サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Discriminatory Comments aren't just his own but ours)

*引き続き、仕事と育児と洋書の日々で、生活に劇的な変革は起きず、その予兆もない。従って特段のtopicもない。誰にも利益のない私的な備忘録として走り書きする。その瞬間には何の意味もないと思われた出来事や、瑣末な思考の断片が、数年を閲した後に再読すると妙に刺激的であったり感慨深かったりするものであるから、何でも書き留めておくのは悪いことではない。それに如何なる種類の習慣においても、継続は最大の美徳である(無論、悪しき習慣の継続は悪徳の無際限な膨張に帰結する)。

*緊急事態宣言の延長が公式に発表され、三月上旬まで指定された都道府県では不要不急の外出自粛や飲食店の時短営業が継続される。一時は連日2000人を超えていた東京都の感染者数は露骨に減ってきた。検査数を抑制している為に陽性者の数が減っているだけだ、単なる数字の操作、偽装に過ぎないという意見も巷間には濫れている。報道や政府の発表を鵜呑みにすることが時に危険であるのと同じく、名もなき人々の形作る輿論を無条件で受け容れることも時に危険である。保健所や厚労省に勤めたり、医療現場で働いている訳でもない私の掌に、その種の「陰謀」の実在を断定する材料は握られていない。小売りの現場に身を置く私の日常的経験に照らせば、東京都心における元旦以降の人出の激減は鮮明である(直近二週間くらいは明らかに増加傾向で、世間の気の緩みを肌で感じている)。その効果が徐々に出て来たのだと考えれば、最近の陽性者数の減少は一概にtrickだとは言い切れないと思う。保健所の稼働が極限の水準に達し、検査数が減っていることは事実らしいが、それだけが感染者の数値的下落の唯一の要因であると考える明確な根拠は存在しない。つまり、厳密な真実は誰にも分からない。
 何れにせよ医療体制の逼迫(「自粛」や「不要不急」や「逼迫」といった単語は、コロナの御蔭で俄かに仕事が増えたのではないだろうか)という現状を鑑みれば、緊急事態宣言の延長は避けられない判断だったのではないかと思われる。固より三月は、卒業や就職で人の動きが活発化する時期である。宣言の発令によって人出を抑制する法的根拠を維持しなければ、各種の式典や会食、旅行などを制限することが出来ないという考えも影響したのではないかと推測される。

東京オリンピックパラリンピック組織委員会森喜朗会長が、女性差別と看做される失言によって、辞任の選択肢に言及するほどの窮地に陥っている。不用意な発言で自らの社会的信用を失墜させるという過失は、森氏に限らず、あらゆる社会的場面で頻繁に見られる現象である。あらゆる差別の廃絶は、極めて実現の困難な課題であるが、少なくとも廃絶に向けて具体的な対策を着実に履行していくという方向性自体は、国際的な共通認識であると思われる。そしてオリンピック・パラリンピックという極めて国際的な行事の運営に携わる組織の長が、このような国際的共通認識の意図さえ理解していないのではないかという揣摩臆測を他人の胸底に惹起せしめる性質の失言を、公共の場面で披露するというのは度し難い失錯である。森氏は先日も、新型コロナウイルスという艱難を黙殺して東京オリンピックパラリンピックの開催を強行すべきであるという趣旨の不可解な発言を行い、日本の内外を問わず多方面から、その見識を疑われたばかりである。これらの相次ぐ失言によって森氏の社会的信用が毀損されれば、こうした人間を首席に推戴する東京オリンピックパラリンピック組織委員会の信用も同時に失われるという自明の成り行きを、かつて内閣総理大臣も務めた有能な名士である森氏が理解していない筈はない(こうした信用の毀損が、彼の宿願である大会開催の実現に向けた趨勢を絶望的に失速させることも、御存知の筈である)。御年八十三歳の森氏の思考が、現代の社会的常識に適合しない保守的な硬変を示しているという懸念は小さくないが(しかし、性差別に対する批判は近年の流行に留まるものではなく、既に持続的な伝統を背負っている)、とはいえ、彼の知性が同年代の平均的日本人と比して特段に劣悪であるとも言い切れないだろう。恐らくは、彼は彼自身の権力の仕組みを見誤ったということではないだろうか。自分に許された社会的特権や恩典の範囲、水準、性質を正しく判定し得ず、自分の意見に対する聊か驕慢な信念ゆえに、あのような発言を気安く世間に向かって披歴してしまったのではないか。国民に不要不急の外出自粛や時短営業を要請しながら、自身は夜の会食に赴いてしまう抑制の利かない一部の国会議員の姿から透けて見えるように、自分は例外である、自分に限っては許される、という特権的意識の不当な昂揚(批判されて辞任に追い込まれるということは、少なくとも第三者は彼らの特権を認めていなかったということである)が、彼らの社会的蹉跌の致命的な引鉄の役目を担っている。彼らは自分自身の社会的権威を極めて堅固なものだと考えていたが、実際には案外脆かったのである。その意味では、彼らの危機管理能力は卓越したものではなかったということだ。

 他方、森氏の性差別的な発言を批難する人々の一部は、彼に「老害」というlabelを貼り付けて、その保守的な思考を糾弾しているが、冷静に考えれば「老害」という表現は随分と差別的な言辞であり、暗に年老いることは罪であると断定しているように聞こえる。女性であることを罪と断定するのと、何も違わない振舞いである。森氏の性差別的発言を攻撃する為に、年齢差別的発言を行使して恬然たる顔をぶら下げているのは滑稽であり、醜悪である(無論、私は森氏の時代錯誤的な見識を擁護したい訳ではない)。他者の失言を批難することに夢中になる余り、自己の失言にも気付かないようでは、先行きが思いやられる。少なくとも森氏に対して見識の面で優越しているとは言えない。社会的な顕職を歴任した人間が、自らの老いを感じて適切な時期に最前線から勇退するのは、つまり晩節を穢さぬように適切な判断を下すのは、誰にとっても容易なことではない。少なくとも私は森氏の蹉跌に学んで、同じ過ちを自分が犯すことのないように自重したいと思う。

Cahier(Keeping alive with Social Fragmentations)

*引き続き、英語学習を継続する日々を過ごしている。仕事と育児と洋書の繙読で私の生活の過半は占められている。今は HARRY POTTER and the Chamber of Secrets を読んでいる。通勤の途上や休憩時間、就寝前の時間を読書に充てている。差し当たっての目標は、原書でHARRY POTTER seriesを全巻読破し、一般に推奨される繙読単語数100万語の指標をクリアすることである。
 洋書の購入は、勤め先が東京駅であるメリットを活かして、丸の内オアゾに入っている丸善本店を主に利用している。舶来品である所為なのか、洋書は無性に高い。そこでiPadによる電子書籍の購読を思い立ち、先月の下旬に海浜幕張auショップへ行って予約の手続きをした。本来は当日持って帰る意気込みでいたのだが、COVID19の影響で在庫が払底し、数週間の入荷待ちを告げられたのである。今のところ、入荷の連絡は届いていない。テレワークの拡大でノートパソコンやタブレットの需要が急増し、一方でコロナによる生産活動への制約が悪影響を及ぼして現下の品薄を惹起しているのだろう。どの業界も大変である。

*東京駅構内に入居する店舗で責任者を務める私の労働者としての日々は、概ね閑散期が続いている。昨年十一月の感染第三波襲来によって急激な回復基調を示していた旅行客の需要が激減し、本来ならば年間でも屈指の繁忙期であるべき年末年始の帰省需要も、類例のない低迷へ陥った。当該期間における新幹線の利用客数は、観測史上最悪の水準であったと、JRの発表が報せている。或る意味では、貴重な経験をさせてもらっていると言えるかも知れない。それでも年の瀬までは辛うじて人の動きがあったものの、年明け以降、緊急事態宣言の発令も相俟って、客数は更なる凋落の軌跡を辿り、十一月と比較しても、日商換算で60万ほど目減りした。月間で2000万近い売上が、たった二箇月で吹き飛んだのである。何らかのビジネスに関わる方々であれば、この堪え難い苦衷を御察し頂けるものと思う。とはいえ、営業している以上は、人件費を削るにしても構造的な限度がある。従業員の雇用も、一定の水準までは保護せねばならない。こうなると、体感としては頗る暇である。使命を担って働いているというより、店番をしているような気分である。動もすると、自分がここにいる意味はあるのだろうか、という出口の見えない妄念に憑依される。感染状況の変化に附随する売上の乱高下は、昨年からずっと味わい続けているので今更絶望には襲われないが、些少の虚脱した感覚が生じることも避け難い。とはいえ、東京都の感染者数が微減の傾向を維持している足許の情勢では、明らかに客数は恢復傾向である。人々のコロナに対する警戒心が薄れるほどに、弊社の客数は露骨な恢復を示す。商売としては望ましい傾向だが、感染防護の観点から眺めると、こんなに人間の危機感というのは長持ちしないものかとも感じる。飲食店が軒並み20時で閉まるので、持ち帰りの中食需要が強まるのは当然の帰結である。従って平日の夕刻には、それなりの混雑が訪れ、その勢いは日に日に強まっている。経済的には大いに喜ばしいことだ。だが最早、何を歓べばいいのか、基準が曖昧になっている。同じ疫病に苛まれている筈なのに、社会的な分断や格差は拡大している。一致団結、挙国一致という精神は、私自身も含め、戦後七十年以上に亘って国民主権自由主義に馴染んできた日本人には縁遠いものとなっているのだろう。業種によって恩恵を享受するところと損害を蒙るところとが極端な格差を示しており、医療関係者は激務を強いられながら、収益の基礎である通常の外来診療の客数が顕著に減少している為に、給与面の待遇は改悪されているという。三密の回避を呼び掛ける国会議員たちの不正な会食が繰り返し報道されるのも、社会的上層と下層との階級的分断の深刻化を示唆している。JALANAやJRが未曾有の赤字を計上する傍らで、家電や家具、通信、e-commerceの分野は業績が絶好調だという。これらの地殻変動的な不公平は恐らく、社会的構造の決定的な変化を暗示するものである。過去の常識が通用しない世界へ、我々は飛び込みつつある。社会の変化に適合する企業としない企業との格差が鮮明になるということは、今まで前提として信じられていた社会の構造が急激に変容していることの明瞭なevidenceに他ならない。私の勤め先は持ち帰りの惣菜を取り扱っており、その意味では外食の敬遠は追い風になるが、内食の需要増加や競合との過当競争の影響もあり、業績自体は前年に比べて悪化している。郊外の地方都市に立地する店舗は、地元回帰の志向が強まっている分、比較的堅調な推移を示しているが、都心の百貨店や駅立地の店舗は、テレワークの拡大や旅行の自粛、各種イベントの中止で深刻な打撃を蒙っている。明らかに、今直ぐにでもe-commerceの販路を急激に強化していかねばならない局面なのだが、担当する部署の動きは鈍い。その根底には、店舗を構えた小売という既存のスタイルに対する意識の固着が濃密に滞留している。コロナが消え去れば、何れ社会は元通りになるだろうというoptimisticな観測が払拭されていないのである。だから、新規の業態を開発する人々への様々なresourcesとauthorityの供与が進まないのである。無論、決断したことが裏目に出るのではないかという不安や恐懼は私にとっても親しい感覚である。誰でも人間は存在する現実に引き摺られ、存在しない理想への脆弱な信頼しか持ち得ない。嘗て存在したものに執着し、未だ存在しないものを蔑ろにするのは人の世の習いである。何かしら新しい分野への挑戦に踏み切るには、確かに事前の準備が欠かせない。社運を賭けた挑戦ならば猶更、無謀な蛮勇は否定されねばならない。だから、常に現在の手法が好調であり適切に通用している段階において予め、新規の技術や知見を蓄え、試し、養っておく必要があるだろう。それは個人にも言えることで、今直ぐには有用ではない技術や知見を日々着実に鍛えておくことは、社会の情勢が急変した場合のsurvivalの貴重な足懸りとなる。未来への備えは、未来が到来する以前に充分に進めておかねばならない。今この瞬間に無用のものが、永遠に無用であると断定し得る根拠はない。未来が未知の度合を深めれば深めるほどに、何が将来に役立つかという問題は明確な正答を失っていく。そうであるならば、自分自身に固有の関心に基づいて、何かしら基礎的な勉強を日常的に蓄積しておくことは、重要な安全保障の方策となり得るのである。そういう意味でも、私は語学に自分の私的な時間を傾注したいと思う。無論、それが自分の未来を保護する決定打となるという明確な根拠は何処にも存在しない。だが、少なくとも語学の勉強が、致命的な損害を私に投げ与えるとは思われない。現在の瞬間における自分の雇用や社会的価値が永続するとか、或いは順調に進化発展し続けるとか、そういう風に思い込むのは危険だ。社会の大規模な変動は、個人に賦与されている些少の権益を一瞬で捻り潰し、瓦礫さえ残さないだろう。自分自身という幹に新たな枝葉を加えることが一朝一夕には出来ないのならば、直接的に現在の社会的職務とは関わりのない分野の知識や技術を密かに学び続けることは、雇用流動化と副業容認の時代における危機管理の要諦であると言えるのではないか。会社が守ってくれないとしても、我々は生き延びなければならない。整理解雇を断行する非情な会社に泣き言を向けても、肝心の会社が社会から庇護されずに倒壊してしまえば、死人を罵るようなもので、無益で浅ましい。死んだ母親に向かって夕食の仕度をせがむ愚か者が何処にいるだろう? 自分で自分の食事を作る以外に手立てがないことは自明である。そして、思い立ったら急に作れるというものではないのだから、日頃から研究と実践を積み重ねておくのが賢明だろう。良くも悪くも、自立は生活の根幹である。

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Philosopher's Stone”

 英語学習の一環として J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Philosopher's Stone,London,2014 を読了したので感想文を認める。

 原書の初版は1997年、邦訳の初版は1999年に刊行されている。本書は世界的に爆発的流行を示し、巨費を投じて映画が製作され、現在に至ってもその盤石の知名度は衰えていない。私も十代の頃に邦訳で最初の四巻を読み、魅了された覚えがある。
 今回、語学修業の一環としてBritish Englishで綴られた原書を、半可通の英語力ながらも実際に読んでみて、邦訳との雰囲気の違いを実感した。英国の寄宿学校を舞台に、古めかしい神秘的魔術と現代的な文化との混淆を描いた本書の世界観には、alphabetの活字がよく似合う。言い換えれば、その土地に固有の言語と文化、感覚、意識との間には不可分の繋がりがあるという至極当然の認識を新たにした次第である。
 Harry Potterの数奇な物語を、堅苦しい日本語に置き換えるとすれば「貴種流離譚」の典型的な実例ということになるだろう。彼はwizarding worldにおける一種の英雄でありながら、凡俗なmuggleの家庭に引き取られ、自身の生い立ちに関する正しい知識を欠いたまま養育される。養父母から冷遇され、孤独で退屈な生活を強いられていたHarryが、その高貴な出自ゆえに或る日、俄かに運命によって救出され、偉大なphilosopherとしての才能を覚醒させるという筋書きは、自己の置かれている恵まれない境遇に何らかの慢性的な不満を有する総ての人々にとって、素晴らしく魅惑的な享楽的幻想であると言えるだろう。現代の日本で流行するweb小説の過半が、異世界に転生して卓越した栄誉に与るというtemplateによって占められているのも、こうした変身願望の強力な普遍性を示唆する有力な証拠であると言えるのではないか。
 とはいえ、本書の作者の誠実な意向は、Harryに高貴な出自を賦与する一方で、彼の無力な側面も克明に描いているという点によって傍証されている。Harryは確かに恵まれた才能を両親から受け継いでいるが、弛まぬ勉学と種々の困難な経験を伴わずに、その才能が開花することは有り得ない。仮に転生が有り得たとしても、自分自身を聊かも革新せず改善しないまま、過分の栄誉や富が授けられるという僥倖を望むのは、余りに非現実的な妄想に過ぎないのである。その意味では、奇妙で神秘的なwizarding worldの様相を緻密に描き出しながらも、本書の作者は、実際の社会における一般的な正義の称揚という選択を採用しているのである。魔術的な小道具と多様な設定を援用して、謂わばmetaphoricalな仕方で、少年少女の成長の過程を興味深い虚構に結実させているのである。
 その意味で、確かに本書は児童文学の範疇に帰せられるべきものであろうかと思う。しかし、児童文学であるからと言って、清廉潔白な美辞麗句が羅列してある訳ではない。The DursleysやDraco Malfoyたちの陰湿で狡猾な言動、或いはThe Weasley twinsの陽気な悪童ぶりなどの描写は、本書の作者が、年少の読者に対する教化的な正義を無条件に振り翳そうとは考えていないことを示しているだろう。意地の悪い級友に対する接し方、という題目で、小学校の教師が適切な作法を教室で講義することは恐らく一般的には見られないだろう。場合によっては規則に抵触してでも勇気を奮って目的を遂げねばならないこともある、とは、普通の教師ならば決して表立って口にはしないだろう。事実、Hogwartsの教師たちもまた、遵法精神の堅持に就いては頗る厳格である。けれども、そういった「明示されない正しさ」が、つまりpublicな仕方では主張されない機敏で融通無碍の「正しさ」が重要な価値を帯びていることを、本書の読者たちは自然と学び取るに違いない。何時如何なる時も明示された規則を遵守することが正義であるとは言い切れないし、他方、規則に反して自らの行動を処決することが常に適切な勇気の証明であるとも言い切れない。こうした両義的矛盾を理解する為には、物語という媒体は有用な装置である。それは一つの論説を語る代わりに、解釈を待つ事実の効果的な構成を試みる。こうした特性は必ずしも児童文学に限られたものではないが、少なくともHarry Potterの物語は、優れた文学の不可欠な条件であるambiguityを豊富に含んだ実例であると私は思う。

Harry Potter and the Philosopher's Stone (Harry Potter 1)

Harry Potter and the Philosopher's Stone (Harry Potter 1)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(語学的生活)

*引き続き、英語学習に励んでいて、もう直ぐ HARRY POTTER and the Philosopher's Stone を読み終える。未知の単語や言い回しには幾つも出逢うが、文脈に基づいて推測したり、観念して辞書を引いたりしながら、坑道を掘削するように読み進めている。それが意外に苦行ではなく興味深い探究の日々と化しているのは個人的な僥倖である。恐らく、日本語の文章を日常的に読解する習慣を子供の頃から蓄積してきた経験が、洋書の繙読にも一定の有益な貢献を成しているのではないかと思われる。日本人として生まれ、日本語のnative speakerとして生まれ育ったからと言って、誰もが日本語で綴られた文章ならば何でも完璧に意味を把握出来る訳ではない。読書の習慣を持たなければ、自分の生活が及ぶ限られた範囲内で経験する単語や表現にしか理解が行き届かないのは当然の理窟である。母国語であるから、自動的にあらゆる語彙が把握出来るようになる訳ではない。子供の発達の過程を間近に眺めている限りでは、母国語であっても、その運用能力は明確に学習の産物であって、断じて本能の帰結などではない。況してや文字の読み書きは猶更、後天的な技術である。oral communicationの技倆は周囲の人々の振舞いを模倣することを通じて自然と発達する傾向にあるが、literal communicationの習得と強化には意図的な訓練が必須である。それゆえに読書の習慣の累積が、一定の歳月を閲した後に、有意な差を作り出すこととなる。例えば私は「嚆矢」という言葉を小学生の頃、子供向けに読み易く編輯された夏目漱石の「吾輩は猫である」の註釈を通じて学んだ。だが、この「嚆矢」という言葉に、日常の生活の如何なる場面で遭遇し得るだろうか。無論、日常の如何なる局面においても邂逅しない言葉であるならば、わざわざ「嚆矢」という言葉を学ぶには及ばないと、実利的な人々ならば結論するだろう。事実、言葉を単なる道具と捉えるならば、使用頻度の低い単語は箪笥の奥底に眠らせておくのが賢明な選択である。あらゆる単語に通暁せずとも、あらゆる漢字を、その異体字に至るまで暗記せずとも、日常の雑用を片附けることに支障はないし、身近な人間とのコミュニケーションが途絶する虞もない。トイレのことを古い日本語では「厠」や「雪隠」や「後架」と呼んだという知識は無益な雑学に類するもので、少なくとも平均的な社会生活に必須の教養ではない。
 だが、世の中には「言葉」というもの自体に愛着を示す奇特な人々がいて、幼稚園の頃に遊びの一環で国語辞書を読んでいた私も、その末席を穢す一員であろうと思われる。そういう人間にとっては日常の用務に適さない古色蒼然たる死語さえも、熱烈な好奇心の主要な標的である。これだけ動画の通信技術が発達した現代においてさえ、猶もちまちまと活字の羅列に眼を走らせる不健康な習慣を絶やさない類の人間は十中八九、言葉の中毒患者である。彼らは珍しい言い回しや独創的な造語に強く惹き付けられるし、場合によっては古語の蒐集や外国語の習得に血道を上げる。それは、見知らぬ言葉の習得が、彼らの属する世界の範囲を大きく拡張するからである。見聞の及ぶ範囲は固より、思考の深浅なども語彙や文法の知識によって左右される。彼らにとっては多様な「類義語」を学ぶことも大いなる喜悦の源泉である。或る言葉を別の言葉に置き換えることは、単なる代替を意図するものではなく、より精密なニュアンスの提示を可能にする為である。言葉の多様な発達、文法の変遷や語彙の増大(場合によっては異国からの輸入・借用。例えば英語におけるフランス語・ラテン語、日本語における漢語のように)は、概ね言語的表現の精度を高め、絶えず変異し続ける現実への適応を果たす為に行なわれてきた。そして、言葉を偏愛する人々は、既に用済みとなって棄却された単語や言い回しにさえ、何らかの感興を見出すのである。それは効率の観点から眺めれば不毛な振舞いであるかも知れない。確かに私も、自分の生業たる仕事の現場においては、非効率な方法を積極的に唾棄する。けれども、堆肥が耕土を豊かにするように、多様性は非効率であっても、或いは非効率であるがゆえに豊饒であり、世界の解像度を向上させるのである。走査線の数がディスプレイの画質を定めるように。
 古い言葉、異国の言葉、或いは方言や俗語の意味に通暁し、その運用に熟達するということは、翻せば、その言葉の遣い手との間に共通の紐帯を獲得するということである。例えばPlatoの著述の本格的な研究に従事する学徒は、日常の使用に関しては疾っくに廃れてしまった古典ギリシア語の習得に数多の日月を捧げるだろう。そして古典ギリシア語を自在に読解し、達意の文章を認める能力を得た者は、少なくともPlatoと対等の立場で議論を展開する基盤を手に入れたことになるのである。それは驚嘆すべき奇蹟的現実であると言えるのではないだろうか。Ancient Greekという共通の枠組みに基づいて、Platoと共に哲学や政治における普遍的課題を検討出来るというのは、殆どtime-tripにも等しい魔術的な振舞いである。無論、万人がPlatoとの難解で抽象的な議論に私的な情熱を掻き立てられるという訳ではない。恐らくそれは、一部の酔狂なdilettanteだけの関心事に留まるだろう。けれども、これほど奥深い趣味というのは稀少であり、一生を懸けるに値するのではないか。日本語に限っても、例えば夏目漱石森鷗外の文章を読めば、我々は百年前の日本人との間にコミュニケーションの機会を得ることが出来る。古語でも外国語でも何でも構わないから、未知の語学に時間と労力を傾注したい。それが私の本年の抱負である。

Cahier(Non-Platonic Days of Learning English)

*最近は英語学習と称して専ら J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Philosopher's Stone,London,2014 を読んでいる。十代の頃に邦訳で読んだ経験があり、大まかな筋書きは記憶の底に残っているので、知らない英単語や見慣れぬ表現の意味を推し量りながら読むのに相応しいだろうと考えたのだ。
 見知らぬ単語には幾らでも出喰わす。都度、辞書を引きたくなる気持ちを堪え、和訳するのではなく英語の語順、英語の音韻を遵守したまま読み解くことに尽力する。そうやって英文の意味を辿り、語られている世界の内容を想像しながら思うのは、翻訳というものの根源的な不可能性である。英語でも日本語でも、類義語というものは豊富にある。例えば「賢い」という概念に対して、英語ならばclever,wise,smart,bright,intelligent,intellectualなどの複数の単語が有り、日本語でも「賢い」「利口」「頭が良い」「聡明」「賢明」「明敏」「頭脳明晰」「頭の回転が速い」「知性的」といった複数の表現がある。問題は、特定の文脈において、何れの単語が最も適切な選択肢であるかということは、それぞれの言語の内部の相互的聯関によって規定されるのであり、そうした言語の内在的体系が、英語と日本語の狭間で完璧に対応することは有り得ないという点に存する。clever,wise,smart,bright,intelligent,intellectualといった単語たちが相互に有している関係性と完璧に照応する関係を、英語以外の言語の裡に見出すことは出来ない。文脈に応じてcleverを用いたりsmartを用いたりするときの判断基準は英語という体系に固有の規範に基づいており、あらゆる言語に共通する恒常的で普遍的な基準、謂わば「言語」のideaが存在する訳ではない。翻訳は、可能な限りの近似値を探し当てる懸命な苦闘である訳だが、多かれ少なかれ「意訳」となることの宿命は避け難い。完璧で純然たる「逐語訳」というのは妄想的理念である。あらゆる言語は共通の基礎の上に成り立っていると考えることに根拠はない。それゆえ、外国語学習の本義を「逐語的和訳」と看做す考え方は決して自らの理想に到達し得ないのである。英文の多読を推奨する人々が、成る可く辞書を引かずに単語や文脈の意味を推測するように勧告する背景には、こうした原理的事情が介在しているように思われる。重要なのは英語に対応する日本語、英文に対応する和文を探究することではなく、英単語や英文に対応する事物や状況を発見し認知することである。cleverに対応する和語を考えて充当するのではなく、cleverが指し示す事物や状況を、つまり現実的要素を理解することである。実際、日本語の話者が日本語で事物を把握したり意思疎通を図ったりすることに英語の扶助は無用である。同様に、英語で読み書きしたり会話したりするのに日本語の介助は必要ない。そして、例えば今「扶助」と「介助」或いは「無用」と「必要ない」という風に日本語を使い分けた基準は、日本語という体系の内部にしか見出し得ないし、しかもその基準は頗る感覚的で個人的なものである。この使い分けに符合する英語の関係性を探索するのは無益だろう。つまり、英語を習得することと英語を翻訳することとは、同一の作業を意味しないのである。possibilityとlikelihoodを使い分ける根拠は英語の体系の内部にあり、それを日本語に置き換える場合に如何なる使い分けのパターンが照応するかという問題は、どちらかと言えば日本語の体系の内部における課題なのである。

*もう一つ重要なことは、あらゆる単語は常に帰属する文脈との関係によって、その意味を規定されており、その文脈はverbalであると同時にnon-verbalでもあるという点である。だから、単語だけを文脈から切り離して、その純然たる意味を抽出しようと試みるのは、無益とまでは言わなくとも、尋常ならざる難題であるとは言える。言い換えれば、個々の単語に普遍的な意味が内在するというplatonicな考え方は、必ずしも我々の属する日常的=経験的現実を反映しないのである。明確な定義を有する複数のideaが複合して具体的な現実を構成していると考えるのは理念的な、つまりidealisticな発想である。仮にそのような普遍的定義が「真理」として永久に君臨し続けるならば、言語の新しい用法や造語が生成される見通しは皆無ということになるだろう。寧ろ我々は思わぬ言語の組み合わせから新しい意味を見出すのであり、言語の実際的運用の過程で次々に単語や表現の意味を増殖させ、革新するのである。無論、学術的な議論においては、用語の意味は厳密に定義されねばならない。しかし、それは言語の普遍的で恒常的な本質が、Platoの信じるように不変のideaとして事前に存在することを意味しない。議論の場においては、その都度、用語の意味に関する暫定的合意が形成されねばならない。或る単語を如何なる意味で用いるか、或る単語に如何なる意味を担わせるかということは、議論の場であろうと生活の場であろうと一冊の書物の内部であろうと、その都度、その時々で決定されるべき流動的な実質なのである。従って「正しい日本語」という保守的なidealismは、或る郷愁に充ちた理念としてのみ享受されねばならない。言い換えれば、予め完璧な辞書が存在するという考え方は棄却される必要があるのだ。その意味で、普遍的に正しいと看做される知識=epistemeから演繹的な手順で出発する語学は、我々の属する本物の現実を反映しないと結論することが出来る。寧ろ我々は言語の具体的な運用の実例から学ぶしかなく、その実例が何らかの意味を結晶させ、それを他者と共有することに成功したという事実に信頼の根拠を求めるしかない。大事なのは、単語の辞書的=普遍的定義の総覧を諳んじることではなく、その単語が使われている実例を学び、その言語が如何なる意味で使われているかという実例に通暁することである。多読の推奨の論拠は、こうした認識に基づいているのではないかと推察される。

*様々な言語的芸術は、言葉に新たな意味を与え、言葉に斬新な運用の方法を授けることを自らの使命としているのではないだろうか。そして、あらゆる議論は、要約すれば、この特定の言葉に如何なる定義を与えるかという合意形成の迂遠なプロセスに他ならないのではないか。我々が言葉を尽くすのは、その言葉が期待される特定の意味に到達することを熱望するからである。一冊の書物が著されるのは、或る一つの事物、或る一つの状況、つまり何らかの事実を可能な限り精確に言い当てる為である。単語や文法の辞書的定義は、こうした格闘の成功を何ら保証しない。我々は話したり書いたりする度に、言語の新しい運用を発明する。それが成功する絶対的保証は存在しない。我々の言語的格闘は常にrelativeな営為である。そして要するに私は、辞書を引かずに英文を読むという学習方法の正当化を目的として、こうした弁論を展開した次第である。

The Pessimistic Vision about the Culture and Population of Japan in the Future

 新型コロナウイルスの感染爆発に歯止めが掛からない状況が続いている。二度目の緊急事態宣言発令に就いて、その限定的な対策に関する疑念は方々で論じられており、対象となる地域の範囲の拡大も漸進的で、リモートワークの社会的進捗も順調とは言えない。
 厚生労働省は昨年末に、2020年1月~10月の期間における妊娠届の件数が、前年比で5.1%減少したと発表した。雇用の喪失や賃金の減収に伴い、経済的な面で将来の生活を悲観する若い世代が増えたことが、妊娠出産の抑制に帰結しているのではないかという観測が、各紙で報じられている。何れの報道も、コロナの影響で日本の少子高齢化が加速するのではないかという懸念に触れている。
 少子高齢化という社会的現象は、先進諸国に共通する深刻な課題であり、各国で様々な議論が交わされ、対策が進められている。日本社会の現状は、その最も尖鋭な帰結を示しており、2016年の合計特殊出生率は1.44、65歳以上の老年人口が総人口に占める割合は27.3%に達している。
 2019年の人口動態統計(年間推計)によれば、日本の出生数は1899年以降最低の86万4千人(ちなみに私が生まれた1985年の日本の出生数は約143万人である)を記録した。この数年間で出生数は坂を転げ落ちるように急減している。そこにコロナの影響が加わり、2020年の妊娠届の件数が減少した。この事実は、来年度の出生数の更なる急減を示唆する根拠にもなり得る。厚労省の試算によれば、2065年の日本の総人口は、約8800万人まで落ち込むだろうと推計されている(2020年12月1日時点の日本の総人口は1億2571万人)。
 唯でさえ急速な亢進を示している少子高齢化が、新型コロナウイルスに伴う「社会的距離」(social distance)の拡大によって一層激化するという懸念は、現実的なものである。日本では未婚者による出産が極めて少なく、出産と婚姻との間には密接な相関が存在する。しかしながら、日本における婚姻の件数及び比率は凋落の一途を辿っており、未婚率の上昇は出生数の減少に直結している。社会的距離の確保に附随する他者との接触機会の低減が、婚姻に結び付く関係性の構築を阻害する要因となり得ることは、誰の眼にも明らかな事実である。
 人口の減少は、我々の社会、政治、経済、文化、生活、それら総ての局面に重大な影響を及ぼす。既に生産年齢人口の慢性的減少に伴い、定年や年金受給開始年齢の引き上げが進められ、高齢者であっても引退せず労働に従事することが社会の常識に登録されつつある。女性の社会進出は言うまでもなく、古き良き昭和期の「専業主婦」という概念は既に朽ち果てた遺物と化している。外国人労働者の雇用の拡大も、生産年齢人口の減少が齎した不可避的な帰結である。頗る単純化して言えば、日本は滅亡への緩慢な道程を辿っている。日本人が消滅すれば、日本の文化や歴史もまた消滅し、古代の文明と同じく、学術的研究の対象としてのみ保存されることになる。日本語を理解する人間が消滅すれば、数千年に亘って日本語で綴られ継承されてきた文献や典籍は悉く無意味な死骸と化すだろう。人口減少は、日本という社会の滅亡、文化の滅亡、そして言語の滅亡を意味する。そのことに私は、漠然たる不安を覚える。
 今年度の個人的な目標として私が英語の学習を掲げたことの背景にも、こうした危機感が一つの理由として横たわっている。日本は翻訳大国であり、海外の様々な書物を日本語で読めるという恵まれた文化的環境が整備されている。しかし、それは日本語が、1億2千万人のnative speakerを抱えているからこそ成り立つ話であり、日本語による出版市場が慢性的な不況に苛まれながらも滅びずに済んでいるのは、読書離れの影響を考慮しなければ、1億2千万人の潜在的顧客を有しているからである。そして日本という国家が、強力な政治的=経済的=文化的なpresenceを発揮している限りは、日本語を学ぶ外国人を一定数確保することも出来るだろうが、現状を徴する限り、日本の国際的影響力は凋落の範疇に属していると言わざるを得ない。
 日本語は、英語やフランス語のように国際的なLingua francaとして流通している訳ではない。従って日本の人口が減少すれば、その話者の総数は露骨に急減する筈である。そうやって凋落していく社会において、日本語の築き上げた文化的伝統を保護しようと思えば、外国語を通じて国際的な文脈にアクセスする能力は必須である。日本語しか理解出来ない人間は、日本という社会と共に滅びざるを得ない。また、日本語とその文化を世界に向かって発信し、共有を進めることも出来ない。日本語と、日本語によって涵養され成長した文化の価値や特質を相対化し、客観的分析の対象に据えることも出来ない。それは日本語という監獄に幽閉されていることと同義である。
 恐らく、あらゆる教育の本義は、学習する者を、その居住する環境から生じる多面的な制約から解放することである。教育を通じて、今まで知らなかったことを知り、出来なかったことを出来るようになるという一連の営為は、当事者に課せられた諸々の制約を解除し、その社会的な可動域を拡大し、生きることに関わる自由な選択や裁量の範囲を拡張することに等しい。知識を学び、技術を体得することは、生きる力の強化と深化を意味する。語学がその一助になれば良いと願いながら、私は日々英文のペーパーバックを繙いて、不可解な文字の羅列に挑戦する。その地道な営みは、私の精神的な世界の限界を押し広げ、私の度し難い無智を徐々に癒すだろう。無論、私は日本語の豊饒な富を愛する者である。ただ、日本語以外にも豊饒な「言葉」の資産があるのならば、それにも手を出してみたいと貪婪に希っているのである。

My Reading Record of "The Old Man and the Sea"

 英語学習の一環として繙読した Ernest Hemingway,The Old Man and the Sea,London,2004 について、感想の断片を認める。

 邦訳を含めて、ヘミングウェイの小説を通読するのは今回が初めての経験である。私の英語力では、贅肉を削ぎ落とした緊密な文体と評される彼の文学的特質を適切に把握し、実感することは出来ない。そもそも、意味を掴めない箇所も複数存在したくらいで、果たして本当に読んだと言えるのかも心許ないのが実情である。だが、英和辞書と首っ引きで英文を読むのは、英語を都度、日本語に置き換えて理解する悪しき慣習を培養するものであるという風説を踏まえ、乏しい語彙に基づき、成る可く辞書に頼る機会を減らして想像力を逞しくする方針で英文に挑んでいるので、概略を掴めただけでも望外の収穫とせねばならない。何れもっと私の英語に関する理解が進んだら、再読を試みることにしたいと思う。
 この小説の筋書きは単純である。幸運の女神に見限られた老年の漁師が、巨大なカジキマグロと格闘を演じて遂には捕獲に成功するものの、帰途に鮫の来襲を蒙って折角の貴重な収穫を奪われるという物語で、読者は只管、洋上を彷徨する老人の孤独な時間を共有するように仕向けられる。アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」を髣髴とさせる、この報われない労役の苦みはしかし、必ずしも暗鬱な色彩に覆われている訳ではない。年老いた漁師は華々しい英雄ではなく、彼の手に入れた束の間の幸運は、鮫の襲撃という凡庸な不幸に相殺されて白骨化する。その意味では、彼の人生から客観的な幸福を読み取ることは難しい。けれども、死闘を卒えて帰港した後に彼が味わった泥のような眠りは、少なくとも私には、驚嘆すべき充足の恩寵に庇護されているように思われた。彼は何ら現実的な利益を獲得しなかった。苦心して釣り上げた巨大なカジキマグロは鮫に貪られて、殆ど骨だけの状態で港へ持ち帰られたのである。彼の生活は、一頁目から最後までずっと度し難い不幸と悲運に蚕食されている。それでも、物語の最後に味わう彼の深甚な睡眠は、独自の充溢と安息に涵ることと同義なのである。

But he liked to think about all things that he was involved in and since there was nothing to read and he did not have a radio, he thought much and he kept on thinking about sin. You did not kill the fish only to keep alive and to sell for food, he thought. You killed him for pride and because you are a fisherman. You loved him when he was alive and you loved him after. If you love him, it is not a sin to kill him. Or is it more?

(Ernest Hemingway,The Old Man and the Sea,London,2004 p.81)

 老いた漁師の言葉は、悲惨な現実の主観的な曲解に過ぎないだろうか。彼は身も蓋もない現実を直視せずに、奇妙な自閉的論理を弄んで、己の不幸な境遇を糊塗しているのだろうか。恐らく、そのような解釈に賛同することは、多くの読者にとって容易ではないだろう。確かに現実的利益の度重なる逸失が、彼をこのような思考の形態に導いたことは事実であるかも知れない。けれども、こうした「行為」そのものへの自足は、幸福の必然的な形態であるとも言える。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の冒頭で、あらゆる行為は、その行為そのものとは異なる何らかの目的に奉仕するが、幸福=最高善は定義上、如何なる外在的目標も措定せず、その行為そのものに自足するという趣旨の見解を述べている。こうした観点から眺めるならば、ヘミングウェイの描き出す漁師の心境は幸福なものであると言える。現実的な不幸は、老人の内面的幸福を毀損しない。それゆえに年老いた漁師は次のように呟くのだ。

'But man is not made for defeat,' he said. 'A man can be destroyed but not defeated.'

(Ernest Hemingway,The Old Man and the Sea,London,2004 p.80)

 現実的不幸は我々の心身を破壊するが、我々の魂が敗北を喫することはない。こうした考え方は極めてstoicな見解である。現実的不幸に見舞われることと、現実的不幸に屈服することとは同一の状態ではないというdualismは、負け惜しみの詭弁に聞こえるかも知れない。けれども実際に、あらゆる苦難に立ち向かう為には、こうした詭弁は有益な効能を発揮するのである。現実的不幸に見舞われることと、現実的不幸に屈服することとの間に境界線を画定するのは、極めてintelligentな営為であり、そこに固有の人間的尊厳を見出すのは必ずしも詭弁ではない。或いは、詭弁こそ我々を苛烈な現実から庇護し、復活させる重要な活力であると看做すべきかも知れない。全篇に漂う仄かな諧謔は、こうした詭弁的知性の齎す崇高な恩賞なのである。

The Old Man and the Sea

The Old Man and the Sea