべき「勅符・奏弾」に就いても、年月を経る裡に形骸化が進んで太政官の介入を許していること、そもそも律令の本家である中国の制度と比較して、本邦においては臣下たる太政官の政治的発言権が強力なものであることなど、様々な証拠を取り揃えて著者は、古代における君臣の間の絶えざる政治的駆け引きの存在を示唆している。動もすると自らの絶対的権威に基づいて独裁的な親政に傾斜する天皇と、その強力な大権を抑制し、或いは利用して、自らの利得の確保と増強を図る公卿との間断のない政争が、国政の構造を変質させ改革する活力の源泉を成しているのである。
 当時、アジアに冠たる先進的な超大国であった中華帝国律令制に範を仰ぎ、厳格な中央集権的国家の体裁を整えて出発した古代の日本は、天皇と公卿との対立的関係(及び癒着)の持続を通じて徐々に変質と形骸化を強いられた。そもそも律令制の本家である中国に比べて、日本の天皇は独裁的な性質が薄弱であり、公卿たちの発言権が極めて強い。天皇を旗印として強力な中央集権的制度を布こうとする企図は、史上幾度も試みられてきたが(例えば「建武の新政」や「明治維新」も同様の意義を有していると言えるだろう)、それが日本という国家の土壌に完全に定着した例は存在しないのではないかと思われる。言い換えれば、日本という国家の風土、或いは民族性は、単一的な権威による独裁、圧倒的な中央集権といったものを拒否する根深い特性を宿しているのではないか(やや話が逸れるが、例えば作家の遠藤周作が「沈黙」において、苛烈な一神教としての「基督教」を受容せず、巧みに骨抜きして変質させ、根腐れを惹起する日本の風土に就いて語っていることは示唆的である)。
 律令制の眼目である中央集権的な施政は、著者が「王朝国家」と呼称する歴史的段階に至って著しい後退を示し、実質的な地方分権の時代が始まる。否、元々地方分権こそ日本の古代的伝統であったのが、律令制の導入という一種の政治的革命によって抑圧され、それが再び反動形成的に蘇生したのだと看做すべきかも知れない。律令制の形骸化は「令外官」の相次ぐ設置や、官司請負制の一般化、天皇直轄の「蔵人所」の発展など、様々な事象を通じて不可逆的な推進を示した。こうした傾向は、客観的な法律において明示された官司の統属関係の恣意的な歪曲や解体を意味する。国家全体を統括する超越的な論理による支配を排除して、天皇家も含めて、血縁関係に基づいた氏族の局所的論理が復権を果たした過程であると言い換えても差し支えないだろう。
 氏族的な論理が強まれば強まるほど、本来ならば律令に定められた中央集権的な上意下達の組織であるべき官司の体系は、その厳格な統属関係を蹂躙され、一つ一つの業務が「家産」即ち「氏族の利権」として定義されるようになっていく。言い換えれば、本来公共的な業務であるべき官職が、特定の氏族によって私有化され、独占的に世襲されるようになるのである。これは所謂「縦割り行政」の極端な形態であり、官司の任免が絶対的な統治者の裁量ではなく、歴史的な経緯や伝統によって定められるような事態を現出させる。しかも、こうした変化は厳密な明文化を施されず、律令の条文自体は絶対的な規範として維持され、専ら明法家などによる「解釈の変更」を通じて正当化されている(安倍政権による「憲法」の解釈変更を想起させる)。政治の実情に応じて律令の条文を改正するという正当な手続きは踏まれず、恣意的な曲解が時の権力者の都合によって繰り返されたのである。
 こうした政治的傾向は、官吏における国家に対する奉仕という意識の稀薄であることを意味する。有力な公卿たちは、銘々の属する氏族の権益を最大化する為に謀略を尽くし、高い官位官職を占有して政務を私物化する。天皇家でさえも、例えば「持明院統」と「大覚寺統」との「両統迭立」という著名な史実に見られる如く、血統に基づいた派閥的な意識を持して内紛に明け暮れたのである。官職の私物化は、国政における「全体最適」を志向する意識と鋭く背馳する。本来「律令制」とは、国家の全体を首尾一貫した論理や方針に基づいて掌握し、厳格に統制する為の政治的制度であった筈だが、太政官による合議が天皇の特権にさえも絶えず掣肘を加えていた事実を鑑みても、日本の歴史において、その趣旨が安定的に貫徹されたと考えることは困難である。単一的な論理で総てを包摂するという一神教的な論理を拒絶することが、日本という風土の歴史的特質なのである。天皇太政官を枢軸に据えた包括的で中央集権的な律令制は、血縁や姻戚に基づく有力な氏族による「分権」によって形骸化し、綜合的な「国益」を勘案して包括的な大計を描き、実行するという政治的体制は済崩しに棄却されたのである。

日本の中世国家 (岩波文庫)

日本の中世国家 (岩波文庫)

 

サラダ坊主風土記 「銚子・犬吠埼」 其の三

 銚子旅行の二日目、ホテルのビュッフェ形式の朝食を頂き(コロナの感染防止策の一環として個人別の紙製のトングが用意されていた)、チェックアウトの手続きを済ませてタクシーを呼んでもらった。ホテルの駐車場の一隅に岩礁を模した露天の水槽があり、数匹のペンギンが薄曇りの空の下を泳いだり佇んだり忙しない。娘は水槽の至近に陣取って水槽の表面に指先で弧を描く。釣られてペンギンが顔をくるくると動かすのを、熱心に見凝めている。
 タクシーで向かったのは「地球の丸く見える丘展望館」である。愛宕山の頂上に位置する閑静な展望施設で、屋上の広々とした空間から、四方を水平線と青空に囲まれた壮大な眺望を愉しむことが出来る。生憎、澄み切った快晴には程遠い空模様で、空と海との境目もぼんやりと融けて見える。屛風ヶ浦の切り立った独特な断崖や、夥しい発電用の風車、犬吠埼灯台銚子ポートタワーも視野に収めることが出来る。晴れていれば、富士山や筑波山も彼方に捉え得るらしい。
 犬吠駅まで、娘を抱えて下り坂を歩いた。雲間が割れ、燦然たる晩夏の光が不意に路面へ滲み出す。途中、満願寺という派手な色彩の寺院を見掛けて立ち寄った。境内には、録音された読経の声が朗々と響き渡っている。しかし人影は見えず、奇態な印象を受けた。廻廊を巡り、本尊の傍に設けられた受附で御朱印を貰い、奉納された写経を収めた鈍い金色の筒の行列を眺める。電車の時刻が迫っているので、余り長居は出来ない。
 娘を背負って前屈みに、犬吠駅へ駆け足で向かう。横断歩道を渡り、踏切を越えて、瀝る汗を拭いながら駅舎へ入る。有人改札で切符を購い、プラットフォームから娘と並んで到着する列車の鼻面を出迎える。その後ろ姿を妻が携帯で動画に撮った。
 辿り着いた観音駅から徒歩で、飯沼観音の傍にある、青魚の漬け丼を出す小さな店へ向かった。コロナ対策で座席を間引いている為か、通りの両脇は一面シャッター街であるのに、そこだけ時ならぬ行列であった。私が頂いたサバの漬け丼の定食は、謳い文句の通りに全く臭味が無く、美味であった。
 飯沼観音は、観音という地名の由来にもなった真言宗の古刹で、正式な名称は「飯沼山圓福寺」である。開基は九世紀初頭、弘法大師空海によるものと伝えられる。本堂の石段を昇ると、恰かも銚子の街並を守護する金剛力士のように、奉納されたヒゲタとヤマサの醤油の一斗缶が鎮座していた。
 寺院の敷地を裏手に抜けて、銚子観光協会の老女から熱心に勧められた今川焼(老女は「金鍔」と呼んでいたが、店の看板は「今川焼」を謳っていた(現在、一般に知られる「金鍔」は、明治時代に考案された「角金鍔」と言われる変種であり、それ以前は名前の通り、刀の「鍔」の形に似た平たい円形の餡を粳米の粉で包んで焼き上げたものが「金鍔」或いは「銀鍔」と呼ばれていたらしい。その製法の類似ゆえに、地域によっては「今川焼」を「金鍔」と呼称する習慣があるそうだ)。黒餡と白餡の二者択一というシンプルで明快な品揃え、恐らく顧客の根強い支持に庇護されているのだろう。
 餡子の余韻に浸りつつ、重たい娘を抱えて緩やかな坂道を登り、県道244号線を西へ向かって歩く。途中、煎餅を商う店に立ち寄って、妻が土産を買った。流石に娘を抱えて銚子駅まで歩くのは難儀だと苦悩していると、折良くバス停に巡り逢い、数分後に到着の予定であることが分かったので救われた。観音様の功徳であるかも知れない。
 夕方四時に銚子を発つ特急「しおさい」で帰る予定であった。未だ一時間ほど余裕があり、生魚を嫌って漬け丼を食べなかった娘の為にマクドナルドへ立ち寄った。ハッピーセットを買ってもらい、娘は御満悦の体である。
 発車の定刻が近付くに連れて、俄かに慢性的な曇天が破れて辺り一面に、夕映えの一歩手前の光が降り注いだ。同時に天気雨が降り出し、何とも気紛れな天候である。どうやら下校の時刻を迎えた高校生の大群が一斉に駅舎へ集まり、銚子駅頭の絶え間ない静寂もまた不意に蹂躙された。総武本線若しくは成田線で帰途へ就くのだろう。再びプラットフォームの巨大な醤油樽の前で記念写真を撮った。フォトグラファーの任務を、四歳の娘が引き受けた。仕上がった画面は、角度が難破船の床板のように傾いているが、フォーカスは正しく決まっていた。四歳児ならぬ麒麟児の技倆である。
 走り出した電車の中で、疲労の所為だろう、私の意識は瞬く間に闇へ溶けた。あっという間に佐倉を過ぎた。見慣れた千葉駅の雑踏を目の当たりにすると、人の多さに驚いた。