サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Polish Your Strength)

*春である。新入社員の配属が始まり、大規模な人事異動が実施され、昨年度の実績を踏まえた人事考課の面談が各所で行われている。私の勤め先は毎年五月が期初である。過去一年間の勤務の成果や各自の成長を振り返り、来期の方針や目標達成に向けて銘々が自身の行動計画を練る時期なのだ。
 過日、私も本部のオフィスで直属の上司と一次考課の面談の機会を持った。期初に設定した成果目標及び行動目標の評価と、個人の能力評価の二本柱で、夏の賞与と来期の給与の査定を行なうのである。その席上、強みと弱みの話に到った。人事考課は、個人の能力の棚卸や客観的な分析を実施する貴重な機会である。他人の眼を通して自己の姿、振舞い、特徴などを点検するのは、有益な時間である。
 長所と短所は表裏一体で、状況に応じて明暗を転じると一般に言われる。上司もそのように前置きした上で、私の仕事の特徴に就いて見解を述べた。群を抜いていると言われた点は、メンバーにルールを遵守させる力、危機管理能力、定めた目標に向かってブレることなく邁進し、達成を図る実行力などであった。同時にこれらの特徴は場合によっては短所にも転じる訳で、明確な目標に向かってやり抜く力は、プラスアルファの成果を求めないという欠点に通じる。また、自分が正しいと信じた途を徹底して突き進む姿勢は、動もすれば、他人の意見を参照して随時、路線転換を行なう柔軟性を欠くことになる。
 上司の見解は、私の腑に落ちた。恐らく私は、自分の考えや見解に揺るぎない自信を持ち易く、他人の見解を重用しないタイプの人間である。無論、他人の話に耳を傾けない訳ではない。しかし、結局のところ自分自身の考えや判断を優先する傾向がある。固より理屈っぽい性格で、他人の意見を一旦受け容れて試してみようと思う前に、あらゆる種類の反論が脳裡に浮かび上がってしまうのである。私が極度の傾聴を示す場合であっても、それは相手の見解に共感しているからではなく(無論、全く共感しない訳ではないが)、効果的で適切な論駁の材料を探しているに過ぎない。相手の議論の綻びや不備を綿密に検索しているのである(常に喧嘩腰であるという訳ではない)。
 もっと周りの意見に耳を傾けて、それを採用してみるべきだという評価は、以前の上司にもやんわりと言われたことがある。自分自身では、別に他人の意見を軽視している積りもないのに、類似の評価を複数の人々から告げられるということは(上司に限らず、妻や知人からも)、そういった姿勢が、自覚している以上に鮮明に滲み出ているということだろう。頗る単純化して言えば、頑迷で、自分の正義を信用し過ぎているということだ。無論、だからこそ逆境に挫けることなく、自分の掲げた目標に向かってブレずに邁進することも出来るのだろう。
 周囲の意見を柔軟に受け容れ、皆で一緒にやってみようという共同的なスタンスの人材に比べれば、私のようなタイプの人間は頗る独裁的・独善的なスタンスであると言えるだろう。私と対極的なタイプの人間は誰ですかと尋ねられた上司は、暫し考え込んだ後に、私より五歳ほど年下の女性社員の名前を挙げた。今から五年ほど前、私は千葉県内の店舗で、彼女と一緒に働いていたことがある。常に明るく、自分が他人の眼にどう映るかということに就いての感覚が極めて鋭敏で、悪く言えば如才ない、腹黒い立ち回り方の得意な女性である。言い換えれば、人間関係の天才である。呼吸するように媚びることが出来るし、しかも媚び方が自然なので厭味がない(ちなみに私は彼女の悪口を羅列しているのではない。自分とは全く異質な才能に、常日頃から感嘆している。彼女は部下として非常に有能な人材であったし、今は私の後任として千葉の店舗で責任者を務めている)。
 自分自身の私的な感情や考えより、周囲を愉しませたり盛り上げたりすることを優先するスタンス、自分一人で判断して決定を下すというより、他人と話し合って一つの意見を作り上げていく合議的スタンス、それを彼女ほど徹底的に磨き上げている人材は稀である。他人の悪口など言わないし、仮に言うとしても極めて迂遠に、巧妙な言い方で仄めかす。必ず周りが笑える程度に稀釈された悪口なので、不快な印象を与えない。絶対的な正義を振り翳して他人を論破することも絶対にない。最終的には、全員が等しく愉しい時間を共有することがゴールなのである。しかし、だからと言って他人の言いなりになる訳でもなく、自分自身の利害を考慮しない訳でもない。悪く言えば打算的な性質で、打算的であるという点に関して言えば私も同類である。要するに、自分の目的を達成するに当たって、他人との関係をどのように利用するかという手法が、私と彼女とでは異なっているのだ。リーダーシップ、或いはコミュニケーションのスタンスが違っていると言ってもいい。
 私が他人に働きかけるとき、主に用いるのは正義と論理である。論理的に構成された正しさに基づいて、私は物事を判断し、決定を下し、他者に共有し、命令し、依頼する。分析することが得意で、皮肉の効いたブラックな諧謔を濫用し、辛辣な批判を加えることに余り躊躇を感じない。それゆえに冷酷だとか、サイコパスだとか、そういったレッテルを頂戴することが多い。無害なユーモアではなく、多かれ少なかれ毒素の混じった攻撃的な軽口や自虐が好みなのである。反論されると血が騒ぐ。毒舌の応酬に興奮する。相手の意見を覆すのも好きだが、覆されるのも嫌いではない。しかし最終的には概ね、自分の見解の正しさを信じ切っている。目上の人間の意見でさえ、内容に納得がいかなければ聞き流してしまう。こう並べてみると途方もなく傲慢な人間だが、それゆえ逆境には強い。他人の意見に左右され難いので、逆境においても淡々と歩み続けることが出来るからである。従って、長期的な計画の遂行には向いている。
 他方、彼女は共感の天才である。相手の話に共感し、反応し、同調する技能が卓越している。批判的なニュアンスの軽口は滅多に用いない。サービス精神が旺盛で、尊敬や賞讃の言葉を極めてナチュラルに駆使することが出来るので、どんな相手にも気に入られる。けれども、その共感は極めて洗練された技巧であって、本当の意味で自分自身を切り売りすることはない。特定の人物にだけ忠誠や愛情を誓うという姿勢が稀薄である。究極の八方美人であると言えるかも知れない。相手が何を歓ぶのかを絶えず観察し、必要な対応を計算している。それゆえ、彼女の本音が何処にあるのか、彼女自身の信念が見え辛い。遠い理想に向かって計画的に進んで行くというより、その都度の瞬発力で勝負する。単一の規範に基づいて物事の全体を管理するということは、余り得意ではない。複数の他者の意向に合わせ過ぎるので、規範を維持し、貫徹することが難しいのだ。その分、状況の変化に応じた機敏な判断力は傑出している。その場の空気を読み取る感覚も冴えている。
 人間の個性は様々である。面談の席上、総てが平均点の人材は評価され難く生き残り辛いと上司は言った。余り偏り過ぎるのも考え物だが、どうやら私は既に随分偏っているようだ。サイコパスならばサイコパスらしく、その強みを鋭利に磨いて生き残るべし。

Cahier(Hybrid Language as Historical Heritage)

*引き続き、英語学習に明け暮れている。今読み進めているハリー・ポッターの第四巻 HARRY POTTER and the Goblet of Fire は、手許のペーパーバックで617頁という途方もない破壊力で、現時点で漸く約400頁まで辿り着いたところである。しかも、これまでの巻に比べて頁当たりの印刷された字数が明らかに多い。純然たる異国の言葉だけで綴られた、こんなに分厚い書物を、純然たる個人的趣味として繙読している自分の奇矯さが時々怪訝に感じられることもあるが、ハリー・ポッターの数奇な運命、魅惑的な細部、緻密な構成に助けられて、遅々たる歩みとはいえ、語学的冒険の旅路は順調である。
 言語という制度は、改めて考えてみると摩訶不思議な体系で、その歴史的起源は未だ完全には解明されていないが、あらゆる人種、あらゆる民族が何らかの言語を用いて同胞との意思疎通を図り、自分の考えを伝達したり、相手の考えを享受したりする営為を日常的に遂行している。更に文字を駆使して、言語的コミュニケーションの成立する範囲を限定された時空から解放し、地理的な障壁や時間的な疎隔を越えて、他者のメッセージを受け取ることを可能にしている。これらの偉大な発明が、人類の発展に寄与した影響の大きさは計り知れない。尚且つ言語は、他者のみならず、自己自身との内省的対話の成立にも重要な手段を提供した。自分の考えを言語化するという地道な作業は、他者との回路を開拓するのみならず、自己認識の精度の向上にも顕著な貢献を果たしているのである。言い換えれば、言語は秘められた個人的な観念や心情を、或る公共的な規則の体系の裡に配置することで、個人的なものを社会的な領域に登録する機能を担っているのだ。
 従って語学は、秘められたもの、形のないものに、明確な客観的輪郭を与える能力の涵養に直接的に役立つ。多くの人間は母国語の監獄の中に幽閉されているが、異国の言葉を学習することによって、その宿命的な限界は超克される。言語の種類によって、事物に対する解釈の手順や方法は異なる。日本語によって解釈された世界と、英語によって解釈された世界との間には、無数の相対的差異が存在する。解釈の豊饒な多様性は、個人の精神的な規模を拡張し、発達させる。その意味で、語学の勉強は紛れもない知性的冒険、頗る刺戟的な挑戦の連続である。母国語に通暁することと、異国の言葉を詳しく学ぶこととは、相互に背馳しない。寧ろそれらは相乗的な発達の軌跡を描くのである。
*言語は確かに手段であり道具である。しかし、それらは無機質で透明な製品のような性質を備えている訳ではない。あらゆる言語は、それぞれに固有の歴史を持ち、多くの偶然に左右されながら、独自の発達と衰弱を繰り返してきた。従って言語は、予め完璧に計画された、一つの矛盾も不備も無駄も含まない澄明な体系では有り得ない。如何なる例外も含まない文法や、あらゆる事象を完全に包摂する語彙の体系が実在することはない。そもそも我々の暮らす四囲の現実が歴史的転変に接し続ける限り、完璧な言語が事前に存在するというプラトニックな発想を堅持することは、妥当な判断であるとは言えない。現実の転変に応じて、言語は様々な構造的変容を反復し、現時点の状態に達している。この状態は決して最終的な結論ではなく、今後も現実の変容に応じて、それを用いる人々の思想、信条、感覚の変容に応じて、無限の更新を積み重ねていくだろう。従って、言語を学ぶことは必然的に、その言語の歴史を学ぶことであり、その言語に固有の文化的背景を知ることに繋がっていく。例えば日本語には漢字という中国由来の文字表記体系が有り、無数の漢語が熟語として日本語の高度な表現力の重要な屋台骨を成している。同様に、英語にはギリシャ語やラテン語、フランス語に由来する夥しい数の語彙が含有され、英語の表現の幅や多様性を支えている。そして言語表現には絶えざる栄枯盛衰と自然淘汰があり、先人の遺した数え切れないほどの判例が、言語運用に関する規範の制定に関与している。言い換えれば、言語には先験的な絶対的規則が備わっているのではなく、人々の固有の言語的実践の総体が、文法や語彙の正当性を支える唯一の根拠なのである。記号と意味との対応関係は、恒常的な固定性を有していない。これは重要な問題で、例えば我々が「思考する」とき、我々は何らかの記号に対応する意味の再編に取り組んでいるのだと言える。言語的記号体系よりも遥かに複雑で流動的な四囲の現実に対して、新たな語彙や文法、新たな表現を案出すること、そして使い古された言葉の定義を改変し、新たな対応関係を創出し、構築すること、これらは人間的思考の本質を形作る作業である。例えば古代ギリシア濫觴を持つ「哲学」(philosophy)の思考は、プラトンの対話篇などに明瞭な形で示されている通り、我々が日常的に用いる「単語」の定義を再審に附すことによって始動する。単語の定義を厳格化することによって、或る事物の本質を究明しようとする知的な努力が、哲学の本領である。或いは、そこまで高尚な事例を挙げずとも、我々の日常生活の随所において、様々な議論が共通の「単語」を巡って繰り広げられている。今日の夕食の献立を何にするかという些末な問題に限っても、単語の定義の明確化や再編は避けて通れないプロセスである。
*人間の精神的成長に関して、言語的学習が占める比重は極めて巨大である。言葉の群れから現実を再生するという抽象的作業は、未知の事柄に関する学習の遂行において、決定的な重要性を備えている。我々はあらゆる出来事を自分自身の実体験として味わうことは出来ない。他人の経験を拝借し、他人の智慧に学ぶという「共有」のプロセスを欠いてしまえば、途端に我々の学習と成長の過程は深刻な停滞の渦中へ埋没するだろう。言語的表現は、具体的現実の置き換えられた形態である。その置き換えられた形態を経由して、現実を擬似的に再生するという高度な知性的営為が、人類の爆発的発展の中核を成す要諦であることは鮮明だ。圧縮された表現を解凍して、豊饒な現実へ手を伸ばす為には、圧縮と解凍の技術に能う限り通暁せねばならない。

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(A Burning Desire for Approval)

*四月から私の直属の部下となる問題児と会社のオフィスで二時間ばかり面談をした。話頭は多岐に亘り、その仔細を悉くここに明示することは出来ない。そもそも業務及び個人の事情に関連する話柄であるから、妄りに公開して許されるような種類の内容ではない。ただ書き記しておきたいのは、私がそのときに感受した、怠惰で聊か奇矯な性格の持ち主である彼の抱え込んでいる根深い承認欲求の熱量であった。
 彼は会社から有能な人材として評価されていない。それゆえに複数回に亘って降格の憂き目に遭っている。そのこと自体は、彼も自覚していない訳ではない。しかし、深刻な承認欲求、満たされずに燻っている承認欲求が、冷遇されている自分という卑近な現実を果敢に直視する意欲を失わせているのではないかと、私は判断した。会社からの低調な評価のみならず、数年前に破綻した不幸な結婚生活の影響も深甚であるらしい。
 恐らく彼も相応の情熱や矜持は持ち合わせているのだが、如何せん能力が足りず、自己を律する厳しさも欠いている。それゆえに改善しない自己の社会的評価は、恐らく彼の旺盛な承認欲求を著しく毀損しているだろうと思われる。彼も有能な人材として活躍し、周囲から評価され、信頼され、尊敬されたいと切実に願っている。にも拘らず、彼の勤務態度や業務の作法は無数の怠慢に彩られている。仕事の納期を守らず、上司の指示や方針を遵守せず、衛生観念に乏しい。仕事が芳しい成果に結び付かない理由を他者や外的条件の裡にばかり探し求めて難詰する。非常に饒舌で、他人の会話に嘴を突っ込まずにはいられない。頗る大雑把な言い方をすれば、彼は要するに愛情と信頼に餓えているように見える。それなのに怠惰な性格で堅実な努力を積み上げないから、実質的な愛情と信頼を享受することが出来ない。愛情や信頼は一朝一夕に得られるものではないし、鍍金は必ず剝落する定めである。愛情や信頼を得る為には、地道な努力を積み重ね、表層的な言葉ではなく質実な行動によって自己を表現する心掛が欠かせない。しかし彼は大言壮語を弄するばかりで、具体的な行動には無関心だから、口先だけの男として密かに軽侮される。行動を積み重ねないので具体的な成果にも結び付かず、会社の評価も伸び悩む。結果として冷遇されるという悪循環に陥っている。その現実を直視せずに、自己啓発的な動画の類に熱中して、狡猾な教祖様の説法を有難く拝聴し、それを身近な他人に勧めて回る。他人の意見を過剰に称揚し、それを如何にも普遍的な真実であるかのように吹聴して回るのは、概ね主体性のない空虚な人間の常套である。
 自己対話の欠如、内省の欠如、それが過剰な承認欲求や、過剰な依存を生み出す悪しき温床となる。自分自身の考えや意志を分析する習慣、我が身を顧みて長所を伸ばし短所を是正する習慣、真実とは何かを恒常的に思案する習慣、こうしたものが欠落していると、人間は主体性や自立性から限りなく隔たる。また、他人からの信頼や愛情を安価なものだと誤解するのも好ましくない傾向である。信頼の獲得は、一足飛びに為し遂げ得るものではない。巧言令色の賜物でもない。具体的な行動、具体的な発言を通じて、誰もが他人の価値を値踏みする。その厳しい吟味に堪えたものだけが安定した信頼の懐に安らうことが出来る。
 主体性のない人間は、他者の意向に良くも悪くも大きく左右される。敬愛の度が過ぎて盲信を捧げたり、過度の恐怖を懐いて委縮したり、何れにせよ他者との適切な距離を保持することが出来ない。要するに自立が足りないのである。だから孤独に堪えたり報われない努力に打ち込んだりする粘り強さが永遠に養われない。従って艱難辛苦を乗り越える強さも手に入らない。信念を語っても、その信念の妥当性を、具体的な行動を通じて検証する勇気が発揮出来ないので、信念はずっと画餅に終始する。思考の価値は、現実的な検証を通じて究明されねばならない。そうでなければ、信念とは要するに妄想の同義語である。
 承認欲求に身を焦がすのは大いに結構だが、思い込みで現実が書き換えられることはない。現実を変えるには具体的な行動が不可欠である。承認欲求を満たしたいのであれば、その具体的な方策を講じなければならない。そして、過度な理想、過度な期待に振り回されるくらいなら、それらは速やかに棄却してしまった方がいい。具体的な価値、具体的な行動、具体的な現実の渦中で、実質的な利得を確保せねばならない。そうでなければ、現実に対する夥しい不平不満の泥沼で溺死する悲運に見舞われるだろう。そして、誰もが努力次第であらゆる願望を叶えられる訳ではないという自明の現実を踏まえて、事に臨むべきである。現実的な目標の達成を積み重ねる以外に、壮大な希望を実現する方途は存在しない。現実を変革したいと願うのは人間の生得的な欲求であり、それが世界の革新を促す最も重要な原動力として機能してきたことは歴史的な事実である。但し、実現とは奇蹟の顕現を意味するものではない。現実の局所的な変形に過ぎない。それ以上を望むのは余りに法外な要求だ。何を望むにしても、具体的な行動の蓄積以外に手立てはない。奔放な夢想を語るのは個人の趣味に留めるべきで、意見だけで人は変わらないし、現実もまた姿を変えない。この文章は無論、自戒の為に綴られている。

Cahier(My situation will partly change into a harsh state with new spring coming soon)

*先日、娘が五歳の誕生日を迎え、家でささやかな祝宴を催した。古い写真と比べて眺めると、随分と顔つきが凛々しくなった。弁舌は頗る達者で、自己主張に関して物怖じを知らない。昔は定期的に風邪を引いたりアレルギー性の咳に苦しんだりしていたが、最近は発熱も全くない。身体が発達して免疫の機能が向上してきたのだろうか。
 時々、私が子供の頃に親から叱られた挿話を聞かせると、娘は興味津々に歓ぶ。幼少の砌、夕食のテーブルに出された苦手な卵豆腐を嫌がる私に、母親が堪忍袋の緒を引き千切って激昂し、全部平らげるまで席を立つなと言い出し、泣きながら匙で黄色く顫える豆腐を抄い続けたエピソードを話すと、満面の笑みを浮かべて立て続けに質問を投げかけて来る。何で食べなかったの、嫌いだったから、じゃあしょうがないよねえと無闇に寛容である。娘は葱が嫌いである。嫌いなものを食べるように強いられる苦しみを紐帯として、五歳の娘の心と、当時五歳だった私の心は重なり合い、共鳴を起こしている。要するに私は三十五歳になった今も、偏食に関して五歳の娘と同等の次元を彷徨しているのである。いや寧ろ、彼女の方が好き嫌いは少ないのだから、三十歳の年齢差を覆して、私は彼女に対して劣っている。劣等感は、特に覚えない。それゆえに病状は改善の見込みなく一層深刻である。

*間もなく春が来る。毎年のことながら、人事異動の噂が頻繁に飛び交い、色々な憶測や感想が囁かれる季節である。私の直属の部下も異動が決まり、後任として宛がわれるのは同い年の御荷物社員で、春を待たずして既に気が重い。彼が店長を務めていた店は、業績不振ゆえに年度末で閉店となる。居場所を失い、適当な転属先も見当たらず、どういう経緯を辿ったのか知らないが、私が彼の面倒を見る役割を課せられたのである。彼は口先ばかりで行動が伴わない怠惰な男で、最近離婚してから見る見る太り、健康診断は軒並み悲惨な結果を示している。
 彼が管理していた店舗は、私の妻のパート先でもあり、閉店が決まって妻は所謂「コロナ離職」の事例を身を以て経験した。彼の仕事振りに慢性的な不満を抱えていた妻は、貴方の下に配属して厳しく鍛え直してやった方がいいと常日頃、冗談交じりに口にしていたが、その不吉な提案が俄かに現実化したのである。上司から売場で配置転換の内示を受けたとき、私はその内容に衝撃を受け、思わず「嘘だろ」と叫んでしまった。上司も私の反応を予測していたらしく、小声で本当に申し訳ないと繰り返していた。
 とはいえ、決まったことに泣き言を並べても無益であり、組織全体の利益を勘案して定まった事柄に就いて、一個人の感情に基づいて叛逆を試みるのは公正な態度であるとは言えない。組織に属する総ての人員が、自らの希望に即した配置や役割や職務を宛がわれるならば、それは確かに理想的な環境であると言えるだろうが、現実が、そんな風に人間の欲望に適合すべく上手に組み立てられている訳がない。誰も好んで引き受けないが、誰かが引き受けねばならない仕事というものは常時存在し、生起する。元々は日本一の売上高を誇っていたにも関わらず、新型コロナウイルスの最も尖鋭な影響を蒙り、旅行と出張の激減の煽りを食らって記録的な売上低迷に陥った東京駅構内の店舗へ、昨春の緊急事態宣言明けに着任し、史上最低の日商を叩き出した私に今更、心から怖れるべき試練など有り得よう筈がない。不幸な役回りを引き受けるのも業務の一環である。
 過去にも私は、深酒に起因する遅刻欠勤を繰り返して懲戒寸前まで追い詰められた若手社員や、業績不振の責任を問われて店長から降格となった社員を、直属の部下として受け容れた経験がある。今回の人事も、それに類するパターンなのだろう。損な役回りには馴れている、と言いたいところだが、そう簡単には馴染めないのが、損な役回りの損な特徴である。こうなったら開き直って、ぽんこつ社員と共に売上高日本一の称号を奪還するというドラマティックな展開の実現に向けて粉骨砕身するより他に途はない。そうやって逆境に価値を与えるしかない。全く、春が来るのが待ち遠しくて堪らないよ、ほんとに。

Cahier(Days when I was younger so much)

*元旦以来、一年の計として英語学習を志し、毎日洋書を読んでいる所為もあり、学習するとは何なのか、どういう本質や特徴を備えているのか、ということを時折考える。他人が未知の物事を学ぶ際にどういう方法論を採用しているのかということに対しても関心が湧出してくる。英単語の暗記にしても、知り合いに尋ねると、単語帳を繰り返し読んで覚えたという人もいれば、書き取りをしないと覚えられないという人もいる。インターネットの世界を渉猟してみれば、多様な人々が実に多彩な方法で語学に取り組んでいることが分かる。何を学ぶかという対象は状況と必要に応じて千変万化するが、何れにせよ自分の個性に適した学習の方法を案出することが肝腎であるのは明白である。特に大人になって銘々の人生を歩むようになると、互いに従事する職業も違えば、置かれている私生活の環境も異なる訳で、必然的に学ぶべき事柄のジャンルや性質は分散する。初等教育の如く、教養課程の如く、誰でも知っているべき社会の基本的事項を一律に学ぶという態度は否応なしに変化を迫られざるを得ない。況してや誰に強いられる訳でもなく、業務上の要求に応じる訳でもなく、自らの私的な関心と情熱に基づいて何かを学ぼうとする場合には、自己の生存の条件に応じた対象と手法のカスタマイズが不可欠である。独学ならば猶更だ。
 私は十代の頃、怠惰な学生であったし、大学は一年で放擲した。その意味で、体系的な高等教育を享受したことがない。受験勉強の類にも碌に身を入れなかった。ただ幸いにして読書の習慣があったから、その恩恵によって多少は知的な関心の対象が拡張された部分はあるように思う。本を読んで感想文を認める習慣も長い間持続している。けれども私は性来我儘な気質で、関心のない事柄に意識を向けさせられることが人一倍苦手だ。勉強しろと言われて勉強する殊勝な精神を欠いていた。怠惰という特性は、極めて弊害の大きい悪徳である。極端に言えば人間の生涯は、知らないことを学び、出来なかったことを出来るようにするというプロセスの無限の反復と累積であり、その意味で怠惰は人間の生命の宿敵である。怠惰である限り、人間は何処にも行けない。新しい世界を切り拓き、見知らぬ生活の形態に足を踏み入れることが出来ない。従って現状から離れた理想を追求する情熱や努力とも無縁である。無論、それが一概に悪いとは言えない。無謀な夢想が人生を空費させる事例も決して少なくないからだ。
 勉強を嫌がる私に対して、かつて父親は言った。勉強している間は、その勉強が何の役に立つかということは分からない。それは実際に勉強してみない限り分からない。だから、勉強してみるべきだ、それは未来の可能性を広げ、人生の選択肢を増やすことに繋がると。私の父親は、学生運動が吹き荒れた時代に東京大学教養学部を卒業した。高校の先生に、お前の頭では東大なんか受かる訳がないと言われて腹を立て、毎日八時間以上勉強して、試験の当日に鼻血が出て答案用紙を汚したと昔言っていた。二十歳の頃、私が就いたばかりの仕事を投げ出したときだ。その死に物狂いの努力の経験があるから、自分を信じることが出来るようになった、あのとき自分はあの苛酷な試練を乗り越えたという自負があるからだ、何でも直ぐに投げ出していたら早晩お前は自分で自分を信じられなくなるぞ、と諭された。
 自分で自分を信じられないということほど、精神的に辛い状況はない。大学を辞めた当時の私は、今思えば、明らかに目的を見失っていた。どういう人生を歩みたいかという鮮明な目標を欠いていた。小説家に憧れていたが、具体的な見通しは何もなく、大した努力もしていなかった。当時の私は、未来の自分が一人前の社会人として会社に勤めたり、結婚して家庭を持ったり、そういう普通の人生を送っている姿を全く想像出来なかった。私は我儘で思い込みの強い性格であったし、聊か不遜で、傲慢で、そのくせ臆病だった。実体のある自信を持っていなかった。相対的に賢く要領が良かったので、勉強もせずに大学に受かったが、何の努力も情熱もなく入ったので、続けることが出来なかった。私には、何かを自分の力で遣り遂げたという経験が欠けていた。部活でも勉強でも社会活動でもいい、自分の軸になるようなものが欠落していた。だから、本当の意味で自分の力を信じることが出来なかった。今思えば、小説家云々という夢は、現実逃避の一種だったのだろうと思う。小説家という職業には、才能さえあれば、社会の夥しい仕来りや制約から遠ざかって気儘に生きられるという浮薄なイメージがあった。恐らく無頼派辺りの古色蒼然たる作家たちのイメージに漠然とした救済の光明を見出していたのだ。事実、今でも私は坂口安吾を敬愛している。けれども、実際問題として才能の有無以前に、毎日来る日も来る日も原稿を書き続ける孤独な生活を自分が本当に欲しているという確信もなかった。
 坂口安吾の作品に「風と光と二十の私と」と題された簡素な、とても美しい自伝的小説がある。その小説の終盤に、当時の作者が、小説家を志しながらも自分の才能の欠如を憾み、現実から逃避する手段として出家遁世に憧れていたという記述が含まれている。その心情は、私には馴染み深いものだ。私も出家遁世に憧れて、高名な禅僧の逸話などを読み漁っていた時期がある。出家も小説家への志望も共に、煩わしい世間を離れて自由気儘に暮らしたいという厭世的な欲望の発露だったのだろう。それは裏返せば、自分には社会や世間に適合する気力も能力も備わっていないという劣等感の反映であったのだと思う。大学を辞めたのも、仕事を辞めたのも、煎じ詰めれば同根の現象だ。
 けれども私は、大学を辞めた年の夏に、年上の子持ちの女性を妊娠させた。それで急遽所帯を持ち、何でもいいから給料を稼いで来なければならなくなった。私は仕事を探し、採用され、そして直ぐに辞めた。それを二回繰り返した。当時の妻の誕生日に、私は二回目の無職となっていた。妻の臨月が間近に迫っていた。私は自分を信じていなかった。自分の能力も未来も。そのくせ、安易に子供を儲けるのだから度し難い愚かさ、軽率さである。そして日傭いで多少の賃銀を稼ぎながら、幸いにして現在の勤め先に拾われた。そこでも最初の上司と折り合いがつかず、日々の暴言や叱責に堪えかねて、一度無断で職場から逃げ出して、辞める積りで行方を晦ました。身内には散々叱られたが、会社は私を叱らなかった。辛い想いをさせて済まなかったと部門の幹部に謝罪された。思わぬ成り行きに、私は動揺した。誰がどう考えても、悪いのは逃げ出した私だ。理由がどうであれ、無断で逃げ出すのは常識に反している。私の妻は、私の両親と共に警察署へ行って、私の捜索願を出した。妻は、警官から私の歯型を用意するようにと言われたらしい。後日、父親に、お前は自分の妻にそんなことをさせるのかと叱られた。考えてみれば、叱られてばかり、正に太宰治が「人間失格」の冒頭に書き付けた「恥の多い人生」そのものである。
 そのとき、私は初めて「この世界には逃げ場なんかない」という考えに想到した。実際には、その後の人生でも何度も、私は逃げ出したいという想いに囚われた。転職も考えたし、異性関係で不始末も犯した。日夜数字を追いかける仕事だから、プレッシャーは尽きず、絶えず何かしらの不安に急き立てられて生きてきたような気がする。現実逃避という言葉は誰にとっても親しいものだろう。追い詰められて逃げ出したくなることは誰にでもあるに違いない。けれども、逃げ出したところで現実は変わらない。それは誰でも知っている。ただ、追い詰められたとき、人間は様々な理窟を駆使して、自分自身を説得しようとするのだ。ここではない何処かに、素晴らしい理想的な環境がある筈だと。
 無論、逃げ出すことが常に罪ではない。虐待される子供、ハラスメントに苦しむ組織人に必要なのは逃亡、或いは脱出という選択肢である。ただ、何れにせよ必要なのは冷静沈着な判断である。衝動に従って振舞えば、多くの場合、賢明な結果には帰結しない。衝動は理性と対立するのではなく、理性を誑かして自分の奴隷に仕立て上げるのである。そのとき、人間は衝動に支配されているにも拘らず、自分は理性的な判断を下していると誤認するのである。
 苛酷な現実に直面したとき、感情や衝動の指示に従うのは得策ではない。結局、好不調の波動に関わらず、人間が取り組むべきことは冷静な判断力の堅持に尽きる。そして人間は、困難な状況、意のままにならない環境に置かれない限り、成長も進化もしない。順境は人を堕落させる。既に容易に熟せることを繰り返すばかりでは、人間は退化する。その意味で、学習の習慣は明らかに人間の精神的衛生を改善し、強化するものである。何故なら学習は常に、自分の知らないことや出来ないことへの挑戦と格闘を含意するからである。それは現実の具体的で実効的な改革を意味する。私は二十歳のときに拾われた現在の会社に、紆余曲折を経て彼是十五年ほど在籍しているが、その間に学んだことと言えば要するに「諦めない」「屈しない」の二語に集約される。何が起きても粘り強く現実的な対策を考え、実行に移す。結局、それ以外に現実を変革する方途は存在しない。その為には、思考の習慣を堅持しなければならない。本を読み、考えたことを文章として形象化するのも、その習慣の一端を成す営為である。「諦めない」「屈しない」というのは単なる感情の抑圧を意味するものではない。逆境に置かれても、思考力や判断力を手放さないことが肝腎である。一般的に人間は、精神的に追い詰められ余裕を失うほどに、感情や衝動の言いなりになる。つまり逆境に置かれた人間は、一時的な感情や衝動の奴隷と化して、理性的な模索の努力に堪えられなくなるのである。如何なる状況に置かれても、自分の知性と思考力を堅持することが、延いては逆境の打開に帰結するのだ。その為には日頃から思考と知性を鍛錬する習慣を身に着けておく必要がある。あらゆる学習は正に、思考と知性の鍛錬に他ならない。極論を言えば、学ぶ対象は何でも構わない。個人が随意に対象を選択すれば、それで差し支えない。重要なのは、快活で機敏な知性の涵養である。それを欠いてしまうと、人間は長期的な指標を見失い、束の間の欲望に押し流され、困難に打ち克つ為の持続的な努力を保てなくなる。一般的に困難な課題は解決に時間を要する。解決に時間を要する課題に取り組む際に、流動的な感情や欲望を用いるのは悪手である。毀誉褒貶はあるだろうが、こうした問題に就いては、セネカなどストア学派の典籍が重要な参考となるように思う。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 
生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

Cahier(Various Changes Increasing in Our Lives)

*引き続き、洋書の繙読を続けている。先日「ハリー・ポッター」シリーズの第四巻に当たるHARRY POTTER and the Goblet of Fireを、幕張新都心イオンモールにある蔦屋書店で買い求めた。眩暈を覚えるような分厚さである。本文だけで600頁以上、外観は完全に国語辞典のボリュームで、活字のサイズが明らかに従来より縮んでいる。本来ならばiPadを駆使して電子書籍で読む予定だったのが、生憎肝腎のiPadが予約して一箇月以上経つのに未だ入荷しないので、止むを得ず紙で購入することに決した次第である。
 仮に日本語であっても600頁の分量を、生活の隙間に転がっている切れ端のような時間を凝集して読み通すのは容易な営為ではない。況してや緻密なアルファベットの隊列が延々と連なっているのでは、読了までに相当な時間と労力が要求されることは歴然としている。けれども、見方を換えれば、この分量をきちんと総て読破した暁には必ずや、私の英語力は着実な向上を成し遂げているだろうと推測される。辞書一冊分の英語を読み漁れば、否が応でも海馬の奥底には降り頻る無数のマリンスノーのように、単語や文法に関する知識の断片が降り積もって、脆弱ながら優美な珊瑚礁を形作るに違いないと性急にも期待している。現在の私は、語学の基礎である語彙や文法的知識をじっくりと練り固め、強靭な足腰を作り上げる段階に置かれている。劇的な成果を日々発見し実感することが出来ないからと言って、地道な鍛錬を疎かにする訳にはいかない。一年後の収穫に淡い希望を寄せるくらいの温度が、心構えとしては相応しい。一瀉千里の速度に憧れて己の鈍間な両足に苛立つくらいなら、蝸牛の真似に耽る方が余程精神の健康に宜しい。

*残り一週間ほどで娘の四歳児としての一年間が終幕を迎える。五歳になり、春から年長児となり、そろそろランドセルの仕度も考えねばならない季節が訪れる。日々接していると累積する微細な変化に気付き難いが、昔の写真と比べて眺めれば、明らかに顔つきが利発になり、言葉遣いも随分と大人びてきた。話す内容にきちんと理窟が通うようになり、想像や仮定の話も出来るようになった。記憶力も発達してきた。その分、親の指示や命令に黙って従う素直さは影を潜め、日夜国会議員のように自己主張が劇しくなっている。それが成長というもので、親の立場としては度々辟易させられるが、辛抱強く接する以外に途もない。時間や曜日、日附の感覚も鮮明になっている。要するに知的成長とは、眼に見えず形を持たない事柄を想像して理解し得るということ、抽象化の能力を獲得するということと同義なのだろう。言葉は正に抽象化の典型的な象徴であり、感覚的な事物と言葉を紐付けて理解する段階を過ぎれば、今度は言葉の側から事物を想像的に構成する段階へ進む。文字を読んで内容を理解するのは、そうした手続きの代表的な事例である。大いに言葉の力を鍛えて、磨き抜いてもらいたいと思う。その傍らで私は、異国の文字と言葉に塗れて右往左往している。

*仕事は徐々に忙しさを取り戻し始めた。形骸化した緊急事態宣言は最早、人波を抑え込む高圧的な権能を失っていると看做して差し支えない。私の勤め先である東京駅の構内も人出の明瞭な増加に晒されている。ICOCAで決済したりエスパルのポイントカードを提示したりする顧客の姿を頻繁に見掛ける。これらの現象は、人々の都道府県を跨いだ移動が旺盛になりつつあることの端的な徴候である。旅行や出張に対する人々の根深い意欲を肌身に感じる。とはいえ、感染第四波の襲来は早晩避け難い成り行きであろうから、これは束の間の小康状態に過ぎないのだろう。ワクチンの接種が感染者数の劇的な減殺に結び付かない限り、好況と不況との目紛しい循環は何時まで経っても安定した平坦な軌跡を描かないに違いない。
 私は商売柄、テレワークとは無縁の日常を送っているが、世間のテレワーク従事者の方々は、日々をどんな気分で過ごしておられるのだろうかと思う。極めて快適で二度と通勤電車には乗りたくないと感じているのか、それとも職住一体の閉塞的な生活に窒息の予感を覚えているのか。無論、不毛な通勤が撲滅されるべきなのは好ましい変化であるが、家庭生活と職場生活の境界線が限りなく曖昧になる生活というのも案外息苦しいものではないかと個人的には推測する。少なくとも、家庭の内部に職場の論理が侵入する頻度は増しているのではないか。テレワークでは労務管理が難しいと、管理者の立場においては従業員の怠業を警戒する意見も当初は根強かったが、実際には、眼に見えぬ緊張感を昂らせて鬱屈している人も多いのではないかと思う。家族や夫婦の距離が近くなり過ぎて関係の破局に至る人も実在すると伝え聞く。殆どの人間は、家庭における顔と職場における顔を使い分けているだろうし、それによって鬱屈や閉塞感を緩和する習慣を身に着けているだろう。それが悉く家庭という根拠地に集約されるのは、果たして幸福なことなのだろうか。
 尤も、歴史を顧みれば、職住一体という生活は別段珍しいものではない。少なくとも農業に従事する人々は、土地に縛られるがゆえに、職住一体の生活を基本的な様式として当たり前に受け容れていたのではないだろうか。通勤という文化が生まれ、一般化した背景には、都市化の進行、つまり都市部への人口や資源の集中という現象が深く関与しているものと思われる。それによって生じた「過密」という状態が、感染症に対して極めて脆弱であるという事実を、我々はコロナウイルスの猛威から教わった。その意味では、地方への回帰や分権という潮流が勢いを増すのは自然な帰結である。都市化は、国土の限定された部分を集中的に使い倒して消耗させ、それ以外の広漠たる領域を無為に放置するという不均衡な統治体制を要求する。地方への人口分散が、国土の有効利用を促すと共に、人々の生活環境を向上させるのであれば、コロナが齎した災禍は革命の狼煙となり得るだろう。
 とはいえ、都市の衰退は、国家全体の文化や経済の水準に対して、如何なる影響を及ぼすのかという課題も併せて検討されるべきだろう。人口や資源の集中によって齎される爆発的な変化や尖鋭な革命、要するに創造性の発露が有り得るのではないか、それは平穏無事な地方の風景からは生み出されないものではないのか、という疑念が、私の脳裡の片隅を、明確な論拠を欠いたまま領している。確かに通信技術の発達は、地理的条件に制約されないコミュニケーションの成立を劇的に促進しているが、生身の人間が実際に犇めき合って生活している空間の熱量を、それらの技術が凌駕し得るのか、未だ確証は得られていない。そして「都心」という概念の衰退が、良くも悪くも「分断」の温床となり得る懸念も完全には払拭し得ない。相互に混じり合わない世界、それは頗る快適な環境かも知れないが、余りにも快適な生活は、人間の心身を退化させる危険を孕んでいる。異種交配は革新の唯一の淵源ではないのだろうか。

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban”

 英語学習の一環として J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban,2014,London を読了したので感想文を認める。

 シリーズ三作目に当たる本書では、ハリー・ポッターの亡父の親友であったシリウス・ブラックに纏わる一連の騒動が、物語の中核を成している。その根底には、ジェームズ・ポッター、シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン、ピーター・ペティグリュー、そしてセブルス・スネイプたちの過去の因縁が蟠り、遠景には絶えず、史上最も邪悪な魔法使いヴォルデモートの犯罪と陰謀が隠見している。物語の陰翳は徐々に深まり、暴力と悪意の荒廃した投影が少しずつ濃度を増しつつあるように感じられる。ヴォルデモートを巡る複雑な歴史的経緯が、物語における重要度を高めていくのに伴って、物語の構成はより稠密で入り組んだものとなり、殺意や憎悪、復讐心など、穢れた情念の継起と屈折が齎す様々な事件が、一層前景化してきた印象を受ける。
 悪とは何か、という問いに簡潔な答えを与えることは難しい。誰もが多かれ少なかれ善悪に関する倫理的基準を携えて日々の出来事に対処しているが、その基準の妥当性を厳密に定める超越的根拠は存在しない。善悪の相対化、つまり何を悪と看做すか、という問題に就いて共通の集団的合意が成り立ち難い世界では、簡明な勧善懲悪の図式は空疎な御題目に堕してしまい易い。善悪の戦いを困難な泥濘に帰結させる要因は、善悪そのものの基準の危うい流動性の裡に存する。善悪の基準は複数存在し、部分的な賛同と反発を織り交ぜながら、相互に絡み合って様々な矛盾を惹起する。例えばハリーは、シリウス・ブラックの無実を確信しながらも、ペティグリューの逃走によって彼を弁護する為の根拠を見失い、公共的に認められた事実は、秘められた真実との間に夥しい乖離を抱えたまま流通する。常に真実が勝利するという簡明な考え方に、血腥い現実の側から意地の悪い掣肘が加えられたのである。ダンブルドアでさえ、シリウスの無辜を立証することの不可能性に就いて言及している。タイムターナーの力を駆使して秘密裡にシリウスの逃亡を幇助することに成功したとしても、それは彼に擬せられた冤罪の不当性を本質的に立証する手段とはなり得ない。
 魔法という超越的な手段が存在する世界においても、善悪に関する困難な諸問題を一斉に解決し得る方法は発見されていない。例えばバックビークを殺処分に追い込もうとするマルフォイ父子の陰惨な悪意や、それに由来する権力の不当な濫用そのものは、魔法という超越的な力によっても解決されない。そもそも作者は、魔法の超越的性質を認めておらず、その限界や制約に就いて、明確な表現を与えている。ハリーが直面する諸々の課題は、普通の人間が所属する社会において見出される諸々の課題と本質的に同一である。確かに魔法使いとしての才能は、ハリーを不幸な居候の境遇から救済する重要な条件として働いたが、それによって彼の出自に纏わる種々の懊悩が免除された訳ではない。如何なる宿命に対しても、固有の艱難は必ず附随する。それは人間の世界における普遍的な慣わしであり、人間的実存の基礎的な前提である。どんなにリーマス・ルーピンが優れた教師としての才覚と人格に恵まれていたしても、狼男という固有の身体的条件は、彼に対する社会的差別を不可避的に伴ってしまう。正しい人間には正しい待遇が用意される運命にあるという素朴な信憑の虚しさを、この挿話は端的に物語っている。けれども、それを無垢な子供への教訓と捉えるのは適切な解釈ではない。子供たち自身、日々の生活を通じて現実の不条理な性質には、うんざりするほど繰り返し直面させられている筈なのだ。寧ろ彼らこそ、不条理の発見に就いては鋭敏な嗅覚を備えていると言えるかも知れない。経験の浅い無智な人間にとっては、あらゆるものが不可解な未知の条理に従っているように見えるからである。とはいえ私は、経験の豊かな人間が特別に優れていると言いたい訳ではない。彼らは要するに、不条理と呼ばれる種類の現象に関して、精神的に麻痺しているに過ぎない。それほどまでに、複雑な矛盾は世上に氾濫し横行しており、それ自体の実在や認識を拒否することに意義はない。
 ダンブルドアやルーピンは、優れた教師としての資質を潤沢に備えているように描かれている。彼らに共通する特質は、原則として常に温厚であること、そして苦境に直面した場合でも成る可く諧謔の精神を忘れずにいることである。ルーピンが主宰したボガート退治の授業は、内面的な次元で眺めるならば、要するにセルフ・コントロールの訓練であるように思われる。自分が最も恐怖を覚える対象を滑稽な事物として捉え直すこと、それによって恐怖に打ち克つこと、こうした教訓は明らかに心理的な自制の技術の要諦を成している。如何なる環境に置かれても自分の日常的な個性を保持すること、冷静な判断力を維持することの重要性に議論の余地はないが、実際にそれを体得する困難は誰でも熟知している。シリウス・ブラックもまた、十年以上に亘るアズカバン収監の間、ずっと本来の自分を見失わず、その魂を誰にも明け渡さずに生き延びた。結局、あらゆる教育の本義は、困難を乗り越える為の綜合的技法の伝授に尽きるのではないかと、個人的には思う。

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック